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2013年7月

2013年7月30日 (火)

興国寺城 【駿河】

場所:静岡県沼津市根古屋(場所)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀切・土塁・櫓台・石垣など
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★★★★★(6.0点)

戦国時代、関東最大の勢力として威勢を誇っていた後北条氏。
その後北条氏の礎を築いたのが伊勢新九郎盛時。後の世で北条早雲と呼ばれる人物です。

北条早雲は備中にて生まれ、9代将軍・足利義尚の申次衆を経て駿河・今川氏のもとに下向しました。駿河においては今川氏の家督問題などで着実に影響力を強めていき、ついには所領として興国寺城を与えられました。

早雲は伊豆討ち入りを機に韮山城へと本拠を移しますが、伊豆に近い興国寺城は戦略上重要な地だったみたいで、今川氏・後北条氏・武田氏の間で目まぐるしく城主が入れ替わります。

徳川家康の関東入封後は駿河を領した中村一氏の家臣・河毛重次が城主となり、関ヶ原後は家康家臣・天野康景が城主を務め興国寺藩が立藩されますが、天野康景の逐電により興国寺藩は消滅。興国寺城も廃城となりました。


※ニコニコ動画にもアップロードしてあります。ニコニコ版はこちら
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↑現地案内や古城絵図を参考に概略図を作成してみました。一部の土塁や堀が消滅していますけど、全体的には面影がよく残されている城址なのではないでしょうか。

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↑整備計画もあるみたいですね。今後に期待がかかります。

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↑【三の丸】
三の丸は発掘調査の真っ最中でした。何か新たな発見があるといいですね。

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↑【三の丸に残る土塁】
うっすら土塁が残されています。綺麗に残されていますけど、これは遺構と捉えて良いんでしょうかね。

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↑【二の丸】
本丸と二の丸の間は今は段差があるだけですけど、往時は土塁と堀で往来を遮断していました。

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↑【石火矢台】
本丸と二の丸の土塁は少しだけ残されています。名称からして櫓があったと考えられているんでしょうね。

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↑【本丸】
本丸は周囲を土塁で囲まれているんですけど、この土塁の規模が大きくて凄い迫力です。

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↑【伝天守台付近から見る城内】
伝天守台付近から見る本丸と二の丸。土塁の大きさが伝わりますかね?

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↑【伝天守台】
壁面に僅かながらも石垣の痕跡が残されている天守台。配置されている配列された石も発見された礎石なのかな?

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↑【西櫓台】

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↑【大堀切】
伝天守台の裏、北曲輪と本丸の間には非常に巨大な堀切が設置されています。

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↑【北曲輪】
北端は新幹線の線路が貫通しています。

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↑伝天守台で見つけたカブトムシ。何組もの家族が昆虫採集に来訪されていました。なんだろ、計画的にカブトムシを育成しているのか、はたまた地元では有名な採取場所ってだけなのか・・・

2013年7月29日 (月)

ちょっと雑談【消費増税】①

今朝方のTPPに関連してついでといっては何ですか、消費税関連のちょっと疑問に思うことも触れてみようかなと思います。

よくメディアやアナリストで"消費増税は国際公約"という表現をされる方がいらっしゃいますが、それって本当は間違いですよね?
国際公約なのはあくまでプライマリーバランス(基礎的財政収支)の健全化で、消費増税はあくまでそのための過程のひとつな筈。ちなみに内容は「2015年度までにGDP比で赤字を半減させ、2020年度までに黒字化させる」こと。
なので麻生財務相の言う"国際公約に近く"という表現であれば、まだ納得できます。

プライマリーバランス健全化のために財政赤字を縮小するには歳出削減か歳入増を行うしかなく、政府は2010年6月以降、足りてるかどうかは置いておくとして、目標達成のために様々な案を取り組んでいるのだと思います。現政権の安倍政権が行っているアベノミクスのそのための方策の一つ。デフレ下では経済成長は見込めないので、インフレ誘導して経済の活性化から税収アップをもくろむというものですね。
消費増税も歳入を増やすための方策の一つです。今のままでは日本経済は緩やかな破滅に向かっているのは間違いないと思うので、健全化に向けてということなら仕方の無い様な気がしてしまいます。
ただ、問題なのがその実施時期なんですよね。目標に期限があるのでどこかで区切らなくてはいけないのは重々承知しているのですが、
デフレ下での消費増税は成功した(景気が上向いた)例というのが検索しても全く引っかかりません。

最近だと2012年、スペインが付加価値税(日本で言う消費税)を21%に増税したのが記憶に新しいところだと思います。結果、増税直後の消費は記録的な落ち込みをみせ、2013年度のGDP伸び予想を従来の-0.5%から-1.3%に下方修正いたしました。
EU加盟国で経済の悪い国というとまずはギリシャが思い浮かぶと思いますが、このスペインも半端なく悪い状態が続いていて、例えば若者の4人に1人は失業という状態。不動産バブルが崩壊してからは最悪ですね。ギリシャなんかと比べてEU内での経済規模が大きいだけに、余程深刻な問題です。

