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2012年12月30日 (日)

臼井城 【下総】

場所:千葉県佐倉市臼井田(場所)
訪問:2012年11月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・堀・土塁・石垣など
指定:なし
駐車:有
満足:★★★★★★(6.0点)
備考:臼井田宿内砦(
場所)、師戸城(場所)、謙信一夜城(場所)もあわせて掲載
見所:巨大な堀跡は見応えあり。大田道灌や上杉謙信に攻められた経歴ももつ。

↓2013年9月に内容を修正しました。
下総の名家だった千葉氏の初代当主とされる千葉常兼。その常兼の三男・常康が臼井郷に入って臼井を名乗ったのが臼井氏の始まりです。

享徳の乱の際には馬加氏や原氏とともに古河公方を支持し、管領上杉家を支持した千葉宗家とは反目しました。
結果として千葉宗家は滅亡してしまいますが、このことを憂えた幕府は武蔵に逃れていた武蔵千葉氏を正当な千葉家当主として認め、その武蔵千葉氏を旗印に扇ヶ谷上杉家の太田道灌が下総に進行してきます。臼井氏は馬加千葉氏や原氏とともに迎撃しますが、あえなく撃破され、更には臼井城も落城してしまいました。
臼井氏は臼井城の奪還に成功してすぐに臼井郷に復帰しますが、久胤の代のときに後見人についた原胤貞に権限を奪われてて臼井氏は急速に弱体化し、1561年の正木氏による攻撃で臼井城はまたも落城。臼井氏は臼井城を追われ、臼井久胤は結城城の結城晴朝を頼って落ち延びていきます。

臼井氏は没落し、以降の臼井城は第二次国府台合戦の後に城を奪還した下総原氏が統治することになりました。

1566年、この頃は特に関東に攻勢をかけていた上杉謙信が小田城を落城させた後、同盟関係にあった里見氏とともに臼井城を攻撃してきます。
臼井城は本丸を残すのみというギリギリの状態まで追い込まれますが何とか持ちこたえ、上杉謙信を撃退することに成功しました。

1590年の小田原征伐の際に作成された関東八州諸城覚書を見ても、下総原氏は2,000騎を所持していたとされ、かなりの勢力を誇っていたことが窺い知れます。
ただ、その下総原氏も後北条氏の滅亡にあわせて没落し、その後は家康家臣の酒井家次が3万石で入封し、臼井藩が立藩されました。
その臼井藩も家次の高崎移封によって廃藩。臼井城も廃城となりました。

↓以前の記事です。
低地も今は干拓によって住宅や耕作地として使用されていますが、高台の突き出した台地上に臼井城は築かれています。主な郭は3つですが、臼井城は周辺の台地にも砦を配置して守りを固めていたみたいで、広義の外郭まで含めるとかなり広大な城域をもった城であったことがわかります。

今回は臼井城の項ですが、周辺に遺構が残されている臼井田宿内砦や師戸城も関連ということで、あわせて掲載したいと思います。どこも綺麗に整備されているので、夏場でも気楽に楽しめますよ。

※動画はまだ作成していません
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↑臼井城の周辺図。往時の印旛沼はもっと巨大だったみたいなので、臼井城は印旛沼に面したお城だったのではないかと推察します。
だとすれば、支城である師戸城は勿論のこと、馬加千葉氏の本拠である本佐倉城からの支援も受け易いですよね。


■臼井城

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↑現地案内の縄張り図と作成した大まかな概略図。

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↑師戸城から見た臼井城。

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↑【二郭と堀切】
堀切はまさに台地を切断するような、非常に規模が大きいです。台地から二郭に入る虎口は一箇所しかなく、現在は土橋だったと思われる場所に車道が造られています。二郭には今は崩されてしまってないのですが、西側に大きな土塁があったみたいですね。もったいない。

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↑【本郭虎口】
二郭から本郭に続く土橋。見てのとおり坂虎口です。今は舗装されて道幅も広がっていますが、写真右の古写真を見ると、昔は道幅も細く、虎口も食い違いになっていたことがわかりますね。

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↑【虎口を護る櫓台】
虎口を抜けると両側に櫓台が。なかなか堅固な構えですね。

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↑【本郭と石垣】
壁面には一部、石垣の跡が残されています。臼井原氏の後に一時期使用していた酒井氏時代の遺構なんでしょうか。

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↑【本郭の北にある腰郭】

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↑【搦め手の虎口?】
本郭の隅にある稲荷社から腰郭に降りる道。いかにも虎口っぽい造りに見えてしまうので、往時は搦め手として使われていたのかも?まあ、後世の改変かも知れないんですけど。

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↑【三郭に残る太田資忠の墓と妙見社】
三郭は宅地化されてしまっているので、殆ど痕跡は残されていなさそうな感じです。写真左は享徳の乱の際に臼井城攻めで討ち死にした太田道灌の弟の太田資忠のお墓。写真右は千葉氏系の城郭でおなじみの妙見神社。

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↑【三郭の堀跡】
妙見神社からちょっと奥に進むと、三郭の堀の跡が残されています。雰囲気的には、なかなか幅広の堀だったみたいですね。



■臼井田宿内砦

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↑大まかな概略図。

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↑【残されている堀や土塁】
臼井田宿内砦は臼井城の南、台地から突き出した先端の台地上に残されています。写真左はたぶん堀切であったと思われる溝。幅は広いのですが、随分埋まってしまっているのか、深さはそんなにありません。写真右は空堀の横に設けられている土塁。この空堀と土塁で、侵入者を遮断していたんでしょうね。

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↑土塁の向こうには広大な平地が。一段下がった場所にも腰郭が設置されていました。



■師戸城


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↑師戸城は印旛沼を挟んだ反対側にあります。今は印旛沼公園として整備されていますし、土塁や空堀などもしっかり残されているので、なかなか雰囲気を味わえる城跡です。画像はかなり断片しか残っていなかったんですけど映像はあるので、いつか編集してアップできるといいですね。



■謙信一夜城

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↑謙信一夜城は公園に碑がたっているだけなので、本当にここに陣が築かれたのかさえ、正直判りません。ただ、碑には永禄9年(1566年)3月に臼井城を攻めた上杉謙信が構えた跡の遺構が調査によって確認されたと記されています。今は痕跡が見受けられませんが、調査まで行ったということは、なにか面影が残されていたんでしょうね。

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