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2013年6月

2013年6月30日 (日)

伊豆長浜城の動画をアップロードしました

昨日の今日ですが、何か妙に長浜城が気に入ってしまったので、モチベーションが高いうちに早速の動画編集&アップロードです。


※ニコニコ動画Verはこちらから確認できます。

ブログによる紹介はちょっと先になるので、縄張りだけ先に紹介しておきますね。

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↑現地の縄張図に若干手を加えてみました。動画と併せて確認してみてください。

今回もかなり自分好みに作成してるんですけど、どうなんだろ。ヒストリーchやNHKも、もっとこういう内容だったらかぶりついて見るのにな。
「にっぽんの名城」や「坂東三津五郎がいく 日本の城ミステリー紀行」みたいな作品をお願いします。


Tubeのサムネ、ろくなのが出てこなかったですね。サムネって動画の顔なんだから、もうちょっとニコニコ動画みたく選択できると良いのに。


興国寺城も簡単に紹介できそうですし、土塁など遺構の迫力も半端無いので、もしかしたら編集しちゃうかも知れません。でも、まずはブログ記事を作成することのほうが先かな・・・

 

2013年6月29日 (土)

6/29 訪城報告

今日は伊豆の伊豆長浜城→堀越御所→韮山城→沼津城→興国寺城を散策してきました。
微妙な天気予報が気になっていたんですけど、杞憂に終わりましたね。ただ、富士山だけはガスに隠れてて映像に収めることが出来なかったのが残念。

オフシーズンなので難易度低めの場所ばかりですけど、満足度はなかなか高かったです。

伊豆長浜城は甲斐武田氏が駿河を制圧した際に、武田方の水軍に対して対抗するために後北条氏によって整備された海城です。
伊豆長浜城自体の規模はそう大きくも無いんですが、今は整備も行き届いて見学し易い&小さいながらもなかなか技巧的で想像していた以上に楽しめる城址に進化していました。ビデオ編集、頑張ってみようかな。

韮山城、ボランティアと回っていらっしゃる方がいたので途中から相乗りさせてもらったんですけど、ボランティアの方に城マニアって指摘されちゃいました(笑)。つい饒舌に喋りすぎた感が否めないですね。ちょっと反省。

興国寺城ではかぶとむしを発見しちゃいました。昆虫採集に来ている親子がいたので、さりげなく居場所を教えることに。
興国寺城は整備計画が着々と進行しているみたいです。三の丸あたりを穿っていたので、来年くらいには何かしらの進展があるんじゃないでしょうか。
ちなみに伊豆長浜城も本年中には整備が終了するみたいです。こちらはあらかた終わってるように見られたので、そんなに整備の進捗状況は気にしなくていいかも知れないですね。

伊豆訪問分のブログは7月中旬頃からの公開になると思います。

Photo
↑タイミングが会わなくて食せなかったけど、坦々やきそばってなんですか?1回食べてみたいですね。




2013年6月28日 (金)

中久喜城 【下野】

場所:栃木県小山市中久喜(大字)(場所)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・土塁など
指定:国の史跡(小山氏城跡)
駐車:なし ※付近の農場の方に断って駐車しました
満足:★★★★★★(6.0点)

築城年代は不明みたいです。
中久喜城は小山氏居城の祇園城と結城氏の居城だった結城城のちょうど中間くらいに位置する城で、小山氏の支城として機能していました。
小山氏より結城政勝の養子として結城家に入り、その後に17代当主として家督を継いだ結城晴朝が隠居城としてこの中久喜城に入りました。中久喜城自体は結城氏の越前移封に伴って廃城になったものと思われます。

泥地に突出す半島状台地の先端に中久喜城は築かれていたみたいで、今でも周囲を囲む田んぼが往時の面影をしっかりと残している城址です。つい数十年前までは泥地が残されていて、腰まで水につかるくらいの深さがあったのだとか。
二郭の遺構は農地や住宅化の影響で土塁も削られて(一昔前までは主郭付近から国道の信号付近まで続く大きな土塁も残されていたのだとか)遺構は殆ど残されていませんが、主郭近辺は土塁や横堀などがしっかりと残されているので、なかなか見応えのある城址でした。
別名で亀城という呼び名もあるみたいですね。周囲から中久喜城址を眺めてみると、亀城と呼ばれる理由がよく判ると思います。亀城と呼ばれていたという逸話の残る城址は今までも多く見かけましたが、現在でもその趣を残す場所となると稀有な存在になるのかも知れませんね。

※動画はまだ作成していません
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↑中久喜城は祇園城鷲城とあわせて「小山氏城跡」として国史跡に指定されています。
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↑中久喜城の遺構を簡単にまとめてみました。数十年前までは国道まで続く土塁が残されていたらしいのですが、耕作地化の流れで消滅してしまったとのこと。
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↑西の住宅街から見た中久喜城。周囲は整備されるまで、腰くらいまでの深さがある湿地だったという話です。茨城県の神明城嶋崎城でも同じような話を伺いましたね。
あと、現地では中久喜城のことを亀城とも呼ぶらしいです。湿地にぽっかり浮かぶ半島状台地の姿はまさしく亀と言った感じで、納得ですね。亀城と呼ばれていたお城は数多く残っていますが、今でも面影を残している場所となると、そう多くは無いんじゃないでしょうか。
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↑主郭を貫通する形で水戸線の線路が走っていますが、主郭の遺構は比較的よく残されています。
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↑【主郭 南東方面】
右手に見えるのが主郭の土塁で、土塁の外は周囲の田んぼより一段高くなっていることから、腰郭として機能していたものと思われます。
正面奥に見える土塁は、この腰郭を囲んでいた土塁の一部が残されたものなのかも知れません。
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↑主郭・南東の土塁を撮影したワイド画像。ちょっと判りづらいと思いますが、土塁の右端付近には空堀も残されています。
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↑空堀の入口が塞がれていたので、ちょっと土塁にのぼって確認してみました。結構幅もあって迫力がある感じの堀なんですけど、この画像だとちょっと伝わらないかな。
ここから見る主郭は猛烈な薮でした。意味がないので、その画像は掲載しません。
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↑主郭・南東側の土塁は一箇所だけ崩れている場所があります。後世崩したものなのか、はたまたもとからそうだったのか、詳しいことはよく判りません。

