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2013年5月

2013年5月31日 (金)

滝山城 【武蔵】 1/2

場所:東京都八王子市高月町(場所)
訪問:2013年4月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・堀切・土塁・土橋・馬出・井戸など
指定:国の史跡
駐車:滝が原運動場テニスコートあたりの駐車場に停めるのが良いと思います。そこから城内までおよそ10分。
満足:★★★★★★★★★★(10.0点)

滝山城は山内上杉氏の重臣で、八王子一帯を統治していた大石氏によって築城されました。
上杉禅秀の乱から始まった関東の大乱ですが、山内・扇ヶ谷両上杉氏の対立による長享の乱が留めとなり、結果として後北条氏の台頭を加速させることに繋がってしまいます。
そのような中、大石氏も北条氏康の三男・氏照を養子として迎え入れ、後北条氏の勢力として存続していくことになります。大石氏を継承した氏照は、後に滝山城を改修して、現在残る大城郭まで仕上げていきます。

1568年、甲斐武田氏の駿河侵攻で甲相駿三国同盟が崩壊すると、後北条氏は越後上杉氏と越相同盟を結んでしまいます。そんな後北条氏に圧力をかけるべく、武田信玄は後北条攻めを決意。1569年、碓氷峠を越えた武田軍は、まずは鉢形城を攻撃します。次に武田軍は滝山城に向かいますが、武田軍は本体とは別に、小仏峠(当時は軍勢の通行は不可能と思われていた)を超えて小山田信茂が率いる別働隊1,000人が侵攻。対する後北条勢は廿里(高尾駅近くです)において迎撃を試みるも、あえなく敗退して滝山城に篭城する策にでます。
滝山城は二の丸まで攻め込まれますが、信玄は3日目には滝山城の包囲を解いて小田原城への進撃を開始。
滝山城は落城を免れますが、その後の八王子城移転に伴って、その役割を終えて廃城になったものと思われます。

滝山城は雄大な堀や曲輪跡が残されていますし、自然公園としても良く整備されているので、中世城郭と言われる場所の中でも、断トツのお勧め度を誇る場所だと思っています。現在は随所に中田氏の鳥瞰図を基に描かれた解説板が設置されているので、遺構の役割もより理解し易くなったのではないでしょうか。
難点といえば、あまりにも城址が広大すぎるといったことくらいでしょうか。八王子城ほど広大ではありませんが、それでも隅から隅まで見て廻ろうとしたら、結構な時間をとられてしまうと思います。なんと贅沢な悩みでしょう(笑)

滝山城を訪問したのなら、せっかくなんで高月城もあわせて訪問して見ると良いかもしれませんよ。高月城は農地化などの影響で遺構が明瞭でない部分もありますけど、本郭までの九十九折の道は、なかなか堅守だったぽくて、個人的には好きな城のひとつです。まあ、火縄銃が主要な兵器に切り替わる頃には、対応は難しかったかも知れませんけどね。

※動画は結構初期の作品がアップされています。名城なので、いつか再編集したいですね。
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↑北から見た滝山城。今は樹木に覆われてしまっていますが、滝山城最盛期はかなりの威容を誇っていたんでしょうね。
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↑「関東の名城を歩く」に掲載されていた縄張図にちょっと手を加えて、曲輪名などを記してみました。時期によるかもしれませんが整備が行き届いているので、遊歩道に沿って歩けば、大体の場所に行けると思います。

それでは滝山城を順に見ていきましょう。

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↑【大手(現大手?)・三の丸と小宮曲輪に挟まれた虎口】
曲輪だけでなく堀にも挟まれているので、敵の進撃を食い止めるのに絶好の場所です。往時は三の丸と小宮曲輪を繋ぐような形で、櫓門が設置されたりしたのかも知れません。
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↑【小宮曲輪の横堀】
二の丸の空堀より規模は劣りますが、この横堀の雰囲気は抜群です。東京都に残る中世城郭の中では、最大の規模を誇るのではないでしょうか。
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↑【山の神曲輪】
小宮曲輪から奥に進んだ先にある山の神曲輪。出丸のような感じの場所です。
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↑【千畳敷】
千畳敷という呼び名は城内で最も広い曲輪につけられることが多いんですけど、実際は中の丸のほうが広いです。諸国古城之図を見ると、ここでなく中の丸のほうに千畳敷と記されていますしね。そうはいっても、この曲輪も十分広いです。
北側斜面には三段程度の腰曲輪も設置されています。
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↑【信濃曲輪・刑部屋敷・カゾノ屋敷】
名称からして、重臣の屋敷が立ち並んでいたんでしょうか。仕切り土塁もしっかり残されています。
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↑【二の丸の馬出】
写真左:信濃屋敷側の東馬出
写真右:千畳敷側の西馬出
二の丸には東・西・南と3つの虎口があり、それぞれの虎口前には馬出が置かれていました。
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↑東馬出と信濃曲輪の間の堀には畝のような盛土を見ることができます。これは橋脚台だったのかも知れません。
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↑【連続する馬出】
虎口前に置かれた馬出以外にも、二の丸の周囲には馬出と馬出を繋ぐような形で馬出が設置されています。雄大な二の丸の堀とあわせて、このあたりも見所の一つです。
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↑【二の丸の枡形】
写真左:南虎口の枡形
写真右:東虎口の枡形
東虎口は道路設置の影響で改変があるのかもしれませんが、櫓門でも備えていたかのような、立派な枡形が残されています。まさに正面玄関にふさわしい場所だと思うので、この東虎口から二の丸を経由して中の丸、もしくは本丸というのが往時の大手だったのではないでしょうか。


今回はここまで。
本丸まわりはその2にて紹介していきます。


その2

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2013年5月28日 (火)

戸吹城(根小屋城) 【武蔵】

場所:東京都八王子市戸吹町(場所)
訪問:2013年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・土塁など
指定:不明
駐車:入口にある城址標柱のそばに間借
満足:★★★★(4.5点)

築城時期や城主等の歴史は不明ですが、戸吹は武蔵野の府中と甲州の甲府を結ぶ滝山街道(古甲州道)の最中にあり、この場所は街道沿いの要衝として機能していたと考えられているみたいですね。現在も綱代と秋川を結ぶハイキングコースの途中に城址はあるんですけど、これはその名残みたいなものなのでしょうか。
戸吹には戸倉城が残る戸倉や檜原城のある檜原ほどの賑わいは残されていませんが、小仏峠を抜ける甲州街道が使用されるよう
になる前は、ここ戸吹も宿場町としてかなり賑わっていたのかも知れません。

戸吹城の遺構は集落近くに残されている南曲輪と、尾根先の北曲輪に分けられていたみたいですが、多くのブログで指摘されている通り、風雨による侵食によって尾根先の北曲輪には到底いけたものではありません。
南曲輪には横堀や土橋がしっかり残されてはいるんですけれど、どうしてこのような配置になったのか、いまいちよく判らない
場所ではありました。唯一考えつくのは、南曲輪と呼ばれる場所は「関所」として使われていたのかなということぐらい。

