2015年7月20日 (月)

赤山陣屋 【武蔵】

場所:埼玉県川口市赤山(場所) 
訪問:20157月 
形態:陣屋 
遺構:空堀・土塁など 
指定:県指定文化財 
駐車:有 ※山王公園の脇
満足:★★★★★★(6.0) 
見所:陣屋というよりは赤山城と表現したくなる広大な城域。  

赤山陣屋は江戸時代に関東郡代(正式には関東代官)を務めた伊奈氏によって築かれ、1792年のお家騒動によって伊奈氏が改易・罷免されるまで代々の拠点として使用されていました。
伊奈氏改易後は廃城となり、施設は破却されたみたいです。
 

江戸幕府の元で関東郡代を代々勤めた伊奈氏の礎を築いたのは伊奈忠次で、忠次は徳川家康の関東入府の際に大久保長安や青山忠成、彦坂元正らと共に代官頭に任命され、家康の関東支配に貢献しました。
忠次は灌漑や新田開発、河川改修にて多大なる功績を残し、武蔵小室藩の藩主として現在の埼玉県北足立郡伊奈町に陣屋を築きましたが、2代目を継いだ長男・伊奈忠政が34歳の若さで亡くなってしまいます。
忠政の子息は僅か8歳であったため、関東郡代の役目は忠政の弟である伊奈忠治が引き継ぎました。なお、小室藩は3代目を継承した伊奈忠勝も跡を継いだ翌年に亡くなったため廃藩とされてしまいます。 

関東の幕府直轄領(30万石)を管轄していた関東郡代の拠点であっただけあって、その規模は想像を遥に超えたものでした。

全体的によく整備が行き届いておりますし、何より都心からそう遠くないこの場所にこれだけの自然が残されていることにびっくり。静岡の興国寺城でカブトムシに遭遇したことがありますが、まさか川口で確認することになろうとは・・・。 


※動画はまだ作成していません
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↑【伊奈氏陣屋と赤山陣屋】
武蔵小室藩が使用していた伊奈氏陣屋と赤山陣屋の位置関係。どちらも昔は付近をよく素通りしていましたが、史跡という認識で現地を訪れたのは赤山陣地が始めてです。 

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↑【赤山陣屋の概略図】
低湿地帯を利用した構造云々は埼玉東部や茨木南部ではお約束といった感じですね。
赤山陣屋が構築される以前はどのような使われ方をしていた場所だったのでしょうか。発掘調査も行われたみたいですから、中世の痕跡など見つかったりしていないのかが気になります。

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↑【堀跡】
今は深さも大した事ありませんが、往時は56mほどの深度があったのだとか。恐らく土塁も備えられていたことでしょう。

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↑【豊富な案内】
要所ごとに案内が備えられているのが有難いですね。

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↑【本丸】
南堀から見た本丸内部。奥に見える外環自動車道の付近までが本丸だった訳ですから、距離感を持って想像していただければ、赤山陣屋の広大さをご理解いただけるのではないかと。
往時は御殿だけでなく、高官や重臣の屋敷が立ち並んでいたことでしょう。

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↑【土塁】
南堀から南西堀への接続部あたりで見かけた土塁跡と思しき土壇。

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↑【赤山日枝神社】
山王公園脇の赤山日枝神社。ちなみにこの土壇も、空堀掘削時の廃土で築かれたものと考えられているらしいです。

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↑【残される自然】
地域の方々の並々ならぬご尽力があってのことなんでしょう。
一部消滅している箇所もありますが堀を伝ってほぼ本丸を一周できますので、自然を感じながら散歩をするには丁度良い場所の様に感じました。

2015年7月 9日 (木)

today news

高取城跡で新たな遺構発見 三大山城、航空レーザー測量で 日経電子版より抜粋 

 奈良県立橿原考古学研究所と航空測量会社のアジア航測は8日、日本三大山城の一つとされる国史跡、高取城跡(高取町)をレーザー装置搭載のヘリで測量し、郭(くるわ)とみられる平たん地など14の遺構を新たに見つけたと発表した。

 高度500メートルからレーザー光を毎秒20万回照射し同城跡とその周辺の約5平方キロメートルを測量。詳細な立体地図を作製して分析し、既存の城の構造図(縄張り図)などには記載されていない平たんな造成地4カ所、尾根を分断した「堀切」8カ所などの遺構を発見した。

 同研究所は「立体地図により各施設がどう配置されているか視覚的に明確になった。築城の過程を考える上で有力な資料になる」としている。

 同城は奈良盆地の南の山中に位置し、豊臣秀長の家臣、本多利久が本格的に整備。周囲が約30キロメートルに及ぶ城郭に3層の天守や27の櫓(やぐら)、33の門が立ち並んでいたとされる。岩村城(岐阜県)、備中松山城(岡山県)とともに日本三大山城といわれる。明治時代に破却され、現在は石垣のみが残る。

↑調査に必要な経費にネックがありそうですけど、確認されている主要部だけでなく周辺に城砦郡を築いていたのではないかと考えられるような城跡にも、こういった手法は有用なのかもしれないですよね。山中鹿之助で有名な兵庫県の上月城や東京都の檜原城などですが、確認できる主要部が小さい割りに要害として考えられていたような場所からは意外な曲輪が多く発見されるかも!?

