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2012年12月

2012年12月31日 (月)

年末年始のご挨拶

ブログを立ち上げたのは2011年の年末でしたが、実質更新を開始したのは2012年の8月くらいからでした。
完全趣味みないな世界の内容なんですけど、それでも見ていただける方がいることにびっくり。これからも、少しでもお城好きな方々と時間を共有できればと切に願う次第でして。

これまで、なるべく早く公開をと思って2日に1アップで調整してきましたが、ブログネタがある程度の公開数まで達してきたので、ここからは緩々と進行していきたいと思います。ようはブログ>動画から動画>ブログに戻そうかなと。もともと動画で作成しきれない城址を捕捉していくつもりで立ちあげたブログでしたしね。

といっても動画のアップロード数がいきなり激増する訳では無いかもしれませんが、ヨイトマケを聞きながら
なるべく頑張ります。皆さんのためならエンヤ~コラセイ・・・

2012年12月30日 (日)

臼井城 【下総】

場所:千葉県佐倉市臼井田(場所)
訪問:2012年11月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・堀・土塁・石垣など
指定:なし
駐車:有
満足:★★★★★★(6.0点)
備考:臼井田宿内砦(
場所)、師戸城(場所)、謙信一夜城(場所)もあわせて掲載
見所:巨大な堀跡は見応えあり。大田道灌や上杉謙信に攻められた経歴ももつ。

↓2013年9月に内容を修正しました。
下総の名家だった千葉氏の初代当主とされる千葉常兼。その常兼の三男・常康が臼井郷に入って臼井を名乗ったのが臼井氏の始まりです。

享徳の乱の際には馬加氏や原氏とともに古河公方を支持し、管領上杉家を支持した千葉宗家とは反目しました。
結果として千葉宗家は滅亡してしまいますが、このことを憂えた幕府は武蔵に逃れていた武蔵千葉氏を正当な千葉家当主として認め、その武蔵千葉氏を旗印に扇ヶ谷上杉家の太田道灌が下総に進行してきます。臼井氏は馬加千葉氏や原氏とともに迎撃しますが、あえなく撃破され、更には臼井城も落城してしまいました。
臼井氏は臼井城の奪還に成功してすぐに臼井郷に復帰しますが、久胤の代のときに後見人についた原胤貞に権限を奪われてて臼井氏は急速に弱体化し、1561年の正木氏による攻撃で臼井城はまたも落城。臼井氏は臼井城を追われ、臼井久胤は結城城の結城晴朝を頼って落ち延びていきます。

臼井氏は没落し、以降の臼井城は第二次国府台合戦の後に城を奪還した下総原氏が統治することになりました。

1566年、この頃は特に関東に攻勢をかけていた上杉謙信が小田城を落城させた後、同盟関係にあった里見氏とともに臼井城を攻撃してきます。
臼井城は本丸を残すのみというギリギリの状態まで追い込まれますが何とか持ちこたえ、上杉謙信を撃退することに成功しました。

1590年の小田原征伐の際に作成された関東八州諸城覚書を見ても、下総原氏は2,000騎を所持していたとされ、かなりの勢力を誇っていたことが窺い知れます。
ただ、その下総原氏も後北条氏の滅亡にあわせて没落し、その後は家康家臣の酒井家次が3万石で入封し、臼井藩が立藩されました。
その臼井藩も家次の高崎移封によって廃藩。臼井城も廃城となりました。

↓以前の記事です。
低地も今は干拓によって住宅や耕作地として使用されていますが、高台の突き出した台地上に臼井城は築かれています。主な郭は3つですが、臼井城は周辺の台地にも砦を配置して守りを固めていたみたいで、広義の外郭まで含めるとかなり広大な城域をもった城であったことがわかります。

今回は臼井城の項ですが、周辺に遺構が残されている臼井田宿内砦や師戸城も関連ということで、あわせて掲載したいと思います。どこも綺麗に整備されているので、夏場でも気楽に楽しめますよ。

※動画はまだ作成していません
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↑臼井城の周辺図。往時の印旛沼はもっと巨大だったみたいなので、臼井城は印旛沼に面したお城だったのではないかと推察します。
だとすれば、支城である師戸城は勿論のこと、馬加千葉氏の本拠である本佐倉城からの支援も受け易いですよね。


■臼井城

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↑現地案内の縄張り図と作成した大まかな概略図。

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↑師戸城から見た臼井城。

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↑【二郭と堀切】
堀切はまさに台地を切断するような、非常に規模が大きいです。台地から二郭に入る虎口は一箇所しかなく、現在は土橋だったと思われる場所に車道が造られています。二郭には今は崩されてしまってないのですが、西側に大きな土塁があったみたいですね。もったいない。

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↑【本郭虎口】
二郭から本郭に続く土橋。見てのとおり坂虎口です。今は舗装されて道幅も広がっていますが、写真右の古写真を見ると、昔は道幅も細く、虎口も食い違いになっていたことがわかりますね。

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↑【虎口を護る櫓台】
虎口を抜けると両側に櫓台が。なかなか堅固な構えですね。

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↑【本郭と石垣】
壁面には一部、石垣の跡が残されています。臼井原氏の後に一時期使用していた酒井氏時代の遺構なんでしょうか。

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↑【本郭の北にある腰郭】

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↑【搦め手の虎口?】
本郭の隅にある稲荷社から腰郭に降りる道。いかにも虎口っぽい造りに見えてしまうので、往時は搦め手として使われていたのかも?まあ、後世の改変かも知れないんですけど。

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↑【三郭に残る太田資忠の墓と妙見社】
三郭は宅地化されてしまっているので、殆ど痕跡は残されていなさそうな感じです。写真左は享徳の乱の際に臼井城攻めで討ち死にした太田道灌の弟の太田資忠のお墓。写真右は千葉氏系の城郭でおなじみの妙見神社。

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↑【三郭の堀跡】
妙見神社からちょっと奥に進むと、三郭の堀の跡が残されています。雰囲気的には、なかなか幅広の堀だったみたいですね。



■臼井田宿内砦

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↑大まかな概略図。

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↑【残されている堀や土塁】
臼井田宿内砦は臼井城の南、台地から突き出した先端の台地上に残されています。写真左はたぶん堀切であったと思われる溝。幅は広いのですが、随分埋まってしまっているのか、深さはそんなにありません。写真右は空堀の横に設けられている土塁。この空堀と土塁で、侵入者を遮断していたんでしょうね。

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↑土塁の向こうには広大な平地が。一段下がった場所にも腰郭が設置されていました。



■師戸城


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↑師戸城は印旛沼を挟んだ反対側にあります。今は印旛沼公園として整備されていますし、土塁や空堀などもしっかり残されているので、なかなか雰囲気を味わえる城跡です。画像はかなり断片しか残っていなかったんですけど映像はあるので、いつか編集してアップできるといいですね。