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↑【主郭・南西に残る横堀】
現在だけでなく往時も通路として使用されていたのでしょう。綺麗な横堀が残されています。
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↑南東から見た横堀。左は主郭です。
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↑横堀を抜けて右手(写真では左側)に曲がると主郭の虎口といった構造になっています。現在、虎口手前はちょっとした広間になっていますけど、もしかしたらここに枡形などが組まれていたのかも!?
勝手な妄想ですが、そうだったら格好いいですよね。
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↑【主郭・虎口】
左:下から見た虎口
右:主郭から見た虎口
大きな土塁が虎口に突き出す形で残されています。この土塁の上には、虎口を守るための櫓が建てられていたのも知れません。
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↑【主郭】
畑もありますが、大半は薮です。上空から見ると、かなりの広さを持つ郭だったことが判ります。
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↑【主郭・北西部に残る堀や土塁】
案内板が設置されているこの辺りにも、堀や土塁が残されていて確認することが出来ます。

2013年6月25日 (火)

鷲城 【下野】

場所:栃木県小山市外城(場所)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・土塁・櫓台など
指定:国の史跡(小山氏城跡)
駐車:小山総合公園の駐車場
満足:★★★★★★★(7.0点)

築城年代は不明ですが、「小山義政の乱」の際には小山氏の居城として使用され、数々の攻防戦が繰り広げられたことが文献資料から明らかになっています。
結城氏から養子として入った泰朝の代からは祇園城が小山氏の居城として使用されますが、鷲城も祇園城を守る支城のひとつと
して改修され、機能し続けていたんだと思われます。

外郭は宅地化などによって面影が少なくなってしまってはいますが、主要部はなかなか良い状態で遺構が残されています。
特に土塁と主要部の南西に残る巨大な横堀は見事の一言。隣接する小山総合公園は家族連れで大賑わいな一方、鷲城は本当に静
かです。そのギャップがなんともまた・・・

※動画はまだ作成していません
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↑鷲城は祇園城中久喜城とあわせて「小山氏城跡」として国に史跡に指定されています。
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↑小山総合公園の隣りにある鷲神社の境内が鷲城跡です。遺構は大まかにこのような形で残されています。
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↑【内城】
内城は結構広いです。現在は北半分は鷲神社の境内で、南半分が畑といった感じでしょうか。
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↑鷲神社の東側にある公園。だだっぴろい敷地の端にちょこんと錆びた遊具が置かれているその様は、まるで公園の廃墟といった感じです。
そういえば鷲神社への参道以外にも北にある思川沿いに歩ける道もあったのですが、なんだか薄気味悪い道だったので途中で引き返しました。
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↑鷲城の遺構は内城の西~南にかけてよく残されています。

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↑非常に簡単にですが、内城・西の遺構を描いてみました。鷲神社を基点に考えると、西南といったほうが正しいのかな。
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↑【虎口】
内城から台地下に降りる通路。この通路は往時の虎口だったと考えられているみたいです。
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↑【横矢】
通路の脇には「横矢」という案内が置かれているちょっとした土壇が残されています。
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↑【横堀】
横矢の一段下にある横堀。
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↑この横堀、土塁に1箇所切れ目がありました。確認してみると中はちょっとした窪地になっていたのですが、なぜこのような造りになっているのかは判りません。
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↑【内城の堀】
画像だと規模が伝わるかは判りませんが、幅は5m以上ある感じでしょうか。内城との高低差もあるので、なかなかの迫力です。
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↑堀を囲む土塁も大きいです。こういった遺構を見ると、鷲城が祇園城の重要な支城だったということを窺い知ることが出来ます。
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↑内城の堀・南側部分。
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↑土塁の外側には窪地があるので、何となくこう見ると二重堀に見えてしまいますね。
実際は公園化で失われた湿地の面影が、鷲城傍にだけ残されているということなのかも知れませんが。
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↑【外城】
外城は今は宅地化によって鷲城の面影が判り辛くなっています。道路わきに石碑が置かれていたのですが、この石碑にはどのような意味があるのでしょう。書かれている文字も自分には解読できませんでした。
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↑小山総合公園。園内にはサイクリングコースやバーベキューコーナーなどが設けてあって、家族連れで大賑わい状態でした。
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↑思川の河川敷。釣り目当てなのか車が何台も停車してましたけど、こちらも夏は賑わいそうな感じだなあ。

2013年6月22日 (土)

祇園(小山)城 【下野】

場所:栃木県小山市城山町(場所)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・堀切・土塁・櫓台など
指定:国の史跡(小山氏城跡)
駐車:有
満足:★★★★★★(6.0点)

別名・小山城とも。
小山氏は藤原秀郷の後裔で、下野大掾となった太田政光が小山に移住して小山氏を名乗ったのが始祖とされています。時期は不明ですが、その小山氏によって祇園城は築城されました。
小山氏は下野一の勢力として鎌倉・南北朝時代と威勢を誇りますが、11代当主・義政の時代に宇都宮氏との対立をきっかけとして「小山義政の乱」が発生。鎌倉府との間で衝突を繰り返すも、1382年には義政が櫃沢城で敗れて自害し、その子・若犬丸も逃れた奥州で抗戦を続けますが、1397年に会津で自害して小山氏嫡流は滅んでしまいます。
その後、小山氏は同族の結城氏から泰朝が入って小山氏を継承しますが、この系統も享徳の乱の最中に断絶。以降は結城氏と縁の強い山川氏から養子をとる形で名跡は存続するも戦乱の中で徐々に権威を失っていき、ついには1575年、後北条氏に攻められて祇園城は落城。小山氏も滅亡してしまいました。
小山氏滅亡後は北条氏照が城代として管理し、後北条氏滅亡後は本田正純が城主として入りますが、1619年、本田正純の宇都宮移封に伴って祇園城は廃城になります。