ちょっと話がそれ気味になってきたので戻しますが、要はデフレ下での消費増税は消費を悪化させ、そのことがせっかく徐々に上向いてきている企業収益に悪影響を及ぼし、結果として政府収支が悪化→国際公約であるプライマリーバランスの健全化の足を引っぱるという流れを危惧しているのですが、これは心配のし過ぎなんでしょうかね?心配しすぎだとしたら、杞憂だったと思える何かの材料を得たいところなんですが。

まあ、余計な心配ですね。ただ、メディアや評論家、某掲示板など稀に善意と思える意見もあるのですが、何か目先を逸らさせようとする流れが目立つような気がしてしまうので、ついね・・・。



その2

ちょっと雑談【TPP】

さっきモーサテ見てて思ったんですけど、TPPで一番大きくプラスの効果があるのは関税撤廃によって安価でに輸入される商品を消費者が購入する消費喚起なんだそうです(内閣府試算)。
収支に関する消費の割合が以外に大きくて、消費喚起が失敗するとTPPはあっという間にマイナス効果に転落。というか何がどうなるかわからないTPPにおいて、消費効果は試算に加える必要あるのかな?非常に曖昧ですよね。消費効果って。
でも番組ではトータルでのプラス効果をちょっと紹介するだけで、そういったことは華麗にスルー。そこが一番知りたいことなんですけど・・・。

今の流れだとTPPが開始される頃にはデフレ下での消費増税も当然開始されてることだと思いますし、そもそも論として輸入商品が増えたとしても、その輸入商材が消費者に還元されるほど値下げされた状態で販売されるものなのかなと疑問に思うんです。
過度の価格差是正とか国内業者の保護なんて表向きの名目で、実際にはそんなに輸入商材と国産品の価格差が広がらないようにするんじゃないですかね?儲けるのは中間業者だけ。

輸入品などの例で見てみると、実際に現在販売されている音楽やゲームなんかはそういった傾向が強い訳ですしね。うがった見方かもしれませんが、消費者には言うほど還元されないように思うんですよ。で、思ったほどTPPのメリットは発揮されず、医療・金融・保険などは米国に蹂躙され、日本はババをひくだけという結果に。これって杞憂なんでしょうか?

こんな曖昧な試算を元にメリットを強調している大手メディアやアナリストは、マイナスに作用したら手のひら返せば済むんだからお気楽な商売ですよね。
結果だけ見て"予測不能だった"とか”官の甘い試算”なんてどや顔で言っておけばいいんだから。

あと、TPPの交渉の仕方にも問題が。
日本は守秘義務が厳しいのをいいこと(?)に官主導で各国と交渉して、それを民に交渉結果として丸投げようとしています。
では各国はどのように交渉しているのかというと、米などはしっかりと該当業界を巻き込みながら、メリットデメリットを見極めてしっかり交渉を進めている模様。交渉の状態に関しても積極的に業界担当に意見させ、良い悪いをしっかりと判断している。
こういう交渉ごとって日本の役人は苦手な分野だと思うのですが、どうなんですかね。知識は100人の補佐官が主席担当官についているから大丈夫とか言うんでしょうけど、何か過去に幾度と無く失敗しているパターンにはまっていっているようにしか思えない。
守秘義務は守らせればいいんです。今からでも遅くないから、業界団体の担当者も巻き込む形でしっかり意見を取り込んで交渉を進め、国益を確保して欲しいところですね。交渉のテーブルについた時点で、基本的には"降りる"という選択肢はほぼ皆無に近いと思いますし。

2013年7月27日 (土)

沼津城(三枚橋城) 【駿河】

場所:静岡県沼津市大手町(場所)
訪問:2013年6月
形態:平城
遺構:なし ※光長寺辻之坊に伝移築門が残ります
指定:なし
駐車:なし
満足:★(1.0点)

沼津城の前身である三枚橋城は、駿河を制圧した甲斐武田氏によって築かれました。駿河と伊豆の境目に位置するこの場所は伊豆方面における最前線基地として使用され、後北条方の前線基地である長浜城の伊豆水軍と沼津沖にて幾たびも海戦が行われたと伝えられています。

1601年、徳川家康の家臣・大久保忠佐が三枚橋城に入って駿河沼津藩を興しますが、世継ぎがいなかったため1613年の忠佐の死をもって断絶となり、藩は改易。三枚橋城も廃城となりました。

以降、沼津は幕領となりますが、1777年、水野忠友が三河大浜藩から転封して沼津に入り、三枚橋城の跡地に沼津城を築城しました。
沼津城は幕末まで存続しますが、明治には破却され、現在は大手町という地名と本丸跡とされる場所に碑と案内板が残されているのみで、面影は全く残されていません。

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↑市街地化によって沼津城の面影は消滅してしまいました。残されているのは大手町や上本町などの町名くらいなものでしょうか。

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↑市内にある中央公園は本丸跡地の一部を使用してつくられたものです。

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↑公園には城址碑や案内が設置されています。碑の周囲を囲んでいる石は昭和48年に静岡銀行の新築工事の際に見つかった三枚橋城の石垣なんだそうです。