■謙信一夜城

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↑謙信一夜城は公園に碑がたっているだけなので、本当にここに陣が築かれたのかさえ、正直判りません。ただ、碑には永禄9年(1566年)3月に臼井城を攻めた上杉謙信が構えた跡の遺構が調査によって確認されたと記されています。今は痕跡が見受けられませんが、調査まで行ったということは、なにか面影が残されていたんでしょうね。

2012年12月28日 (金)

佐倉城 【下総】

場所:千葉県佐倉市(場所)
訪問:2011年5月ほか
形態:平山城
遺構:天守台・曲輪・馬出・堀・土塁など ※戦争史跡もあわせて残ります
指定:佐倉市史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.0点)

見所:関東に残る数少ない近世城郭の跡。遺構もよく残されている一方で戦争史跡としても楽しめる良スポット。

佐倉城は江戸時代に土井利勝によって築城された近世城郭です。戦国時代に本佐倉城に本拠をおく千葉氏(馬加千葉氏)も二度にわたり当地への築城を試みましたが、どちらも途上で当主が暗殺されるという不幸があり、完成には至りませんでした。
築城にあたって石垣を用いなかったことや、天守も天守台に段差を設けて
内から見ると四段なのに外からは三段に見えるよう工夫するあたり、利勝は幕府の実力者でありながらも、自ら幕府に対する姿勢の規範を示していたように思えてなりません。

城址は廃城令による建物撤廃の後、佐倉連隊の駐屯地として使用されたため、堀が埋められるなどして一部改変されてしまいま
した。ただ、幸いなことに佐倉城は、明治初期に撮影された当時の建造物の写真が多く残っているので、往時の雰囲気を想像し易いのが良いですね。改変されたといっても、遺構は数多く残されているので、散歩がてらに結構楽しめる城跡だと思います。

あと、敷地内にある国立歴史民俗博物館も何気に凄い。日本の過去から現代に関する膨大な資料が揃っているので、ちょっと見学するつもりが3時間くらいあっという間に消費してしまってい
ました。入場料も安かったように記憶しているので、あわせて立ち寄ってみるのも良いですよ。

※Youtube・ニコニコ動画ともにデジカメ版がアップされています。ただ、いつか作り直したいと思っています。
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↑残されている佐倉城絵図。案内と比較しても、主要部を中心に比較的良く往時の形状を残していることが判ると思います。

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↑【残される空堀の数々】
本丸の周辺を中心に空堀がよく残されています。写真左は三の丸付近の空堀で、写真右は本丸一の門付近の空堀。広大で迫力大です。

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↑【本丸の一の門跡】

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↑【本丸に残る角櫓跡と銅櫓跡】
写真左は本丸虎口を監視していたであろう本丸角櫓跡。写真右は銅櫓跡。

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↑【建物の痕跡】
本丸には門跡や櫓跡以外にも、土塁上に建物の痕跡が残されています。佐倉城の遺構ではなく、駐屯地時代の遺構かもしれませんが。

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↑【天守台】
天守に関しては冒頭でも説明しましたが、段差を利用した三層四階という構造でした。写真右は資料室に展示してあった模型。復元云々の話もあるみたいですが、あまり余計な手は加えないほうがいいような・・・。

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↑【移築現存門】
本丸の北西にある出丸に設置されている現存門。城内のどこで使用されていた門なのかは不明です。

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↑【外堀】
本丸の裏側は二箇所の出丸や帯郭、水堀なども残されているので、ちょっとした散策気分を味わえます。

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↑【外堀沿いの土塁】
三の丸の西、外堀沿いに設けられた土塁跡です。この土塁も規模が大きくて良い雰囲気。

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↑【見張り台から望む景観】
三の丸の隅には見張り台のような土壇が残されています。見晴らしはまあまあかな。

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↑【戦争史跡】
佐倉城は戦争遺構も多く残されています。写真左は十二階段で写真右は便所跡。


周辺住民の方々の健康意識が強いのか、いつ訪問しても散歩中の方が沢山いらっしゃるんですよね。そこそこの大きさがある城址なので、ぐるっと一周するとちょうどいい感じの運動になるのかもしれません。

2012年12月26日 (水)

本佐倉城 【下総】

場所:千葉県印旛郡酒々井町本佐倉(地図)
訪問:2012年12月
形態:平山城
遺構:櫓台・曲輪・空堀・土塁など
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★★(8.0点)

↓※2013年9月に内容を修正しました。
本佐倉城は下総にて戦国末期まで永らく栄えた千葉氏(馬加千葉氏)の居城として使用されていたお城でした。

千葉氏は桓武平氏(房総平氏)の系統で興りは古いですね。
平安時代、平良文の子孫である平常長が大椎に館を構え、常長の次男である平常兼は千葉郡にあった千葉荘に移り、千葉大介と号しました。これが千葉氏の始まりとされています。

ちなみに常長の跡は長男の常家が継ぎましたが、この常家が嗣子を残さずに亡くなったので、常長の五男である常晴が常家の養子になって家督を継承しました。この系統は上総氏となって上総や下総に大きな勢力をもち、源頼朝の挙兵に応じて数々の武功をたて活躍しますが、諸々のことから頼朝に嫌われて粛清をうけ、滅ぼされてしまいました。

上総氏が粛清されると千葉氏は下総守護を拝命し、その勢力は上総にまで及びました。一族は元寇で九州に下向した九州千葉氏を始め、鎌倉時代に越中守護を務めた椎名氏・安房の安西氏・美濃の東氏など下総周辺に留まらず各地に派生し、また、原氏・高城氏・相馬氏・大須賀氏・下総国分氏などが千葉氏系統として下総周辺に勢力を張っていました。

室町時代になると関東では上杉禅秀の乱を皮切りに大乱が続けて発生しますが、享徳の乱が始まると千葉家中で管領上杉派(円城寺氏)と古河公方派(原氏)の対立が激化し、管領上杉側についた千葉宗家を馬加氏と原氏が攻撃。千葉宗家は居城である亥鼻城を追い出され、その後に立て篭もった多古城も落城して自決。こうして千葉宗家は滅ぼされてしまいました。

千葉宗家を滅ぼした馬加氏ですが、これを良しとしない将軍・足利義政によって美濃より下向してきた東常緑に攻め滅ぼされます。

千葉氏は、千葉宗家の流れを汲む千葉実胤(武蔵千葉氏)が継承できるように、東常緑や太田道灌が支援を行いますが、下総では馬加氏の流れを汲む岩橋輔胤が亥鼻城に変わる本拠として築城した本佐倉城に篭って頑強に抵抗していました。
この活動は太田道灌が臼井城を落城させるなどして一定の成果を見せますが、武蔵千葉氏の力量不足によってなかなか実胤の下総復帰はかなわず、頼みの太田道灌の死によって復帰の望みは完全に潰えてしまいます。
以降、武蔵千葉氏は台東区にあったとされる石浜城城主として存続していきました。

