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2012年9月

2012年9月29日 (土)

石田堤

忍城に続いて石田堤です。

■忍川沿いに今も残る石田堤(場所はここです)

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↑石田堤の案内および碑。

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↑この付近には石田堤がよく残されています。

■石田堤史跡公園(場所はここです)

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↑三成の水攻めの様子が絵物語で展示されていました。

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↑復元された石田堤。

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↑日陰に展示してないと色褪せしちゃって探せません(汗)。こんな場所じゃ耐候インク使っても限界あるかと・・・

■さきたま古墳公園(丸墓山古墳の場所はここです)

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↑公園内の丸墓山古墳は石田三成が本陣を構えたところであると伝えられています。

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↑その丸墓山古墳。さきたま古墳公園には他にいくつもの前方後円墳を見学することができ、いろいろ楽しそうな場所です。

忍城の動画の中で一緒に石田堤も紹介しています。よろしければ見てやってください。

2012年9月28日 (金)

忍城 【武蔵】

場所:埼玉県行田市本丸(地図)
訪問:2011年7月
形態:平城
遺構:建築物(模擬、)・曲輪・堀・土塁など
指定:なし
駐車:有
満足:★★★★★(5.0点)

石田三成の水攻めで有名な忍城ですが、平城の宿命というか現在は市街地に飲み込まれて当時の面影は殆ど残されていません。ただ周囲には石田堤やさきたま古墳などの史跡もありますので、あわせて散策するのが良いかと思います。
お城好きなら小規模ながらも複数の城郭が残されている加須・久喜方面か、思い切って東松山の武州松山城に赴くなんて手も良いんじゃないでしょうか。


動画

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↑鳥瞰図。味があって良いですね、こういうの大好きです。

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↑現在の象徴とも言える本丸跡に建てられた御三階櫓(復元です、三層五階くらいありそうですが) ただ、往時は本丸ではなく三の丸に建てられていました。

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↑本丸の土塁跡。僅かに残る遺構のひとつです。

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↑伝進修館表門。武家屋敷の表門を移築したものらしいです、貴重ですね。

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↑よく突っ込みを入れられている鉄砲狭間。これは内側から見たものなので問題ないのですが・・・

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↑なんと外側にも鉄砲狭間を利用し易いように武者走り状の土壇が設置されてるんですよね(笑)。公園なので危なそうな場所を極力排除した結果ということにしておきましょう。

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↑諏訪神社の周辺には水堀の名残が残されています。

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↑博物館の南東にある水城公園。忍の浮城の面影を色濃く残す場所です。

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↑古代蓮。偶然発見されたもので、出土した種子から約1,400年前の蓮であることが判明したとのこと。

せっかく忍城まで足を運んだのなら、石田堤を逃す手はありません。
ということで次回は石田堤の紹介になります。

2012年9月27日 (木)

山中城 【相模】

場所:静岡県三島市山中新田(地図)
訪問:2011年10月ほか
形態:山城
遺構:曲輪・馬出・枡形・堀・土塁・土橋・井戸・櫓台・など
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★★★(9.5点)

山中城は小田原城を西側を守る防御の要として、後北条氏によって築城されました。
箱根街道を城内に取り込むなど、足柄城と同じように元々は関としての役割が大きかったのかもしれませんが、甲斐・武田氏が駿河を制圧するあたりから山中城の重要度が増していったのでしょう。現在残されている姿は秀吉の小田原征伐に備え、改修されたものです。

1590年、小田原征伐を決めた秀吉は3/27には沼津・三枚橋城に到着し3/29には進撃を開始。羽柴秀次を大将に約7万の軍勢で箱根十城の中でも最重要拠点であった山中城に攻撃を仕掛けます。
対する山中城は城主・松田康長と4千名の守備兵が立て篭もって防戦しますが、衆寡敵せず。僅か半日で山中城の守備兵は壊滅し、山中城は落城してしまいました。
小田原征伐の序盤戦ということもあったのでしょうが、半日とはいえ凄まじい合戦だったみたいで、豊臣方では一柳直末が討ち死にしています。小田原征伐の中で、豊臣方で大将格の討ち死にがでたのは、山中城の戦いくらいなものじゃないでしょうか。
合戦の模様は渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」にその模様が残されています。当時の合戦の様子が伝わって非常に面白いので、興味のある方は検索してご確認あれ。
【2013年8月 記事を追加・修正しました】

 ↓以下、昔の記事です
見事な障子堀が復元されていることで有名な山中城です。なんて説明、このブログを見に来る人の殆どは知ってますよね(笑)。
いつか編集したいなと思いつつも、撮影した動画の尺の長さ(なんと2時間以上!)に辟易として編集を先延ばししていたのですが、決心してコツコツ作業すること数日、ようやくまとめ終わりました。

で、作成した動画がこちら。


Youtube

ニコニコ動画

撮影は、ほぼ1年前ですね。まだ散策感にこだわってた時期なので、素材をうまく繋ぎあわせるのに苦労しました。流しっぱなしで、自分が散策の記憶を思い出すには丁度いいんですけど、如何せん長すぎるんでね。でも、なんとかまとまったと思います。見てやってください。
あと、感想やご意見なんかもいただけるとうれしいです(笑)