祇園城の東側は宅地化などによって消滅していますが、思川沿いには連立する形で郭がよく残されています。公園化をされてはいますが、雄大な堀切や馬出など見応えのある遺構もしっかり残されているので、訪問する価値は十分あると思いますよ。

※デジカメで撮影した動画がアップロードされています
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↑小山市には「小山氏城跡」ということで、祇園城・鷲城中久喜城がまとめて国の史跡に指定されています。車でしたら移動にそう時間をとられないと思うので、まとめて廻りたいところですよね。
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↑残されている祇園城の主要な遺構をまとめてみました。右画像は諸国古城之図です。
宅地化で失われてしまった箇所もありますが、全体で見ると比較的遺構が残されている城跡だと思います。

それではまず主郭から見ていきましょう

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↑【主郭】
現地の案内には本丸と記されている郭です。公園の最南端というか、現在だと公園の玄関口的な扱いの場所になりますかね。
今はひとつのまとまった郭になっていますが、諸国古城之図を見ると、郭の北東部には堀に囲まれたスペースが設けてあってそこが本丸、それ以外は二の丸と明記されています。
廃城後に耕作地などに転用され、その際に改変されてしまったということなんでしょうね。
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↑【主郭の土塁】
なかなか厚みがあって重厚な土塁です。
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↑【主郭北側の堀】
非常に規模の大きな堀です。案内板によると、この堀は旧結城道だったのだとか。
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↑この堀には「ぎおんばし」という立派な橋が架かっています。往時はどのように往来をしていたのでしょうか。
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↑【馬出】
堀を渡って左手にある馬出。諸国古城之図には坂田曲輪と明記されているっぽい場所です。
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↑馬出は立派なL字型の堀で囲まれています。主郭の本丸とされる部分にも、往時はここと同じような堀があったのかも知れません。
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↑【L字型の郭】
現在の残り方でいうと二郭にあたる郭ですね。前述の馬出を覆うような形状で郭が残されています。
この郭も諸国古城之図を見ると、もっと大きくて複雑な形状をしていたということが判りますね。古地図なので尺は若干違うのかも知れませんが、大まかでも配置が判るので往時を想像し易くなるのが有難いです。
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↑この郭にも比較的よく土塁が残されています。場所によって厚みが違うのは公園化などによる工事の影響で削られてしまったからなのか、はたまた新たに設置されたものなのか・・・
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↑【塚田曲輪との間の堀】
天然の渓谷を利用したものなんでしょうか。この堀も非常に規模が大きいです。
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↑【塚田曲輪】
西側は思川に接し、他の三方を堀で囲まれた郭です。
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↑【塚田曲輪・櫓台?】
塚田曲輪の北東隅は高台になっていて、しかも堀に突き出すような構造をしています。いかにも櫓台っぽい雰囲気をもつ場所です。
右写真は堀底から櫓台っぽい場所をみたところ。
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↑【塚田曲輪・周囲の堀】
公園としての範囲はだいたいこの辺までなのかな?一部に水道施設のようなものが建てられていますが、塚田曲輪の周囲には規模も大きくてなかなか雰囲気の良い空堀が残されています。
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↑【北曲輪】
祇園城の最北端だったと思われる北曲輪です。北曲輪は現在、天翁院の敷地になっています。
この社殿の裏手に馬出が残されているんですけど、うっかり見逃してしまった・・・
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↑【北曲輪の土塁や堀】
北端には土塁や堀が残されていました。


他にも市役所の傍には小山評定が行われたという郭跡が残されています。
そちらの確認も忘れずにしておきたいところですね。

2013年6月19日 (水)

唐沢山城 【下野】 3/3

唐沢山城 その2 の続きです。

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↑その3では主要部の東に残る郭や、土櫓、鏡石を紹介していきます。

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↑【長門丸(お花畑)】
武者詰の東隣りに残る郭跡です。薬草等を作っていたことからお花畑とも呼ばれているみたいです。
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↑長門丸の両脇は堀がありました。武者詰側は埋もれてしまっていますが、竪堀に面影が残されています。
写真左:武者詰側に残る竪堀
写真右:金の丸側に残る堀跡
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↑【金の丸】
宝蔵があったことから金の丸と呼ばれているみたいです。東側には土塁が残されていますが、杉曲輪との間にあった堀は青年の家建設の際に埋められてしまいました。
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↑【杉曲輪】
数年前まで青年の家がここに建てられていたみたいなのですが、現在は取り壊されて更地になっています。
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↑東側に残る土塁は遺構なのか定かではありませんが、堀はよく残されています。
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↑【北城】
さらにその奥に残る北城。
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↑城域としてはだいたいここまでで、その先は二重堀で遮断していたみたいです。キャンプ施設の関係で堀は埋められてしまっていますが、残されている土塁と竪堀からその面影を感じることができると思います。

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↑【土櫓】
駐車場を挟んで反対側に残る細長い郭跡です。往時は御台所から山城の城域に向かう登城路を監視するような役割を担っていたのでしょうか。
ここにも石垣が残されているみたいなのですが、見つけることが出来ませんでした。
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↑【鏡岩】
上杉謙信が攻め寄せたとき、西日が反射して攻めることが困難であったという鏡岩。その時の兵火で相当削られてしまったということなんですが、この辺りはむき出しの岩盤が今も結構な範囲で残されています。まるで防御壁のような印象をうける場所でした。