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↑日本古城絵図・沼津古城。たぶん三枚橋城のことなんでしょうね。
沼津城は三枚橋城の北半分の敷地しか使用しなかったとのことですが、比較してみるとそのことが良くわかります。三日月堀の多用具合がいかにも武田氏の縄張りっぽくていい感じ。

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↑同市内の光長寺には、沼津城の中庭で使用されていたという言い伝えのある門が残されています。この移築門が沼津城唯一の名残と言えるのかな。


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↑ちなみにこの光長寺、
法華宗本門流の大本山というだけあってかなり大きな施設です。

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↑昔はもっと各地にこの規模の寺社が点在していたんでしょけどね。今となっては貴重です。
趣があってなかなか良い場所でした。




2013年7月24日 (水)

江川家住宅(韮山代官所跡)

場所:静岡県伊豆の国市韮山韮山(場所)
訪問:2013年6月
指定:重要文化財
駐車:有

韮山城とは城池を挟んだ反対側には韮山代官所がありました。韮山代官は代々江川氏が勤め、夏は江戸、冬は韮山に常駐していたみたいです。
江川氏は平安末期から当地に居を構える名家らしく、韮山を支配するその時代時代の権力者に仕えて家を存続してきました。

江川氏の中で特に著名なのは、幕末期の江川英龍ではないでしょうか。自分は光栄から発売されていた「維新の嵐」にはまっていた時期(始めは88版で後に98版をプレイ)があるので、名前だけは存じていました。
この江川英龍、調べてみるとなかなかの人物で、斎藤弥九郎(神道無念流/練兵館の創立者)とは深い親交をもつだけではなく、砲
学者として著名な高島秋帆に弟子入りして砲術を学び、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが英龍の門下生として学びました。そうそうたる面子です。

変わったところでは、日本で始めてパンを焼いたのも江川英龍みたいです。あと、集団行動時によく号令として使われる"気をつけ"や"回れ右""右向け右"などの掛け声も、英龍が組織したとされる西洋式軍隊で始めて使われたのだとか。

江川邸や郷土資料館は有料ですが、いろいろな資料が揃っていて楽しいです。案内の方もいらっしゃるので、いろいろ質問しながら展示資料を見れるのが良いですね。
シャイな自分はさっと資料を拝見するだけで終わってしまいましたが。

※動画はまだ作成していません
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↑入口。
江川邸単独で\300、郷土資料館とあわせてだと\400だったかな。単独での拝観料はハッキリ覚えていないので曖昧です。すみません。

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↑母屋。中部には資料が展示してあり、係りの方がいろいろな説明を行っていました。
たまたまかもしれませんが、何気に結構な数の来訪者がいてびっくり。シャイなので、見学もそこそこに次の場所へ移動です。

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↑西蔵。正面から見ると将棋の駒のような形をしていることから、駒蔵とも呼ばれているみたいです。
あと、軒の屋根が瓦でなく伊豆石で葺かれているのが特徴なんだとか。

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↑でも、すぐ横にある蔵は瓦でした。こちらも昔は伊豆石が使用されていたのかな。


この裏手にある台地が江川砦です。訪問前はこの江川邸から見学できるかなと思ったんですけど、どうも無理っぽいですね。城池の方面からは入れると思いますが、江川家の私有地なので無理はしないほうが良いかもしれません。

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↑【品川台場の資料】
幕末、東京湾に構築された品川台場の資料。この品川台場も江川英龍が指揮して構築していたんですね。昔は6基あった品川台場も、現在残されているのは2基のみ。周辺はお台場として開発され、第三台場はいつでも訪問することが可能です。



2013年7月22日 (月)

韮山城 【伊豆】

場所:静岡県伊豆の国市韮山韮山(場所)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀・土塁など
指定:
駐車:有
満足:★★★★★★(6.5点)

築城年は定かではないみたいですが、本格的に整備されたのは伊勢新九郎(宗瑞/北条早雲)がここ韮山城を本拠に据えた頃からだと考えられています。
伊豆を平定した後の後北条氏は隣国の相模に侵食していきますが、後北条氏が小田原城に拠点を移すのは2代目・北条氏綱の代か
らで、早雲は没するまで韮山城にあり続けました。

1590年の小田原征伐の時には北条氏康の四男・北条氏規が城主を勤めていて、約4万4千の豊臣軍を相手に約3千6百の守備兵にておよそ百日間も持ちこたえましたが、最後は開城して降伏。以降、氏規は小田原城開城に向けて尽力していくことになります。

徳川家康が関東に入ると、その家臣である内藤信成が城主として入ります。ただ、その内藤氏も1601年には駿河・駿府城への移封が決まり、韮山城は廃城となりました。

北条早雲が居を構えていただけあって、韮山城は比較的有名な城址ですよね。
遺構は韮山高校脇に残る主要部分と、北東にある山一帯に広がる砦部分に分けられますが、主要部分は公園としてよく整備されているので、一年を通して訪問することが可能です。
権現曲輪や三の丸に残されている土塁は圧巻の規模で、一目見る価値はあり。

韮山城の西側の山には、豊臣軍が構えたという陣城の跡も数多く残されています。韮山城の敷地の多くは、江戸時代に韮山で代官を勤めていた江川氏の私有地みたいなので、あまり目立つ場所での無茶は不味いですが、興味のある方は陣城とわせて山中に残されている砦の面影を探してみてはいかがでしょうか。