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【2013年8月 追加作成記事】

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↑簡単に作成した概略図。ご覧の通り、山中城は箱根街道を城内に取り込んだ構造をしていました。
小田原征伐に備えて新たに造成された岱崎出丸。こうして見ると大手の守りとしては非常に有効な曲輪だったことが判りますね。

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↑【現地案内図】

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↑【岱崎出丸・畝堀】
山中城の敷地は結構広大で、この岱崎出丸だけでもちょっとした城址一箇所分くらいのボリュームがあります。ここにも何気なく畝堀が復元されていますけど、この規模の畝堀はちょっと他所では見られないような・・・。

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↑【西櫓付近の障子堀】
山中城の空堀にはこれでもかというくらいあちこちに畝が復元されていますが、この西櫓付近の障子堀は別格です。

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↑【本丸】
天守櫓台から見た本丸。西国からの玄関口だった山中城なので、瓦葺では無いにしろ、意外としっかりした櫓が建てられていたんじゃないかと思いますね。それこそ天守と呼んでも差し支えないレベルの建物が。

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↑【宗閑寺】
宗閑寺には城主・松田康長や岱崎出丸を守備した間宮康俊らとともに、豊臣方の一柳直末のお墓も設置されています。





2012年9月26日 (水)

騎西城 【武蔵】

場所:埼玉県加須市根古屋(地図)
訪問:2011年7月
形態:平城
遺構:模擬天守・土塁・他案内板多数
指定:なし
駐車:有
満足:★★★(3.5点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
築城時期は不明。
・康正元年(1455年)古河公方足利成氏が、深谷上杉氏の城であった騎西城を攻略した。
・永禄6年(1563年)上杉輝虎が小田助三郎の守る騎西城を攻略した。
・天正2年(1574年)の第三次関宿合戦では、簗田持助の関宿城が北条氏政の大軍に包囲され、それを助けるために布陣した上杉謙信がこの騎西城、菖蒲城などの城下を焼討ちした。
・天正18年(1590年)の小田原征伐後、松平康重に与えられた。
関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)大久保忠常が城主に任じられたが、寛永9年(1632年)、大久保忠職が美濃加納城へ移封となったため、廃城となった。


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↑遠目にも目立つ模擬天守。郷土史科展示室として使用されています。

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↑案内板の地図を見ると往時の曲輪の位置がわかります。

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↑天神曲輪の土塁跡。確認できる数少ない遺構のひとつです。土塁の南側は幅50mの障子堀だったみたい。

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↑といっても昭和40年頃にはこんなになっていました。大正くらいまでは結構な規模が残っていたみたいなんですけどね。

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↑障子堀の案内。

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動画

2012年9月24日 (月)

花崎城 【武蔵】

場所:埼玉県加須市花崎(地図)
訪問:2012年9月
形態:平城
遺構:曲輪・馬出・堀・土橋など
指定:市指定史跡
駐車:なし ※公園前に邪魔にならないように路駐
満足:★★★★(4.0点)

花崎城は栗原城の支城だったと考えられているお城で、1561年の上杉謙信の小田原攻めの際に栗原城とともに上杉軍に攻められて落城したと伝えられています。
現在、栗原城はほとんど痕跡すら残されていないみたいなのですが、花崎城は多少痕跡が残されていたのでしょうか。発掘調査が行われ、城址の一部が「城山公園」と「城址公園」として残されています。

※動画はまだ作成していません

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↑周辺地図。

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↑城山公園の入口にある案内。調査結果も明記されているのが嬉しいですね。

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↑城山公園内。堀も程よく保存されています。

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↑公園中央にある本丸。

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↑その隣には馬出のような小曲輪が。

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↑馬出の周囲の堀は水が溜まっていて良い雰囲気を醸しだしています。

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↑調査で障子堀であったことが判明しています。泥田の障子堀って強烈なコラボだと思いませんか?

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↑本丸の南側。若干を残して後は住宅街に飲み込まれてしまいました。

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↑城址公園は線路を挟んで反対側です。ここからは馬出が検出されたそうですが、形状の確認は難しいみたいです。

2012年9月22日 (土)

片倉城 【武蔵】

場所:東京都八王子市片倉町(地図)
訪問:2011年3月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・土橋など
指定:東京都指定史跡
駐車:有 ※駐車可能台数が少ないので注意
満足:★★★★★(5.0点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
片倉城は東京都八王子市片倉町にあった平山城である。扇谷上杉氏の家臣長井氏が拠ったとされる。

城址は片倉城跡歴史公園として整備されています。公園は自然公園の様相を呈していて、同日も多くの人が公園を訪れていました。
二本の川の合流地点に築かれているので、かなり攻めづらそう。多少の破壊があったとはいえ十分に往時の雰囲気を堪能できる城跡でした。

※動画はまだ作成していません

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↑公園の案内。

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↑城址はこの台地上に設営されていました。

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↑本丸。

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↑二の丸。

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↑本丸と二の丸を仕切る堀。木橋が再現されています。

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↑二の丸の堀。そのまま台地上に外郭が繋がっていたと考えられているみたいです。