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↑最後におまけ。唐沢山荘や西城のあたりでは多くの猫を見かけます。実は土櫓入口付近の写真にも木陰で涼む猫が映りこんでいるんですけど、猫ってちょっと隠れた場所に糞をするイメージ無いですか?なので、ルートから外れたような場所(特に土櫓)を歩く際は糞を踏んでしまわないよう注意して歩きました。
一度悲惨な目にあっているので、そのことが今でも忘れられない・・・



(その1に戻る)

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2013年6月17日 (月)

唐沢山城 【下野】 2/3

唐沢山城 その1 の続きです。

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↑その1では三の丸まで紹介してきました。その2では本丸などの主要部を見て行きたいと思います。

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↑三の丸から本丸を目指して歩いてくると、唐沢山城最大の見所である高石垣が姿を現します。
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↑関東の城跡では非常に珍しい高石垣。整備されたのは1590年から1602年の間と考えられています。
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↑【車井戸】
本丸を挟んで高石垣と反対側に残る車井戸。ここから本丸を見上げると、高石垣ではないですが、こちらにも石垣が残されているのが判ります。
この石垣がいつの時代のものなのかは判りませんが、先ほどの高石垣も、戦国時代にはここで見れる程度の規模だったのかも知れませんよ。
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↑【本丸】
唐沢山神社の社殿が建てられています。
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↑【引局】
本丸に上がる途中の参道は「引局」と呼ばれています。奥や女中がいた場所と考えられているみたいです。
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↑【二の丸】
現在は関係者用の駐車場として使用されています。
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↑それにしても本丸~二の丸付近は石垣を多く確認できるので、なかなかの雰囲気があります。
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↑【武者詰】
本丸~二の丸の北側にある腰郭です。比較的しっかりした土塁を確認することができます。
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↑ここからも本丸壁面には石垣があるのが確認できますね。

その2はここまで。
その3で武者詰から東に続く郭や土櫓などを紹介していきます。

その3
(その1に戻る)
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2013年6月15日 (土)

唐沢山城 【下野】 1/3

場所:栃木県佐野市富士町(場所)
訪問:2013年6月
形態:山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・堀切・土塁・高石垣・井戸など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.5点)

唐沢山城の築城時期は定かではないみたいですが、15世紀中頃に佐野氏が築いた城が、その後の唐沢山城の原型となったと考えておけば良さそうな感じです。

場所が下野南部の重要拠点であったことから、戦国時代は後北条氏と越後・上杉勢の狭間で悩まされ、当城を舞台に幾たびも合戦が行われました。このあたりの歴史は上野南部の太田金山城と似ていますね。両城の共通点は、当初上杉方につくも途中から後北条氏方に立場を変えて上杉勢に攻め込まれたということでしょうか。横瀬(由良)氏の太田金山城は何とか防ぎきりますが、佐野氏の唐沢山城は善戦しながらも最終的には降伏を選択します。

佐野氏は秀吉による小田原遠征の際は豊臣方について領土を安堵、さらに唐沢山城は一時佐野藩の居城となりますが、1602年、当時の当主・佐野信吉は佐野城の築城を開始して、1607年の完成と同時に居城を佐野城に移して唐沢山城は廃城となりました。
きっかけは江戸の大火の話や山城禁止令など諸説あるみたいです。まあ、話としては1601年の江戸大火と関連させたほうが面白くなるのでいいですね。

見所はなんといっても高石垣ですよね。関東でも高石垣を見学できるのは江戸城・小田原城(天守台)・石垣山一夜城とここ、唐沢山城くらいなのではないでしょうか。
神社設置における改変などで郭の構造は旧場を留めていない場所も多く見受けられますが、それでもなかなかに楽しめる城跡だと思います。

(ショートカット:その2/その3)

※過去に作成した動画がアップロード済みです
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↑唐沢山城の主要な郭を地図に描いてみました。本丸だったとされる場所には唐沢山神社が建てられていますし、他にも民宿などもあって整備は非常に行き届いています。

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↑麓の県立田沼高校周辺は根小屋として機能していました。調査などもなされ、石垣なども発掘されています。
入って良いのか判らなかったので散策はしていないんですけど、土塁なども残されているみたいなので歩き廻ってみればよかったな。
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↑【枡形】
城内への入口です。
石垣は明らかに新しいものなので、往時から枡形がここに存在していたのかは判りません。
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↑【天狗岩】
物見に使用されたとされる場所です。埼玉県中央~東部は山がないに等しいので、今でも都心まで見渡すことができます。
ここからなら、江戸の大火なんてそれこそ一瞬で把握できたでしょうね。そりゃあ、廃城にされるわな・・・
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↑【大炊井】
非常に大きな井戸です。
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↑【堀切】
主要部との境には浅くなりながらも堀切が残されています。この堀切には「神橋」という名称の石橋が架けられていますが、この神橋、旧名は曳橋と呼ばれていたのだとか。
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↑同じ堀切を避来矢山から眺めたところ。左に見えるのは三の丸脇の腰郭です。今はそんなに長い堀切ではありませんが、どう見ても道路設営の際に埋められてしまったっぽいですよね。なので、配置図には推定堀を書き込んでみました。
視認はできなかったのですが、縄張りを見ると北側斜面にも竪堀があるみたいなので、たぶんあってると思うんだけど。
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↑【避来矢山】
大炊井の北側に残る小山。小山は三段に分かれていて、最上段には根小屋神社のお社が建てられています。
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↑【桜の馬場】
主要部の南側を東西に走っています。
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↑【竪堀】
桜の馬場の途中に残る竪堀。
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↑【腰郭】
三の丸より一段下にある腰郭。
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↑この腰郭から三の丸へと続く道では石垣を確認することができます。ただ、いつの時代に設置されたものなのかは定かではありません。
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↑三の丸の壁面。明らかにコンクリートで固められている感じです。こういう場所もあるから微妙なんですけど、先ほどの石垣は遺構だと思いたい・・・
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↑【三の丸】
意外と広いので、イベントなどを行う際はここを使用することが多いのかな?
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↑この上段にある二の丸や高石垣はその2で紹介したいと思います。