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↑韮山城とその周辺図。韮山城の周囲は泥田や湿地が多くて攻めづらかったのでしょう。小田原征伐の際に、豊臣軍は東側の山に陣を構えました。
きちんと整備されているのは主要部くらいですが、各砦や豊臣軍が築いた陣城も遺構は残されているみたいです。興味のある方は確認してみてください。

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↑簡単に確認した韮山城・主要部の遺構を記してみました。古絵図と比べてみても、比較的良く郭跡が残されていることが判ります。

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↑【遠視】
北側から見た韮山城。

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↑【城池から三郭への虎口】
歩いているときはもともと竪堀か何かだったのを遊歩道として整備したのかなと思っていたのですが、古絵図でその部分を確認すると通路として認識されていますね。
三郭の土塁と二郭に挟まれていて、枡形のような雰囲気になっています。

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↑【三郭と土塁】
三郭の敷地の殆どは現在、テニスコートとして使用されています。
周囲に残る土塁は幅広で圧巻。迫力が凄いですよ。

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↑【権現曲輪】
一部、道を設置するために崩されたと思われる箇所がありますが、全般的には周囲を囲む土塁がよく残されています。

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↑特にお社が建てられている東側の土塁はかなり幅広に設定されており、往時から何か特別な場所だった雰囲気がたっぷり。

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↑【権現曲輪の虎口】
三郭側とは別に城池方面に降りるための通路が残されています。

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↑【二郭】
権現曲輪より一段高い場所に設けられている二郭。権現曲輪や虎口を監視するかのように北側を張出させ、土塁も幅広な造りになっています。

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↑【土橋と堀切】
本郭との間には土橋と堀切が残されています。

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↑【本郭】
そんなに広いスペースはありません。二郭と本郭は一体として機能していたのでしょう。
韮山城の権威を示すような建物があったりしたのであれば格好良いんだけど、調査ではどうだったんだろう。

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↑小田原征伐の際、豊臣軍は奥の山(高圧電線の見える山)に陣城を築いて韮山城守備兵と対峙していました。当時の城主・氏規は兄の氏照や氏邦と役割が違って主に外交を任されていたため、幾度も秀吉と交渉をしてきたと言われています。ここから城を囲む豊臣軍を見て、氏規は一体何を考えていたのでしょうか。

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↑本郭の南にはまだ尾根が続いています。

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↑【塩倉】
その先には方形に土塁で囲まれた塩蔵と呼ばれる郭跡が残されていました。名称は塩蔵ですが、この場所は煙硝蔵だったと考えられているみたいですね。

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↑【御座敷】
韮山高校のある場所は御座敷という名称が残されています。まあ、御殿などがあったということなんでしょうね。
ちなみに、この御座敷を通り抜けて三郭に入る道が、往時の大手だった想定されています。

2013年7月19日 (金)

伝堀越御所跡 【伊豆】

場所:静岡県伊豆の国市四日町(場所)
訪問:2013年6月
形態:平城
遺構:なし
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★(2.0点)

室町時代、室町幕府の中心は京都にありましたが、前政権の中心であった鎌倉には鎌倉公方を配置して東国(主に関東)を治めていました。
この鎌倉公方、初代の足利基氏は足利尊氏の四男で、家系的には将軍と非常に近かったんですよね。幕府にとって鎌倉公方はそ
れだけ重要なポジションで、鎌倉公方の補佐役として上杉氏(関東管領)を配したことからも察することができます。

ただ、その権力から増長が発生したのか判りませんが、鎌倉公方は代を重ねるごとに幕府との軋轢が強まっていきます。そんななか、ついには関東管領とも対立が発生し、1416年には上杉禅秀の乱が勃発。この反乱をきっかけに関東は長い戦乱の時代に突入しました。

永享の乱で鎌倉公方は一旦滅亡しますが、結城合戦などを経て再び再興を許されます。しかし程なくして鎌倉公方はまたも上杉氏と対立し、今度は鎌倉を追い出されて下総・古河に本拠を移します。これが世に言う享徳の乱ですね。扇谷上杉家臣・太田道灌が活躍した時代です。
利根川を境に管領上杉方と古河公方の勢力が対峙して享徳の乱は30年近く続くことになるのですが、時の将軍・足利義政は古河公
方・足利成氏への対抗策として異母兄の足利政知を関東管領に命じ、関東に送り込みました。ただ、政知は扇谷上杉氏などの支持が得られなかったため、妨害を受けて鎌倉には入れませんでした。
そのため政知は伊豆の堀越に入り居を構え、堀越公方と称しました。

前置きが非常に長くなってしまいましたが、その堀越公方が居を構えたとされる場所が、ここ、伝堀越御所跡です。
ちなみに堀越公方は2代目・茶々丸のときに興国寺城を本拠にしていた伊勢新九郎(宗瑞/北条早雲)に攻められ、滅ぼされてしまい
ました。茶々丸は傍にある願成就院において自刃、もしくは伊豆を脱出した後、甲斐国にて捕縛されて自害したと伝えられています。