こうして千葉氏は馬加千葉氏(下総千葉氏)が継承しますが、勢力はそれなりに維持しつつも、前述の内紛によって勢いは完全に失ってしまいました。そういったことは上総中南部にて勢力を伸ばした真里谷武田氏に小弓城を奪われたりしたことなどで垣間見ることができますね。
武蔵にて管領上杉家を破った後北条氏などはさらに強烈で、馬加千葉氏は徐々にその影響下に組み込まれていくことになります。

1590年の小田原征伐で千葉氏は後北条氏とともに滅亡しました。
千葉氏亡き後の本佐倉城には土井利勝が入城して佐倉藩の本拠が置かれますが、利勝はしばらくすると鹿島の地に佐倉城を築いて、本拠を移動してしまいました。


千葉県内の城郭史跡で国の史跡に始めて認定された場所というだけあって、史跡の残存具合はなかなかのものです。城域も何気に広大で、外郭や出城である向根古谷城なども見学していると結構な時間を消耗してしまいます。
酒々井町役場にお願いすればガイドさんもつけていただけるとのことなので、未見の方はお願いしてみるのも良いですよね。意外な裏話を聞けるかもしれませんし。

※ニコニコ動画にはアップロードした動画があるんですが、デジカメ版なのでいつか作り直します。
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↑印旛沼周辺の地図と千葉氏の主だった城郭。印旛沼は今は干拓事業で埋め立てられて小さく(?)なっていますが、昔は大きく「W」の文字を描くような形の、非常に広大な湖でした。
さらにいうと、この湖は現在の利根川を経由して霞ヶ浦や北浦、牛久などとも繋がっていて、巨大な内海を形成していたと考える流れもあるみたいです。
こう見ると往時の本佐倉城は湖に面したお城で、臼井城などとは自由に船で行き来できたのかも知れませんよ。
【2013年9月に追加】

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↑【現地にあった概略図】
現在、低地は田んぼになっていますが、往時は図のように広大な湿地が主要部の周囲を取り囲んでいて、水堀の役目を果たしていたんでしょうね。

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↑【北東方面からの遠視】
上の案内図でいうと右上の方面から本佐倉城を見ている感じです。

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↑【東山馬場】
駐車場のある東山馬場(五郭)と四郭の間には月星紋の描かれた盾が設置してあります。

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↑【四郭(城ノ内)】
虎口を抜けて四郭に入ると、調査のためにあちこち掘られていました。本佐倉城も、ちょっと前に報告会があったみたい。来年も開催されるのなら参加してみたいですね。

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↑【二郭(奥ノ山)】
二郭にあたる奥ノ山には妙見宮が建てられていました。

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↑ちなみに妙見神社は移設されて、ちゃんと残されています。

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↑【主郭虎口】
主郭である城山に入るための城山通路と虎口。虎口は枡形のような形状になっています。

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↑【主郭(城山)】
今回、城山の画像を撮り忘れてしまったので、以前撮影した画像で代用します。内部は調査によって判明した建物や池などの造形物跡を、解説とあわせて立て札とロープで丁重に再現してあります。こういうのって非常に有難いですよね。往時を想像し易くなるので、本当に助かります。

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↑【六郭(東光寺ビョウ)】
北側にある東光寺ビョウ(六郭)という名称が残る郭。この東光寺ビョウには二箇所の虎口が確認されています。

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↑【東山虎口と南奥虎口】
写真左が東山虎口で、写真右が南奥虎口です。両虎口とも門跡が発見されていて、東山虎口は枡形を形成していました。

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↑【巨大な堀切】
南虎口は倉跡(三郭)とセッテイ山(七郭)の間の堀に繋がっています。この堀は巨大ですし、折も設けられていて迫力十分なんですけど、画像だと雰囲気を伝えづらい・・・。

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↑【七郭(セッテイ山)】
名前から連想されるのは、やはり接待場所として使用されていたと考えるのが妥当ですよね。周囲の低地が湿地というか水堀だったとすると、本佐倉城の主要部へ向かうには、台地続きのセッテイ山に大手道が続いていたのではないかと思われます。接待場所だったとしても従者などの待機所なのか、はたまた歓待に使われたのかは判りませんが・・・。写真右は金明竹。付近ではこの辺りしか自生していないみたいです。

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↑セッテイ山の周囲は巨大な空堀や土塁が残されていて、城内でもお勧めのスポットです。

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↑【セッテイ山の虎口】

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↑【八郭(荒上)】
本佐倉城の外郭ともいえる荒上(八郭)。

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↑【向根小屋城】
本佐倉城の南側台地の先端部分に築かれている向根古屋城(Ⅸ郭)。写真左は向根古屋城の1の堀で、台地続きの城内の守備を意識してか、非常に広大な堀になっています。写真右は馬出状のⅡ郭に残されている土塁。土塁はⅠ郭に建てられている神社の脇にも残されていました。




↑ニコニコ動画にアップ済みのデジカメVerです。よろしければどうぞ。

2012年12月24日 (月)

戸倉城 【武蔵】

場所:東京都あきる野市戸倉(地図)
訪問:2011年12月
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:なし
駐車:登城口にある八雲神社もしくは光厳寺の駐車場
満足:★★★★★★☆☆☆☆(6.0点)

戸倉城は武州南一揆の一員である小宮氏が居城としたことから小宮城とも呼ばれていたみたいです。16世紀に入ると、北条氏照に家督を譲った大石定久の隠居城として使用され、甲斐方面からの防衛の要である檜原城と、氏照居城のパイプラインとして使用されました。
現在の訪問口は主に二箇所で、大手とされる八雲神社から目指すルートと、搦め手っぽい光厳寺方面から目指すルートがありま
す。車で来訪した場合、八雲神社側は駐車スペースがそんなになかった印象なので、光厳寺からのルートを選択したほうが無難かも。

※動画はまだ作成していません
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↑戸倉城の概念図。
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↑遠視。
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↑光厳寺。背後にそびえるのは戸倉城です。
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↑光厳寺の脇から戸倉城を目指します。しばらく歩くと尾根筋にぶつかるんですが、その合流点は、なんとなく木戸だったっぽい雰囲気をしていました。
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↑始めは緩やかな尾根道も途中から急に傾斜がきつくなります。最後は岩盤を直登りしなくてはなりません。
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↑岩盤を登るとこんな感じで物見にはぴったりです。絶景も拝めます。
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↑本郭。
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↑本郭の下には石垣が組まれていますけど、これは遺構じゃなさそうな感じ。
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↑さらにその下には枡形が設けられています。
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↑概念図を見ても判るとおり、細尾根なので平地は殆どありません。
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↑出丸。
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↑もうひとつの登城口である大手道を使って降りていくことにします。写真右は途中にあった支尾根。ここから大手を監視でもしてたんだろうか。
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↑ある程度降りてくると、道はほぼ直線に。これはじわじわと体力を吸い取られそうで、疲れそうな感じですね。写真右は麓の八雲神社です。
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↑麓の三島神社に設置してあった案内。発見されている文書などに関して、説明が記されています。