その2

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2013年6月13日 (木)

ボツ画像 ※上総・天神台城と真里谷要害城

造海城の後に訪問した天神台城と真里谷要害城は遺構を殆ど確認できなかったので、今回訪問分はボツ画像ということで紹介したいと思います。

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↑天神台城と真里谷要害城は千葉県木更津市真里谷に残る城跡です。2013年5月に訪問した感じでは、両城とも激しい薮でなかなか敷居の高い場所でした。

■天神台城

天神台城は真里谷城を本拠としていた真里谷武田氏でお家騒動が発生した際、峰上城主の武田信隆が領していたという「真里谷新地の城」といわれる場所があり、それがここなのではないかと考えられている城跡です。
現在は山上に浄水施設が設置されていて、麓の管理棟脇から伸びる道に沿って歩けば浄水施設のある郭までは問題なく登れるんですけど、そこからが大変でした。
設置してあるフェンスはなんとか超えられると思うんですけど、その先は凄い薮で今回の訪問は見送ることに。
虫が大人しくなる冬枯れの時期に再tryですね。

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↑麓から見た天神台城。
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↑山上の郭跡には浄水施設が建てられているので、そこまでは楽に登ることが出来ます。
写真左:登り口にある浄水施設の管理等
写真右:山上まで続く道
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↑山上にある浄水施設。ここから藪に眠る遺構を確認しようと試みますが・・・
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↑脇はフェンスで囲ってある上に、その奥は猛烈な薮です。冬枯れの時期ならえいやで突撃しますが、この時期はちょっと簡便・・・

■真里谷要害城

上総要害城とも呼ばれているみたいですね。上記の天神台城とは集落を挟んだ真向かいの山に城跡は残されています。天神台城は未完成のように感じられる場所も多いみたいなんですが、こちらは規模も大きく、さらに三重の三日月堀などなんとしてもこの目で確認したい遺構がてんこもりな感じです。
地元でちょっとお話をお伺いしたところ、「秋葉神社まではいけるけど、主郭は今は無理じゃないかな」と言われましたがめげずに挑戦。でも、ここもやはり途中で諦めました。
秋葉神社の裏にある堀と、そこからちょっと先まで確認したんですけどね。ここも虫が大人しくなる冬枯れの時期に再tryしたいと思います。
それにしても遺構の凄さには驚かされました。今回確認できた堀はまだまだ序章だと思うんですけどね。それであの規模なんだから、その奥に残されている遺構の規模を想像すると、とても興味深い・・・。

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↑麓から見た真里谷要害城。
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↑現在は秋葉神社の裏から城奥を目指すのが判り易いと思いますが、昔はこの墓地の裏から主郭まで続く道があったみたいです。車はこのあたりに停めるのがよいでしょう。
余談ですが、この墓地のお社には大切な木像が安置されていたらしいのですが、盗まれてしまって現在は残されていないんだそうです。不心得者がいますね。
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↑秋葉神社。
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↑秋葉神社の裏から城奥を目指せはするのですが、倒れた竹が多くて歩くのが非常にしんどいです。
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↑何とか突破して確認した一つ目の堀。
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↑堀底から上の郭まで確実に5m以上あります。結構な規模ですよね。
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↑この次の堀はさらに規模が大きいみたいなんですけど、今回はどこまで確認できるか判らなくなってきたので、次回に持ち越しました。
いつか三重の三日月堀もこの目で確認しますよ。

2013年6月11日 (火)

造海(百首)城 【上総】 4/4

造海(百首)城 その3 の続きです。



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↑最後に台場の残る西出丸を紹介していきたいと思います。

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↑【西出丸と接続する尾根道】

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↑【西出丸の虎口?】
尾根道を渡った先にある木戸と思われる場所。

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↑【西出丸1】
西出丸は上下四段に分かれているのですが、ここはその最上段にある西出丸1。薮で画像では判りづらいですが、壁面には削り残しの石が露出していて、なかなか良い雰囲気です。

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↑【西出丸2】
西出丸1のすぐ下にある西出丸2。ここには虎口が2箇所残されていました。

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↑【搦め手?に続く虎口】
その2箇所ある虎口のひとつ。位置的には南虎口とでも言ったほうが良いのかな?
この先には腰郭があって、そこにも土塁が残されていたんですけど、確認をしている最中に天敵と遭遇してしまったので、程よいところでこの付近からは撤退しました。土塁には石材がはめ込まれているので、もっとじっくり確認したかったんだけど仕方なし。
時期的(5月初旬)にそんなに攻撃的ではないのかも知れませんが、あの羽音と巨体はやはり恐怖の対象です。万が一があると嫌ですからね。

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↑【西出丸3の虎口】
気を取り直して、台場を目指してさらに奥へと進みます。ここの虎口は土塁に挟まれていて、見るからに虎口といった場所です。

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↑【西出丸3】
西出丸2とは若干の段差があるので、西出丸2とは雰囲気が異なります。

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↑【西出丸4】
西出丸3から腰郭のような平地を挟んで、最下段にある西出丸4。西出丸の中では最大の広さをもつ郭かな?