発掘調査は何度も行われたみたいで池跡などが発見されているようですが、案内があるだけで今はたんなる野原です。正直いって公園と呼ぶのも微妙な感じ。
史跡公園に向けての構想はあるみたいですが、ネックはやはり土地問題みたい。

案内は立派なので、ちょっと立ち寄って感慨にふけってみるのはありですかね。
あとこの一帯は北条氏(後北条氏じゃないですよ、本物の北条氏です)に縁がある土地だったみたいで、周辺には北条氏関連の史跡が残されています。
伊豆の中でも古くから重要な場所だったんでしょうかね。あわせて散策してみては如何でしょう。

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↑伝堀越御所跡は韮山城からそう遠くない場所にあります。

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↑周辺地図。この守山周辺は鎌倉幕府の執権として権勢を誇った北条氏に縁の深い場所みたいで、北条氏関連の史跡も点在しています。そういうこともあって、堀越公方もここに居を構えたということなんでしょうか。

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↑【伝堀越御所跡】
現状では単なる野原ですね。
20回に及ぶ発掘調査によって池跡などは発見されているみたいなのですが、建物の痕跡は未だ見つかっていないみたいです。史跡公園に向けての整備計画なるものがあるみたいですが、現状ではちょっと難しいのかな。

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↑【北条政子 産湯の井戸】
非常に有名な人物だと思うので、説明は不要ですよね。
伝堀越御所跡の反対側に、この産湯の井戸は残されています。

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↑【北条氏邸跡】
守山に詰めの城を築いて、周辺には北条氏の館が建ち並んでいたんでしょうね。


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自分はこれで散策を止めてしまいましたが、北条時政公墓所や北条氏一族の供養塔など見所はたくさんあります。
韮山城や韮山反射炉などとあわせて、じっくり散策してみてはいかがでしょう。

2013年7月16日 (火)

伊豆長浜城 【伊豆】 2/2

伊豆・長浜城 その1 の続きです。

その1では長浜城の歴史から第三曲輪までを紹介してきました。
その2は第二曲輪から紹介開始です。

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↑現地で紹介されていた長浜城縄張図。ちょっとだけ手を加えてみました。

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↑【第二曲輪 虎口】

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↑【第二曲輪】
城内で一番の広さをもつ曲輪です。
昭和40年代までは三井家の別荘が建てられていたみたいなんですけど、ここからは数多くの柱穴が発掘調査によって検出されました。
建物跡が柱によって表現されていますね。何も無い野原よりも往時をイメージし易くなるので、こういう対応は本当に有難いです。

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↑【堀】
第一曲輪に沿う形で堀跡が残されています。写真右は発掘調査当時のものなんですが、端は畝によって仕切られていたことが判りますね。
何か造海城にあった水堀が思い出されますね。堀という役目より水溜めとしての意味が強そうな感じを受けます。

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↑脇は竪堀になっているみたいなんですけど、草に覆われて視認できませんでした。

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↑【櫓(復元)】
この位置からは岩盤をくり抜いて作成した柱穴がみつかり、建物跡が確認されました。
実際にこのような第一曲輪との連結機能を果たす櫓が建てられていたのかは判りませんが、第一曲輪との連絡通路が見つかっていないことから、このようなイメージの建物を想像してみたみたいです。

この櫓、格好いい。構造もなかなか良い発想のように思うんですけど、世間一般の評価はどうなんですかね?
とかく東国の城というと織豊文化が入ってくるまでは石垣も無い土の城で、建物も粗末なものしかなく、櫓があってもせいぜい井楼櫓レベルという考えが広まっているように思いますが、自分はこのレベル程度の建築物は普通にあってもおかしくないんじゃないかと考えています。
瓦を使用していなくても礎石さえしっかりしていれば2~3階建ての建物は造れるんですからね。

妙な展望台を設置されるより、こういった建物のほうが雰囲気も出て余程ましです。

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↑【第一曲輪】
第二曲輪とあわせると本丸上段とも呼べそうな第一曲輪。ここからは門と塀の痕跡が発見されています。

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↑第一曲輪からの展望はバッチリ。武田方の三枚橋城もよく観察できます。
天気は良いんだけど、富士山がガスで隠れてしまっているのが残念ですね。

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↑【第一曲輪 周囲に残る石垣①】
櫓の傍です。岩盤を削って堀を作成しているくらいですから、往時も石垣や石積みが使用されていたと思うのですが、残されている石垣が往時のものか、はたまた別荘の名残なのかがよく判りません。

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↑【第一曲輪 周囲に残る石垣②】
西側斜面。虎口は往時からあったんでしょうか。

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↑【第一曲輪 周囲に残る石垣③】
腰曲輪の脇に残されている石垣。

他にも石垣はポツポツ残されているみたいです。興味あれば探してみてください。

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↑【曲輪A~D】
第一曲輪の北側には、海に向かって馬蹄段状に腰曲輪が続いています。

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↑最下段には船溜りだったと思われる磯場が。ここから淡島や長井崎などに設けられていた砦に移動したりしていたんでしょうね。


その1に戻る

2013年7月14日 (日)

