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2013年1月

2013年1月30日 (水)

小坂城の動画をアップしました

日曜日に訪問してきた、茨城県牛久市の小坂城散策動画をアップしました。
那須烏山城からのアップなので、久々って感じになるのかな。
小坂城は案内の豊富さもさることながらコンパクトにまとまったお城だったので、入り口から本郭まで続けて撮影できて、編集も滅茶苦茶楽でしたね。いつもこんな感じでいけたら、どんどん動画をアップしていけるんだけど。



動画は、自分の大好きな「坂東三津五郎がいく 日本の城 ミステリー紀行」的にまとめられたと思います。まあ、早歩きではありますけど、自分が城跡に行って行っている行動は、脳内妄想も含めてこんな感じですかね。でも、お城好きな皆さんはだいたいこんな感じで見てるんでしょ?

2013年1月28日 (月)

毛呂要害城 【武蔵】

場所:埼玉県入間郡毛呂山町阿諏訪(地図)
訪問:2013年1月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀など
指定:なし?
駐車:有
満足:★★★★★★☆☆☆☆(6.0点)

別名は竜ヶ谷城。毛呂山一帯は鎌倉時代から戦国にかけて毛呂氏の統治下にありました。その毛呂氏の居館と考えられている毛呂氏館とは別に、鶴ヶ島ゴルフ倶楽部の中に毛呂要害城は残されています。
詳しい歴史は判らないのですが、要害という位ですから詰めの城として使用されていたんでしょうかね。

ゴルフ場との境には鉄の門があるので、その門は自分でOPEN。帰りの閉め忘れは気をつけましょう。コースに至るまでの道は若干狭いですが、2t車が入ってこれたので殆どの車は大丈夫なのかな?竜ヶ谷山に雷電神社の駐車場と思われる広場がありますので、心配せずに案内に沿って進んでいけば到着できると思います。
一雷電神社までの道に関しては町道の扱いみたいですが、カートも普通に走ってきますので一般道と同じように注意して進みま
しょう。ゴルフ場のお客さんは一般者が入ってくる道だと認識していない可能性もありますしね。

※動画はまだ作成していません
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↑国道沿いにある雷電神社の案内。これが毛呂要害城へ向かう道の目印です。
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↑その先は細い道になっていますが、どんどん車で進んでしまって大丈夫。ゴルフ場の入り口にはゲートがあるので、ロックを解除しつつゲートを開けて中に進みます。ゴルフ場が休みのときには鍵が掛かってしまっている場合もあるらしいので、それだけは注意したほうがいいですね。
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↑雷電神社までの道。完全にゴルフ場の敷地内ですね。
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↑徒歩での来訪の場合、この案内に従って登っていけば大丈夫です。車での来訪の場合、神社の敷地内に駐車できるスペースが十分にありますので、そのまま車道を走って奥を目指してください。自分はここから先は徒歩なのかなと思ってちょっとしたスペースに路駐したばっかりに、帰りは大変なことに・・・。
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↑徒歩で案内に従って登ると、城内で一番の広さをもつ3郭にでます。
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↑3郭近辺の腰郭。
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↑社務所が建てられている2郭。
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↑写真左は3郭経由で続く車道というか参道。枡形っぽく見えますけど、たぶん遺構じゃ無いですよね。写真右はその反対側にある徒歩道。こちらのほうが虎口っぽい雰囲気を漂わせています。
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↑その虎口っぽい徒歩道の下には空堀がありました。こういう遺構を見つけると城跡にきたんだって実感できて良いですよね。
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↑さらにその空堀の奥には、まとまったスペースの広場がありました。ここ、普通に駐車場として使用されていますよね。ちゃんとコース内から舗装された道が続いているし。今はもっと奥まで進んでみるべきだったと後悔することしきり・・・。
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↑2郭から本郭に続く参道。
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↑本郭の周囲に残る腰郭。
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↑本郭。参道で登ってきてすぐ脇にある土壇にお社が設けられています。
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↑本郭から見る風景。

2013年1月27日 (日)

1/27 訪城報告

今日は茨城県の塙城→下小池城→久野城→岡見城→小坂城を訪問してきました。
寒かったですけど、散策しているとあまり気にならないですね。雪さえなければ、何とかなりそうです。