2012年12月23日 (日)

12/23訪城報告

今日は久々に本佐倉城、佐倉城、臼井城を回ってきました。
本佐倉城は調査が鋭意、進行中みたいですね。Ⅳ曲輪のあたりが真っ最中って感じでしたよ。来年もあるなら報告会に参加しなくてはいけないです。

動画だとこの中で作成していないのは臼井城だけですね。
臼井城は師戸城とか臼井田宿内砦もあわせて編集するつもりでとってあったんですけど、本当にできるんかな。
良城跡だし、頑張ってみたい・・・。

2012年12月22日 (土)

辛垣城 【武蔵】

場所:東京都青梅市(地図)
訪問:2011年12月
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など ※採石場の遺構も混在
指定:なし
駐車:海禅寺さんの駐車場に駐車させていただきました
満足:★★★★★★☆☆☆☆(6.0点)

上杉謙信の小田原攻めの際に越後勢に加勢し、謙信撤退後も越後方だったため八王子の北条氏照に攻め込まれた三田氏が最後に立て篭もっていたのが、辛垣城です。
いまでも山深くて険しい場所なのに、よくこんな場所に城を構築したものだなと思うと同時に、よく攻略したなと感心すること
しきり。
江戸時代以降は採石場になっていた関係で一部遺構が破壊されてしまっていますが、厳しい山城の面影は十分に残されているの
で、十分に楽しめました。破壊場所も採石場の遺構として考えれば、結構見応えありますしね。

※ニコニコ動画版は動画検索にあるマイリストからお願いします。
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↑辛垣城のある辛垣山はハイキングコースの一角にあります。お城を訪問する目的なら二俣尾駅から向かうのが良いと思いますよ。
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↑辛垣山のそばにある道案内。ここまでくればもう少しです。
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↑本郭に向かうにはルートは通常のハイキングコースとは別にあります。
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↑遅ればせながら縄張り図。
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↑ところどころに曲輪も通過しますが、基本は細尾根を進んでいく感じです。
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↑主郭の近辺まで登ってくると大迫力の切通しの通路が。
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↑内部に入ると周囲は石壁に囲まれた空間になっています。砕石によって削られてこうなったんでしょうけど、これはこれでなかなか面白いです。石壁の上から覗き込むと、また迫力が違いますよ。
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↑外側にも腰曲輪のような場所が見られます。
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↑そのまま石壁の上を進んでいくと山頂に到着します。
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↑反対側にも堀切っぽい場所など、遺構と思われるものが散見されます。
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↑支尾根の残る曲輪2。
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↑こちらは曲輪4。採石された石を降ろすのに使用していた建物の跡なんでしょうか。
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↑居館跡だと伝わる海禅寺には三田氏のお墓も残されています。


2012年12月20日 (木)

勝沼城 【武蔵】

場所:東京都青梅市(地図)
訪問:2011年12月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・馬出など
指定:東京都指定史跡
駐車:なし ※光明寺の駐車場に駐車させていただきました
満足:★★★★★★☆☆☆☆(6.5点)

【概要】※Wikipediaから転載
勝沼城は三田氏により築かれた平山城。築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として16世紀半ばまで用いられた。三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城になったと考えられている。

一部の曲輪が妙光院の墓地に転用されていますが、全体的には台地上に空堀や曲輪跡がよく残されていて、雰囲気を楽しめる城
跡です。周囲一帯が歴史環境保全地域に指定されているおかげもあるんでしょうけど、そのことで妙光院側が敏感になってしまっているんでしょうかね。墓地周辺にそんなことを窺わせるものがいくつか見受けられました。まあ、騒いだりしなければ大丈夫だとは思うんですが・・・。

※動画はまだ作成していません
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↑設置されていた案内。
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↑今回は光明寺さんの駐車場をちょっと拝借して、墓地裏から訪問しました。写真右の横堀から城内に入ります。
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↑残されている主要な曲輪は4つでしょうか。保全地域内の曲輪は下草も少ない場所が多かったので、全体的に見易かった印象です。写真左は「関東の名城を歩く」に掲載されている縄張り図でいうと2曲輪で、写真右は3曲輪になります。
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↑勝沼城には横堀と馬出が比較的良好に残されているのですが、特に横堀が一番の見所かも。これは2曲輪の横堀。
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↑その横堀の近くには腰曲輪のような平地も見られます。
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↑これは1曲輪の南のある横堀。一番雰囲気があるので、よく城址紹介の本やブログで使用されているのを見かけますね。
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↑1曲輪の南側にある馬出。
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↑これは1曲輪と2曲輪の間にある馬出なんですけど、ちょっとわかりづらいですよね。真ん中の窪みがたぶん堀で、その左のうっすら盛り上がってる場所が馬出です。
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↑3曲輪の横堀。
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↑1曲輪は完全に墓地化しているので、見学は静かにおこないましょう。



2012年12月18日 (火)

今井城 【武蔵】

場所:東京都青梅市今井(地図)
訪問:2011年12月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:青梅市指定史跡
駐車:なし
満足:★★★★★☆☆☆☆☆(5.0点)

資料が乏しいために歴史は殆ど判明していないみたいですが、空堀や土塁などがしっかりと残されている貴重な史跡です。三田氏の居城だった勝沼城が結構近くにあることから、その支城として機能していたのかもしれません。

※動画はまだ作成していません
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↑遠視。
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↑外郭から見た今井城。この奥に主郭や二郭の遺構が残されています。別に公園として整備されている訳では無いのですが、周囲は住宅街に囲まれているので、住民の方には憩いの場所として使用されているのでかもしれませんね。あと余談ですが、地面が白っぽいのは霜で凍結しているせいです。
 
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↑二郭に続く土橋。
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↑二郭。
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↑主郭や二郭の周囲を廻る空堀。鮮明に保存されていて、なかなか迫力大です。
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↑主郭。南西側が崩落してしまっていますけど、往時はそのあたりに虎口があったと考えられているみたいです。
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↑主郭の北に残る細長い郭。主郭側に土塁のような土壇が残されているんですけど、どのような役割を担っていたんでしょうかね。

2012年12月17日 (月)

烏山城の動画をアップロードしました

烏山城の動画編集が終了したので、Youtubeとニコニコ動画に動画をアップロードしました。
いろいろあって大変だったけど、なんとか無事にいけましたね。

※ニコニコ動画はマイリストに追加してあるので、動画検索にあるリンクからお願いします。

西城のあたりはグダグダかも知れないのであれですけど、自分は結構ああいう散策感のある動画が好きなので、あえて加えてみました。
楽しんでいただけるといいですね。

2012年12月16日 (日)

