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2012年12月26日 (水)

本佐倉城 【下総】

場所:千葉県印旛郡酒々井町本佐倉(地図)
訪問:2012年12月
形態:平山城
遺構:櫓台・曲輪・空堀・土塁など
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★★(8.0点)

↓※2013年9月に内容を修正しました。
本佐倉城は下総にて戦国末期まで永らく栄えた千葉氏(馬加千葉氏)の居城として使用されていたお城でした。

千葉氏は桓武平氏(房総平氏)の系統で興りは古いですね。
平安時代、平良文の子孫である平常長が大椎に館を構え、常長の次男である平常兼は千葉郡にあった千葉荘に移り、千葉大介と号しました。これが千葉氏の始まりとされています。

ちなみに常長の跡は長男の常家が継ぎましたが、この常家が嗣子を残さずに亡くなったので、常長の五男である常晴が常家の養子になって家督を継承しました。この系統は上総氏となって上総や下総に大きな勢力をもち、源頼朝の挙兵に応じて数々の武功をたて活躍しますが、諸々のことから頼朝に嫌われて粛清をうけ、滅ぼされてしまいました。

上総氏が粛清されると千葉氏は下総守護を拝命し、その勢力は上総にまで及びました。一族は元寇で九州に下向した九州千葉氏を始め、鎌倉時代に越中守護を務めた椎名氏・安房の安西氏・美濃の東氏など下総周辺に留まらず各地に派生し、また、原氏・高城氏・相馬氏・大須賀氏・下総国分氏などが千葉氏系統として下総周辺に勢力を張っていました。

室町時代になると関東では上杉禅秀の乱を皮切りに大乱が続けて発生しますが、享徳の乱が始まると千葉家中で管領上杉派(円城寺氏)と古河公方派(原氏)の対立が激化し、管領上杉側についた千葉宗家を馬加氏と原氏が攻撃。千葉宗家は居城である亥鼻城を追い出され、その後に立て篭もった多古城も落城して自決。こうして千葉宗家は滅ぼされてしまいました。

千葉宗家を滅ぼした馬加氏ですが、これを良しとしない将軍・足利義政によって美濃より下向してきた東常緑に攻め滅ぼされます。

千葉氏は、千葉宗家の流れを汲む千葉実胤(武蔵千葉氏)が継承できるように、東常緑や太田道灌が支援を行いますが、下総では馬加氏の流れを汲む岩橋輔胤が亥鼻城に変わる本拠として築城した本佐倉城に篭って頑強に抵抗していました。
この活動は太田道灌が臼井城を落城させるなどして一定の成果を見せますが、武蔵千葉氏の力量不足によってなかなか実胤の下総復帰はかなわず、頼みの太田道灌の死によって復帰の望みは完全に潰えてしまいます。
以降、武蔵千葉氏は台東区にあったとされる石浜城城主として存続していきました。

こうして千葉氏は馬加千葉氏(下総千葉氏)が継承しますが、勢力はそれなりに維持しつつも、前述の内紛によって勢いは完全に失ってしまいました。そういったことは上総中南部にて勢力を伸ばした真里谷武田氏に小弓城を奪われたりしたことなどで垣間見ることができますね。
武蔵にて管領上杉家を破った後北条氏などはさらに強烈で、馬加千葉氏は徐々にその影響下に組み込まれていくことになります。

1590年の小田原征伐で千葉氏は後北条氏とともに滅亡しました。
千葉氏亡き後の本佐倉城には土井利勝が入城して佐倉藩の本拠が置かれますが、利勝はしばらくすると鹿島の地に佐倉城を築いて、本拠を移動してしまいました。


千葉県内の城郭史跡で国の史跡に始めて認定された場所というだけあって、史跡の残存具合はなかなかのものです。城域も何気に広大で、外郭や出城である向根古谷城なども見学していると結構な時間を消耗してしまいます。
酒々井町役場にお願いすればガイドさんもつけていただけるとのことなので、未見の方はお願いしてみるのも良いですよね。意外な裏話を聞けるかもしれませんし。

