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2012年11月14日 (水)

久留里城 【上総】

場所:千葉県君津市久留里(地図)
訪問:2012年10月
形態:山城
遺構:天守(模擬)・天守台・曲輪・空堀・土塁・土橋・井戸など
指定:なし?
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.5点)
見所:里見家最盛期を築いた里見義堯の居城。

↓※2013年9月に内容を修正しました。

久留里城は上総武田氏の祖である武田信長によって築かれたと考えられています。
武田信長は丁南(長南)城に本拠をおき、上総中南部に勢力を広げました。

真里谷城に武田信高の子・信興が入り、この一族が真里谷武田氏として西上総に勢力を拡大させるのにあわせて、この久留里城も真里谷武田氏の管轄するところとなりました。
その後、真里谷武田氏が後継争いによる内訌などで勢力が弱体化すると、安房の里見氏が上総国に徐々に進出してきます。弱体化していた真里谷武田氏は抗しきれず、久留里城は里見氏の所領となり、里見家当主である里見義堯の居城として使用されるようになりました。

里見氏と後北条氏のあいだで上総国の主導権をめぐる争いがおこりますが、、時が経つと徐々に里見氏は劣勢に立たされるようになります。里見氏は後北条氏の攻勢の前に久留里城下まで攻め込まれたりもしますが何とかその困難を乗りきり、久留里城は里見氏が豊臣秀吉に上総の所領を没収されるまで、里見氏の城として存続し続けました。
城主だった義堯は1574年、久留里城でその生涯を終えます。里見氏は嫡男の里見義弘が継ぎますが、義弘は自分の居城である佐貫城を使用し続けたため、里見家本拠としての機能は義堯の死によって役目を終えました。


徳川家康が関東に入ると、久留里城には大須賀忠政が3万石で入封します。大須賀家の後には土屋家が入りますが、土屋家は3代で改易となり、久留里藩は廃藩となってしまいました。

1742年、上野沼田藩から黒田家が3万石で入封し、久留里藩は復活。黒田家は廃城となっていた久留里城の再建や城下町の整備を行い、その後は幕末まで存続していきます。


●安房里見氏(特に後期里見氏)は代を重ねるごとに居城が変更されていますね。どこもある程度以上の遺構は残されているので、城跡から里見氏の隆盛を見ていくのも楽しいかも知れません。
・前期里見氏(義実、成義、義道、義豊) → 稲村城
・義堯 → 久留里城
・義弘 → 佐貫城
・義頼 → 岡本城
・義康、忠義 → 館山城


↓以前からの記事

真里谷武田氏が築城したという資料は見つかっていないので、真偽の程は不明みたいですが、たぶんそうなんでしょう。久留里城が一躍有名になったのは、里見義堯が本拠にしてからだと言われています。
後北条氏と里見氏が激しく争った場所でもあり、里見氏以降も徳川時代には近世城郭として整備され、一時の空白期はもちつつも幕末の廃城令まで存続した、千葉県でも有数の経歴を持つ城跡ですね。前々から訪問してみたかったんですけど、何故か先延ばしにしていた久留里城。ようやく訪問することが出来ました。
房総に多く見られる岩盤の細尾根を断ち切った堀切や土塁・曲輪など、見応え十分。今回は主要部をあらかた拝見したので、次回は上の城(古久留里城)を散策したいと思います。
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↑大まかな久留里城の概略図。
江戸時代の近世城郭である久留里城には天守閣も築かれていたみたいですが、実際には多くの山城と同様、政務は御殿の構えられている麓の三の丸で行われ、山にある要害部は殆ど使用されていなかったのではないでしょうか。
未見地域である旧久留里城と記した地区は、真里谷武田氏時代の久留里城か、もしくは里見氏時代に出丸として使用されていた場所なのではないかと思われます。