根戸城 【下総】

場所:千葉県我孫子市根戸(場所)
訪問:201111
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:不明
駐車:なし  ※お話して車を付近に停めさせていただきました
満足:★★★★★(5.5)
見所:裏山に残された雰囲気のある遺構

20141月に記事の修正を加えました。

根戸城に関する資料が少ないことから詳細はわからないみたいですが、太田道灌が築城したなんていう伝承も残されているみたいですね。太田道灌となると千葉家内訌に介入した際ということになるんでしょうけど、位置的には相馬郷だったと思われるので、相馬氏一族が当地に入って根戸氏と称したという話のほうがしっくりくるのかな。

台地先端の突端部に構えられていたみたいで、台地の南には手賀沼が存在します。

明瞭に確認できる曲輪は2つですし、趣的にはちょっとした小領主の居館(居城)といった感じでしょうか。曲輪内の藪刈はしっかり行われていて、苦労することなく遺構を楽しむことができました。横堀もなかなか雰囲気あって良い感じ。

↓以下、以前作成した記事です
相馬胤光が築城して居城とし根戸氏と名乗ったという話や、太田道灌が築城したお城という話もある根戸城です。小規模ながらも曲輪や堀が明瞭に残されている良史跡でした。
あと、場所が住宅のすぐ裏手になるので、訪問する際は注意したほうが良いのかもしれません。住民を見かけたら、声かけなど
を忘れずに。

発掘調査も行われたみたいで、「あびこ電脳考古博物館」というサイトに縄張りも掲載されていました。調査結果は特に明記がなかったですけど、なにか発見でもあったんでしょうかね。気になります。

※動画はまだ作成していません
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 ↑作成した根戸城の簡単な概略図。

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↑主郭の裏というか、根戸城の東端には見張り台のような土壇が残されていました。ここからは手賀沼が良く見渡せます。

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↑主郭の周囲を廻る空堀。良い感じで残されています。

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↑主郭。土塁が周囲を覆っています。手入れも行き届いているので、非常に有難いですね。

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↑主郭の土橋。
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↑二郭。ここも西側には土塁が。

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↑二郭の空堀。

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↑二郭の先には外郭でも設けられていたんでしょうかね。

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↑訪問する際は、皆この道を歩いてくるのかな?自分は許可をいただいて民家の裏からあがってきてしまったので、容易に訪問することができましたが。

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↑主郭の南側にある腰曲輪。

2012年12月15日 (土)

ただいま烏山城の動画作成を目指して作業中

最近、ぼちぼちの速度ですが、烏山城の動画を編集して作成しています。
今までの動画に使用していたタイトルやテロップなんかは全て失ってしまったので一からの作業になってしまっていますが、環境が良くなったので作業自体は快適な感じ。
明日中のアップロードを目標に、できるだけ頑張るつもりです。
それにしても寒い・・・

2012年12月14日 (金)

増尾城 【下総】

場所:千葉県柏市増尾(場所)
訪問:201111
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:なし
駐車:
満足:★★★★★(5.0)
見所:なかなかしっかりした土塁を見学することができます

20141月に記事の修正を加えました。

大正時代に編集された書において小金城を本拠とする高城氏の支城で平川若狭守が城主だったと推測されているみたいですが、これ以外に資料が確認されていないので、実際のところは不明といった感じでしょうか。

付近は相馬御厨と呼ばれる荘園の領内であることから、もしかしたら古くは相馬氏関連の城跡だったということも考えられますね。

台地の突端部に位置していて、台地下にあたる南側は大津川の分流が天然の堀を形成しています。城址公園の中に厚手の土塁と横堀がしっかり残されていて、雰囲気はなかなか良いですね。
台地続きとなる主要部の西側にも遺構が残されているかもしれませんが、未確認なので不明です。

↓以下、以前作成した記事です。

資料が乏しいので細かい歴史はわからないみたいですが、戦国時代は高城氏家臣の平川若狭守が城主であったと推察されているみたいです。
舌状台地に築かれた小規模なお城ではあるのですが、土塁や空堀がしっかり残されているので、個人的には楽しめました。

※動画はまだ作成していません
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 ↑作成した増尾城の簡単な概略図。

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↑公園の案内に掲載されていた縄張り図。こういうのは有難いですね。
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↑駐車場から登ってすぐにある副郭の空堀。写真中央の張り出しは櫓台とされている場所です。

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↑副郭の虎口。副郭までは櫓台の脇を抜けていかなければならず、厳重な構えになっています。

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↑副郭。土塁がよく残されています。

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↑主郭。副郭とは土塁で仕切られているだけで、副郭からの虎口にはこれといった工夫の跡は見受けられません。東側のみ土塁が残されていないのですが、これは崩れてしまったからなのかな?

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↑主郭の北側にある腰曲輪。搦め手を守る小口曲輪といったところでしょうか。

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↑西側の帯曲輪。

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↑帯曲輪の向こうは広大な谷戸です。昔は湿地帯とかだったんでしょうか。

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↑城跡は公園の敷地内に取り込まれる形で残されています。

2012年12月12日 (水)

小田城の調査説明会(2012)

小田城メインページ
2013年の様子

昨年に続いて今年も小田城の現地説明会に参加してきました。前日に宮城県で震度5の地震が発生したりしたのでどうかと心配
したのですが、快晴の中で無事の開催です。

小田城に訪問したのは昨年の説明会以来だったのですが、訪問してみるといつも駐車場に使用していた本丸北側は、重機を導入しての整備作業中。本丸西側の曲輪(曲輪Ⅴ)が駐車場として使用され、受付も設置されていました。
本丸内は引き続き立ち入り禁止になっていましたが、南西馬出は綺麗に整備されて立ち入り可に。着々と整備が進行していきま
すね。本丸北側には縄張り図などによく描かれている丸馬出も復元されるみたいなので、次回訪問も楽しみです。

それでは本題に移りましょうか。今年の調査報告の主要な内容は、googleearthを利用してちょっとまとめてみました。

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ざっとこんな感じですかね。
詳細は↓の現地に展示してあった調査範囲の資料にて確認してみてください。


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続いて各ポイントの説明です。

A:本丸の南西虎口跡

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石垣や礎石が出土していますが、現行展示してあるのはレプリカです。
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石垣には灯篭の部材や石仏なども転用されていたみたいで、そのあたりもしっかりと再現されていました。


B:曲輪Ⅳの新虎口と土塁の発見


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新たに土塁跡が確認されて、あわせて曲輪Ⅳへの虎口も見つかりました。この虎口前の小スペースは曲輪Ⅳの他にも南西馬出や南側の曲輪と繋がっているので、守備の重要なポイントになっていたのではないでしょうか。


C:新発見の曲輪①


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削られてしまって消滅していますが、曲輪Ⅹとその外の曲輪の間に馬出のような小曲輪があったことがわかりました。馬出と外の曲輪の堀には障壁が設けてあったみたいで、障壁に使用されていた石材(これも灯篭の一部なんだとか)が発見されています。