南曲輪の訪問難易度は低いので、手軽に横堀を楽しみたいという方には良い場所だと思います。高低差のある二重堀は、それはそれで雰囲気がありますしね。

※動画はまだ作成していません
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↑戸吹城の周辺図。橙色で示したのが、ざっくりとですが、現在南曲輪を通過しているハイキングコースです。
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↑大まかに南曲輪の状態を描いてみました。多少おかしな点があっても見逃してくださいね。
見ての通り、現在の登り口になっている竪堀状通路を中心として、西側は曲輪跡のような平地が残り、東側は二重堀や竪堀・土橋が構築されています。
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↑【竪堀状通路】
登る前は後世に設置された道なのかなと思いましたが、この通路はもともと存在していた竪堀なんでしょうね。意外と傾斜があるので、湿った状態の日にスニーカーや革靴で昇り降りすると、滑って危ないかもしれません。
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↑竪堀状通路を登った先はちょっとした広場になっています。
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↑【二重堀】
南曲輪に残る遺構の規模はそう大きくありませんが、この二重堀はなかなかの見応えです。ただ、どういった用途で用いられていたのか、そのあたりはハッキリしません。
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↑【土橋とそこから下に伸びる竪堀】
竪堀は竹が邪魔をして、見栄えの良い画像が余り撮れていませんでした。
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↑【曲輪跡の様な平地】
ここには厩とか役人の詰所なんかがあったんでしょうかね。あくまで関所として南曲輪を見た場合の意見ですが。
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↑南曲輪と北曲輪へ向かう道の間には、ハッキリとした横堀が残されています。
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↑この横堀の向かいは非常に細い尾根道です。書籍によってはここを馬出と解釈していますが、現状では単なる細尾根でしかありません。
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↑ここから先に尾根道を進んでいくと、尾根先の北曲輪に向かえるのですが、崩落が年々進行していて、現状ではご覧の通りです。
この場所でも相当な高さがあるのに、この先の細尾根を歩いていくなんて行為はとてもとても・・・

2013年5月26日 (日)

造海(百首)城の動画をアップロードしました

GW後半に訪問した千葉県富津市にある造海(百首)城の動画をアップロードしました。


ニコニコ動画バージョンはこちら

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↑動画にも使用した郭の配置図。

動画は久々の棒読み解説Verです。早朝に動画のイメーズが閃いたので頑張ってみたんですけど、編集は昨日丸一日の作業で、結構しんどかった。でも、かなり自分好みの動画が出来上がったと思います。あまり一般の知名度は高くない場所だと思うのでどうせ再生回数は大した事無いんでしょうけど、興味あれば見てやってください。

読みを「つくろうみ」と「つくろみ」、どちらにするかちょっとだけ迷いました。ウィキペディアでは前者なんですけど、地図を見ると、城山の近所にある民宿は後者の読みになっているんですよね。
なので、地元では「つくろみ」でこちらが正解なのかもと思いましたが、今回はウィキペディアを採用しました。

造海城のブログは6/5から順次公開されていきます。そちらもあわせて宜しくです。


2013年5月25日 (土)

八王子城 【武蔵】 4/4 北条氏照の墓

八王子城 「その1」では居館地区を、「その2」では太鼓曲輪を、そして「その3」では要害地区を紹介してきました。
ラストとなる「その4」はおまけで、八王子城周辺に残る北条氏照のお墓を紹介していきます。


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↑墓所にはここから向かいます。案内が少し小さいですけど、歩きなら見落とさないと思います。
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↑階段を登った先が墓所です。
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↑中央が氏照のお墓で、両脇は中山勘解由家範および信治のお墓です。信治は家範の孫にあたる人物ですね。
中山家範は八王子城にて討ち死にしましたが、その子息である照守や信吉は戦後家康に召抱えられ、中山家は水戸藩の附家老として、
常陸松岡藩2万5千石を領することになります。
信治はその常陸松岡藩の三代目当主です。
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↑氏照のお墓の裏には小さな石仏や五輪塔がいくつも置かれていました。
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↑往時は、ここにも何か城郭施設があったのではないかと思えるような場所ですね。付近の尾根にも、このような削平地が数多く眠っているのかもしれません。
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↑マスコットキャラクターのうじてるくん。


調べてもらえれば判ると思いますが、北条氏照のお墓は八王子だけでなく小田原にも残されているみたいです。まあ、必ずしもお墓=遺骨が埋められているって訳では無いですからね。こういうのはあくまで気持ちの問題だと思うので、あしからず。


「天地の清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり」


(その1に戻る)


※画像は2011年に撮影したものです。

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2013年5月23日 (木)

八王子城 【武蔵】 3/4 要害地区

八王子城 「その1」では居館地区を、「その2」では太鼓曲輪を紹介しました。
今回は山中の要害地区を紹介していきます。

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↑八王子城主要部における曲輪の配置図。


■要害地区


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↑現在、山頂に向かう道は3つあります。管理棟の裏にある「旧道(旧大手)」と「新道」、それと御主殿の裏から続く「殿の道」ですね。「殿の道」はあまりメジャーでは無いと思うので、この道だけ橙色でルートを示してみました。

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↑【金子曲輪】
管理棟の裏から「新道」を登ると、馬蹄段状に続く腰曲輪と、その脇の梅林を確認することが出来ると思います。これら曲輪郡の頂上に置かれていたのが、金子曲輪でした。
現在は「新道」が馬蹄段を貫通して設置されていますが、往時はこのような道はありませんでした。
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↑馬蹄段とは読んで字のごとく馬の蹄のような形の曲輪が連続して続くことから、つけられた名称なんだと思います。尾根を削平して連続して小曲輪を設けるこの仕組みは、他の山城でもちょこちょこと見かける防御形態です。
攻略して突破するのも手間取りますし、かといって脇の「旧道」を無理に進めば、馬蹄段から側面攻撃を受けて大変な損害を被ることになります。要害地区の玄関口だけあって、かなり堅固なつくりですね。
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↑【柵門台】
現在は「新道」と「旧道」の合流ポイントです。昔はここから「殿の道」の途中にある山王台にも向かえたみたいなんですが、現在は崩落箇所があるとのことで、通行不可になっていました(2011年時点)。
ちょっとした広場になっているので、文字通り木戸として使用されていた場所なんだと思います。
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↑【殿の道に残る石垣群】
「新道」「旧道」とは別に、御主殿の裏から山頂を目指すルートも残されています。それが通称「殿の道」です。
この道は御主殿の裏にあることから、有事の際に城主が素早く要害地区に向かえるよう整備されたものだと考えられるので、「殿の道」という呼称がつけられたみたいですね。
「殿の道」を歩くと、途中で四段の石垣を見学することが出来ます。また、道も無駄に迂回している場所が少ないので、山頂までの距離は最短という効率の良さ。
動画もあるので、興味あるようなら見てみてください。道の雰囲気もわかると思います。

八王子城 2/4【殿の道】
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↑【山王台】
柵門台と同じように、この場所にも「殿の道」方面の監視所や木戸などが設置されていたんでしょう。
巨大な慰霊碑が建てられていて、八王子城攻めの様子などが刻まれています。

