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2012年10月 1日 (月)

小田城 【常陸】

場所:茨城県つくば市小田(場所)
訪問:20117月ほか
形態:平城
遺構:曲輪・障子堀・土塁・櫓台・馬出など以外にも付近に伝移築門などあり
指定:国の史跡
駐車:有  ※整備作業中なので、時期によって場所が変更されている可能性あり
満足:★★★★★★(6.06.5)
見所:中世平城の面影を堪能できる数少ないポイント

201312月に修正を加えました。
小田城の築城時期がいつ頃なのかは定かではありませんが、小田氏が当地に居館を構えたことから小田城の歴史は始まり、戦国後期に至るまで小田氏の居城として使用されていました。

小田氏は宇都宮氏と同様に藤原北家の流れを汲む氏族で、祖となる八田知家が源頼朝から常陸守護を命じられ、当地に入ったことから小田氏が始まりました。
小田氏は常陸における地盤強化を図りますが、常陸国内に大きな勢力基盤を築いていた大掾氏や、その大掾氏に追随する佐竹氏などが大きな壁として立ち塞がり、なかなか思うようには勢力は広げられませんでした。鎌倉時代も中期になると、これに北条氏の常陸進出などが重なってしまい、小田氏はしばらく不遇の時代を迎えることになります。

南北朝の騒乱では小田氏は南朝方に属し、北朝方についた佐竹氏などと争いを繰り広げました。
関東での勢力拡大を図る南朝方の重臣・北畠親房を小田城に迎え、小田城は南朝方の関東の拠点として機能しますが、そのことから高師冬を中心とした北朝方勢力に小田城は攻め込まれ、奮戦むなしく小田氏は降伏。以降は北朝方に属し、関城や大宝城攻めにも参加しています。

常陸の守護職は早々に北朝に味方していた佐竹氏に奪われますが、鎌倉公方によって関東八屋形に選出されるなどしているので、小田氏の乱などを挟みつつも、ある一定以上の権威は保ち続けたものと思われます。

関東は足利公方と管領上杉氏の対立によって騒乱の時代を迎え、小田氏も近隣の常陸江戸氏や大掾氏、はては江戸崎土岐氏などと抗争を繰り広げます。そうして1514年、14代当主に就任した小田政治は積極的に勢力拡大政策を行い、小田氏の最大版図を築きあげました。ただ、政治の晩年の頃から徐々に衰退し始めます。

最後の当主となる15代・氏治の時代には常陸における後北条氏の影響力がより一層強まり、後北条氏に通じた結城氏を攻めるも、後北条氏の援軍を得た結城氏に海老ヶ島の戦いで敗れて逆に小田城を奪われ、さらにその数年後には今度は佐竹氏に攻められて、再び小田城を奪われてしまいました。
小田城を追われた小田氏治は土浦城を拠点とする菅谷氏のもとに身をおき、このときは程なくして小田城の奪還に成功しています。
1564年、今度は上杉謙信に攻められて小田城は落城。このときも小田城を奪われては取り返すを繰り返しますが、1569(1573年?)に佐竹氏との間で行われた手這坂の合戦で大敗を喫した小田氏は土浦城に逃れ、これ以降は小田氏が小田城に帰還することはありませんでした。

その後の小田城は佐竹氏が管理するものとなり、梶原政景(太田資正の次男)→小場義宗と城主を務め、佐竹氏の秋田転封に伴って廃城とされました。

ちなみに小田氏治は家臣団と団結して佐竹氏に対抗していきますが、1590年の小田原征伐に参陣しなかったとのことで領地を没収され、大名としての小田氏は滅亡しました。

とかくゲームなどでは能力を低く抑えられがちな小田氏治ですが、小田城から追われながらも何度も奪還に成功していることや、佐竹氏に戦国末期まで対抗できたということを考えると、優秀な家臣団もさることながら、小田氏治の統率力と人望が相当厚かったということを表しているのではないでしょうか。


↓以下、以前作成した記事です。
平城は殆ど遺構が残っていない場合が多いのですが、ここ小田城は中世城郭でありながらある程度の遺構を確認できる、貴重な城跡だと思います。同じような感じの平城なんてざっと思い浮かべてみると同じ茨城県の真壁城・逆井城、埼玉県の菅谷館、群馬県の小泉城、栃木県の赤見城などがありますかね。あれ?以外と残ってる?

小田城は長年にわたって発掘調査が行われており、たぶん発表会で今年も成果をお聞きすることができるんだと思います。例年通りであれば12月1週目の週末だと思うので、興味のある方はぜひ参加してみてください。楽しいですよ。

2011年以降の状況
現地説明会(2012年)
現地説明会(2013年)


※動画はまだ作成していません
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↑案内。

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↑曲輪1。調査終了場所から順に整備計画に基づいて着々と復元計画が進行中です。

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↑曲輪1南西の馬出も立ち入り禁止。これはタイミングが悪かったな~。

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↑まあ、その代わりって訳ではないんでしょうけど、詳細な調査報告があちこちに設置されていました。

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↑こういうの貴重ですよね。ここのは資料として販売してたりするんだろうか。

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↑立ち入れない場所はあっても、堀や曲輪跡は明確にわかるので雰囲気は楽しめました。

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↑移築城門と伝えられている龍勝寺山門。

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↑廃線となった関東鉄道の常陸小田駅跡。現在、廃線跡はサイクリングロードになっていますが、かつては小田城も線路で真っ二つに分断されていました。

■2011年12月の発掘調査

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2011年は志田曲輪(Ⅴ)の南側の堀や馬出、そしてⅥとの接続がどのようになっていたかを解説していただけました。
簡単にまとめると

堀・・・障子堀が検出されています(水が溜まってしまっていて直接形状の確認はできませんでした)
馬出・・・志田曲輪側に土塁が築かれていた可能性が高くなりました
木橋・・・馬出とⅥそれぞれに張り出し部が確認され、木橋で接続されていた可能性が高まりました
Ⅶに接続している馬出・・・現況よりもっと大きな曲輪であることが判りました

と、こんな感じです。今年はどうなんだろ、楽しみだな。

Oda_012_
↑夏場はからからだった堀ですけど、この時は適度に水を湛えて水堀の雰囲気たっぷりでした。

ビジュアル的に真壁城とかぶってしまうので、動画は編集しませんでした。整備計画が着々と進行しているみたいなので、ある程度終了してからでも良いのかな。

現地説明会(2012年)
現地説明会(2013年)

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