全体的に歩き易い場所ばっかりだったんですけど、下小池城は別。一応城址公園になってるんですけど、二郭あたりから変にフェンスで仕切ってあって判りづらいし、本郭は藪が凄すぎて中まで入れませんでした。

逆に凄い良かったのは小坂城ですね。きちんと整備されていて案内も豊富ですし、そんなに技巧的な感じではないんですけど、横堀などの遺構がとてもよく残されていて迫力満点。コンパクトにまとまっていたので、久々に入り口から本郭までカットなしで撮影できました。

モチベーションが高いうちに1本編集しておきたいところですね。映像を見てみて問題が無ければ、やっぱり小坂城になるのかなーなんて。
出来るだけ頑張ります。

2013年1月24日 (木)

青山城 【武蔵】

場所:埼玉県比企郡小川町青山(地図)
訪問:2013年1月
形態:山城
遺構:石積・曲輪・空堀・土塁・馬出など
指定:小川町指定史跡
駐車:①仙元山経由ルート→見晴らしの丘公園駐車場②青山集落→ハイキングコース付近に2台分くらいのスペース有
満足:★★★★★★☆☆☆☆(6.0点)

青山城は青山と下里の境に位置していて、青山側では青山城、下里側では割谷城と呼ばれているみたいです。まあ、一般的には青山城で良いんじゃないでしょうか。

このお城に関する記載が殆ど見つかっていないことから、詳しい歴史は不明な部分が多いみたいなのですが、「関八州古戦録」に腰越城ともども、武州松山城の支城であったことを窺わせる記述が残されています。

城域はそんなに広い訳では無いですけど、岩盤を削った堀切や若干ですが石積も見られますので、訪問して損は無いと思います小倉城との類似点も多いので、比較するのも面白いかなと。

※デジカメVerが公開されていますが、いつか作り直したいと思います。
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↑縄張り図。
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↑訪問路は複数あるみたいですが、確実に駐車したいのなら仙元山経由ルートをお勧めします。写真は西側にある青山集落から訪問する場合の入り口。どちらも青山城までは20~30分くらいなんでしょうけど、仙元山経由ルートのほうが比高差を稼げるので、楽かもしれません。
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↑ここまでくれば青山城はすぐです。
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↑歩いていると、このような石片をそこかしこで見かけます。これらも石類の名残なんでしょうかね。
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↑三の郭とその堀切。堀切の断面を見ると、岩盤を削って造られたものだということが判ります。
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↑写真左は本郭と三の郭を仕切る堀切。写真右は堀切の脇にある本郭虎口に向かう通路です。形状的には比企型虎口ってことで良いのかな。
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↑本郭。周囲を廻る土塁がよく残されています。郭内には段差があって二段に分けられているんですけど、このあたりの構造も小倉城との共通項ですね。
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↑見所のひとつであると思われる本郭の西にある馬出。写真右は馬出の周囲を廻る横堀。でも写真だと形状が判りづらいですかね。
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↑本郭の南側の土塁には石畳状に石類が残されています。ただこの石畳状の石類、「関東の名城を歩く」によると、その殆どが後世に再配置されたものと考えられるみたいです。同著によると、その脇にある石積み(写真右)が遺構なんだとか。
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↑これは石畳状の石類を横からみたところ。まあ、結構石片落ちていますしね。自分には見分けつきませんし、こうみると雰囲気があって個人的には良い感じかな。
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↑本郭の南にある二の郭。
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↑二の郭の一段下にある腰郭。

2013年1月21日 (月)

中城 【武蔵】

場所:埼玉県比企郡小川町大塚(地図)
訪問:2013年1月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:なし?
駐車:1~2台くらい
満足:★★★★★★☆☆☆☆(6.0点)

中城は猿尾氏の居城だったと伝えられる城跡です。
ただ、城内だったということは案内の一文に触れられているのみで、どちらかというと仙覚律師遺跡であることを推すようなも
のばかり。本郭内の半分以上はテニスコートと化していますが、それでも周囲を取り巻く土塁や横堀は見事なものでした。
草刈も綺麗に行われていましたし、山城と違って気軽に訪問できるのもポイント高いですね。