ここからは要害地区主要部の紹介です。

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↑【中の曲輪】
現在は八王子神社が建てられている曲輪で、ここから上部には本丸、左右に松木曲輪・小宮曲輪と周囲を曲輪で囲まれた中間点のような場所になっています。
現在本丸と呼ばれる場所はまとまったスペースが無いことから、個人的には天守台という印象が強いので、この中の曲輪が実質の本丸だったのではないかと思ってるんですけど、実際はどうだったんでしょうかね。
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↑【本丸】
たぶん観光に来られた方は、ここを見て「え?これが本丸?たいした広さじゃないな」という印象をもたれることでしょう。そこから"八王子城=大したお城では無い"に繋がってしまうような気もして、ちょっと寂しい・・・。
ただ、天守台と考えていただければ、全然イメージが変わってくるんじゃないかと思うんですよね。
なんて話は観光課の方に任せておくとして、櫓台としは、規模は当然のことながら、その平地のスペースも山中城の天主櫓台より広く、それなりの建物があったとしてもおかしくなんじゃないかと思います。
渡辺勘兵衛曰く、山中城本丸の櫓(この櫓の場所には諸説ありますが)の中には100人近い兵がいたとのことですから、これくらいのスペースでも、思う以上に大きな空間をもつ建物が造れていたのかもしれませんよ。
あと、中世城郭ですから、瓦葺で無かったことも考えられます。
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↑【松木曲輪(二の丸)】
現在は展望台として整備されていて、ベンチなども置かれています。
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↑【小宮曲輪(三の丸)】
ちょっと奥まったところにある小宮曲輪。上杉景勝勢の奇襲にあい、小宮曲輪は陥落しました。このことが、要害地区落城のきっかけになったと言われています。
往時はどのような防御施設が構築されていたのかは判りませんが、二の丸・三の丸も関係なく、主要部はどこか一箇所でも突破されてしまったのなら、あとは脆かったんじゃないかなという印象を受けました。
主要部に立ち入らせないことが、最終防衛線といった感じでしょうか。
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↑【本丸腰北馬蹄段】
主要部には複数の腰曲輪が残されています。これは本丸の西側にある馬蹄段状に続く腰曲輪群。
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↑【北馬廻り道】
主要部を一周するような形で、往時は馬廻り道が設置されていました。今は崩落箇所があるので、一周するのは結構大変です。
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↑【駒冷やし場】
主要部の奥には、詰城である大天守がありました。馬廻り道と接続しているので駒冷やしと呼ばれていますが、要は詰城との堀切です。
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↑駒冷やし場から大天守まで尾根道が続きますが、大天守近くになると、多くの石片を確認できるようになります。
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↑【大天守(詰城)】
この尾根はU字のような形状をしているのですが、その中心というか最高所には「八王子城天守閣跡」と刻まれた碑が残されています。
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↑この大天守の周囲にも馬蹄段状に続く腰曲輪など、多くの遺構が残されているみたいなんですけどね。それらの確認はまたの機会にってことで。
それにしても、本当に多くの石片が残されているんですよね。この石片は、何に使用されたものなんでしょう・・・


主要施設の紹介は、今回はこれで終わりです。八王子城は範囲というか規模もそうですが、遺構も多く残されているので、どうしても紹介がグダグダと長くなってしまいがち。見所が多いというのはいいことではあるんですけどね。東京都在住の自分にとっては、そんなに遠い場所でもないですし、また再訪すればいいかななんて感じで未確認の場所も結構多い。

最後はおまけって訳ではないんですけど、八王子城の周辺に残る北条氏照のお墓を紹介します。


その4
(その1)


※画像は2011年に撮影したものです。

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2013年5月21日 (火)

八王子城 【武蔵】 2/4 太鼓曲輪

八王子城 その1 の続きです。

その1では八王子城の居館地区を紹介しました。ハイキングコースに沿って紹介をしていくのなら、次は山中に残る要害地区となるのですが、その前に太鼓曲輪を紹介していきたいと思います。

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↑八王子城主要部における曲輪の配置図。


■太鼓曲輪


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↑太鼓曲輪は、居館地区や根小屋地区の南側にある、尾根の中に設けられていました。見ての通り、この尾根は八王子城の南側を守る、防壁としての役割を担っていたものと思われます。
ちなみに、太鼓曲輪尾根の南側にも八王子城の関連施設があったみたいなんですが、流石にそこまでの確認は行っていません。
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↑尾根のハイキングコースを歩いて太鼓曲輪を目指すという方法もあるみたいですが、矢印の竪堀を登ることで、比較的簡単に太鼓曲輪を目指すことができます。
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↑傾斜が急な場所にはロープが張られていました。以前訪問したときは無かったと思うんですけどね。見学し易いよう、徐々に整備が進んでいるってことなんでしょうね。有難いことです。
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↑航空写真とかだと位置が説明しづらいのですし、高低差の表現も不可なので、今回は簡単に太鼓曲輪の図を描いてみました。先のGoogleMapとあわせて見ると、かなりイメージし易くなったように思うんですけど、どうですか?
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↑(a) 訪問路の竪堀を登りきると、尾根のなかでも窪地のようになっている場所に出ます。ここは堀切としてカウントされていませんでしたが、規模が大き過ぎるだけで、往時は堀切としての役割を担っていたのではないかと思いますね。
あと、武者溜りとして使用するのにも最適な空間です。
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↑aの場所から太鼓曲輪を目指すと、一番初めに現れる堀切2。尾根をV字に削って、往来を完全に遮断しています。写真では判らないと思いますが、堀切手前より太鼓曲輪側の曲輪のほうが高所にあって、寄せ手を効果的に撃退できるよう、設計されています。
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↑隣の曲輪に入る道。今はロープが設置されていてますが、以前訪問したときにはこのロープはありませんでした。そのときはまだこういう場所に不慣れでしたし、なによりスニーカーだったので足元が滑って大変だった記憶が・・・。かなり苦労したので、そのときはこの曲輪に登ったところで見学を諦めてしまいました。
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↑堀切3。明瞭な竪堀も残されていて、なかなか見応えのある堀切です。ただ、大き過ぎることと、撮影できるスペースも非常に限定的なこともあって、写真だとなかなか写しきれません。
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↑その堀切3の堀底から見上げるとこんな感じです。
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↑太鼓曲輪の中心部と記した曲輪。中心部だけあって、今までの尾根より幅広の場所が多いように思います。往時は、溜池からこの曲輪に続く道が整備されていたのだとか。
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↑堀切4。
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↑ここまでの堀切と比較すると、そんなに凄い防御性がありそうな堀切ではありません。ちょっと造ってみたけど、防御設備としてはあまり意味がなさそうなので、凝った構造にしなかったとかそんな感じ!?
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↑堀切4と堀切5の間の曲輪の側面には、五段石垣と呼ばれる遺構が残されているみたいです。途中に赤テープが貼ってあったけど、そこを降りると五段石垣を確認できるのかな?
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↑戦略上境界線と考えられている堀切5。境界線と指摘されるだけあって、堀切3よりも大きく感じました。ここも太鼓曲輪側のほうが明らかに高い位置にあって、太鼓曲輪の防御を強く意識した構造になっています。
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↑尾根はその先も続きますが、めぼしい遺構は残されていないみたいなので、適当なところで引き返しました。続いて、冒頭(a)の反対側に残る、堀切1を確認しに行きましょう。

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↑堀切1の途中にある片堀切。段差の下に僅かな窪みがあるだけで、明らかにここまでの堀切とは性質が違います。
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↑なんで堀切を置かなかったんでしょうかね。何かしら理由がある筈なんですけど・・・
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↑堀切1。ここも太鼓曲輪側が高くなっていて、守備を意識した構造になっています。
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↑竪堀も非常にハッキリした状態で残されていて、良い雰囲気。
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↑ちょっと道も荒れていますし、この先に遺構はなさそうなので、今回はここで引き返しました。


太鼓曲輪はこれで終了。
次回は山に構築されていた要害地区の紹介です。

その3
(その1)


※太鼓曲輪の撮影時期は2013年4月です。

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2013年5月19日 (日)

八王子城 【武蔵】 1/4 居館地区

場所:東京都八王子市元八王子町(場所)
訪問:2011年ほか(太鼓曲輪は2013年4月)
形態:山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・堀切・土塁・櫓台・石垣・井戸など
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★★★(9.0点)