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↑竪堀。

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↑往時は防御に利用されていたと思われる渓谷。

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↑昔は湿地帯だったんでしょうね。豊富な沼や池が往時を忍ばせます。

2012年9月20日 (木)

小田野城 【武蔵】

場所:東京都八王子市西寺方町(地図)
訪問:2011年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・土橋など
指定:八王子城の一部として国の史跡に指定
駐車:なし ※公園前に邪魔にならないように路駐
満足:★★★★(4点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
八王子城(1587年(天正15年)頃築城)とほぼ同時期に、八王子城主・北条氏照の家臣である小田野源太左衛門が築城したと伝えられる。「武蔵名所図会」では小田野氏の居館跡であるという。1978年(昭和53年)に八王子市教育委員会の実施した「深沢遺跡及び小田野城遺跡予備調査」でその実在が確認された。1590年(天正18年)の八王子城攻撃の直前、小田野城は上杉景勝の軍勢と大激戦の末、攻め落とされたとも伝わる。その後、小田野源太左衛門は小田源左衛門と改姓して水戸徳川家に仕官した。1983年(昭和58年)八王子城の一部として国の指定史跡となる。

八王子城から延びる尾根の先端に位置していて、八王子城の出丸といった趣を感じられる城跡です。真下を小田野トンネルが貫通していますが、城跡はこのトンネル工事の際に発見されたんだとか。
小田野城は周囲をフェンスで囲まれていますが、城址東側にある公園には出入り口があったのでそこから訪問しました。駐車場はなさそうなので、くれぐれもご注意を。


動画です。デジカメ版なので手振れは酷いですよ。

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↑入口。

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↑主郭。結構広いです。

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↑縄張りはシンプル。

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↑花見にはいい場所ですね。

2012年9月18日 (火)

天神山城 【武蔵】

場所:埼玉県秩父郡長瀞町岩田(地図)
訪問:2011年4月ほか
形態:山城
遺構:廃墟の天主(模擬)・曲輪・出郭・空堀・土塁・土橋・井戸・石積み・など
指定:なし
駐車:白鳥神社、もしくは対面にある公会堂の駐車場を拝借
満足:★★★★★★★(7.0点)

天神山城は金尾山城と同じように藤田重利によって築城され、藤田氏の本拠として使用されていたみたいです。
出丸など遺構が良好に残っている箇所がある一方で、観光施設造営のために二の郭など部分的に破壊されてしまっているのが残念。


2012年3月に訪問した素材を使用して動画を新たに編集してみました。

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↑遠視。

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↑目印の白鳥神社。 

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↑九十九折の道を歩いていくと木戸跡っぽい小スペースが。

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↑横堀っぽい。

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↑本郭に設置されている廃墟の模擬天守。

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↑二の郭にも観光施設の名残が残されています。

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↑旧状がわかりづらい二の郭ですが、側面に回ればこのような石積みも確認できますよ。

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↑三の郭から二の郭を望む。 

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↑出郭にはこのあたりから向かうのがいいと思います。ただ急斜面を降りることになるので、足元にはくれぐれもご注意を。

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ちなみにこれは2011年4月に訪問した際の出郭部分の動画です。デジカメなんで手振れが酷いんですけど、なんかアクティブにあちこち動き回っているので、2012年3月版と比較するとより出郭の雰囲気がわかるかも知れません。特に出郭周りの横堀とか。

2012年9月17日 (月)

滝の城 動画アップロードしました

滝の城の動画をYoutubeとニコニコ動画にアップロードしました。
岡の城山に続いて、今回もSoftalkを使用したナレーション。ちょっと稚拙さはあると思いますけど、内容はそこそこ旨くまとめられたんじゃないかと思っています。

もっとこうしたほうがなんてご意見あれば、気軽に指摘してくださいね。
よろしくです。

2012年9月16日 (日)

9/16 訪城報告

相変わらず暑い日が続きますね。
NHKの天気予報を見ていると"まだ暫くは残暑が続きそうです"なんて言ってますけど、振り返ってみれば去年は11月初旬くらいまでそこそこの残暑が続いていたんですよね(11月初旬に訪問した群馬の根小屋城でカマキリを見たのを覚えているので、間違いないかと)。
そう考えると、この暑さは今年もまだまだ続くのかもしれませんね。気が滅入ります。

ここから本題、訪城報告です。
今日は台風の影響なのか天候も油断すると危なそうだし、今回は無難にドライブ感覚でいける場所をチョイス。で、「滝の城」→「川越城」→「氷川神社」→「喜多院」と訪問してみました。

基本的にみんな再訪問です。

川越城ではアクシデント発生。初雁球場での野球大会なんかも影響あって、駐車場に車を停められませんでした。結局、本丸御殿と博物館の訪問は見送らざるを得なかったのが残念ですが、まあいいか。前に訪問してるしね。

滝の城は「関東の名城を歩く」にも掲載されていますし、以外と知名度高いかもしれませんね。たぶん動画の次作はこの滝の城になると思います。
岡の城山と同じく解説はナレーションメインにしたいなと思っているんですけど、あれを皆はどう思ったんだろ?気になって気になって・・・。