※動画はまだ作成していません
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↑大地下、東側から見た中城。
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↑中城の北にある陣屋沼緑地を目指すと判りやすいです。若干狭めながらも駐車スペースが用意されているのは有難いですね。
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↑この池は水堀の名残と考えて良いんでしょうかね。湿地の名残だとしても、幅広なので防御力が高そう。
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↑台地上に登ると横堀がお出迎え。
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↑主郭の虎口。台地下から登ってくると、屈折する感じで本郭に入ることになります。
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↑主郭の内部。テニスコートが設置されています。
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↑西側の土塁上にはお社が建てられています。正面の参道には石仏がずらり。雰囲気があって良いですね。
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↑お社のある場所を裏から見てみると、折になっていることが判ります。写真右は折部分の拡大写真。主郭の西側は堀切を挟んで台地が続いていますが、往時は曲輪が続いていたんでしょうか。
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↑こちらは主郭の東側。腰郭でもあったんだろうか。

2013年1月18日 (金)

青鳥城 【武蔵】

場所:埼玉県東松山市石橋(地図)
訪問:2013年1月
形態:平城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:県指定史跡
駐車:なし
満足:★★★★★☆☆☆☆☆(5.5点)

青鳥城と書いて「おおどりじょう」と呼びます。珍しいですよね。
この青鳥城、関越道の東松山ICの目と鼻の先にあります。必然的に比企地方の城跡を訪問する際には側を通過していましたし、
始めてこの周辺の城跡を訪問しに来たときから、青鳥城のだいたいの場所は把握していました。それでもなぜに訪問が遅くなったかというと、遺構がそんなに多く残っていなさそうというイメージに加え、城跡の殆どが民有地なので訪問しても人目が気になって碌に散策できないんじゃないかという危惧があったのが最大の要因です。
でも訪問してみるとイメージは一変。もともと今回も予定には入っておらず、急遽の訪問決意だったということもあって本郭し
か散策していないのですが、周囲を取り巻く土塁と堀が見事に残されていて驚きました。
googlemapの航空写真で見ると一目瞭然なのですが、二郭の堀も綺麗に残されているっぽいので、それは次回訪問までお預けかな
。あと、養豚場の臭いが全体的に漂っているのは仕様ってことで認識しておきます。

※動画はまだ作成していません
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↑大地下から見た青鳥城。
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↑航空写真で見ると本郭はもちろん、二郭も北側には堀が良好に残っていることがわかりますね。ちなみに高速沿いにある「おとめ池」は二郭の水堀跡なんだとか。
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↑主郭。郭内は畑として使用されています。
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↑北・東・西(写真左)は土塁がよく残されているんですが、南側(写真右)はご覧のとおり。もともとは土塁があったのですが、もろもろの都合で崩したと考えるのが妥当なんでしょうかね。
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↑南西には主郭の入り口に使用されているスロープがあります。写真左が上部で右は下部。下部には堀跡のような溝も見えますね。往時はどのような構造をしていたんでしょう。
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↑このスロープのところと東側の土塁には切れ込みがありました。画像はスロープのところにある切込みから二郭をみたところ。
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↑こちらは東側の土塁の切り込み。虎口の跡なんでしょうか。
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↑主郭北側の堀。
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↑主郭東側の堀。
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↑主郭の土塁上には南東(写真左)と北西(写真右)にお社が築かれていました。
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↑青鳥城址の碑。

2013年1月15日 (火)

東金城 【上総】

場所:千葉県東金市東金(地図)
訪問:2012年2月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀など ※一部戦争史跡もあり
指定:たぶんなし
駐車:有
満足:★★★★★(5.5点)

見所:東金酒井氏の居城。戦争史跡であるトーチカも残されています。

※↓2013年9月に内容を修正しました。
東金城の築城者は定かではありません。

古河公方と関東管領上杉家の対立で発生した享徳の乱の際に、上杉方である千葉本家を古河公方側の勢力(馬加千葉氏や原氏など)から護るため、将軍・足利義政の命にて美濃国より下向してきた東常緑が、家臣である浜春利を東金城に入れたという伝承が残されています。
この浜春利という人物がその後も上総国に居着き、酒井を名乗ったことが上総酒井氏の発祥ともされていますが、上総酒井氏の出自は諸説あって実際のところどうだったのかは不明ですね。