【2013年9月に追加】


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↑【三の丸付近から見る久留里城】
三の丸から見た久留里城。駐車場からの比高は100m程度みたいなんですけど、急斜面ではないので案外楽に登れました。
三の丸の遺構は殆ど残されていない感じですね。ほぼ消滅に近いのかも。
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↑二の丸のある資料館までは舗装された道路を歩いても行けますが、ここはやはり尾根筋を歩いて城跡の雰囲気を堪能したいところ。写真左はトンネル手前にある旧道で、本来はここから歩いていたんでしょう。写真右は一番わかりやすい尾根道への入口で、旧道よりショートカットする形になります。
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↑【火薬庫】
火薬庫とされる曲輪と、その側にあった横穴。やぐらかなと思ったのですが、もしかしたら倉庫だったのかもしれません。というより、この穴倉が火薬庫と呼ばれる由縁になっているのかも!?
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↑【堀切】
二の丸までに、二箇所の堀切が残されていました。
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↑二の丸脇の薬師曲輪から、三の丸や古戦場跡などを見渡せます。
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↑【二の丸】
二の丸。現在は博物館が建てられていますが、調査の結果、絵図で見られる多聞櫓の跡も検出されました。

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↑【模型】
博物館には模型が展示してあります。
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↑【天神曲輪】
本丸と二の丸の間にある天神曲輪。正面のトイレの裏から北尾根に向かえます。
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↑【男井戸・女井戸(おいど・めいど)】
今も水を湛える男井戸と女井戸。大きさはそんなでもないのですけど、深さは1.8mもあるのだとか。
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↑【本丸】
本丸にそびえる模擬天守と天守台。模擬天守は二層三階ですけど、往時はここに二層二階の天守が建てられていました。そんなに大きそうではないですよね。イメージとしては丸亀城の天守が近いのかも。

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↑【本丸に残る土塁】
本丸の周囲には土塁が廻り、土塀が設けられていました。
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↑【本丸南側の尾根】
本丸から続く南尾根には、堀切などの遺構を見ることが出来ます。折角なんで、足を伸ばしたいところですね。
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↑【南尾根に残る堀切①】
房総のお城に多い、岩盤を断ち切って造った堀切です。現地で見ると、迫力が違いますよ。
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↑【南尾根に残る堀切②】
さらに尾根を進んでいくと、堀切によって尾根が断ち切られていました。画像ではたいした事無いように見えるかもしれませんが、深さは5m以上あって結構凄いです。ビデオ撮影していたらスズメバチが飛んできたんで、慌てて引き返しました。映像映ってるといいんだけど^^
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↑【南尾根の尾根土塁】
南尾根の雰囲気は万木城や東金城などに通ずるものがありますね。
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↑【弥陀曲輪】
本丸脇の弥陀曲輪にあった窪地。井戸跡っぽく感じてしまいますけど、たぶん違いますね。
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↑【北尾根に残る堀切】
北尾根は曲輪として使用できそうな平地が多い分、堀切も巨大です。それぞれ
別の堀切なんですけど、どちらも収まりきらなかった・・・
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↑【北尾根端の馬蹄段】
尾根端までくると、急に勾配が厳しくなります。写真左、この急勾配を撮影している自分の背後には三段の腰曲輪が設けてあって、強烈に敵を遮断しています。

後期里見氏の祖というか、安房里見家の全盛期を築き上げた里見義堯は、この久留里城で寿命を終えました。お家騒動がありながらも、その跡を継いだ義弘は、自身の居城だった佐貫城を使用したため、義尭亡き後の久留里城の勢いは急速に失われていくことになります。
知名度や歴史もあって、発掘調査も行われ、遺構もよく残っている久留里城なのに、本当に史跡認定されていないんですかね。事情があるのかもしれないですけど、なんか不思議。
あと、幸運なことに、ちょっとした資料をいただいちゃいました。最近、行く先々で個別の資料を入手しているので、また資料の置き場が無くなってしまっているのが頭の痛いところ。増えていくのは嬉しいんだけど、結構ごついのが多いんですよね、この手の資料って。

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