伊豆長浜城 【伊豆】 1/2

場所:静岡県沼津市内浦重須(場所)
訪問:2013年6月
形態:海城
遺構:櫓(復元)・曲輪・堀・土塁など
指定:国の史跡
駐車:城址脇の釣堀に駐車可
満足:★★★★★★★(7.0点)

1568年、武田信玄による駿河侵攻が開始されると、1570年には駿河は完全に武田氏の支配下へと治まっていきます。以前は三国同盟で結ばれた武田氏と後北条氏でしたが、駿河侵攻をきっかけに紛争に突入。1571年に一旦は甲相同盟が復活するも、1579年には越後・御館の乱をきっかけに再び破綻し、武田氏と後北条氏は合戦を繰り返すようになります。

そんな情勢の中、伊豆長浜城は武田方水軍に対する前線基地として1579年に整備されたものと考えられているみたいです。当時、今の沼津には三枚橋城(後の沼津城)という武田方の拠点があり、付近では小競り合いがたびたび発生していました。
勝敗はよく判らないながらも沼津沖では水軍の合戦も行われたみたいですが、相手方の武田氏は1582年に織田信長によって滅ぼ
されてしまいますから、伊豆長浜城が最大限に機能したのも実質は2年ほどといえるのではないでしょうか。

以前はそこまで整備されていなかったみたいなのですが、現在は案内板も豊富で発掘調査の成果も復元されている箇所があり、コンパクトながらもなかなか楽しめる城址になっているのではないかと思いました。
主郭からは内浦湾超しに富士山も確認できるので、景観もバッチリ。

往時は内浦湾を囲むように城や砦が張り巡らされ要塞のようになっていて、この長浜城はその要塞の司令部的な場所だったんだと思います。なので長浜城だけを見ると非常に小さな城という印象を受けてしまいがちですが、近世城郭で例えると内浦湾要塞の中の天守閣みたいな存在と考えても良いんじゃないかなと。

主郭の周辺にはところどころに石垣が残されています。この場所、昭和40年代まで三井家の別荘が建てられていたみたいで石垣はその名残だと思われるのですが、果たしてどうなんでしょうね。
この小山はなんとなく岩山っぽいですし、堀切作成や削平地設置工事の際にそれなりに石を入手できたと思うので、少なくとも
石積み程度はあった筈だと思うのですが・・・

※ニコニコ動画にもアップしてあります。ニコニコ版はこちらから。
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↑現地にあった縄張図に若干手を加えてみました。

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↑当時の周辺状況の解説図。伊豆の付け根に近い沼津には三枚橋城という武田氏の前線基地が構築されていました。その三枚橋城に対する伊豆水軍の前線基地として整備されたのが長浜城です。

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↑長浜城の脇にある釣堀の駐車場が長浜城の駐車場を兼ねています。国の史跡だけあって案内もしっかり。

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↑入口です。頂上まで登るだけなら5分もあれば十分かな。

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↑【第四曲輪と堀切】
入口から登ると始めに目にする曲輪です。
土塁の頂部からは1基だけ柱穴が確認されたのだとか。いったい何に使用されていたんでしょうかね。

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↑【大手道】
今は道路設置の影響で削られてしまっていますが、往時の大手道だったと思われる通路が残されています。
九十九折の道の上部には第三曲輪が。

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↑【第三曲輪】
動画の中でも説明していますが、この第三曲輪は長浜城における守りの要だったと思われる曲輪です。

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↑【堀切】
第二曲輪と第三曲輪の間にある堀切。
第三曲輪からの攻撃を何とか防いで大手を登ったとしても、この堀切では二つの曲輪から袋叩きにされます。

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↑この堀切にはもともと跳ね橋が架けられていて、第三曲輪を経由して第二曲輪に入るという構造をしていました。その時の堀切はもっと深くまで掘り下げられていたみたいです。

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↑しかしその後、堀切は埋められたうえに幅を狭くして、門構えの虎口へと造りが変更されました。

一見すると、跳ね橋構造のほうが例え第三曲輪が陥落しても第二曲輪には簡単に進入させない堅固な構えっぽく感じるのに、なんでわざわざ堀を埋めてまで門に変更したんだろうと不思議に思ってしまうかも知れません。
あくまで私見ですが、構造を変更したのは合戦における兵数の大規模化が関係しているんじゃないかと思います。
お互いが少数兵通しの戦いなら小手先の技巧性でも十分に有効かもしれませんが、勢力の巨大化に伴う合戦規模の拡大化で、もはやそういったことが通用しなくなってきたという変化を表している一例なのではないかと。

一番の要である第三曲輪が突破された時点で陥落は時間の問題、という観点から、第三曲輪の防御性をあげて絶対防衛線を構築する、に切り替えられたというこなんだと感じました。
まあ、実際がどうなのかはわかりませんけどね。