出自はどうであれ、今のところ上総酒井氏の祖とされる人物は酒井定隆みたいです。
1521年、それまで田間城を居城にしていた定隆が城の手狭を理由にこの東金城に拠点を移し、以降は東金酒井氏の居城として5代に渡って使用されていました。

後北条氏と里見氏の勢力争いの中で、東金酒井氏はちょうど勢力の境目あたりに所領が位置していたため、同じ上総酒井氏の一族である土気酒井氏などと同様にしばらくは両勢力の間で翻弄されることとなります。特に第二次国府台合戦の際は土気酒井氏が里見氏側に味方したため、同族においての合戦も行われました。土気酒井氏は後北条氏に何年にも渡って頑強に抵抗しますが、後北条氏の度重なる攻撃の前に両酒井氏はついに降伏。
以降は後北条氏の勢力下で活動しますが、1590年の秀吉による小田原征伐によって後北条氏方の両酒井氏は所領を没収され、没落してしまいました。

城跡には東金御成街道の終点として、鷹狩りのための休息場である東金御殿が造られました。付近に残る八鶴湖は、このときに拡張されて現在の規模になったと伝えられています。

↓以前の記事です。
東金城は田間城より南西1kmほどの場所に築かれています。田間城を後にしたのが15:00。事前のリサーチで東金城は16:00まで
しか見学できないということを知っていたので、ちょっと今回は無理かなと思って諦めかけていたんですけど、国道を走っていると見るからに険しそうな山を発見。ナビを見ると、そこには東金城の文字が。あまり時間は無かったんですけど、見つけてしまったからには仕方ないと思って訪問してみました。実質、滞在は20~30分だったので、全体を見て回れなかったのが残念。
構造は千葉南部に多い、細尾根を利用した平山城です。戦時中にはトーチカなども設置されたみたいで、戦争史跡としても楽し
むことが可能です。

※動画はまだ作成していません
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↑大まかな東金城の概略図。
田間城から東金城に居城を変更したのは、東金城のもつ防御性によるところが大きかったのでしょうか。

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↑ストリートビューで見る東金城遠視。国道を走っていると、街中にポツンと現れる険峻な山が東金城址です。まさに要害といった感じの雰囲気だったので、遠めでもすぐに位置がわかりました。
【2013年9月 追加】

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↑【八鶴湖越しに見た東金城】
中央に見えるコンクリ建造物は東金高校の校舎で、この場所には江戸時代、将軍が鷹狩をする際に使用した東金御殿が建てられていました。八鶴湖もこの御殿建設の際に、もともとあったとき池を拡張して広げたものだとか。

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↑その東金御殿に冠する案内。

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↑【東金城の入り口】
見学時間は9:00~16:00までなので、時間には注意しましょう。

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↑【防空壕(戦争史跡①)】
防空壕です。こういう穴が開いていると、なぜか覗きたくなるんですよね。探究心をくすぐられるのかも知れません。

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↑主郭方面への登り道。余談ですが、こういう石階段って何気に歩きづらくないですか?

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↑【郭跡?】
道中、郭跡のような場所とか散見されるのですが、時間が無いためとりあえず無視。戻りの時間も考慮しないといけないので、とりあえず主郭を目指します。

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↑登りきると小郭にでます。正面の碑には「御殿 山神社奥院」と刻まれているので、江戸時代には何かしらの建物があったのかも知れませんね。

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↑【堀切】
その小郭の裏手にある堀切。ここからさらに奥に進みます。

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↑【三郭】
で、ここが三郭。通路は一応確保されているんですけど、それ以外は藪が凄くて形状は把握できず。

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↑ここはたぶん主郭と二郭の境目辺りかと。

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↑【二郭】
二郭。ここも藪が酷いですね。主郭(境が曖昧なので、正しくはたぶん主郭だと思われる場所)は下の郭を見下ろせたので、一番マシだった気がしますが、映像しか残ってないので画像は無しです。