八王子城は北条氏政の弟、氏照によって築城されました。築城の開始時期については諸説あるみたいですが、概ね1584~1586年頃と考えておけば良いみたいです。
1590年、太閤秀吉による小田原征伐が開始されると、氏照は城代として横地監物・狩野一庵・大石照基・中山家範などと守備兵
3,000人を八王子城に残し、自身は4,000人の兵を率いて小田原城の守備に加わりました。
後北条氏の本拠となる小田原城は早々に包囲され、上野・武蔵・下総などにある後北条氏方の諸城が次々と落城していく中、つい
に八王子城にも豊臣軍による攻撃が開始されることになります。日にちは6月23日と推定されているみたいです。
守備兵は3,000人。対する豊臣方は前田利家・上杉景勝・真田昌幸などの北国勢と、これに降伏した大道寺政繁が率いる降参兵を併
せた50,000人が加わっていました。
正面から主力が押し寄せる中で、搦め手方面(浄福寺城の方面です)からは別働隊が奇襲を行い、これが結果的に要害部の三の丸
にあたる小宮曲輪を攻略。これにより勝負は決しました。
討ち死約2,500人・負傷者約6,000人・捕虜約250人とされています。

それまでの居城だった滝山城も非常に規模の大きな城でしたが、この八王子城も負けず劣らず、というより輪をかけて非常に広大な城域をもつお城になっています。案内所からハイキングコースを通って山頂~大天主まで普通に歩いていくとそんなに平地もないし、意外に収容人数もたいしたこと無いお城だったのかなーなんて受け取られるように思うんですけど、実際はさにあらず。山頂の要害部だけでも、周囲が薮に埋もれてしまっているだけで、パッと見るよりかなり多くの曲輪が残されていますし、大天主や麓の居館地区、さらには太鼓曲輪などをあわせて考えると、八王子城の主要部だけでも如何に広大だったのかを理解してもらえるように思います。
八王子城は主要部以外にも、すぐ脇に小田野城や浄福寺城、さらに初沢城までも支城として使用されていたとされています。後
北条氏の中でも、実質No.2的なポジションだった氏照ですから、それなりの動員力はもっていたのでしょうが、それにしても広すぎというかやり過ぎ感は否めない気が・・・

この八王子城は関東では珍しい、石垣が数多く残る中世山城でもあります。ここまで良好で、しかも豊富に石垣が残されている中世山城は、八王子城と太田金山城くらいしか知りません(唐沢山城の高石垣はちょっと異質なので、ここでの例えからはあえて外しました)。
残された石垣の痕跡を探して歩き回ってみるというのも、楽しいかもしれませんね。ちょっとした冒険感覚を味わえると思いま
すよ。

八王子城は広いので、紹介は4回に分けて行うことにします。
その1→居館地区
その2→太鼓曲輪
その3→要害地区
その4→北条氏照の墓

→記事のショートカット(その1/その2/その3/その4)

※その2で紹介する太鼓曲輪は2013年4月の画像ですが、その他は2011年の画像がメインです。現状では改変されている箇所も見られたので、その点はご留意願います。

【動画】
八王子城(1/4)居館地区
八王子城(2/4)殿の道
八王子城(3/4)要害地区
八王子城(4/4)北条氏照の墓


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↑簡単に八王子城と周辺の状況をまとめてみました。支城として使用されていたと考えられている浄福寺城を除いて考えても、八王子城がいかに広大なお城だったかが判ると思います。

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↑こちらは簡単に作成した、八王子城主要部における曲輪の配置図。その1は山裾の居館地区を紹介していきます。


■居館地区

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↑居館地区には御主殿以外にも、複数の曲輪が設けられていました。あくまで推定ですが、現在の駐車場の辺りは近藤曲輪があって、管理棟の辺りには山下曲輪が設置されていたみたいですね。大抵の見学者はこの管理棟から川に沿って御主殿に向かうか、さもなくば山頂を目指して金子曲輪を抜けるハイキング道に入ってしまうんだと思いますが、往時は山下曲輪と御主殿の間にも曲輪が設置されていました。それが写真のアシダ曲輪です。
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↑アシダ曲輪はだいたい3段に分かれています。これは最下層の3段目。奥に井戸が見えますよね。あの井戸は、昔から残されているものなのでしょうか。
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↑このアシダ曲輪付近には何体もの石仏が置かれています。現在の設置は16体だけらしいのですが、昔は108体の石仏が配置されていたみたいなんですよね。
たしか戦後(WWⅡ)の混乱期に、人力で簡単に運べるサイズの石仏は何者かに持ち去られてしまった、などという記事をどこかで読んだ記憶があるのですが、どこで読んだのかが特定できなかった・・・
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↑アシダ曲輪と山下曲輪の間にある堀切。天然の沢を活用したものなんでしょうが、これはこれで雰囲気があって立派です。花籠沢と呼ばれているみたい。
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↑アシダ曲輪から御主殿に直接向かえるのですが、それは止めにして、通常の観光コースに戻りましょう。
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↑大手道。左の写真の場所には薬医門が設置されていたことが、調査にて判明しています。
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↑この大手道をぶった切るように竪堀が伸びています。自分はこの竪堀から太鼓曲輪に向かうんですけど、細かい話はその2の太鼓曲輪の項目にて。
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↑大手道を歩いていくと見えるのが、この居館地区最大の見所である、曳き橋と御主殿の虎口です。
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↑下から見るとこんな感じ。う~ん、立派。

ちなみに曳き橋は往時の構造が判らないので、あくまで想像を基に作成されたものです。また、橋の架かる位置も若干移動されています。

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↑この踊り場からは門の痕跡が発見されていて、しっかりと礎石の跡が復元されています。あと、江戸時代より前の時代のお城ですから、いま見れる石垣も殆どが当時からのものではなく、あくまで見学用に再現された箇所が大半です(一部残されているみたいなんですけど、どこなんだろ・・・)。

で、写真右が検出時の踊り場の状態です。かなり雰囲気があって良い感じ。
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↑御主殿。ここからは多くの建物や庭園の跡が調査によって発見されています。また、建物以外にも陶器や武器・武具などの遺物が数多く見つかっていて、中にはベネチア産のレースガラス器の破片まで残されていたらしいです。
御主殿は今でもかなり広い場所に感じる場所ではあるのですが、この奥にはまだ西曲輪が往時は存在していたというから驚きですね。


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↑八王子城で検索すると、必ず引っかかるのが心霊というワードですね。その方面が目的で訪れる人達がまず目指すであろう御主殿の滝は、このすぐ脇に残されています。
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↑で、これが御主殿の滝です。2~3段の落差がある滝ではあるのですが、ここから見る限り、大した高さはありません。現状の高さで身投げをしても、せいぜい骨折が良いところで、よほどのことが無い限りは落命なんてしないでしょうね。

ただ、だからといって伝わる悲劇の歴史が嘘だったというのは間違いだと思いますよ。
というのも、この滝(というより城山川)の脇を通る道は、江戸時代に林道として整備されたものらしいので、滝自体の落差は同じでも、この周辺の地形はもっと峻険だった可能性もあります。
もしくは、この滝の川上にある溜池が主な自害の現場だった可能性も捨てきれないじゃないかなと。
あと、普通は自害なんていうと介錯する人がつくでしょうからね。ああ、なんか想像していったら切がないですね・・・

なんにしても八王子城が悲劇の舞台であったことは、ほぼ間違いの無い事実だと思います。なので、あまり軽率な行動は慎むようにしましょう。


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↑付近に残る石垣。これは遺構として捉えても良いのかな?