※ニコニコ動画にはアップロードした動画があるんですが、デジカメ版なのでいつか作り直します。
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↑印旛沼周辺の地図と千葉氏の主だった城郭。印旛沼は今は干拓事業で埋め立てられて小さく(?)なっていますが、昔は大きく「W」の文字を描くような形の、非常に広大な湖でした。
さらにいうと、この湖は現在の利根川を経由して霞ヶ浦や北浦、牛久などとも繋がっていて、巨大な内海を形成していたと考える流れもあるみたいです。
こう見ると往時の本佐倉城は湖に面したお城で、臼井城などとは自由に船で行き来できたのかも知れませんよ。
【2013年9月に追加】

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↑【現地にあった概略図】
現在、低地は田んぼになっていますが、往時は図のように広大な湿地が主要部の周囲を取り囲んでいて、水堀の役目を果たしていたんでしょうね。

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↑【北東方面からの遠視】
上の案内図でいうと右上の方面から本佐倉城を見ている感じです。

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↑【東山馬場】
駐車場のある東山馬場(五郭)と四郭の間には月星紋の描かれた盾が設置してあります。

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↑【四郭(城ノ内)】
虎口を抜けて四郭に入ると、調査のためにあちこち掘られていました。本佐倉城も、ちょっと前に報告会があったみたい。来年も開催されるのなら参加してみたいですね。

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↑【二郭(奥ノ山)】
二郭にあたる奥ノ山には妙見宮が建てられていました。

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↑ちなみに妙見神社は移設されて、ちゃんと残されています。

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↑【主郭虎口】
主郭である城山に入るための城山通路と虎口。虎口は枡形のような形状になっています。

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↑【主郭(城山)】
今回、城山の画像を撮り忘れてしまったので、以前撮影した画像で代用します。内部は調査によって判明した建物や池などの造形物跡を、解説とあわせて立て札とロープで丁重に再現してあります。こういうのって非常に有難いですよね。往時を想像し易くなるので、本当に助かります。

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↑【六郭(東光寺ビョウ)】
北側にある東光寺ビョウ(六郭)という名称が残る郭。この東光寺ビョウには二箇所の虎口が確認されています。

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↑【東山虎口と南奥虎口】
写真左が東山虎口で、写真右が南奥虎口です。両虎口とも門跡が発見されていて、東山虎口は枡形を形成していました。

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↑【巨大な堀切】
南虎口は倉跡(三郭)とセッテイ山(七郭)の間の堀に繋がっています。この堀は巨大ですし、折も設けられていて迫力十分なんですけど、画像だと雰囲気を伝えづらい・・・。

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↑【七郭(セッテイ山)】
名前から連想されるのは、やはり接待場所として使用されていたと考えるのが妥当ですよね。周囲の低地が湿地というか水堀だったとすると、本佐倉城の主要部へ向かうには、台地続きのセッテイ山に大手道が続いていたのではないかと思われます。接待場所だったとしても従者などの待機所なのか、はたまた歓待に使われたのかは判りませんが・・・。写真右は金明竹。付近ではこの辺りしか自生していないみたいです。

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↑セッテイ山の周囲は巨大な空堀や土塁が残されていて、城内でもお勧めのスポットです。

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↑【セッテイ山の虎口】

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↑【八郭(荒上)】
本佐倉城の外郭ともいえる荒上(八郭)。

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↑【向根小屋城】
本佐倉城の南側台地の先端部分に築かれている向根古屋城(Ⅸ郭)。写真左は向根古屋城の1の堀で、台地続きの城内の守備を意識してか、非常に広大な堀になっています。写真右は馬出状のⅡ郭に残されている土塁。土塁はⅠ郭に建てられている神社の脇にも残されていました。




↑ニコニコ動画にアップ済みのデジカメVerです。よろしければどうぞ。

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