金尾山城 【武蔵】

場所:埼玉県大里郡寄居町金尾(地図)
訪問:2011年4月
形態:山城
遺構:物見櫓(模擬)・曲輪・空堀・土塁など
指定:なし?
駐車:有
満足:★★★★(4.0点)

金尾山城は1532年、藤田左衛門佐重利によって築城されたものと考えられています。以降、寄居町と長瀞の中継地点として機能していたものと思われますが、鉢形城の落城にあわせて廃城になりました。
山麓の伝蔵院は居館跡で、また金尾山対岸には穀倉があったみたいで殿倉の渡し跡と呼ばれる場所も残っているみたいです。

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↑案内。

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↑入口。

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↑城址はつつじ山として整備されています。ご覧のとおりつつじの木がびっしりです。

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↑主郭には愛宕神社が建立されています。背後に見えるのは櫓台と模擬物見櫓。

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↑物見櫓から寄居町方面を望む。なかなか絶景です。

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↑案内には馬出など残ると明記されていましたが、いまいちよくわかりませんでした。

まさに街道をおさえるといった言葉がぴったりっぽい城址ですね。
ここもつつじが咲くころになると人でごった返すんでしょうか。

2012年9月14日 (金)

花園城 【武蔵】

場所:埼玉県大里郡寄居町末野(地図)
訪問:2011年4月および2012年3月
形態:山城
遺構:曲輪・枡形・空堀・土塁・土橋・石積みなど
指定:なし
駐車:なし ※邪魔にならないように路駐
満足:★★★★★★★★(8.0点)

花園城はもともと寄居周辺に勢力を伸ばしていた藤田氏が築いたお城と考えられています。北条氏邦が本拠を鉢形城に移転した後は鉢形城の支城として機能していたんでしょうか?
遺構は良好に残っているけど藪が凄くて残念な城跡とよく言われていましたが、近年はご尽力いただいているみたいで手入れも進んでおり、遺構を堪能することが可能です。
近くには藤田氏の菩提寺でもある藤田善導寺もあります。ついでに足を伸ばしてみてはいかがでしょう。

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↑鉢形城から見た花園城(たぶんあってると思います)。

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↑城内にむかう竪堀はいくつかありますが、この稲荷神社の裏から向かうのがわかり易いかも。

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↑縄張り。ポイントの場所に番号をふってみました。

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↑①の竪堀を見下したところ。

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↑今度は①から見上げたところ。竪堀と横堀が何箇所も交差しているのが花園城の特徴のひとつです。

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↑②このあたりは良好に石積みが残されています。

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↑石積みの周囲には3段ほどの横堀が・・・。

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↑本郭。上下二段に分かれています。

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↑本郭の壁面にもところどころ石積みが残されています。

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↑本郭から二の郭。

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↑堀切。岩盤を削って豪快に造られています。

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↑城内には結構石積みが残されています。これはどこだったっけかな・・・。

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↑これは腰郭1に残されている石積み。

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↑③に残されている石積み。

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↑三の郭の枡形状の虎口。

いつか動画を再編集したいですね。

2012年9月12日 (水)

鉢形城 【武蔵】

場所:埼玉県大里郡寄居町鉢形(地図)
訪問:2011年7月
形態:平山城
遺構:建築物(模擬)・曲輪・馬出・枡形・空堀・土塁・土橋・井戸・石積みなど
指定:国の史跡
駐車:有 ※博物館もしくは三の曲輪近辺
満足:★★★★★★★(7.0点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
初めて鉢形城を築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。

動画あるんですけどね。この頃は散策感に重きをおき過ぎていたんでしょう、内容がだらだら長くなってしまっていて正直駄目ですね。最近(2012年8月現在)はその辺りを随分改善できたと思うんですけど、どうなんだろ。


その1


その2

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↑案内。

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↑諏訪曲輪口に復元された三の曲輪の虎口と門。

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↑こちらは復元された掘立柱建物。背後に見えるのは復元された石積み土塁。

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↑二の曲輪と接続する馬出。なんと馬出にも石積み土塁が構築されていたそうです。あと二の曲輪の堀からは畝も検出されています。

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二の曲輪と接続するもう一方の馬出。こちらは堀も土に埋もれて浅く目立たないですけど、前出の馬出と同じような構造だったんでしょうね。

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↑御殿曲輪の入口で見られる石積み。これは遺構ではないのかもしれません。

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↑御殿曲輪。4区画に分かれており広いです。ここだけでちょっとした平山城跡くらいの面積があります。

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↑対岸から見た御殿曲輪。長尾春景の時代には、この御殿曲輪のみが鉢形城だったのかもしれないですね。

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↑本曲輪と二の曲輪の間に設置されていた馬出。ちなみにこの桜はここの名物みたいですよ。

動画は外曲輪も撮影されています。広いので鉢形城址をぐるっと一周するといい散歩になりますよ。アップダウンもそんなにありませんし。

2012年9月10日 (月)