居館地区の紹介はここまで。
続いては太鼓曲輪の紹介です。

その2



※居館地区の画像は2011年のものなので、2013年現在でも一部違いがありました。一応、注釈としてコメントしておきます。

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2013年5月16日 (木)

初沢城(椚田城) 【武蔵】

場所:東京都八王子市狭間町(場所)
訪問:2013年4月
形態:平山城
遺構:曲輪の他は竪堀・土橋・木戸っぽいものなど
指定:東京都指定史跡
駐車:配水所まで続く道の付近に路駐しました
満足:★★★★★(5.0点)

別名・椚田城とも。築城に関しては諸説あるみたいで、片倉城の長井氏が築城したという説や、武蔵七党・横山党の一族である椚田氏の居城だったとする説まであるみたいです。
八王子城とは距離が近いことから八王子城の出城として使用されていたと考えられているみたいですが、実際はどうだったんでしょうかね。いづれにせよ、八王子城の落城とともに、初沢城も廃城になったものと思われます。

基本的には細尾根のところどころに郭を設けてある感じの、居住空間に乏しい詰めの城や狼煙台的な印象を受ける城址なのではないでしょうか。ちょっとした広場は狭間町から登った先にある給水施設がある場所と、高尾天神社付近くらいしかありません。
ただ、給水施設のある側と高尾天神社のある側は一城別郭のような雰囲気があり、もとは現在の狭間町あたりにある集落を守るための施設だったものが、時代を経て狼煙台→八王子城の出城として役割が変化していったということだけなのかもと思ったりもしましたね。

八王子城と同じくこの初沢山も岩盤を多く有する場所だったみたいで、ところどころで露出する岩を散見することが出来ました。
そういえばあれですね。第二次世界大戦のとき、初沢山の地下には軍需工場が造られていたのだとか。たしか、浅川地下壕とか言った様な・・・

※動画は撮影していません
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↑GoogleEarthで見ると、多少は高低差がわかり易いかもしれません。こうしてみると、初沢城の裏手にある狭間町住宅街は、ちょっとした高みにあることが理解できると思います。
橙色で表現した坂道のあたりにも、昔は何かしらの防御施設が造られていたのかも知れませんね。
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↑住宅街のちょっと手前から撮影した初沢城。
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↑簡単な解説図です。青の数字に沿って、初沢城を紹介していきたいと思います。
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↑① 台地上まで続く舗装道の影響で崩されてしまっていますが、昔は木戸でもあったのかなと思わせる地形ですね。あくまで妄想の世界での話ですが。
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↑その先は細尾根になっていて、住宅街入口の公園まで続いています。
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↑② 給水施設。ここはそれなりの広さが確保されていますが、旧状がわからないのでなんとも言えませんね。まあ、ここに給水施設を設置しようと思うだけの場所であったことは、間違いありません。
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↑③ 雰囲気が虎口っぽいので掲載。
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↑④ Ⅰに続く尾根道。ここ、両脇を竪堀状に削って土橋を設けてあるように見えるんですけど、何故ここに?
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↑⑤ 初沢城の最高所にあたるⅠ。といっても、郭と呼べるだけのスペースは存在していません。下段もあるので、先ほどの尾根道よりは広いですが。
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↑⑥ ⅢからⅠを目指した場合、矢印のように屈折した道を上がると、その先にある小スペース(写真右)に入り込む。なんというか、作りが枡形っぽい印象を受けませんか?
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↑⑦ これも木戸のように感じた場所。この場所に木戸があったら嫌だなと感じただけなので、あくまで妄想と捉えてもらって構いません。
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↑でも、ここから見下ろすとこんな感じです。どうです?すごく守り易そうだと思いませんか?
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↑ⅠとⅢはこんな細尾根で接続されています。
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↑⑧ Ⅱ。Ⅲよりも高所にあって、その方面から寄せる敵を防ぐ防壁のような役割を果たしていたんじゃないかと思います。
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↑というのもⅢから寄せ手がⅡを突破しようとした場合、Ⅱへ直接登る道を遮断されると、寄せ手はⅡの先にある細長い塁を、矢印のように先端でUターンしながら進むしかありません。当然、寄せ手はⅡからの攻撃に苦しまされる訳で。
Ⅱへ直接登る道を強固に遮断する方法は、各自でお願いします。
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↑⑨ Ⅲ。給水施設があった場所を除けば、初沢城で一番の広さをもつ郭だと感じました。自分は上から見ただけですが、下段には高尾天神社のある敷地もありますしね。

2013年5月14日 (火)

today news

秀吉最後の城を全域調査 京都・伏見、創建時の石垣確認

豊臣秀吉や徳川家康の居城だった伏見城跡(京都市)のほぼ全域を研究者団体の大阪歴史学会や京都府が調査し、巨大な土橋や創建当初のものとみられる豪壮な石垣などを確認したことが13日、分かった。伏見城は築城の名手と呼ばれた秀吉が最後に造った。同じ場所に明治天皇陵が造営されたことから、遺構の大半は桃山陵墓地として立ち入りが規制され、研究が進んでいなかった。

 城跡は80万平方メートル(東京ドーム17個分)に及ぶ。宮内庁が陵墓地でこれほど大規模な文化財調査を許可するのは異例。天下統一後の秀吉の権勢や高い築城技術を示す一級史料になりそうだ。

 関係者によると、本丸と二の丸を渡る巨大な土橋(長さ約40メートル、幅約5メートル)や幅数十メートルの堀、天守の土台(一辺十数メートル、高さ約5メートル)など多数の遺構を確認した。

 各地の自然石を積み上げた秀吉時代に特徴的な石垣は高さ約7メートル、長さ約20メートル分が残っていた。花こう岩を割り出した徳川期とみられる石垣には長辺1.8メートルの巨岩を用いていた。

 同学会と共同調査する中井均滋賀県立大教授(城郭史)は「建物や石垣は廃城時に大半が他の城へ移築されたが、基礎部分がよく残っており、驚いた。秀吉や家康の城で地上に痕跡をとどめている例はほとんどない。陵墓ではない部分だけでも一般公開してほしい」と話す。

 伏見城は当初、近くの宇治川沿いに築かれたが、1596年の慶長伏見地震で倒壊し、今回調査された山上に建て直された。1600年に関ケ原の戦いの前哨戦で焼け、家康が再建。1623年に廃城となった。1912年に明治天皇が本丸付近に埋葬されて一帯が陵墓地と位置づけられ、立ち入ることができなくなった。

 宮内庁は2009年、城跡の一部を研究者団体に公開。遺構が確認されたものの、調査はわずか数時間で詳細は不明だった。このため同学会が追加調査を申請。明治天皇陵がある本丸の一部などを除き、許可を得た。11~14年にかけて年1回、数日間ずつ踏査や写真測量を続けている。

 京都府文化財保護課も中世城館遺跡の分布調査の一環として、12年2月に5日間かけて遺構を簡易測量、概略図を同課のホームページに掲載した。14年春にも伏見城跡を含む地域の報告書を刊行する。〔共同〕

↑これはgood newsですね。調査報告書が刊行されたら、何とか手に入れたいものです。

2013年5月13日 (月)

鹿島城 【常陸】

場所:茨城県鹿嶋市宮下(場所)
訪問:2013年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・土塁など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★★(6.0点)

鹿島氏は大掾清幹の三子・成幹が鹿島に居を定めたのが始まりとされています。鹿島氏は鹿島神宮の西方にある吉岡に城を築いたため、鹿島城は別名・吉岡城とも呼ばれているみたいですね。
治承・寿永の乱(源平合戦)では源氏方として参戦し、南北朝の乱では本家の大掾氏とともに北朝側につくなどして着実に勢力を維
持しつづけていくのですが、室町時代も後期に入るとお家騒動がたびたび勃発して鹿島氏の勢力は徐々に衰退していくことになります。
豪族としての鹿島氏は1591年の「南方三十三館の仕置き」によって滅亡しますが、徳川家康は鹿島義幹の外曾孫である国分胤光に
鹿島氏をつがせ、鹿島惣大行事家として鹿島氏は現在まで存続していくことになります。

