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2013年4月11日 (木)

玉造城 【常陸】

場所:茨城県行方市玉造甲(場所)
訪問:2013年3月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:不明
駐車:案内板の付近に路駐
満足:★★★★★(5.0点)

大掾氏一族の行方氏によって、玉造城の基となる館が当地に建てられました。室町中期にはある程度城郭として整備され、戦国末期にかけて順次拡張されていったものと思われます。
当地を治めた玉造氏も大掾氏一族で、行方四頭の一角ですね。行方氏の一族が玉造に配されて玉造氏を名乗ったのが始まりとさ
れています。
当主親子は佐竹氏の「南方三十三館の仕置き」によって誘殺されてしまいます。玉造城はそれでも佐竹氏に対して抗戦をしたみたいなのですが、玉造城
はあえなく落城。これにより玉造氏は滅亡しました。

台地とは堀切で遮断された先端に玉造城は築かれました。城跡は全般的に宅地や耕作地として転用されていますが、台地上を散策すれば郭の名残などを確認することが出来ると思います。
すぐ南には旧家の大場家があるので、タイミングがあえば併せて見学してみるのも悪くないかも。廃線マニアには玉造町駅なん
てのもいいのかな。

※動画はまだ作成していません
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↑玉造町駅の近辺から見た玉造城。
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↑ただ、その玉造町駅は鹿島鉄道が廃線となったことにより消滅。現在はトイレが残るのみです。
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↑ざっと配置をまとめてみました。この台地上にある3つの高まりがそれぞれ主要な郭だったみたいですね。現在、高まりは耕作地に、そして周囲を取り巻く腰郭は主に宅地へと変化しています。
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↑これはⅠ西側の腰郭。Ⅰの周囲は全般的にこんな感じですね。旧状を窺い知ることは出来ません。
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↑Ⅰを北側から見たところ。ここに玉造城に関する案内板が設置されています。
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↑そしてⅠの内部。猛烈な藪です。
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↑肉眼では土塁の存在を確認できるんですけどね。写真だと言われてみて何となくってところでしょうか。Ⅰの入口付近には、こんな看板が土塁の側面に立てかけてありました。樹木を大切にって、さすがにこの状況は過保護過ぎやしないかいって皮肉を言いたくなったりして。

というのは勿論冗談です。看板の意図する内容がそういった意味でないことも踏まえた上での発言なので、ご留意を。

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↑ⅠとⅡの間にある堀1。道路化などによる改変で埋められたりしたのかなとも思ったのですが、周囲にある宅地などの高低差などとバランスをとって考えてみると、もともとの深さもこの程度だったのかも知れませんね。まあ、あくまでも現状を見た限りなので、実際どうだったのかは判りませんが。
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↑Ⅱの現況。果樹園なんですかね。ここには土塁らしきものは見当たりませんでした。
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↑堀2。ここは相当埋められている感じですね。ここも果樹園っぽくなっていました。
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↑Ⅲは敷地面積も大きく、現在見る限りでは東に向かって三段に分かれています。写真左は一番広い上段、右は中段です。
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↑Ⅲの下段。ここの端っこ(写真でいう左端)の垣根はちょっとだけ盛土されていました。まあ、この盛土は農地化による影響なんでしょうけどね。
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↑この垣根の奥には堀3があります。天然の地形を活用したものなんでしょうけど、凄い規模でした。
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↑この堀3の奥にある高台が物見台らしいんですけど、とてもこちら側から上がれる場所ではないですね。

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