D:障子堀


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昨年は水没して視認できなかった畝。ようやく確認することができました。写真左は資料で言う⑦、写真右は⑩です。志田曲輪(Ⅸ)や南西馬出の周囲からも障子堀が確認されているので、小田城の堀はほぼ全域にわたって障子堀だったのかもしれませんね。


E:新発見の曲輪②


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こちらにも現在は削られてしまっていますが、細長い曲輪跡が確認されました。写真右は古絵図なんですが、一応は絵図が裏付けられたということになるんでしょうね。

■発掘された品々

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今回はそんなに多くなかったみたいです。それにしても木製品が見つかるっていうのは凄いですよね。水堀に廃棄されたものがうまい具合に残ったって事らしいんですけど、たいしたもんです。


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最後は綺麗に歳暮された南西馬出。調査案内も展示してあるので、面白いですよ。

小田城のメインページ
現地説明会(2013年)

2012年12月 9日 (日)

茂木城 【下野】

場所:栃木県芳賀郡茂木町茂木(地図)
訪問:2012年11月
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・井戸など
指定:町指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★☆☆☆☆(6.5点)

【概要】※Wikipediaから転載

茂木城は鎌倉時代前期に築城された。1556年に佐竹氏に攻められ茂木氏はこれに臣従、以後佐竹氏の影響下に入り、1585年には北条氏・結城氏らの連合軍によって1度は城を落とされているが、佐竹氏の援軍を得て奪回している。1597年(慶長2年)に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると同時に廃城となった。

同じ栃木県の皆川城も巻貝状に曲輪が造られていて変わった構造をしていますが、この茂木城もコの字型に主要な曲輪を配置した、他では見たことのない構造をしていて面白いです。
城址は公園として整備されているので、気軽に城内を散策して楽しめます。江戸時代のちょっと前に廃城になったお城の割には雄大な空堀が残されていますし、なかなか迫力があって良かったかな。

※動画はまだ作成していません
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↑現地案内に掲載されていた平面図。
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↑大地下から。目立つので、付近までいけば茂木城の場所はすぐにわかるかと思います。
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↑比高差は80mほどらしいのですが、台地上まで車道が続いているので車で乗り入れることができます。これは駐車場から見た本丸。
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↑本丸から見た城内。正面が千人溜りで池跡も残されています。この千人溜りをコの字で囲むかのように、左手の二の丸や正面奥に三の丸と配置されていて、独特な構造をしていますよね。なかなか面白いです。
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↑本丸と二の丸の間にある堀切。見ての通りでなかなかの規模です。その堀切の先にあるのが、写真右の小曲輪です。本丸の南西に位置するこの小曲輪。往時は本丸の裏手を監視する役割でも担っていたんでしょうか。
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↑昔からこうなんでしょうか。城内には湿地も多く存在しています。写真右は「鏡が池」。これという池や井戸跡ではお約束の姫の身投げ伝説が残されているみたいです。でも岡本城の枡ヶ池、あそこはガチで・・・
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↑二の丸。
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↑二の丸と三の丸を隔てる堀切。ここも結構な規模で迫力はあるのですが、如何せん藪が凄い。この堀切はそのまま三の丸を囲む形で続いているみたいです。
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↑南東にある出丸の堀切には折が残されています。ちなみに現在は鉄の橋が架けられていますが、ここは調査で橋の痕跡が確認された場所みたいです。裏付があるというだけで、何か嬉しくなってしまう。
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↑展望台。
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↑大手。昔は道がわかったみたいなんですが、今は藪が酷過ぎてとても歩くのは無理とのことでした。なんでもかなりの急坂だったみたい。


散歩中の地元の方がいろいろと案内して教えて下さいました。地元ならではの情報が聞けるので、こういうのは本当に有難いですね。


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↑紅葉です。茂木城公園は桜や彼岸花など、季節の時々にあわせて楽しめる場所になっているみたいですよ。

2012年12月 8日 (土)

PC復旧&訪城の報告

前PCの内臓HDDも移設を終えたので、環境としてはかなり復旧させることができました。
XPからWin7ですし、SSDのお蔭で処理速度もパワーアップ。環境はすごく便利になりましたね。

今日の午前中は小田城の説明会に参加してきたんですけど、その時点では内臓HDDの移設を終えていなかったので、せっかく参加したのに心ここにあらず。なので、写真や映像にてなるべく多く記録することに専念していました。
小田城は昨年の説明会以来の訪問になりますけど、整備は着々と進行しております。調査は本丸の南側に専念している模様で、
北側で整備できるところは工事真っ最中。縄張り図なんかによく記載されている丸馬出も復元されるみたいです。
説明会での内容は改めてブログ更新でやりたいと思います。どこまで解説できるかは微妙ですが・・・。

2012年12月 6日 (木)

千本城 【下野】

場所:栃木県芳賀郡茂木町千本(地図)
訪問:2012年11月
形態:山城
遺構:曲輪・馬出・枡形・空堀・土塁・土橋など
指定:県指定史跡
駐車:有 ※城内二の丸もしくは入り口付近にある水道施設
満足:★★★★★★☆☆☆☆(6.0点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
千本城(せんぼんじょう)は、下野国に存在した城。建久年間に千本為隆が築城したとされる。以来千本氏の居城となった。戦国時代には宇都宮氏の調略にかかった千本資俊が那須高資を誘殺した舞台となってもいる。資俊が後に子の千本資政とともに謀殺された後は、茂木氏から養子に入り千本氏を再興した千本義隆の居城となった。

国道294号沿いに案内の標柱でもあるのかと思って油断していたら、無かったので千本城を見つけるのに少し手間取ってしまいました。訪問する前は事前にgooglemapで地形や周囲の状況をみて、周辺の状況や車の駐車場所を確認したりするんですけど、ここはgooglemapを見ても地形図が真っ白なんですよね。上空写真は見れますけど、行ったことが無いので正確な場所がつかめない。ただ、事前に調べた感じだと案内とかが設置されていそうな雰囲気だったので油断しちゃいました。ローラー作戦で何とか見つけることが出来たんですけど、今後は気をつけないといけないですね。
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見所は本丸の馬出と展望台からの絶景でしょうかね。馬出はコの字型のスロープになっていて、なかなか珍しい形状なんじゃないかと思いました。あと、巨大な堀切の向こう側にある展望台。ここからの景色はかなり良いです。お立ち寄りの際はお見逃し無く!
※動画はまだ作成していません
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↑縄張り図。
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↑ローラー作戦でようやく見つけた千本城の案内。ここからしばらく千本城の脇を走る細道を走っていくと、少し開けた場所に水道局かなにかの施設が建てられています。車はそこに駐車すると良いでしょう。
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↑現在の千本城の入り口。というか大手虎口ってことで良いのかな?枡形のような形状になっています。
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↑屋敷跡とされる曲輪は段差によって上下二段に分けられています。写真左が手前の屋敷跡で写真右が奥の屋敷跡。
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屋敷跡の段差に残されている土塁。
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↑二の丸虎口。
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↑二の丸。簡易トイレも用意してあったので、本丸にある羽黒神社を訪れる方は、たぶんここに車を停めているのでしょう。
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↑本丸から見た馬出
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↑その馬出にはコの字型にスロープが設けられています。ここも枡形の役割を担っていたんでしょうかね。
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↑本丸虎口にたたずむ鳥居。真新しい鳥居だな~なんて見ていたら、"平成24年10月吉日建立"と明記されていました。
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↑本丸の羽黒神社。
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↑本丸の東側には並列するような形で腰曲輪が設けられています。
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↑その腰曲輪とも繋がっているのですが、羽黒神社の裏側というか最北端には堀切がありました。
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↑入り口まで戻って冒頭の虎口と別の道を進むと展望台に向かえます。写真は千本城と展望台の間にある堀切。
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↑展望台からはパノラマで絶景を楽しめます。ワイドも撮影したんですけど、結合に失敗してた・・・。