腰越城 【武蔵】

場所:埼玉県比企郡小川町腰越(地図)
訪問:2011年4月
形態:山城
遺構:曲輪・枡形・空堀・土塁・土橋・井戸・石積みなど
指定:県指定史跡
駐車:有 ※パトリアおがわの駐車場
満足:★★★★★★★★★(9.0点)

腰越城は松山城主上田氏の家老だった山田伊賀守直定の居城だったと伝えられている山城です。
採掘によって城域の一部が消滅してしまっていることは残念ですが、コンパクトながらもいかに小兵力で敵を防ぐかという工夫の跡が随所に見られ、非常に見応えのある城跡だと思いました。

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↑案内。

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↑麓から見上げた腰越城。

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↑国道を、ちょっとはいったところに設置されている木戸。

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↑竪堀も一部利用してしてるのかなと思う登城道。

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↑縄張り図。ポイントの箇所に数字をふってみたので以下説明の際の参照にしてみてください。

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↑①部分。尾根まで登ると二重堀切が出迎えてくれます。

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↑②部分。この竪堀を登ると二の郭→本郭と目指せますが、往時に登るのは難しそう。

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↑③部分の横堀。

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↑④および⑤。②以降は竪堀を利用して複数の分岐を設置することにより、寄せ手を混乱させる狙いがあったのかもしれません。

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↑⑥部分にある囮虎口。入口には石積みが施されており、重厚な雰囲気を装っておびき寄せやすくしていたのかもしれません。

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↑⑦の堀切。ここに到着するまで常に頭上からの攻撃を受け続けることになり、かなりの痛手を負いそうです。

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↑城址最南端の西の郭。この先は採掘によって消滅してしまっていますが、古絵図だと山には二つのこぶ状の峰が描かれていることから、往時はさらに別の郭が存在していたのかもしれません。

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↑小口郭の虎口にも工夫が見られます。まずは⑧部分、奥の突き当りを右に曲がると・・・

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↑Пのように折り返させ細道を登らさせられます。少しでも寄せ手の動きを鈍らせようとする努力の跡がここにも見られますね。ちなみに、構造的には比企型虎口と呼ばれる形状です。

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↑二の郭。

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↑本郭の虎口手前に設置された腰郭。本郭の壁面には石積みが多少残されています。

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↑本郭。案内は豊富に設置されています。

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↑腰越城の傍には山田屋敷跡や安戸城もあるみたいです。

2012年9月 8日 (土)

高見城 【武蔵】

場所:埼玉県比企郡小川町高見(地図)
訪問:2011年4月
形態:山城
遺構:曲輪・枡形・空堀・土塁・土橋など
指定:県指定史跡
駐車:小スペースに2台分くらい
満足:★★★★★☆☆☆☆☆(5.0点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
築城時期は不明。ただし『青木家家譜』に、治承4年(1180年)青山城主・青山氏久配下の石井九郎右衛門政綱が居住したとある(『小川町史』)。これが城のはじめとみられる。戦国時代に入ると、長享元年(1487年)没の増田四郎重富がここに居住したと『新編武蔵風土記稿』にあり、増田氏が城主であったらしい。その後、山内上杉氏方の属城・鉢形城の支城となっていたとみられ、長享2年(1488年)の扇谷上杉氏・山内上杉氏が戦った高見ヶ原合戦(第一次)で、この城は東側の今市台地に陣取った山内上杉方の背後を守る役割を果たしたと考えられる(『日本城郭大系』)。また明応3年(1494年)の第二次高見ヶ原合戦でも、この城は使用されたとみられる。ただし高見城での戦いの記録は無い。

四津山城とも呼ばれる高見城です。なんでも見る方角によっては四つのこぶ状の峰が見えることからそのように言われるのだとか。まあお化け煙突みたいなものですね。
高見城は本郭に四津山神社が建てられているので、神社を目安に訪れれば訪問し易いと思います。

ここの比企型虎口を紹介しようかと思ったのですけど、良い画像が見当たらない。。。


動画だと5:20秒くらいから再生してもらえると件の虎口付近まで飛ばすことができます。
デジカメ振り回しすぎて見ていて疲れますね。今でも編集が上手いわけではないのだけれど、それでも恥ずかしい限り。。。


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↑遠視。

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↑案内。

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↑四津山神社への入口。奥の小スペースに車を駐車せていただきました。

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↑三の郭。敷地の半分以上はなだらかな傾斜地です。

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↑二の郭。奥に見えるのが三の郭との虎口です。

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↑本郭手前の小郭と二の郭の間にある堀切。

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↑本郭。

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↑この本郭から二の郭手前までは参道設置でかなり改変されていそうな感じです。

2012年9月 7日 (金)

杉山城 【武蔵】

場所:埼玉県比企郡嵐山町杉山(地図)
訪問:2011年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・馬出・枡形・空堀・土塁・土橋・井戸など
指定:比企城館跡群として国の史跡に指定
駐車:有
満足:★★★★★★★★☆☆(8.0点)

比企城館跡群、最後は杉山城です。
杉山城は中世城郭の教科書といわれるだけあって、その残された遺構は見事。城域はさほど大きくありませんが、馬出・枡形・食違いなど多様な虎口形状を確認できますし、横矢を強烈に意識した構造などいちいち感心させられます。