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↑【トーチカ(戦争史跡②)】
そんな中、藪に埋もれるトーチカを発見。

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↑中はこんな感じ。フラッシュに反射する埃の数、凄まじいですね・・・。

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↑南西に伸びる支尾根を歩いてくると、ちょっとした広場が。この支尾根は、江戸時代には東金御殿を守る土塁のような役割を果たしたことでしょう。戦国時代には、正面の土壇に物見台でも造られていたのかもしれません。

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↑【蛸壺跡(戦争史跡③)】
その尾根道に置かれた、「蛸壺」と記された碑。今は埋められているのかもしれませんが、戦時中はそこかしこに蛸壺壕が設置してあったんでしょうかね。

2013年1月13日 (日)

1/13 訪城報告

今日は比企周辺ということで、青鳥城→腰越城→中城→青山城→???→毛呂要害城を訪問してきました。

腰越城と青山城は2011年4月以来の二度目、その他は新規の訪問です。
青鳥城と中城は規模も小さそう(周辺のその他の城跡と比較するとですけど)なので、まあそのうちに立ち寄るだろうと思いながら、ようやくの訪問。でも、両城とも土塁や堀の残存具合はなかなかのものでした。

???は鎌北湖にあるホテルの廃墟です。なんかその手のブログとかを見ると簡単に散策できそうだったのでつい訪問してみたんですけど、やっぱりちょっとね。釣り客や観光客(というかドライブしてきたっぽい人達)も多いですし、想像していたような感じではなかったので、止めておきました。

毛呂要害城はゴルフ場の中に残る平山城です。詳しくは個別のときにしておきますが、隣接するとかではなくて、コース内に残されているってちょっと驚き。
で、あちこち歩き回った天罰なのか、日も暮れたし帰ろうと思って駐車していた車に乗り込んで動かした途端に衝撃が。そう、目の前にちょっとした段差があったんですよね。それで左前が乗り上げてしまって、左のタイヤが宙に浮いた状態になってしまいました。JAF呼んだの学生のとき以来かな。連休中で立て込んでる中、1時間もかからずに来てくれました。ちょっと判りづらい場所だったので、現地まで誘導するのに苦労はしましたけど、本当に助かったです。まさかのためのJAF、会員で良かった。

山城は久々だったので、今日は結構疲れましたね。なんていうか、持久力が滅茶苦茶落ちました。これは改善策を考えなくては・・・。

2013年1月11日 (金)

田間城 【上総】

場所:千葉県東金市田間(地図)
訪問:2012年2月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀など
指定:たぶんなし
駐車:田間神社の駐車場を拝借
満足:★★★★★(5.5点)

見所:東金酒井氏が東金城に移る前に拠った居城

【2013年9月に内容を修正しました】
土気城にいた酒井定隆が、土気城に変わる本拠として築城したのが田間城だと言われています。なお、酒井定隆が田間城に滞在
していたのはそう長い期間でもなかったらしく、1521年には手狭であるとの理由から、東金城へと居城を移してしまいました。
その後も東金酒井氏の支城として使用されていたみたいですが、1590年の秀吉による小田原征伐によって後北条氏の勢力下にあった東金酒井氏は所領を没収されて没落。田間城もそのときに廃城とされたのでしょう。
なお、東金酒井氏の子孫は徳川幕府に旗本として仕え、存続していったみたいです。

城内に案内などの設置はされていませんが、整備は行き届いているのでとても見学し易い城址です。田間神社からの訪問口は社務所の脇にあるので、神社の関係者がいらっしゃる場合は挨拶などしておくのが無難かも知れませんね。

※動画はまだ作成していません
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↑大まかな田間城の概略図。
のちに居城を移す東金城はそう遠い場所ではありませんね。田間城は平地が多くて居住性には優れますが、防御力に難があるので居城を変更したのではないかと思います。
【2013年9月に追加】

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↑【登城口の目安になる田間神社】
麓の田間神社。もとは定隆が田間城内に第六天宮を祀ったのが始まりだとか。