2012年12月 5日 (水)

やっぱり・・・

一時復調したかに見えたPCですが、翌朝にはすぐにその凶暴な本性を剥き出しに襲い掛かってきました。
やっぱりOSというかもっと中枢に原因があったんでしょうね。即効で爆死です。

グラボを差し直したり、一縷の望みにかけたんですけどね。マザーボードが逝っちゃってるんだろうか・・・。起動しても直に強制終了。完全にオワタ。

今はPen4の予備マシンで凌いでいます。早くツクモのBTOPc、届かないかなぁ。

2012年12月 4日 (火)

烏山城 【下野】

場所:栃木県那須烏山市(場所)
訪問:2012年11月
形態:山城
遺構:建築物(移築)・曲輪・枡形・空堀・土塁・土橋・井戸・石垣など
指定:なし
駐車:寿亀山神社の脇に駐車しました
満足:★★★★★★★☆☆☆(7.5点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
応永25年(1418年)、下那須家初代那須資重によって築かれ、永正11年(1514年)の下那須家滅亡まで下那須家の居城、那須氏統一後は、那須氏の居城として使われた。
戦国時代には、佐竹氏により度々攻撃対象とされ、永禄6年(1563年)の大海の戦い、永禄9年(1566年)の治部内山の戦い、永禄10年(1567年)の大崖山の戦い、霧ヶ沢の戦いなど、何度か城下まで攻め込まれているがいずれも退けている。天正18年(1590年)、那須資晴の時、那須氏が改易され織田信長の次男・織田信雄が入城。2カ月間、城主を務めた。
江戸時代には、烏山藩の政庁となり短期間に城主が交代した。成田氏・松下氏・堀氏・板倉氏を経て、天和元年(1681年)、那須資祗が2万石で旧領に復帰するが、貞享4年(1687年)、子の那須資徳の時、改易。以後、永井氏・稲垣氏を挟み、享保10年(1725年)、大久保常春の入封後は、大久保氏が城主を務め、明治2年(1869年)、版籍奉還と共に廃城となった。明治5年(1872年)には、積雪によって三ノ丸御殿が倒壊、明治6年(1873年)には、失火によって、古本丸、二ノ丸、中城、北城の建物を焼失した。

那須与一を輩出した那須氏の居城であり、その後は近世城郭に改修されて烏山藩の藩庁として明治まで存続した烏山城。関東では希少な、石垣の残る山城です。
直接城内に向かう道は七曲り道・十二曲り道ともに整備されているので、そんなに苦労なく訪問できる城跡だと思いますよ(比高差は100mほどある場所なので、その割にはという意味です)。
遺構は曲輪や堀など基本的な遺構は勿論のこと、石垣のほかに門の礎石なども残されていて、コースに沿って歩くだけでもお城の雰囲気を楽しめるかな。ただ残念なのは、比較的広範囲に遺構が残されていながら、ハイキングコースから外れると藪という場所が多いことですかね。
特に西城などがある烏山城の西側地区。ここには曲輪だけでなく、横堀が良好な感じで残されているのでちょっとした冒険感覚で歩いてみることをお勧めします。曲輪は藪で凄い場所もありましたけど、横堀は比較的歩きやすいので、往時の山城の雰囲気を楽しめますよ。

古本丸で発掘調査が行われたことは事前調査で知っていたのですが、現在は本丸(旧二の丸)付近で発掘調査が行われています。たまたまなんですが、訪問日前日に調査説明会が行われたみたいで、本丸に至る途中の虎口を中心に石垣などの遺構をはっきりと見学することができ、ある意味ラッキーでしたね。
あと、史跡認定をもらうために現在は尽力中とのこと。案内板も以前からあるみたですし遺構も残されているのに、後は何が必要なんでしょうかね?私有地などの絡みなのかもしれませんが、なかなか面白い経歴もあることですし、うまく進展していくと良いのですが・・・。
※ニコニコ動画は動画検索のマイリストからお願いします。
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↑現地案内板の縄張り図。ちなみに、登城路である七曲りと十二曲りは近世城郭のときに整備されたルートみたいです。那須氏が所有した中世城郭の時代の大手は別の方角だったとか。
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↑烏山藩の中心だったと思われる三の丸。往時は御殿が建てられていたみたいなんですが、明治5年2月の大雪で倒壊し、取り払われたとのこと。(写真右)三の丸の内部は段差が設けられていて、そこそこ広いです。井戸跡っぽい窪みもあったんですけど、たぶん違うんだろうな。
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↑七曲り登り口と七曲り道中。九十九折の道で、頭上からは常に攻撃を受けそうな感じ。こういう構造、大好きです。
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↑石片をたまに見かけました。遺構ではないかもしれないですが、気になったので掲載。
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↑下から見上げた太鼓丸。でも内部はこんな感じです。
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↑太鼓丸を過ぎると、いよいよ烏山城の主要部に到着です。往時は堀切の向こう側に常盤門があって、堀切には車橋が架けられていました。
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↑常盤門の遺構でしょうか。脇には石積みが残されていました。(写真右)常盤門内部。桝形もくっきりです。
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↑常盤門から吹貫門までの途中にも、門の礎石のような石が置いてありました。いや、たぶん剥落した石垣が丁度良く残っただけだと思うんですけど、あまりに絶妙なんで掲載。
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↑吹貫門周辺に残る石垣。昨年は3.11や台風などによって、一部遺構の破壊が進んでしまったそうです。都留勝山城でも切岸の一部崩壊など災害の影響が残っていましたが、こういう遺構っていつ消滅してもおかしくないんですよね。なので、見れるうちに出来るだけ映像化しておきたいとは思うのですが・・・
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↑ここからしばらくは、報告会に向けて整備された本丸の紹介が続きます。まずは正門。ちなみに絵図によると正門・常盤門・桜門は櫓門だったみたいですね。
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↑正門を抜けて少し歩くと、道は右に曲がります。
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↑曲がった先にはさらに石段が続き、本丸内部に入っていくことになります。石段の跡が良く残されていますよね。何かここを見ていて、江戸城清水門の石段を想いだしてしまいました。清水門って枡形以上に、あの石段の雰囲気が良くて大好きな場所なんですよ。って今は関係ないですね(笑)
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↑本丸内部は着々と調査が進行中です。(写真右)この礎石建物跡は絵図に描かれている建物の存在を裏付ける貴重なものです。建物は廃城後もしばらく残っていたみたいなんですが、明治6年12月26日の失火で、その他の曲輪に残っていた建物も含め焼失してしまいました。
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↑隣の古本丸は土塁なども確認できて比較的ましなんですけど、その先の中城(写真左)や北城(写真右)はごらんの通り。北城の写真の左手には良い感じで土塁も残っているんですけど、たぶん判りづらいですよね。北曲輪と書かれた案内も草木に埋もれてしまっていたし・・・。
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↑十二曲りからの来訪者を制限する桜門の礎石。
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↑本丸や古本丸を烏山城の西側地区と断ち切るような感じで巨大な堀切が設置してあります。
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↑これは案内に武器庫と描かれた帯曲輪を上から見下ろした写真なんですけど、何がなんだかわかりませんね。(写真右)で武器庫に降りてみるとこんな感じ。この程度なら大丈夫かな。
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↑通路は虎口っぽく交差したり、横堀になったり。このあたりは歩きやすくて楽だったんですけど・・・
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↑この先、徐々に状況は悪化していきました。西城は藪で何がなんだかわからずじまいで、突破するのに四苦八苦しました。ビデオはしばらく撮影していたので、そのあたりの顛末は残っていると思うんですけどね。動画では一部使用するかもしれません。