あと杉山城で有名なのが「杉山城問題」ってやつですね。以前はその技巧的な縄張りから後北条氏が作成したものと考えられていたのですが、発掘調査を行ってみるとあらびっくり。調査では15~16世紀初頭の遺物しか出土せず、城を作り変えた形跡も無い。さらに発見された文献が追い討ちになって後北条氏が関係した可能性は限りなく低くなってしまったというのが大体のあらましです。
まあ考古学者vs縄張り研究者って図式なんですけど、自分的には考古学がファンダメンタルで縄張り研究がテクニカルって考えるとわかり易いですね。え?かえってわかりづらいですか?
結論を言いますと自分は山内上杉氏が陣城として作成したと考えるほうがしっくりきます。確かに縄張りは技巧的ですが地形的に要害性は少なく篭城するには心許ないですし、各曲輪も面積が狭いので居館としても不向きなんじゃないかと思うのがその理由ですね。

捉え方は千差万別、空想を働かせる楽しみって中世城郭は豊富ですよね。皆さんは杉山城を見てどのように感じるでしょうか。

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↑案内。

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↑遠視。

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↑出曲輪。

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↑大手虎口。

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↑「屏風折り」。折が連続していて「W」のような形になった場所の名称です。ちなみに「~」のように歪曲しているのは「歪み」です。

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↑井戸郭から本郭へ通じる虎口は木橋が設置されていました。

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↑井戸跡。

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↑北ニノ郭の比企型虎口。

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↑本郭の東にある馬出のような小スペースと、そこに接続する帯郭 滝山城に似た虎口形成とはこの辺りの構造を指しているのでしょうか?

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↑本郭。

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↑比企史跡群(※青字)の周囲にはこんなにも多くの城跡が残されています。

ビデオで再収録したものがあるので、動画をいつか作り直したいと思います。いまアップロードしてあるのは初期制作ということもあって見づらいですしね。

2012年9月 6日 (木)

足利政氏館 【武蔵】

場所:埼玉県久喜市本町(地図)
訪問:2012年9月
形態:平城
遺構:曲輪・空堀・土塁・土橋など
指定:埼玉県指定史跡
駐車:有 ※甘棠院の駐車場を拝借
満足:★★★★(4.0点)

久喜市の甘棠院は古河公方足利氏の二代目・足利政氏が隠居した城館跡であり、足利政氏館跡として県の史跡にも指定されています。
足利政氏は管領上杉氏の家督継承問題で嫡男・高基と対立し、最終的には古河城を追い出されて扇ヶ谷上杉氏を頼り、この久喜に落ち着きました。なお、この騒乱の最中に子の義明とも不和になり、義明は真里谷武田氏に擁立されて小弓公方として独立してしまっています。

遺構としては甘棠院正面・西側・北側の空堀と土塁らしいのですが、北側は白鷺の野営地になっているので、一部公園化された堀跡を除いて確認は難しいものと思われます。
なお、自分は拝見していないんですけど足利政氏のお墓もあるらしいですね。興味ある方は要チェックです。

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↑足利政氏館の大まかな概略図。
【※2013年9月に追加】

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↑甘棠院入口。二つ引き紋が足利氏との関係を匂わせます。

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↑二の門。

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↑これより奥には立ち入れませんでした。

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↑部分的な消滅はありながらも空堀はよく残されています。

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↑北側にある公園。芝生の形で堀の位置を復元してあるらしいのですが、よくわかりませんでした。

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↑というのも前述したとおり、北側は白鷺の巣になっているので泣き声もうるさいですが、なによりも臭いが凄い。

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↑しかもこんな藪ですし・・・

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↑糞も凄まじい。自分にはとても無理です。

2012年9月 5日 (水)

油井ヶ島城 【武蔵】

場所:埼玉県加須市油井ケ島(地図)
訪問:2012年9月
形態:平城
遺構:曲輪・堀・土塁など
指定:市指定史跡
駐車:有 ※旧上家屋敷玄関前に駐車しました
満足:★★★★☆☆☆☆☆☆(4.0点)

別名鐘撞山とも。

1563年、上杉謙信は後北条氏と甲斐武田氏の連合軍に攻められている武州松山城を救援するため出陣しますが、目前まで来て武州松山城は落城してしまいます。房総の里見氏と後北条氏が戦った第二次国府台合戦のきっかけにもなった戦いであり、謙信もなんの収穫もなく引き下がる訳にはいかなかったのでしょうか。軍勢を一転して忍城騎西城に向けて忍城の成田氏を恭順させ、騎西城は攻め落とされてしまいます。
騎西城にほど近い場所にある油井ヶ島城もこのとき攻撃をうけ、城兵は鐘を鳴らして騎西城に救援を求めますが、騎西城にはそんな余力があるわけが無く、城兵は甲冑兵器を丘に埋めて退却したという逸話が残されています。

