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2012年12月 4日 (火)

烏山城 【下野】

場所:栃木県那須烏山市(場所)
訪問:2012年11月
形態:山城
遺構:建築物(移築)・曲輪・枡形・空堀・土塁・土橋・井戸・石垣など
指定:なし
駐車:寿亀山神社の脇に駐車しました
満足:★★★★★★★☆☆☆(7.5点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
応永25年(1418年)、下那須家初代那須資重によって築かれ、永正11年(1514年)の下那須家滅亡まで下那須家の居城、那須氏統一後は、那須氏の居城として使われた。
戦国時代には、佐竹氏により度々攻撃対象とされ、永禄6年(1563年)の大海の戦い、永禄9年(1566年)の治部内山の戦い、永禄10年(1567年)の大崖山の戦い、霧ヶ沢の戦いなど、何度か城下まで攻め込まれているがいずれも退けている。天正18年(1590年)、那須資晴の時、那須氏が改易され織田信長の次男・織田信雄が入城。2カ月間、城主を務めた。
江戸時代には、烏山藩の政庁となり短期間に城主が交代した。成田氏・松下氏・堀氏・板倉氏を経て、天和元年(1681年)、那須資祗が2万石で旧領に復帰するが、貞享4年(1687年)、子の那須資徳の時、改易。以後、永井氏・稲垣氏を挟み、享保10年(1725年)、大久保常春の入封後は、大久保氏が城主を務め、明治2年(1869年)、版籍奉還と共に廃城となった。明治5年(1872年)には、積雪によって三ノ丸御殿が倒壊、明治6年(1873年)には、失火によって、古本丸、二ノ丸、中城、北城の建物を焼失した。

那須与一を輩出した那須氏の居城であり、その後は近世城郭に改修されて烏山藩の藩庁として明治まで存続した烏山城。関東では希少な、石垣の残る山城です。
直接城内に向かう道は七曲り道・十二曲り道ともに整備されているので、そんなに苦労なく訪問できる城跡だと思いますよ(比高差は100mほどある場所なので、その割にはという意味です)。
遺構は曲輪や堀など基本的な遺構は勿論のこと、石垣のほかに門の礎石なども残されていて、コースに沿って歩くだけでもお城の雰囲気を楽しめるかな。ただ残念なのは、比較的広範囲に遺構が残されていながら、ハイキングコースから外れると藪という場所が多いことですかね。
特に西城などがある烏山城の西側地区。ここには曲輪だけでなく、横堀が良好な感じで残されているのでちょっとした冒険感覚で歩いてみることをお勧めします。曲輪は藪で凄い場所もありましたけど、横堀は比較的歩きやすいので、往時の山城の雰囲気を楽しめますよ。

古本丸で発掘調査が行われたことは事前調査で知っていたのですが、現在は本丸(旧二の丸)付近で発掘調査が行われています。たまたまなんですが、訪問日前日に調査説明会が行われたみたいで、本丸に至る途中の虎口を中心に石垣などの遺構をはっきりと見学することができ、ある意味ラッキーでしたね。
あと、史跡認定をもらうために現在は尽力中とのこと。案内板も以前からあるみたですし遺構も残されているのに、後は何が必要なんでしょうかね?私有地などの絡みなのかもしれませんが、なかなか面白い経歴もあることですし、うまく進展していくと良いのですが・・・。
※ニコニコ動画は動画検索のマイリストからお願いします。
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↑現地案内板の縄張り図。ちなみに、登城路である七曲りと十二曲りは近世城郭のときに整備されたルートみたいです。那須氏が所有した中世城郭の時代の大手は別の方角だったとか。
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↑烏山藩の中心だったと思われる三の丸。往時は御殿が建てられていたみたいなんですが、明治5年2月の大雪で倒壊し、取り払われたとのこと。(写真右)三の丸の内部は段差が設けられていて、そこそこ広いです。井戸跡っぽい窪みもあったんですけど、たぶん違うんだろうな。
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↑七曲り登り口と七曲り道中。九十九折の道で、頭上からは常に攻撃を受けそうな感じ。こういう構造、大好きです。
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↑石片をたまに見かけました。遺構ではないかもしれないですが、気になったので掲載。
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↑下から見上げた太鼓丸。でも内部はこんな感じです。
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↑太鼓丸を過ぎると、いよいよ烏山城の主要部に到着です。往時は堀切の向こう側に常盤門があって、堀切には車橋が架けられていました。
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↑常盤門の遺構でしょうか。脇には石積みが残されていました。(写真右)常盤門内部。桝形もくっきりです。
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↑常盤門から吹貫門までの途中にも、門の礎石のような石が置いてありました。いや、たぶん剥落した石垣が丁度良く残っただけだと思うんですけど、あまりに絶妙なんで掲載。
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↑吹貫門周辺に残る石垣。昨年は3.11や台風などによって、一部遺構の破壊が進んでしまったそうです。都留勝山城でも切岸の一部崩壊など災害の影響が残っていましたが、こういう遺構っていつ消滅してもおかしくないんですよね。なので、見れるうちに出来るだけ映像化しておきたいとは思うのですが・・・
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↑ここからしばらくは、報告会に向けて整備された本丸の紹介が続きます。まずは正門。ちなみに絵図によると正門・常盤門・桜門は櫓門だったみたいですね。
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↑正門を抜けて少し歩くと、道は右に曲がります。
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↑曲がった先にはさらに石段が続き、本丸内部に入っていくことになります。石段の跡が良く残されていますよね。何かここを見ていて、江戸城清水門の石段を想いだしてしまいました。清水門って枡形以上に、あの石段の雰囲気が良くて大好きな場所なんですよ。って今は関係ないですね(笑)
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↑本丸内部は着々と調査が進行中です。(写真右)この礎石建物跡は絵図に描かれている建物の存在を裏付ける貴重なものです。建物は廃城後もしばらく残っていたみたいなんですが、明治6年12月26日の失火で、その他の曲輪に残っていた建物も含め焼失してしまいました。
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↑隣の古本丸は土塁なども確認できて比較的ましなんですけど、その先の中城(写真左)や北城(写真右)はごらんの通り。北城の写真の左手には良い感じで土塁も残っているんですけど、たぶん判りづらいですよね。北曲輪と書かれた案内も草木に埋もれてしまっていたし・・・。
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↑十二曲りからの来訪者を制限する桜門の礎石。
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↑本丸や古本丸を烏山城の西側地区と断ち切るような感じで巨大な堀切が設置してあります。
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↑これは案内に武器庫と描かれた帯曲輪を上から見下ろした写真なんですけど、何がなんだかわかりませんね。(写真右)で武器庫に降りてみるとこんな感じ。この程度なら大丈夫かな。
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↑通路は虎口っぽく交差したり、横堀になったり。このあたりは歩きやすくて楽だったんですけど・・・
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↑この先、徐々に状況は悪化していきました。西城は藪で何がなんだかわからずじまいで、突破するのに四苦八苦しました。ビデオはしばらく撮影していたので、そのあたりの顛末は残っていると思うんですけどね。動画では一部使用するかもしれません。


自分は無理に突撃しちゃったのが拙かったですね。横堀に沿って歩く分には、たぶんあんなに苦労しなかったと思います。
ちょっとネガティヴに書きすぎたかもしれませんが、冬場ならたぶん大丈夫。ちょっとした冒険で終れるハズです。きっとね。ただ、ウエットな場所もあったし、夏場は無理ですね。絶対に近づきたくない・・・。

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