自分は無理に突撃しちゃったのが拙かったですね。横堀に沿って歩く分には、たぶんあんなに苦労しなかったと思います。
ちょっとネガティヴに書きすぎたかもしれませんが、冬場ならたぶん大丈夫。ちょっとした冒険で終れるハズです。きっとね。ただ、ウエットな場所もあったし、夏場は無理ですね。絶対に近づきたくない・・・。

2012年12月 3日 (月)

PCが・・・

前々から調子が悪かったんですが、今使ってるPCのOS(Win.XP)が爆死しました。

乗り換えを考えて、データのバックアップ用HDDを接続したのがとどめになったみたい。そのHDDのBIOSの影響か、今朝は一瞬起動したものの再起動を直に余儀なくされ、後は・・・

OSが起動しない
セーフモードで起動するもすぐにフリーズして強制終了
システムの復元も途中で強制終了して失敗
起動ディスクから復元を試みるも、これも途中で強制終了してしまって失敗
C:のデータの救出を諦めて、OSのリカバリを断行
再インストールしたら、今のところは不具合解消

と、散々な目に・・・。
OSをXPで通していたのが悪かったんですかね。徐々にブラウザやら何やらで不具合(はじめはブルースクリーンエラーから)がかさんでいってこの始末。お城関係のデータは何気に逃げてるんですけど、ほかの大切な資料やデータををたくさん失ってしまいました。本当に最悪です。

次PCは自作でいこうと思ってたんですけどね。緊急事態なのでツクモのBTOPCで手を打ちました。
届いたら現PCは控えに回します。

そんな訳で、ちょっと落ち着くまで動画編集は滞ると思います。ブログはあと2本(烏山城と千本城)が作成済みなので、そこまでは更新されますね。ここしばらくは2日ごとに更新してきましたが、ちょっと間隔あけるかもしれません。

悪夢は突然やってくる。皆さんも注意したほうが良いですよ。

2012年12月 2日 (日)

前ヶ崎城 【下総】

場所:千葉県流山市前ヶ崎(場所)

訪問:201111

形態:平山城

遺構:曲輪・空堀・土塁・櫓台・土橋など

指定:なし

駐車:なし  ※開店前の店舗の駐車場を拝借

満足:★★★★(4.0)

見所:こじんまりとしながらも意外としっかり残されている土塁や空堀など

 

20141月に記事の修正を加えました。

前ヶ崎城は小金城を本拠とする高城氏の支城として築かれました。細かい歴史は判りませんが、お城は高城氏の没落にあわせて廃城になったものと思われます。

 

三方を川で囲まれた舌状台地の先端に立地していて、要害性はたっぷりです。周囲の低地も恐らく湿地だったと思われ、台地上を進撃してくる敵を阻むために大規模な堀切が設けられていました。

現在は主郭だったと思われる大地先端の周辺が残されているのみで、その他は宅地化などの影響か堀も埋められ、あまり面影は残されていません。ただ、主郭は城址公園としてよく整備されていて、一部削られているものの土塁が良好に残されています。二郭との間の堀切内には工場のような建物が建てられていますが、非常に巨大でなかなか見応えあり。

二郭以降は宅地化されたりしているのでざっとしか確認しませんでしたが、意外に痕跡が残されていたりするかもしれませんね。そのうちに再訪してみようかな。

 

↓以下、以前作成した記事です

前ヶ崎城は小金城の支城だったと考えられている城跡で、城主等の歴史はあまりわからないみたいですね。小規模ながらも公園として整備されていますし、土塁や櫓台も残されているので、そこそこ雰囲気は良い城跡でした。

※動画はまだ作成していません
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↑前ヶ崎城は小金城の支城として築かれたと考えられています。

 細長い舌状台地の先端で、いかにも要害といった感じの場所ですね。

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↑作成した前ヶ崎城の簡単な概略図。主郭と思われる先端は城址公園として整備されていますが、二郭以下は耕作や宅地化などの影響で、殆どの遺構は残されていないものと思われます。

 でも、こうやって見ると、面影だけはなんとなく感じ取ることができるのかな。

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↑公園の入口。脇には案内板も用意されています。
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↑公園内部。南側や東側には良く土塁が残されているのですが・・・
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↑西側はご覧の通り。土塁を確認することができません。
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↑これは西側の側面を走る道路の設置工事によって削られてしまったからみたいですね。
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↑【櫓台】
櫓台とされる土壇。この櫓台も、もっと大きかったんでしょう。
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↑主郭の周囲を廻る横堀。もしくは腰郭跡かな?
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↑その横堀の先には巨大な堀切が。
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↑現在は大きな倉庫が建てられていますが、往時のままだとすると堀切の規模はなかなかのものです。


車でしたら小金城とはそう遠くも無いですし、あわせて訪問してみるのが良いかもしれませんね。でも公園の駐車場というのは無いので、そこだけちょっと注意が必要かもしれないです。

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