既に江戸時代には城跡としての痕跡がかなり消滅していたみたいで、現在は鐘撞山と僅かに曲輪、堀跡などが残るのみです。

※動画はまだ作成していません

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↑油井ヶ島城の周辺地図。

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↑遠視。周囲の田んぼが湿地帯だった往時を偲ばせます。

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↑鐘撞山。

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↑ただ曲輪内部は夏草が覆い茂っていて歩きづらい。

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↑曲輪の左隅に目をやると・・・

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↑ポツンと案内板が設置してありました。

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↑堀跡と思われる水路。

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↑主曲輪には上家の屋敷が残っていました。

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↑上家の玄関口に立てられている加須市の看板。

「現状をできる限り生かしたかたちで整備して欲しい」との言葉には完全同意です。史跡なので文化事業と割り切って保存を前提とした整備をしていただくのが一番なんじゃないかと。
過度な演出は失敗すると目も当てられないので、藪刈りがしてあって調査報告的な案内があれば自分は十分満足ですね。

2012年9月 4日 (火)

菅谷館 【武蔵】

場所:埼玉県比企郡嵐山町菅谷(地図)
訪問:2011年4月
形態:平城
遺構:曲輪・空堀・土塁・土橋・虎口・石積みなど
指定:比企城館跡群として国の史跡に指定
駐車:有
満足:★★★★★☆☆☆☆☆(5.0点)

続いては菅谷館です。
鎌倉時代の有力御家人であった畠山重忠の居城であったと伝えられている平城で、長享の乱の際にも城館として使用されたみたいですね。

広大な曲輪跡と土塁・堀が良く残っていますし、遺構も規模が大きいので結構楽しめます。
あと博物館には比企城館跡群のパンフレットが配布されていました。歴史や縄張りも明記されているので、興味のある方はチェックを忘れずに。

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↑現地案内。

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↑西ノ郭。

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↑ニノ郭。広いですね、兵の駐屯地として使うにはもってこいです。

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↑本郭の堀。張り出し部が設けてあります。

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↑本郭。畠山重忠の居館があったとされる場所です。

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↑ニノ郭虎口付近の土塁の上に設置された畠山重忠像 このときは地震の影響か立ち入り禁止で近づけませんでした。

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↑博物館に展示してある模型。こういうの良いですよね、結構好きです。

デジカメ版は画質が良くないので、撮影し直しているビデオ版を編集して再アップロードする予定です。いつか必ず・・・

2012年9月 3日 (月)

逆井城 【下総】

場所:茨城県坂東市逆井(地図)
訪問:2012年9月
形態:平城
遺構:建築物(模擬・移築)・曲輪・馬出・堀・土塁・土橋・井戸など
指定:県指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.0点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
北側に西仁連川用水を臨み、西に入江だった蓮沼が存在する台地の先端上に位置している。西仁連川は江戸時代の干拓の際に沼の西側外周部が掘削されたもので、干拓前は飯沼という南北30kmに広がる沼が城の北方に存在していた。この南北に細長い飯沼は逆井城の北で東西に蛇行しており、城はこの沼の歪曲部に位置し沼に囲まれた「後堅固の城」でもあった。
北崖を飯沼が洗い堅固なため、本丸が最北端に位置している。南側に曲輪が連なり、大軍も収容できるように大規模な構造となっている。
築城は享徳年間ごろといわれる。小山義政の五男・常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、この城を居城にしたという。しかし常宗の孫・常繁のときの天文5年(1536年)、古河公方方であった逆井氏は後北条氏と対立した。そのため後北条方の大道寺盛昌の攻撃を受け逆井古城は落城、逆井氏は滅亡したと伝わる。ただし落城年がこの地域への後北条氏の進出時期に合わないため落城時期には異論もある。
後北条氏の勢力下に入った逆井城は、天正5年(1577年)、玉縄城主北条氏繁によって藤沢から技術者が呼ばれ、新たに築城されることとなった。逆井の地は北条氏にとって下野・常陸方面への侵攻の最前線であったためである。後北条氏の最新の技術が投入された飯沼城には氏繁が入り、佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。天正6年(1578年)、氏繁は逆井城で没し、その後を子の氏舜・氏勝兄弟が継いだ。風魔小太郎の子・風魔孫右衛門など忍者集団300人が拠っていたともいう(『関八州古戦録』)。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏没落に伴い、廃城となった。

今は茨城県ですけど、昔は下総国だった当地に逆井城はあります。復元された建築物は中世城郭の雰囲気をよく再現してあって楽しめますし、横矢掛りや比高二重土塁など遺構も良好に保存されている素晴らしい城跡です。
ただ、曲輪内がゲートボール場と兼用になっている場所も多いので、タイミング悪いと見学に制限が入るかもしれません(前回訪問時は表彰式の真っ最中でした)。
ちなみに10/7はお祭りがあるみたいです。黄八幡の旗をかざした甲冑武者のポスターが飾ってありました。城址のお祭りって10月最終週の場所が多いイメージがあるんですけど、一週目というのは珍しい気が。興味ある方は参加してみてはいかがでしょう。

動画はアップされていますけど、結構初期の作品ですし、撮影もデジカメなので再編集したいですね。ニコニコ動画のバージョンですけど、興味あるようでしたらこちらからどうぞ。