現在の鹿島城は、鹿島義幹が1523年に大規模改修したものが残されているみたいです。完成した鹿島城はそれはもう立派で、その規模は中世城郭としては群を抜いていたのだとか。
鹿島義幹は皮肉にもその直後に鹿島城を追われ、勢力の回復を目指した高天原合戦で戦死してしまいます。ちなみにこの合戦に
は塚原卜伝も参戦していました。

宅地化の波に襲われて主郭以外の面影は皆無ですし、その主郭も公園化による改変もあって郭内は旧状を留めていなかったりしていますが、それでも東側に残る堀跡はかなりの規模で、当時の中世城郭の中では群を抜く規模と言われた鹿島城の片鱗は残されているように思います。
季節柄、鹿島城山公園はお花見の特別会場的な雰囲気に満たされていました。こうなるとビデオカメラを片手にうろつく自分は
不審者以外の何者でもなくなってしまうので、じっくり散策できないのが嫌ですね。
まあ、観光地でも同じようなことが言えますけど。

※動画はまだ作成していません
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↑遺構が残されているのは本郭周辺のみですが、東端は鹿島神宮二の鳥居辺りまでとされているので、往時はこんなに大きな城域をもつお城だったんですね。
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↑本郭の大きさは鹿行のお城の中では文句無くNo.1の広さです。いや、別に鹿行で無くても、これだけ広い本郭をもつ城なんて、そうは無いですね・・・
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↑これだけの広さですから、当然郭内は土塁や堀で仕切られていたんだと思います。でも今は殆ど面影は残されておらず、ハッキリ判るのはこの土塁跡くらいなものです。
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↑周囲を廻っていたであろう土塁は、今は遊歩道として整備(?)されています。
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↑公園の西端は絶景スポットです。ここからは霞ヶ浦などが一望できます。
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↑ふと下を見ると、そこには腰郭が。この腰郭もでかいな・・・
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↑腰郭は北側斜面にも残されています。
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↑鹿島城最大の見所である、本郭東側の空堀。とてつもない大きさです。この堀が確認できただけでも、来た甲斐があったというものですね。
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↑最後は堀底から。


佐竹氏の謀略で主を失った鹿島城ですが、多くの国(城)が佐竹氏に開城して降伏する中、鹿島城は玉造城や嶋崎城と同様に、佐竹氏に徹底抗戦の構えを見せます。
ただ、これだけ壮大な堀を持つ鹿島城も時流には逆らえないのか、抗戦むなしく半月ほどで落城しました。平城や平山城は技巧性云々言っても、結局士気以外に堅守で一番大事なのは、敵を寄せつけない深くて大きな堀だと自分は思っているので、そういう要件は一応満たしている感じなんですけどね。
まあ、鹿島氏は冒頭で紹介したとおり内紛も多かったみたいなので、そういった要因も関係しているのかな。結城合戦のときの結城城の様にはいかないか・・・

2013年5月12日 (日)

today news

秀吉の戦略指示書見つかる 賤ケ岳合戦、滋賀で展示

1583年に羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳(しずがたけ)の合戦で、秀吉が戦場に向けて具体的な戦略を指示した古文書が見つかり、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館が11日、展示を始めた。同博物館は「合戦の当事者のやりとりが分かる史料は珍しく貴重だ」としている。

 賤ケ岳の合戦では、同年3月中旬から長浜市の余呉湖周辺で羽柴、柴田両軍がとりでを築き、にらみ合いを続けた。

 文書は、秀吉の弟で当時前線にいた羽柴秀長に宛てた「羽柴秀吉書置 羽柴秀長宛」の墨書で、縦30センチ、横約45センチ。黒田官兵衛や木村隼人などの名前を挙げ、自軍のとりでの周囲にある小屋を壊すことなどを指示している。

 博物館によると、文書には「小屋の空き地に軍勢を送るので、今いる軍隊は前線から撤退してはいけない」とも記されており、小屋の破壊は最前線の軍勢を増強することを狙った作戦とみられる。この合戦への黒田官兵衛の参戦は従来、一部の史料でしか確認が取れていなかったといい、博物館は「今回の発見で参戦が確定できた」と評価している。〔共同〕

↑日経新聞より抜粋。

「天空の城」で挙式 千葉のカップル、兵庫・竹田城跡で

雲海に浮かんで見えることから「天空の城」と呼ばれる兵庫県朝来市の竹田城跡で11日、千葉県浦安市のカップルが結婚式を挙げた。小雨の中、2人は観光客らに見守られながら永遠の愛を誓い合った。

 朝来市のNPO法人が企画し、全国からカップルを募集。地元高校生のブラスバンドも参加し、門出を演出した。

 新郎の会社員、二宮真之さん(34)は「幻想的な雰囲気を満喫できた」と笑顔。新婦の歯科衛生士、光世さん(29)も「とても幸せです」と喜びをかみしめた。奈良県から観光に来た会社員、片岡由佳さん(23)は「とてもすてき。一生の思い出になると思う」と祝福した。

 竹田城は1400年代に築かれたとされ、現在は石垣だけが残る。朝と日中の気温差が大きい秋から冬にかけて、近くの川霧が雲海となって周囲を取り囲む。〔共同〕

↑同じく日経新聞より。竹田城は天空の城という売りがあるからアピールし易いんでしょうけど、こういうことがきっかけとなって、もっと自治体が保全に対して積極的になっていってくれれば良いですね。個人ボランティア頼みの場所は、やはり保全期間に限界があるように思うので。

2013年5月10日 (金)

楯の宮館 【常陸】

場所:茨城県鹿嶋市和(場所)
訪問:2013年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・土塁など
指定:不明
駐車:台地続きにある墓地の近辺に駐車させていただきました
満足:★★★★★★(6.5点)

「余湖くんのお城のページ」に掲載されている楯の宮城の項を参考にして、楯の宮城を訪問してきました。詳しい歴史は判りませんが、図を見るとしっかりした遺構が残されていそうなので、訪問予定に追加。

突入口に決めていた墓地がすぐに発見できなくて、諦めて戻ろうとした矢先に目的の墓地を発見。
その墓地から尾根に突入し、残されている横堀道を進んでいくと、土塁などの遺構がしっかりと残されていました。

※参考サイト 「余湖くんのお城のページ

※動画はまだ作成していません
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↑「余湖くんのお城のページ」に掲載されている縄張り。
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↑今回、訪問に際して目印としていた墓地。墓地の端にある薮の壁を突破すると、間違っていなければ横堀が見つかる筈です。
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↑横堀道に沿って歩いていくと、Y字の分岐が。Y字の分岐は館跡まで2箇所ありましたが、そのどちらも最終的には合流する感じだったので、左右どちらの道を選んでも大丈夫だと思います。不安でしたら、左右の横堀道を横目で確認しながら、台地の中央を歩くなどして対処すれば問題無い筈です。基本は尾根に沿って先端を目指す、それだけですから。
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のあたり。
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。楯の宮館の虎口だったと思われる場所です。自分には枡形のような感じを受けました。
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↑郭内は全体的にこんな感じで、視界は悪いです。
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↑それでも周囲を廻る土塁は、案外しっかり残されていました。
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。この空間はどのような意味をもって造られたんでしょうか。


余湖図を見ると判るのですが、郭は二段に分かれています。見学していてそのことは理解できたんですけど、上段は結構な薮だったので、確認しませんでした。
帰宅して縄張りを確認すると、そちらには下段よりもっと広大な敷地が残されていたことを知り、ちょっぴり後悔。まあ、仕方ないですね。またの機会をうかがうとしますか・・・

2013年5月 7日 (火)