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↑【第二曲輪から見た第三曲輪】
第三曲輪周辺のまとめ。


小さなお城ではありますが、ちょっと長くなったので2回にわけますね。
第二曲輪遺構はその2にて。

その2

2013年7月12日 (金)

today news

面白い記事が日経に掲載されていました。

波乗り味わえる「玩具船」 秀吉長男のおもちゃ 


京都国立博物館(京都市東山区)は12日、豊臣秀吉の長男、鶴松(棄丸)のおもちゃの乗り物「玩具船」(桃山時代、重要文化財)に、大きな車輪が一つあることが分かったと発表した。船が上下に揺れる仕掛けで、波に乗っている気分を味わえるといい、博物館は「権力者の息子が持つ、当時としては破格の豪華な一点もの」としている。

 おもちゃは木製で長さ約2メートル、幅約1メートル、高さ約1メートル。作者は不明。4つの車輪が付いた台車の上に船が載っており、ひもを引っ張り動かす構造。甲板には子供が座る場所もある。

 新たに見つかった車輪は直径約40センチで、ほかの車輪の2.5倍の大きさ。船底に大部分が入り込み、外側からはほとんど見えない。調査の結果、車輪の形が不整形か、車軸をずらして取り付けられているため、上下に動く構造と分かった。

 鶴松は秀吉と側室、淀君の長男。病弱で1591年に2歳で亡くなった。玩具船は傷みが少なく、鶴松はほとんど乗らなかった可能性がある。

 玩具船は13日から始まる特別展「遊び」で展示される。〔共同〕


残ってるものなんですね。犬山のからくり人形といい、何気に昔も侮れない。

2013年7月11日 (木)

水野忠邦の墓

場所:茨城県結城市山川新宿(場所)
訪問:2013年6月
指定:県指定史跡
駐車:有

水野氏は戦国時代、刈谷城を本拠として西三河に勢力をもつ豪族でした。西三河といえば松平氏(後の徳川氏)が有名ですが、水
野氏と松平氏は頻繁に通婚するなど、比較的良好な関係が保たれていたようです。家康の母、伝通院も当時の水野家当主だった水野忠政の娘ですしね。

尾張において織田信秀が台頭し勢力を拡大すると、水野氏は織田氏に協力するようになります。一方の松平氏は今川氏に従属するようになりますので一時は反目しあいますが、桶狭間の戦い以降は織田氏と松平氏が締結した清洲同盟を仲介するなど、その関係は以前の状態に修復されていきました。

1575年、水野氏は武田勝頼との内通を信長に疑われ、当時の当主だった水野信元(忠政・次男)は殺害、水野氏も断絶とされてしまいます。
その後の刈谷城は佐久間信盛(有名な退き佐久間です)が管理するところとなりますが、その佐久間信盛が1580年に織田家から追
放されると、信元から離れて家康の麾下で働いていた水野忠重(忠政・九男)が信長の命によって刈谷城に入り、織田家の武将として水野氏の再興が許されます。
その際、尾張・緒川城には忠守(忠政・四男)が城主として入りました。

徳川の世になると、水野氏の一族は多くの藩を興します。
宗家というか忠重の跡を継いだ勝成(忠重・長男)の系統は三河刈谷藩・大和郡山藩主・備後福山藩などを経過して、最後は下総結城
として幕末まで存続。
勝成の弟・忠清(忠重・四男)の系統は上野小幡藩・三河刈谷藩・三河吉田藩・信濃松本藩などを経過して、ここも駿河沼津藩として幕
末まで存続します(ただ、最後は明治元年に移封となった上総菊間藩ですけど)。
他にも鶴牧藩として幕末を迎えた系統など盛りだくさん。

で、前置きが大変長くなってしまいましたが、ようやくここで本題に入りたいと思います。今回訪問した水野忠邦の系統の話ですね。
忠邦の系統は水野忠重の時代、緒川城主となった忠守の三男・忠元を祖とする系統です。忠元は幼少の砌(みぎり)より徳川秀忠に
仕え、領地として下総山川藩を賜りました。この系統の水野氏は駿河田中藩・三河吉田藩・三河岡崎藩・肥前唐津藩を経過して、最後は羽前山形藩主として幕末を迎えることになります。

水野忠邦は肥前唐津藩第4代藩主(系統としては11代目)であり、1839年には老中となって天保の改革を実施しました。幕府の財政難を解消するために商人の談合を制約して物価の引き下げを図ったり、倹約令をだして生活や風俗を厳しく統制したのですが、民衆や大名の反発を招いて失脚してしまいました。余談ですが、このとき側近として働いていた遠山景元という人が、かの有名な「遠山の金さん」のモデルになった人物だということですね。

ここ、史跡名としては水野忠邦の墓となっていますが、どちらかというと忠邦までの水野家累代の墓と呼んだほうが正しい感じです。水野氏が山川藩主だったのは2代・忠善までなのですが、初代である忠元が大名になったことを記念し、許可を得て菩提寺である万松寺に墓所が建てられました。万松寺は1855年の火災で消失した後、明治5年に廃寺になったため残されていませんが、墓所だけは今でもしっかりと残されています。
ただ、2年以上の月日が経過した現在でも東日本大震災の影響が色濃く、倒壊した状態のお墓が数多くありました。それぞれがか
なり立派な墓所になっていたみたいで、それだけに復旧といっても簡単にはいかないのでしょうね。傷ついた石を直そうにも相当な修復費用がかかりそうですしね。いつか元に戻る日がくればいいのだけど・・・