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↑【台場跡?】
西出丸の隅に途切れ途切れになった土塁が残されています。なんでも、これが砲台の跡なんだそうです。

※↓2013.09.01追記
この台場は
竹ヶ岡砲台と呼ばれた場所で、竹ヶ岡陣屋とあわせて会津藩の管轄でした。
造海城の遺構古写真を公開されているHPに古絵図なども掲載されています。リンクしておきますので、未見で興味のある方は是非どうぞ。
造海城(百首城)遺跡古写真集(トップページ)
竹ヶ岡砲台古絵図

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↑隙間から砲身を出して海上を狙っていたのでしょう。今は視界が植物で遮られて良くないですが、地図をみてもらうと、この位置は東京湾に入ってくる敵をエイムするのに丁度良い場所だということが判ります。
台場跡は数あれど、こういった遺構が残されている場所というのは、そう多くないんじゃないでしょうかね。貴重な史跡だと思います。

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↑ところどころでうっすらと海上を確認できる場所もあるんですけどね。
これで造海城の紹介は終わりです。


造海城記事のショートカット(その1/その2/その3/その4)

2013年6月10日 (月)

today news

某掲示板の「城址巡りの旅に気になるニュースが紹介されていたので、ちょっと掲載してみます。


戦国の城門復元  高崎・箕輪城の櫓門と高麗門 上毛新聞ニュースより抜粋

高崎市教委は7日、同市箕郷町の国指定史跡「箕輪城跡」について、防御上の重要拠点だった「郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)」(高さ6.3メートル)など二つの城門を16世紀末の戦国時代の姿に復元すると発表した。19ヘクタールの史跡には石垣や土塁、堀の形状が残るだけで、城に付随した建造物の大規模な復元は初めて。城門のほか、土塁や散策用の橋なども整備し、新たな観光資源としてPRする。来年度着工し、2018年度の完成を目指す。

 市教委によると、復元するのは門柱の土台となる礎石の状態が良かった「郭馬出西虎口門」と「本丸西虎口門」。文化庁の諮問機関「復元検討委員会」で3月末に復元案が承認された。

 郭馬出西虎口門は、戦国時代の城郭で規模が確認されている門跡としては関東最大規模を誇る。幅5.7メートル、奥行き3.6メートルの2階建ての櫓門(やぐらもん)で、登城のための3本の道がこの門に集約され、極めて重要な位置にあった。


これ、結構良いニュースじゃないですかね。
国の史跡であり、日本100名城に選出されている箕輪城ですから、慎重な作業を期待したいところ。

気になるのは「本丸西虎口門」の復元に併せて、空堀に架かっていたであろう木橋はどうするのかなという点。
観光的には橋もあわせて復元されると格好良いんでしょけど、そうすると堀底に残されている橋脚台跡っぽい畝が犠牲になったりするかもしれないので、そう考えるとそこまで復元されないほうが良いのかななんて考えてみたり。

あとは「郭馬出」。
今は五俣→郭馬出→二の丸って感じの配置になっていますが、諸国古城之図を見ると、往時は郭馬出の手間にもうひとつ、同規模かそれ以上の馬出が存在していたみたいなんですよね。
見様によっては二の丸も馬出に見える箕輪城。連続する馬出というと滝山城や杉山城が有名ですが、もしこの馬出まで復元されると、かなり壮大ですよね。
ここは併せて復元されないかなーなんてちょっと思ってしまいます。

なんにせよ、うまくまとまって欲しいものです。
工事は来年着工なので、まだ箕輪城未見の方は、工事が始まる前に一度目に焼き付けておいたほうが良いかもしれませんよ。
例年通りであれば10月最終週くらいにお祭りが開催されると思うので、そのときがチャンスかも。

2013年6月 9日 (日)

造海(百首)城 【上総】 3/4

造海(百首)城 その2 の続きです。

その1では伝大手道から造海城主要部の南側、その2では尾根上に連なる主郭1~3から東出丸まで紹介してきました。
その3では主郭の北側にて確認した遺構を紹介していきます。

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↑造海城・遺構の大体の配置図。

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↑【主郭2と主郭3を結ぶ土橋状通路】
東出丸からここまで戻ってきました。

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↑この土橋の壁面には石垣の名残が何箇所か残されています。

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↑ワイド。

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↑【通路状遺構?】
写真左:上から撮影
写真右:下から撮影
石が加工されたような感じになっていて、通路でもあったのかなと思わせる場所です。

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↑【水堀】
岡本城の枡ヶ池を髣髴とさせる場所ですね。

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↑【切通し及び階段】
水堀の脇にあるこの切通しは、廃な雰囲気が凄くてとても幻想的な場所でした。いつの時代の遺構なのか、非常に気になるところです。

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↑【石垣の残る土塁】
このあたりの土塁には崩落防止のためだと思われる石垣が残されています。

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↑【残された石塁】
石の切り方が綺麗なので、少なくとも戦国期のものではないと思います。

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↑【モニュメント】
奥には謎のモニュメントがありました。

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↑通路状遺構~ここまでの雰囲気から察するに、ここには寺社かなにかが建てられていたのではないでしょうか。それが何らかの事情で使用されなくなり、廃墟になった。
そういえば通路状遺構と水堀の間は巨石で道が塞がれていました。そのことも、もしかしたら何か関係があるのかもしれません。

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↑【横堀】
見所の一つである、主郭1の北側に残る横堀。ここの土塁にも綺麗な石垣が残されていました。

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↑岩盤を削った垂直切岸、本当に凄いですよね。

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↑【井戸跡?】

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↑【崩れた石】

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↑【西出丸と接続する細尾根】
最後は台場の残る西出丸を紹介したいと思います。


その4

造海城記事のショートカット(その1/その2/その3/その4)

2013年6月 7日 (金)