林外城 【常陸】

場所:茨城県鹿嶋市田野辺(場所)
訪問:2013年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・堀切・土塁・櫓台など
指定:市指定文化財
駐車:林中城の傍に駐車したほうが無難です。自分はそれをしなかったばっかりに・・・
満足:★★★★★★★(7.5点)

林城は鹿島氏の一族・鹿島三郎成幹が林六郎左衛門と称し、この地に城を構えたのが始まりとされています。徳宿城が水戸城の江戸氏に攻撃された際、鹿行下総から徳宿氏の援軍として千五百人が出兵していますが、林氏も鹿島氏と一緒に出兵していたという記録が残されているみたいですね。
林氏は戦国時代に林・青塚・奈良毛・角折・志崎などの地を領して勢力を伸ばしますが、1591年、当時の城主・林清貞は佐竹氏の招き
に応じて太田に向かう途中、札の渡し場で家臣に殺害され林氏は断絶。林城も程なくして廃城になったものと思われます。

札の渡し場って札城近辺の渡し場と考えれば良いんでしょうかね?殺害の要因は、時期的に佐竹氏が仕組んだ謀略と考えるのが自然だと思いますが、林外城から札城まで直線で7~8kmといったところで、結構近いです。自領からそう遠くない場所での殺害行為ということから考えてみると、何とも切なくなりますね。林氏の重臣たちは、その後はどのような対処を行ったのでしょうか。

以前の林外城は結構な薮だったらしいのですが、最近は整備を積極的に取り組んでいただけているみたいで、遺構をはっきりとした形で確認することが出来ました。詳しくは「余湖くんのお城のページ」の林外城の項にいきさつが記載されていますので、そちらで確認してみて下さい。
主郭周辺は一部の堀が崩されていたり埋められるなどの改変の痕跡も見受けられますが、全体的には遺構が非常に良く
残されています。今は畑地として使用されている外郭(Ⅳ)も含めると、林氏は非常に大きな勢力を誇っていたと考えても良いのでしょうかね。
この林外城の北東、低地を挟んだ向かいの台地には、林中城と呼ばれる城館跡も残されています。案内には林中城が往時の住居で、この林外城は要害として使用されていたように記されていましたが、自分はちょっと疑問ですね。
低地は湿地ばかりだったと思われる鹿行の城ならではというか、このあたりのお城は、平山城でも領主の生活の場は、本郭などの主要な郭に置かれて
いたんじゃないかと考えています。そんな訳で林中城は、三階城に対する要害城のような監視所てきな役割か、もしくは岡見城のような林外城が築かれる前の時代に使用されていた城館なんじゃないかななんて。
まあ、あくまで想像です。特に根拠がある訳ではないので、あしからず。

※動画はまだ作成していません
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↑北西から見た林外城。
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↑見て廻った範囲をmapに記してみました。なお、三郭の堀は今回確認していないので、「図説・茨城の城郭」に掲載されている縄張りを参考に、追加で記載したものです。
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↑この鳥居をくぐって竪堀状の参道を登っていけば、二郭までたどり着けます。
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↑その参道脇というか、北側の斜面には無数の腰郭が確認できました。
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↑大雑把な感じではありますが、ちょっと主要部の状況をまとめてみました。
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↑二郭の現況。二郭には虎口と思われる場所が三箇所残されています。
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↑二郭の虎口a。虎口aは坂虎口になっていて、その先は横堀に繋がっています。一方、虎口bとcは本郭の堀の延長にあって、二郭と本郭の土塁を切断するために切込みを入れたのか、はたまた後世の改変なのかの区別がつけづらいです。特に虎口cは、本当は無いほうが防御上は良いと思いますしね。なのでこのブログでは、虎口aが二郭のメイン虎口だったということで、考えたいと思います。
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↑二郭と本郭はもともと堀と土塁で仕切られていたようですが、今はその堀と土塁の中央部分が崩されてしまっているので、一見すると同じ郭のように思えてしまいます。ただ、本郭・二郭ともに外周の土塁は良い状態で残されているので、ご心配なく。
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↑残された仕切り土塁に残る本郭の虎口。写真右は主郭内部の様子。
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↑鳥居から続く参道は、本郭の堀に直結しています(虎口b)。あの参道は、竪堀を歩き易いように改修したものなのかも知れません。なお、奥のお社が見える場所は、櫓台だったと思われます。
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↑本郭南側の土塁は高さだけでなく厚みもあって、迫力満点です。ここからは三郭や堀に寄せる敵が丸見えですね。このあたりが林外城の最大の見所だと思います。
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↑三郭から見る虎口c。本郭南側の土塁がどれくらい高いのか、判りやすいですよね。
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↑主要部と三郭を分ける堀も、規模が大きいのでとても良い雰囲気です。10m近い幅がありそうな感じ。
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↑堀の西端は広くなっていて、枡形のような空間を形成していました。この空間の存在意義をいろいろ考えてみたんですけど、今のところの結論は、その脇にある帯郭(写真右)から侵入してきた敵を食い止めるための仕掛けだったということくらいしか思いつかないですね。この帯郭、今回は行きませんでしたけど、三郭の堀とも繋がっているみたいなので、そういったことも関係しているんじゃないかと。
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↑滅茶苦茶ひろい四郭。まだこのあたりまで両脇は低地なので、防御性も十分に確保されていたと思います。ちょっと脇に入ると土塁なども見れますので、こちら側も散策してみてはどうでしょう。

2013年5月 6日 (月)

見かけたもの


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灯篭坂大師にて。

2013年5月 5日 (日)

塚原卜伝の墓

場所:茨城県鹿嶋市須賀(場所)
訪問:2013年4月
駐車:有

嶋崎城から林外城へ移動してる最中に案内を見つけたので、ついでに立ち寄ってみました。塚原卜伝はあまりにも有名だと思うので、特に解説は不要ですよね。つい最近までNHKにて堺雅人主演でドラマを放送してましたし。

ちょっと後悔なのが塚原城を訪問しなかったこと。鹿島城を訪問する際には塚原城もあわせて訪問しようとずっと考えてはいたのですが、今回ネットで塚原城のことを調べてみると結構な薮らしいとの情報だったので、訪問予定から外してしまったんですよね。薮突も微妙な時期にさしかかってきたので、仕方なかったと思います。
卜伝のお墓にきて塚原城への訪問意欲が再燃したんですけど、場所が判らないので如何ともしがたく、今回はパスしました。また機会があれば訪問してみたいですね。そう、機会があ
ればね・・・

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↑ちょっと奥まったところにあるのですが、案内がしっかりしているので迷うことは無いと思います。
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↑塚原卜伝のお墓
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↑そう遠くないところに塚原城はあります。ついでに立ち寄ってみるのも悪くないですね。

2013年5月 4日 (土)

5/4 訪城報告

本日は千葉県の造海(百首)城→天神台城→真里谷要害城を訪問してきました。

造海城は思う以上に整備が行き届いて快適に見学(なんと4時間も!)できたんですけど、真里谷の天神台城と真里谷要害城は薮で駄目駄目でしたね。
天神台城は山上の水道施設がある平地以外はフェンスと薮に阻まれて断念。
真里谷要害城は秋葉神社の裏にある堀は確認できたんですけど、倒木やら倒れた竹が多くて奥に進むのが面倒になり、こちらもあえなく退散です。
逆方面から攻めて、三重の三日月堀だけでも確認しておくか迷いましたが、これも来シーズンに持ち越すことにしました。場所は判ったので、またいつでも来れますし。

今日は1勝2敗か。
天神台城で遭遇した野うさぎ(山田城に続いて今年二度目ですね)は良いとして、造海城では早くもスズメバチを見つけちゃいました。時期が早いので攻撃性は低そうな感じだったけど、やっぱりあの威圧感のある羽音と巨体は嫌ですよね。