2015年7月 7日 (火)

強制徴用(forced to work)

ユネスコ会場で大使が使用したとされる「forced to work」。

だとすると「強制的な労働だった」と日本が認めたことになりますので、非常に残念な結果といわざるを得ません。
日曜日、直後の会見で岸田外相は”強制労働を意味するものではない”と官邸で記者に話をしていましたが、どうみても強制労働としか受け取れないんですが・・・。

該当施設における説明に記すのは徴用と勤労奉仕で十分。「強制徴用」などという表現を使用したりするから、強制=無理やり連行されたという図式で宣伝されたりするんですよ。

慰安婦問題で懲りているはずなのに、目先の利益を優先して何度同じ過ちを繰り返すんだろう・・・。


【追記】 

forced to work → 強制的な労働 
forced labor → 強制労働  

高度な外交駆け引き()を行っている日韓両国は別として、この表現を見た諸外国の方々はどのような解釈をなされるんでしょうかね?一番重要なのは、そこだと思うんですけど。 

National Requisition Ordinance → 国民徴用 
Requisition → 徴用 

日本で実施されていた徴用を英訳するのであればこれでいいのでは?なんでそこまで「強制」という表現にこだわりをもつのか、いまいち理解できません。

英ガーディアン紙
内容を見ていただければ判りますが、しっかりと「Korean forced labourers」と明記されてしまっていますね。

八幡製鉄所が世界遺産認定されたことに対する北九州市長の喜びの声明も「Yawata steel mill used thousands of forced labourers.」と発言したことになっちゃってるし。

政府は日本国民相手に躍起になって火消しをおこなうよりも、他にやることがあるのではないでしょうか・・・。

関連記事:勤労奉仕と強制労働(強制徴用)   


2015年6月25日 (木)

today news

全国の遺跡発掘報告書ネットで公開 1万4000冊、奈文研など 日経電子版より抜粋  

 全国の遺跡の発掘調査報告書約1万4千冊を電子化し、インターネットで一括検索・閲覧できるようにした「全国遺跡報告総覧」を、奈良文化財研究所と島根大など全国21の国立大学が共同開発した。25日朝から無料公開する。

 総覧は大学や県市町村の教育委員会、埋蔵文化財センターなど32道府県の316調査機関が刊行した報告書を収録。約165万ページをPDF形式で電子化し、題名や機関名、「銅鐸(どうたく)」などのキーワードで検索できる。アドレスはhttp://sitereports.nabunken.go.jp/。

 発掘報告書の多くは数百部程度と刊行数が少なく、閲覧できる場所が限られるため、研究のネックになっていた。同研究所は「調査成果の社会への還元や、新たな研究領域の発展につながるのでは」と期待する。

 参加した21大学は既に各地元で刊行された報告書を電子化して公開しているが今回、同研究所を中核に統合して利便性を大幅に高めた。ただ東京や京都など一部の地域や調査機関の報告書は未収録で、同研究所自身の報告書もシステム上の問題から収めておらず、課題も残る。

 同研究所によると、これまで全国で刊行された発掘報告書は累計約20万冊で、近年は年約2千冊が刊行されている。今後は充実に向け、大学や自治体、学会などとの連携拡大を検討する。

↑これは本当に有難いですね。「知識」として価値のあるものは特にだと思いますが、もしかして失われるかもと思われるようなものはできるだけ記録して公開していくほうが良いのではないかと思ったのが自分の散策動画のきっかけでもあったりするので、一般の反応の有無に関わらずこういった流れが広がるよう期待したいところです。  

どこにいてもネット環境さえあれば図書館といった感じなので、時間がいくらあっても足りないと感じるところがネックではありますけど。 

2015年6月24日 (水)

today news

伏見城下に巨大礎石穴、加賀・前田家屋敷跡か 高い土木技術  ※日経電子版より抜粋  

 

 豊臣秀吉が建てた伏見城(京都市伏見区)の大名屋敷があったとされる区域から、礎石を据えるための巨大な穴が7カ所見つかり、京都市文化財保護課が23日までに明らかにした。

 穴の大きさは直径約1.7~2メートルで、深さ2.3メートル以上のものもあり、城下で最大級だった。江戸時代などの絵図から加賀百万石を築いた前田家の屋敷跡とみられ、豊臣政権で要職に就いた前田家の権威を物語る遺構という。

 同課によると、穴の中は、直径2~3センチの小石の層と粘土層を交互に積み上げながら細い棒で突き固めて、礎石や建物が沈まないよう地盤改良していた。

 これまで城下で見つかった据え付け穴は、東北を支配した伊達家の屋敷跡の直径1メートル前後が最大。今回見つかったものは、豊臣家が建てた方広寺(京都市)南門のものに匹敵する大きさという。

 このほか、南側には長さ20メートルほどの塀を建てていたとみられる溝が見つかった。

 調査地は絵図で、前田家を示す「肥前中納言」と記された場所だった。市の担当者は「最初の伏見城が大地震で倒壊したため、前田家は念入りに地盤改良をしたのかもしれない。豊臣政権の五大老だった前田家の土木技術の高さが分かる」と話している。

 秀吉は1592年、最初の伏見城(指月城)の造営を始めたが、96年の慶長伏見地震で倒壊、直後に近くの木幡山に再建した。

 調査は既に終わり、現場は埋め戻されている。

 

↑先週の木曜日に報道されていた「指月伏見城の場所特定」に関連したニュースなんでしょうかね。自分は20日に行われたとされる現地説明会には当然参加できていないのでネットにupされていたPDF資料を確認した程度ですが、googlemapで確認できる以上に現地ではいろいろ再開発が進行しているのかもしれない。 

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