造海(百首)城 【上総】 2/4

造海(百首)城 その1 の続きです。

その1は灯篭坂大師から伝大手を通り、造海城主要部の南側を紹介しました。

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↑今回、造海城を見て廻って確認したものをGoogleMapに書き込んでみました。その1に掲載したものを、さらに細かくしたものです。

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↑虎口?を登った先には小郭がありました。mapでいうと青矢印の場所がそうです。

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↑【主郭1への虎口】
小郭は小口郭とでも言うべき場所だったんでしょうかね。逆"く"の字の形状をした主郭への虎口がしっかりと残されています。

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↑この虎口には石を使用した遺構のようなものがいくつか残されています。壁面のものは削り残しの岩盤が自然に割れたというだけなのかもしれませんが、通路の崖側には石が間隔をあけて埋め込まれていて、これがなかなかいい感じ。石材が多く残されている城址は、それだけで嬉しくなっちゃいます。

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↑【主郭1】
ここからは尾根に沿って郭が三つ続きます。

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↑主郭1の土塁。肉眼ではしっかり確認できるんですけど、写真だとどうしても判りづらいですよね。
ところによって石片がはめ込まれているのも確認することができます。往時は、全面に渡って同様の処理が行われていたんでしょうか。

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↑【主郭1と主郭2を結ぶ土橋状通路】
土橋状の細道で繋がっています。

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↑【主郭2】
三つの主郭の中でも一番の広さをもつ主郭2。ここは全体にわたって藪刈が行われた形跡が残されていました。

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↑【主郭2 南側の虎口】
虎口を降りた先は、今回は確認を行いませんでした。って、単に訪問を忘れただけなんですけどね。次回は確認しておきたいと思います。
写真右:この虎口にも石垣の跡と思われる石片が残されていました。

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↑【主郭3】
三つの主郭の中でも一番高所にある主郭3。主郭2とうって変わってこちらはあまり整備された形成がありません。
写真右:用途不明ですが、こぶし大の石がいくつも放置された場所が残されていました。

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↑【堀切】
主郭3の背後には千葉県南部の城跡ではお馴染みの岩盤を断ち切った堀切がありました。

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↑【堀切~東出丸までの道】
堀切の奥にある謎の空間。Uの字をした空間には緩やかな傾斜が設けてあります。一体何のために?

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↑【東出丸】
造海城の北端とも言える場所です。この先、堀切を何箇所か抜けながら麓の十二天神社まで降りられるみたいですが、今回はパス。次回訪問時は、ここから降りて海岸を散策できたらななんて考えています。

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↑東出丸の虎口。細かいですけど、こういった場所がしっかり確認できるというのは嬉しいことですよね。

その3

造海城記事のショートカット(その1/その3/その4)

2013年6月 5日 (水)

造海(百首)城 【上総】 1/4

場所:千葉県富津市萩生(場所)
訪問:2013年5月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・堀切・土塁・土橋・石垣・井戸など ※幕末の台場跡(竹ヶ岡砲台)も残存
指定:なし
駐車:灯篭坂大師の駐車場
満足:★★★★★★★★(8.5点)

見所:内房正木氏の居城だった海城。幕末の台場跡(竹ヶ岡砲台)の遺構もよく残る見所の多い良城跡。

造海城は1461年、上総の有力者であった真里谷武田氏によって築城されました。
その後、里見氏が上総に進出するころには造海城は正木氏(内房正木氏)が領するところとなり、その状態は里見氏が小田原征伐
後、安房一国に減封されるまで続くことになります。
同時期に造海城は廃城になったものと思われますが、幕末には台場としても使用されていました。

岡本城に続く海城への訪問です。一人だとちょっと危ない場所も多いのかなと思って後回しにしていたんですけど、思い切って訪問してみることにしました。
岩盤を断ち切った堀切や横堀など上総以南で多く確認できる中世城郭の特徴は残しつつも、どちらかというと幕末に使用された
台場としての遺構の面影のほうが多く感じられる城址でしたね。だからといって残念な訳ではないんですよ。ところどころで確認できる石垣や切通しに残る階段など、これらの遺構はとても素晴らしいので、史跡好きには堪らない場所だと思います。

城内にはモニュメントなども残されていたりして、これはいつの時代に設置されたものなんだろうと疑問に思っていたんですけど、帰宅して改めて造海城を調べてみると、どうやら寺社か何かも置かれていた時期があるみたいでして。
年代までは判りませんでしたが、結構手が入っているのかもしれませんね。まあ、雰囲気を壊すようなものではないので、これ
はこれで楽しめるかな。

造海城は別名・百首城とも言いますが、これは当城に攻め寄せる里見軍を前に、当時城主だった真里谷信隆が、開場の条件として和歌を百首歌うことを条件に提示したことが由来とされているみたいですね。禍々しい謂れでそのような名称がついた訳ではないので、あしからず。

記事のショートカット(その1/その2/その3/その4)

※造海城の遺構の古写真を公開されているサイトがあります。もし造海城に興味をもたれ、かつ未見であれば是非確認してみて下さい。→造海城(百首城)遺跡古写真集

※ニコニコ動画Verはニコニコのマイリストから宜しくお願いします。
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↑造海城遠視。

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↑今回見て廻った範囲で造海城の様子をGoogleに描いてみました。見応えのある場所だったので、ブログを3回に分けて造海城を紹介していきたいと思います。

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↑灯篭坂大師あたりから城山まで細尾根が続いていますが、この尾根を通って造海城に入るのが、大手だったと考えられています。
で、その1で紹介する範囲をざっくりと描いてみました。あくまでアバウトな感じなので、お忘れなく。

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↑【大手として使用されていた細尾根を遠視】

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↑【灯篭坂大師入口】
灯篭坂大師はかの弘法大師が行脚中に腰を休めたという口碑をもつ場所です。大手尾根の下を貫通する切通しのトンネルは見事の一言。

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↑【灯篭坂大師脇の切通し】
ここから大手道に入ります。これも造海城の遺構の一部なんでしょうか?