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↑逆井城跡公園の地図。

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↑入口にそびえる冠木門。

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↑模擬ですが、趣があって良い感じです。雨宮慶太監督作の映画『タオの月』の撮影でも、この入口は使われていたんですね。まあ、いろいろな撮影に使用されている場所ではありますが。

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↑城内の建築物は模擬ばかりではありません。こちらは関宿城の薬医門(移築)。

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↑復元された堀之内大台城の主殿と
枯山水庭

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↑大安寺の観音堂(移築)。

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↑井楼櫓。

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↑今回、二層櫓は閉鎖されていて入れませんでしたが、井楼櫓には登ることができました。

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↑古城という呼び名のついている馬出。逆井古城がこんなに小さい訳が無いので、少なくとも西二曲輪が古城一曲輪だったんではないでしょうか。後北条氏が入った際の拡張で現在の一曲輪が拡張され、西二の曲輪の一部を改修して馬出を作成したのだと思います。

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↑馬出と一曲輪の間の堀の中にある鐘掘り池。

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↑一曲輪の模擬櫓門と木橋と横矢掛り。

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↑東二の曲輪の堀には、随所に折が施されています。

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↑比高二重土塁。400年以上前に廃城になっているのに、よく残ってるものだと感心させられます。

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↑東三の曲輪の井楼櫓から、逆井城北部を見渡します。今でも周囲には名残が残っていますが、この辺り一体はもともと沼地だったようで、8代将軍吉宗の干拓事業によって、ご覧のような農地に生まれ変わりました。

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↑余裕かまして撮影しているうちに、どんどん雲行きが怪しくなってきました。後から考えてみると、このときすぐに逃げておけばよかったんですけどね・・・

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↑今までほんの小雨程度に振られた事はあっても、基本雨は回避できてたんですよね。車にのって移動し始めた瞬間に大雨が振りだすなんてことは何度かあったのですが、今回もそのパターンで見学中は大丈夫だろうなんて、訳のわからない理由で余裕ぶっこいてたらこれですよ(´・ω・`)

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↑まあ、最後は城内にあるお店で美味しいお蕎麦いただいて、お話もいろいろお伺いできたので良しとしますか。智姫そば、ご馳走様でした。

2012年9月 2日 (日)

9/2 訪城報告

昨日、youtubeで麻布狸穴さんの花崎城の動画を拝見させていただきました。自分の「いつかは訪問しようリスト」に花崎城は入っていたんですけど、久喜や加須近辺ってどうしても行きたいって思う場所が少なくて後回しにしていたんですよね。

で、動画を見る限り公園の割にはなかなかよさそうな感じ。藪藪したところに行きたくない時期にぴったりです。

で、急遽スケジュール考えて(朝起きてからです)、逆井城→栗橋城→花崎城→油井ヶ島城→足利政氏館と回るつもりで出発。

でも、油断というか過信もあったんですけど、逆井城ではスコールという奇襲をくらって散々な目にあっちゃいました。
NHK、昨日の朝は日曜晴れっていってたのにな(´・ω・`)

結局、栗橋城は環境的に厳しそうなんでパス。でも何とかその他は訪城することができました。

しばらく以前訪問したお城の訪城報告的な更新は2日~4日に1箇所のペースでアップされていくと思います。前倒しで結構造ってありますので。

でもせっかくのブログなんで、その辺りは臨機応変と言うか、新規訪城報告は定期更新とは別に随時更新していくつもりです。動画編集も優先してやりますしね。

新旧入り乱れる感じになるので紛らわしくなるかも知れないですけど、そのときは改めて考えましょう。
たぶん大丈夫かなと・・・

小倉城 【武蔵】

場所:埼玉県比企郡ときがわ町(地図)
訪問:2011年4月 ※動画は2012年7月
形態:山城
遺構:曲輪・馬出・枡形・空堀・土塁・土橋・石積みなど
指定:比企城館跡群として国の史跡に指定
駐車:有 ※林道脇に1台くらい
満足:★★★★★★★★☆☆(8.0点)

武州松山城と同じ比企城館跡群のひとつ、小倉城です。それほど大きなお城では無いのですが、コンパクトながらも技巧的に造られた縄張と数多くの石積み遺構を楽しめる良城跡なんですよね。

■ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18364604

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↑居館跡だったのではと言われている麓の大福寺。お寺の裏にも登城路はありますが林道側から訪問したほうが楽できます。

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↑案内。

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↑正面右手が郭4への虎口。比企型虎口といわれる形状です。

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↑ちなみに比企型虎口とはこのような形状のことを呼びます。

曲輪に突き出し部を築いてその横面に虎口を設置することにより侵入者を効果的に撃退できるよう考えられた構造で、比企地方の城郭には同様な構造が多く見られることから、この地方における同様の虎口を比企型虎口と命名したみたいですね。
ありていに言うと枡形虎口なんですけど、同地方の杉山城・腰越城・高見城などにも同形状の虎口が残されているのは独特だと思います。

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↑郭2と4を隔てる大堀切。奥の突出部は郭2の櫓台です。

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↑郭1の設置されている城址碑。

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↑郭3、郭1、郭1東の腰郭には石積みが良く残されています。

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↑郭3の堀切。石切跡みたいな場所も見えますね。

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