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2012年11月20日 (火)

木原城 【常陸】

場所:茨城県稲敷郡美浦村木原(地図)
訪問:2011年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・土橋など
指定:なし?
駐車:有 ※本曲輪とⅡ曲輪それぞれに用意されています
満足:★★★★★★★(7.0点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
永正元年(1504年)に居城を失った近藤氏元がこの城に移り住んだ。永正3年(1506年)に 近藤義勝が城主になった。
永禄5年(1562年)土岐治美が改修をし、近藤義勝が城の守備を任された。
天正2年(1574年)に小田氏の家臣で上条城主の江戸崎監物が寝返り落城した。さらに天正11年(1583年)に常陸国の大半を支配していた、佐竹義重、佐竹義宣、蘆名盛重らの軍に攻められ、また落城した。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉の攻撃を受けて北条氏が滅亡すると、勢力を失った土岐氏の城は、秀吉の家臣となった佐竹義重に降伏し、天正19年(1591年)蘆名盛重が支配するようになった。関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603年)に徳川家の譜代大名だった内藤清成、青山忠成の所領になったがこの頃に廃城になった。
木原城は江戸崎城を拠点としていた江戸崎土岐氏に属していました。江戸崎土岐氏は小田城の小田氏や牛久城の岡見氏と争いながら徐々に勢力を伸ばしていきますが、後北条氏が北関東にまでその影響力を伸ばしてくるようになると、江戸崎土岐氏は勢いに逆らえず後北条氏に従属。その頃から木原城は後北条氏の前線基地として順次拡張されていったものと思われます。
公園として整備されている本郭近辺とは別に、外郭には非常に迫力のある二重堀が薮に埋もれて残されています。広大な城域をもつお城なので隅々まで見て廻ろうとするとそれなりに大変かもしれませんが、遺構の残存度は比較的良好なので、苦労をする価値があるお城だと思いますよ。

※動画はまだ作成していません
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↑木原城の縄張図。
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↑でも、上記の縄張図だと全体が把握しづらいですよね。なので、簡単にmapに郭の配置を書き込んで見ました。こう見ると、木原城が如何に広大な城域をもつお城だったのかが判りますよね。
ただ、本郭や二郭辺りは整備が届いていますが、それ以外は未整備状態なので、見学の際はそれなにの覚悟で挑んでくださいね。 ※13/05/18 追加
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↑とにかく広い本曲輪。曲輪内は堀で区切られていたみたいで、写真左に見れる遊歩道は、発見された堀跡を再現したものです。写真右は周囲を廻る土塁。
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↑本曲輪の虎口。写真右は本曲輪の土塁上から撮影したものですが、内枡形のような空間があるのが判ると思います。
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↑Ⅱ曲輪。敷地の殆どは畑ですが、周囲を廻る堀はなかなかの迫力ですよ。
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↑Ⅲ曲輪は小学校や住宅、畑などが点在する広大な曲輪です。
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↑Ⅲ曲輪南虎口。縄張図を見ると枡形だったみたいですね。土塁も残されているみたいなのですが、見つけられませんでした。
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↑近藤氏の菩提寺でもある永巖寺が今も残る寺曲輪。周囲を結構な規模の土壇が覆っているんですけど、これは土塁の跡なのでしょうか。
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↑寺曲輪側の神田虎口。湿地になっていて、水堀の面影が残されていました。
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↑Ⅲ曲輪の南東側には見事な二重堀が残されています。写真左はⅢ曲輪側に残されている土塁。写真右はその土塁上から見た二重堀。結構な迫力なので、一見の価値ありだと思いますよ。
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↑最後は本丸脇の弁天曲輪。往時の本丸周囲はかなりの湿地だったみたいなので、船着場として使用していたのかもしれません。

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