そんなこんなで、今シーズンの薮漕ぎはそろそろ終了です。
次シーズンまでは薮漕ぎの必要ない、整備された城址をゆるゆると見学していきたいと思います。

2013年5月 3日 (金)

嶋崎(島崎)城 【常陸】 2/2

島崎氏の居城だった嶋崎城の後半です。前半(嶋崎城 1/2)を確認したい場合はこちらから移動して下さい。


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↑嶋崎城の簡易mapです。紹介ポイントをナンバリングしてありますので、記事を見る際の参考にどうぞ。

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7 前半でも紹介したⅡ郭脇の横堀っぽい参道。その途中にⅡ郭への虎口が設けられています。

虎口を抜けると堀2とⅡ郭に入る通路に分かれています。まずはⅡ郭内部へ。

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8 東二郭とよく紹介されているⅡ郭。南北に細長い形状で、土塁も良く残されています。
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9 中でも二重堀沿いにあるⅡ郭北側の土塁は、厚みも増してあり、武者走りを広く確保してある感じでとても良かったです。やはり二重堀の向こうに寄せる攻め手を意識してなんでしょうかね。
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↑ただ、二重堀の真ん中には、まさに外壁と呼ぶに相応しい非常に大きな土塁が置かれていて、このままここからⅤ郭の様子を確認することはできなかったと思います。となると、もしかしたらここに櫓が設置されていたのかも知れませんね。うーん、想像が膨らむなぁ。
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10 馬出とⅡ郭の間にある堀2。
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↑この堀2の東端というか終点は、削り残されたような感じの、土橋みたいな場所が残されています。でもこれ、本当に土橋として使われていたんでしょうかね?細道なので、土が滑りやすい状態のときに渡って足を滑らせると、そのまま城外に滑落なんていうことにもなりかねません。平時は使用していなかった、もしくは長年の風雨で形状が変わっただけとかいろいろ想像しちゃうんですけど、真相は如何に!?
そういえば花園城にも同じような土橋が残されてましたね。うーん・・・
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11 Ⅱ郭側の二重堀(内)。非常に大きくて、深さは8m近くあるのではないでしょうか。この堀はⅡ郭の北東側まで回り込む形で設置されています。もしかしたらこの北東側は、武者溜りとしての役割を担っていたのかもなんて考えてみたり・・・
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↑堀底にはこのような大きな石が、いくつか転がっていました。この台地、石材は豊富に確保できたんじゃないかと思うので、もしかしたら石垣もあったりしたのかな?これまでの発掘調査で、庭園遺構や暗渠石積は検出しているみたいなんですけどね。どうなんだろ。
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12 二重堀の真ん中に置かれている外壁。
写真左:外壁の内側には腰郭が設置されています。
写真右:外壁上部。ここから見る二重堀(外)はとんでもない高低差で、覗き見るのが精一杯というか、撮影する気が失せるくらい怖かったです。
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13 その二重堀(外)。この辺りは大した規模ではないんですけど、奥はちょっとした渓谷になっているので、外壁上から見ると凄まじい高低差となる訳ですね。
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14 Ⅴ郭。この鉄塔の奥にも堀や土塁が残されているらしいのですが、今回はそこまで確認しませんでした。

2013年5月 1日 (水)

嶋崎(島崎)城 【常陸】 1/2

場所:茨城県潮来市島須(場所)
訪問:2013年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀・土塁・馬出・井戸など
指定:不明
駐車:城址碑の傍に駐車しました
満足:★★★★★★★★(8.0点)

嶋崎城は行方四頭の一角、島崎氏の居城として、室町時代中頃に築かれました。長山氏麻生氏を制圧したり、近隣の鹿島氏と抗争に明け暮れるなど武威を誇りましたが、佐竹氏による「南方三十三館の仕置き」によって当主親子が謀殺され島崎氏は滅亡。その後の当地の行政機構は堀之内大台城が担うことになり、嶋崎城も廃城になりました。

完全に消滅してしまった堀之内大台城とは違い、ここ、嶋崎城には遺構が非常に良い感じで残されています。本郭の堀も岩盤を削ったような感じで雰囲気満点ですし、それ以外にも非常に大規模な二重堀や井戸跡など見所満載でなかなか飽きさせません。

流石というか、往時の島崎氏の勢いが色濃く残されているように感じました。
鹿行の城址には多いですが、ここも周囲の低地にある田んぼは昔はもっと深い泥地だったみたいで、水堀としての機能を有して
いたんでしょうね。

注意するポイントとしては駐車場所が少ないことですかね。自分は住民の方に相談して、今回は城址碑の傍にある小スペースに駐車しましたが、ここはゴミ集積場所でもあるので、タイミングによっては危険かも。
意外と嶋崎城目当てで訪問してくる人は多いみたいなので、みんなうまいこと対処しているんでしょうけどね。

紹介処が多かったので、記事を2つに分けました。後編の記事には、こちらから移動できます。

※動画はまだ作成していません
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↑嶋崎城遠視。矢印の場所に大手があったと伝えられているみたいです。その伝大手には城址碑が置かれていました。
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↑簡単なmapを作成してみました。紹介ポイントごとにナンバリングしてありますので、確認する際の参考にしてみて下さい。
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1 主郭だったと思われるⅠ郭。現在は御札神社の境内として使用されています。郭はそこそこ広めな感じなんですけど、主要部以外は薮です。
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2 Ⅰ郭の虎口。その虎口を抜けると、先にある馬出との間に、堀というよりも枡形と形容したほうが良さそうな空間が設けられていました。
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3 馬出の現況。
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4 堀1。岩盤を削って造られており、雰囲気も満点です。
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↑堀の途中に畝状の膨らみがあったので左右を確認してみると、写真のような状況になっていました。もしかしたら、ここに木橋でも架かっていたのかな?Ⅰ郭側にも張り出しがあって、単に崩れてしまったってだけの落ちかもしれませんけどね。この堀にも発掘調査が入っているんだとしたら、資料を見れば真偽がわかるかもしれません。
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5 西二郭とよく表記されているⅢ郭の現況。見ての通り凄まじい薮で、とてもじゃないですが立ち入る気にはなりません。城址碑のあった大手口から城内に向かって歩いていくと、一番初めに到着するのが、このⅢ郭の切岸です。ということでこのⅢ郭は、大手を見張る重要な役割をもった郭だったんでしょうね。
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↑Ⅰ郭とⅢ郭に間にある切通しの通路。ここも堀1と同様に、盤を削って造られているんですよね。なんだか千葉県南部の城を思い出してしまいました(しかも何故か佐貫城が頭に浮かびました)。
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6 水の手郭とよく表記されているⅣ郭。ここには井戸跡(写真右)も残されています。なんでも、嶋崎城が落城する際に、家臣の一人が金鶏と一緒にこの井戸に身投げしたのだとか。周りにシダが覆っていて視界が悪かったのであまり近づきませんでしたが、結構深い井戸なのかな?
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7 Ⅳ郭とⅡ郭&馬出の間にある、Ⅰ郭の御札神社まで続く参道。この参道、往時は横堀だったのかⅡ郭&馬出には堀のような窪みが残されています。
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↑その参道の先にある、大手口と接続する虎口。現地にいるときは、参道を設置するために造られた道なのかなと思っていたんですけど、そうでは無いのかもしれませんね。もともとここには虎口があって、それを参道設置に併せて拡張しただけなのかなと思うようになりました。


長くなったので、続きは後半で。後半はⅡや二重堀、Ⅴを紹介していきます。
その2

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