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↑【登城口】
奥に見えるのが田間城への登城道です。

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↑途中には竪堀のような溝(写真左)や腰郭(写真右)も見受けられます。

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↑【堀切】
登りきると本郭と二郭の間の堀切が現れます。これは本郭上から見たその堀切の画像です。

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↑【本郭】
田間神社側に虎口状の窪み(写真右)があるんですけど、下にある腰郭との連絡通路として使われていたりしたのかな。

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↑【二郭】
広いです。

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↑【西側の腰郭】
本郭や二郭の西側にある、広大な腰郭。この郭の一角にあるお社が田間神社の元宮です。

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↑この腰郭の北端は竹林になっていました。

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↑続いて南側。こちらには大手だったようで、まだ郭が続きます。

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↑腰郭とその脇にあった竪堀状の虎口。

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↑東金城へ移動したのは田間城が手狭なためということでしたが、なかなかどうして。大きな郭が複数設置してあり、狭いという印象はありませんでした。どちらかというと防御性に難があったためというのが正しいような気がしますよ。

2013年1月 8日 (火)

津辺城 【上総】

場所:千葉県山武市津辺(場所)
訪問:2012年2月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:なし
満足:★★★★★★★(7.0点)

戦国時代の築城と考えられているみたいですが、詳細は不明な部分が多い津辺城。唯一伝わっていることといえば、戦国時代末期の津辺城周辺は井田氏の勢力下にあって、天正年間には、白枡和泉守が城主だったということくらいみたいです。

城址は地権者のご好意なのか、非常によく整備されていて見学し易かったです。特に案内板などは建てられていませんが、雄大な堀や、本郭や二の郭の虎口などは工夫の跡が良く残されていて見ごたえ十分。
あと駐車場は無いので、注意が必要です。入り口付近で停められそうなスペースといえば、日吉神社付近の十字路の角に1台分く
らいでしょうか。自分は公民館の駐車スペースをちょっと拝借させていただきました。最後に補足ですが、決して駐車場所を推奨している訳ではないので、そのあたりは自己責任でお願いします。

※ニコニコ動画版はウェブページの動画検索にあるマイリストからお願いします。
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↑大まかな津辺城の概略図。突き出すような台地の先端に津辺城は築かれていました。囲むように流れている川が往時から存在していたとすると、まさに絶好の場所といえるかもしれませんね。
【2013年9月 追加】

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↑南側にある集落から見た津辺城。正面の鬱蒼とした林の中に、遺構がひっそりと眠っています。

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↑【入口】
案内はありませんが、ここが現在の津辺城の入り口です。この周囲も、往時は曲輪だったぽい雰囲気ですね。

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↑【登城路】
郭跡のような平地を抜けつつ、津辺城の主要部を目指します。

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↑【三郭】
先ほどの道を登りきった場所にある三の郭。土塁のようなものも見受けられますが、ここには前に貯水施設が建てられていたみたいなので、その名残なのかもしれません。

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↑【三郭虎口?】
ちなみに現在の三の郭入り口。ここも貯水施設建設の際に改変されてしまってるっぽくて、往時の虎口の形状はよく判りません。右手の平地も駐車場として使用されていたみたいです。写真左は外から見た画像で、右は三の郭から見た画像。

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↑【二郭虎口】
ただ、ここから先はとても良い感じです。画像は二の郭に続く土橋。深い堀と、左右とも土橋を監視するかのように突き出す二の郭の張り出しなど見応え十分。

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↑【二郭虎口の相横矢】
それぞれ土橋から見た左・右の張り出し部のアップ。

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↑【二郭】
本郭から見た二の郭。その間も深い堀で仕切られています。

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↑【本郭虎口】
これが内枡形や馬出ともいわれる本郭の虎口。

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↑ざっくり注釈を入れるとこんな感じです。土塁の外側に内枡形があって、その先にちょっと不定形の馬出があるって感じでしょうか。

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↑【本郭】
二郭側には土塁もしっかり。

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↑【日吉神社付近の土塁跡?】
津辺城の西側にある日吉神社。結構な規模の塁上に建てられていますが、この塁も津辺城外郭の土塁だったのかもしれません。

2013年1月 5日 (土)