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↑【大手道の尾根道】
城山までいくつかの広場を挟みながら細尾根が続いています。途中、木戸跡っぽい場所がいくつか残されています。

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↑【監視所と思われる小郭】
大手尾根の付け根には見るからに監視所だったかのような小郭が残されています。今は視界が木々で遮られてしまっていますが、往時は大手を歩いてくる人々を良好に監視できたことでしょう。
写真左:監視所にあがるための通路
写真右:その監視所から虎口を見下ろす

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↑【横堀状通路】
監視所の脇に残る横堀。このあたりまで来ると、城跡に着いたんだなと実感させられます。

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↑【虎口?&崩落の跡】
横堀を歩いてさらに奥に向かうと、道が崩落しれしまっている場所がありました。
写真左:道が崩落してしまっているので、その脇にある坂道から城奥を目指します。何となく虎口っぽく感じてしまう場所ですが、もしかしたら往時は無かった道なのかもと思いました。
写真右:ここが崩落跡ではなく実は竪堀で、往時は梯で向こうの道と繋がっていたということであれば格好良いんですけどね。

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↑虎口?を登って、さらに奥を目指します。


その2

2013年6月 2日 (日)

滝山城 【武蔵】 2/2

滝山城、前回は二の丸まで紹介してきました。その2では中の丸~本丸および本丸西側に残る曲輪群を紹介していきたいと思います。


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↑【中の丸】
本来の千畳敷とも言える場所で、往時は御殿のような施設が
建てられていたのかもしれません。写真右は展望台より一段下の腰曲輪。滝山城はこういった腰曲輪や竪堀なども多く残されているので、ちょっとメインコースを外れて散策してみるのも楽しいかもしれません。
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↑【本丸と中の丸を繋ぐ曳き橋】
滝山城といえば、ほぼ必ず紹介されるといってもいい曳き橋。もちろん後世に再現されたもので、実際はどのような形状だったのか、現在では知る術はありません。

八王子城の曳き橋のほうが高さがあるかもしれませんが、ここ、滝山城の曳き橋も堀底から結構な高さの場所に橋が設置されています。
ところで皆さんは江戸城の「二重橋」の名前の由来をご存知でしょうか?多くの人が、手前にある西の丸大手門の橋と、奥に見える西の丸玄関門の橋が重なって見えることが二重橋という名称の由来だと思っていますが、実はそれは間違いです。「二重橋」とは、正確には西の丸玄関門の橋のことを差します。
それではなぜ「二重橋」なのかというと、往時の技術では西の丸玄関門の前の堀が深すぎて単独で橋が架けられなかったので、土台となる橋を造ってその上に橋を設けるという二重構造を採用していたため、「二重橋」という名称がつけられました。
そういったことから考えると、滝山城と八王子城の曳き橋がどういった構造をしていたのか、非常に興味がわきますね。曳き橋というよりは、意外と吊橋のような形状だったのかも・・・

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↑【本丸虎口】
写真左:本丸東虎口
写真右:本丸南虎口
本丸には虎口が2箇所あり、どちらも枡形です。
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↑【本丸】
写真左:本丸下段
写真右:本丸上段
本丸下段は井戸も残されています。また、周囲を囲む土塁も見事です。
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↑【本丸西側の腰曲輪群】
本丸の西側斜面には多数の腰曲輪と竪堀などが残されているので、忘れずに立ち寄りましょう。
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↑【蹄型の腰曲輪】
面白かったのが、この蹄のような形状をした腰曲輪。Uの字を描くように土塁が囲んでいて、壕としての面影をくっきりと残しています。
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↑【土橋】
その蹄型の腰曲輪から一段下がった場所に残る土橋。
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↑土橋周囲は横堀だけでなく竪堀も確認できます。

この辺りの曲輪は滝山城北側の監視を役割としていたような雰囲気ですね。現地では搦め手の可能性を想像していたんですけど、どうやら違うっぽい。

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↑竪堀。下の沢まで続いているみたいです。結構な幅があるんですけど、あまり大きすぎると防御機能が弱まってしまうんじゃ・・・



(その1に戻る)

2013年6月 1日 (土)

6/1 訪城報告

今日は栃木県の唐沢山城、祇園城、鷲城、中久喜城と茨城県の結城城、城の内館、山川館、山川綾戸城、水野忠邦の墓を訪問してきました。

唐沢山城と祇園城は2回目の訪問ですね。過去にデジカメで撮影した動画をアップロードしてあるんですけど、ブログをまとめるだけの画像が無かったので、ビデオ撮影の意味も含めて再訪問。
前回見れなかった場所も見れたので、2回目でもなかなか楽しめました。

祇園城と一緒に国の史跡になった鷲城と中久喜城。正直、たいした遺構は残っていないものと思って舐めていました。まずは素直にごめんなさいと謝っておきます。
両城とも遺構の残存度にびっくり。特に鷲城の堀、これは一見の価値ありだと思いますよ。


結城城、ここも一部の堀は良好に残っているのですね。もっと壊滅的かと思って油断していました。
ところで大岡越前も探したという結城家の埋蔵金。一体どこに眠っているのやら・・・。

後はおまけ的な訪問ですけど、山川綾戸城だけは、ついに詳細な場所を特定できずに終わりました。事前調査でめぼしをつけた場所とはちょっとずれていたみたい。遠視では間違いなくあそこだろと目処をつけられたんですけど、何故か近づけないんですよね~。

まあ、たまにはこういうこともあるか。
朝5:30に出発して19:00帰宅。行きは高速で帰りは下道でした。
収穫はあったと思うので、良しとしますか。

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