坂田城 【上総】

場所:千葉県山武郡横芝光町坂田(場所)
訪問:2012年2月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:なし
駐車:有
満足:★★★★★★(6.5点)

坂田城は伝承によると、14世紀の中ごろに千葉氏によって築城されたと伝えられています。その後は千葉氏重臣の三谷氏の居城となりますが、16世紀の中ごろに発生した三谷氏の内紛に乗じた井田氏が坂田城を奪取。その後は井田氏の居城として使用されました

井田氏は周辺の諸豪族と同様に、東上総に影響力を強めてきた後北条氏に従属する形で戦国末期まで勢力を保持します。
従属した井田氏はよく後北条氏によって軍役に駆り出されていたらしく、岩槻城や牛久城には城番として動員されていました。その影響かは判りませんが広大な外郭をもつ坂田城は、よく牛久城のそばにあった東林寺城との構造の類似を指摘されますね。まあ、状況を考えればさもありなんといったところでしょうか。

1590年の秀吉による小田原征伐のおりには、井田氏の主力は小田原城に入城していて、坂田城には僅かな守備兵士か残されていませんでした。
後北条氏の滅亡にあわせて井田氏も滅亡。坂田城も程なくして廃城になったものと思われます。

地図でみていただけるとわかり易いですが、坂田城は低地に突き出した舌状台地に築かれた平山城です。周囲の水田以外にも台
地のすぐ南に残る坂田池が、周辺が湿地だった往時の雰囲気を残していていい感じです。
台地上も三の丸と四の丸が耕作地化しているものの、堀はよく残されているので見応えはあるんじゃないでしょうか。

現地で聞けた話ですが、江戸時代の井田氏は水戸藩に仕え、現在は神奈川県(ちょっとうろ覚えです)で子孫の方が生活されているとのこと。坂田城周辺の方々とは手紙を通じて、今でも交流があるそうです。
現地に行くとこういう面白い話が聞けたりするから良いんですよね。ただ、こういう話ができる方は年配の方に限られる場合が多いので、あと
10年もするとこういう記憶自体が埋もれてしまうかも知れませんね。地権者の善意で整備されている城跡も然りで、見学できる城跡も、これからは減少していってしまうのかもしれません。

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↑坂田城の概要図。

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↑【台地下から見た坂田城】
本当は坂田池越しの画像とか撮影したかったんですけど、いろいろあってタイミングを逃しました。

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↑【外郭虎口】
台地から四の丸に入る大手虎口。現在は土塁や堀を貫通して車道がストレートにはしっていますが、概略図にあるとおり、往時は堀底道を歩かせながらコの字型に虎口を通過して城内に入りました。ここは坂田城の見所のひとつでもあると思うので、アングル別に分けて細かく掲載します。

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↑【外郭虎口/①と②】
左から①と②です。②は二重堀を行き来するための通路。守備のためなんでしょうけど、随分と細いですね。物資の搬入なんかは苦労しそうです。

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↑【外郭虎口/③と④】
左から③と④。それにしても、堀底道だと季節によっては水が溜まり易くなりそうなので、対処が大変だったんじゃないかなんて考えちゃうんですけどね。守備に応用が利くってこともあるのかもしれませんが、実際はどうなんでしょう。

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↑↑【外郭虎口/⑤と⑥】
左は⑤で、右は概略図に「枡形」と明記されている場所です。⑤は左に曲がると無事に四の丸に入ることができます。右の画像の「枡形」は結構広い空間です。実際にこの場所が、俗に言う枡形として機能していたのかは判りません。

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↑【四の丸(外郭)】
とても広い四の丸。発掘調査では埋められた堀の跡が見つかっていて、往時は二つの郭に分かれていたことが判明しました。

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↑【三の丸虎口】
三の丸につづく虎口。画像では判りづらいかも知れませんが、堀は非常に雄大ですし、相横矢も見れるのでなかなか見応え十分です。

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↑【三の丸】
三の丸もほぼ耕作地化されています。

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↑二の丸から本丸へと続く土橋。

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↑本丸から見る二の丸。

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↑【本丸】
ここも広いですね。土塁もしっかり残されています。

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