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↑墓所の入口。敷地は当然立ち入り禁止です。
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↑それぞれが立派なお墓だっただけに、なおさら修復が大変っていう状態に思います。うーん、残念。
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↑徐々に修復が進んでいるのだと思いたい・・・

2013年7月 9日 (火)

山川綾戸城 【下総】

場所:茨城県結城市山川新宿(おそらくこの場所です)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:堀・土塁など
指定:不明
駐車:不明
満足:★★★(3.0点)

結城家初代・朝光の四男・重光が山川館を築いて山川氏を名乗ったのが山川氏の始まりとされていますが、その山川氏が戦国時代により要害性のある場所に本拠を移すために築いたお城が、山川綾戸城でした。

山川氏は結城氏の越前移封に伴って山川綾戸城から退出しますが、一時廃城の時期はありながらも、その後は水野忠元が下総山川藩主として入城していた時期もありました。水野家の転封後、山川は天領となったので代官が置かれて幕末まで山川綾戸城は存続し続けたみたいです。

遺構はほぼ壊滅状態といってもよく、三の郭の土塁や堀の一部がほんの僅かに残されているのみ。なんでも大規模な造成工事が行われたとかで、なんとなくといえる部分も殆ど判らなくなってしまったというのが現状なんだと思います。
遺構の傍にはちょっとした案内板が建てられているみたいなのですが、自分は最後まで見つけることが出来ませんでした。
城址の東側には排水路が走っていますが、ナビの地図にはそこに架かる橋の名称として「おおほりあと」と記されていました。まあ、そういうことなんでしょう。
古絵図が残されているみたいなんですけど、それを見れば少しは往時を振り返ることができるのかな。

城址の傍には水野家代々のお墓が残されています。かなりしっかりした墓所だったみたいなのですが、2013年6月現在でも地震による倒壊から復旧されていませんでした。
復旧には相当な金額がかかりそうですからね。なかなか難しいんだろうな。

※動画はまだ作成していません
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↑航空写真から見る山川綾戸城の現況。山川沼に突き出す台地先端に築かれた堅固な城だったみたいですが、その面影は殆ど残されてません。
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↑水野忠邦の墓から山川綾戸城が存在したと思われる方面を撮影。低地は山川沼の名残と考えて良いのかな?
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↑遺構はこの辺りかなと目星をつけた場所は外れでした。周囲に人はいないし、道が細いから駐車してうろうろするのも難しいし・・・。
カーナビに表示されていた「おおほりあと」までいってみようかとも思いましたが、面倒になったのでパスしました。また近くまで行く機会があれば、再訪問するかも知れませんね。

2013年7月 7日 (日)

山川館 【下総】

場所:茨城県結城市上山川(場所)
訪問:2013年6月
形態:平城(武家屋敷跡)
遺構:曲輪・堀・土塁など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★(4.0点)

山川(山河)氏は結城家初代・朝光の四男・重光が当地に館を築いて山川氏を名乗ったのが始まりとされています。歴代の山川家当主は結城家に属して行動していくことになりますが、かなり独立性の高い同盟勢力のような関係を維持し続けていたみたいです。

結城合戦によって結城氏が一時滅亡すると、再興した結城家の中で有力家臣であった多賀谷氏や水谷氏と同様、主家に対して強い影響力をもつようになります(成朝・氏広が当主の頃の話です)。
ただ、結城家の当主が15代・政朝になると、専横を振るっていた多賀谷和泉守や山川景貞は粛清され、結城氏の勢力は徐々に回復していきました。そうして結城氏と山川氏の関係は滅亡前と同じ状態に戻っていくことになります。

山川氏は結城氏と同族の小山氏にも、お家断絶の危機になると養子を出していますよね。結城四天王の中でも山川氏は別格の存在だったのではないでしょうか。

1565年、山川氏は新たに山川綾戸城を築いて居城を移しました。後北条氏の圧力が強まる中、謙信の関東進出にて関東の諸勢力が自らを存続させるために苦慮していた時期でもありますね。より要害性の強い場所に本拠を移動させるのは、当然のことといえるでしょう。

※動画は撮影していません
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↑山川館。現在は東持寺の境内として使用されています。
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↑【東側の堀】
埋まっている感は仕方ありませんが、なかなか幅広な堀が残されています。
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↑【東堀の土塁】
内側から見た東堀の土塁。
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↑【南側に残る虎口及び堀跡】
この南虎口が大手だったとされていて、その正面には馬場があったと考えられているみたいですね。
南側の堀跡は水路が通っていて、さながら水堀のような雰囲気をかもし出しています。
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↑南側の土塁。
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↑北側の土塁。
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↑東持寺には鎌倉時代の1317年に造られたと考えられている板碑が残されています。左上が一部欠損していますが、中央に「南無仏」という文字と、その左右に描かれた五重塔がしっかりと確認できますね。

2013年7月 4日 (木)

城の内館 【下総】

場所:茨城県結城市結城(場所)
訪問:2013年6月
形態:平城(武家屋敷跡)
遺構:曲輪・土塁
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★(4.0点)

結城城から市内を抜けて反対の南側に、この城の内館は残されています。
案内板によると、この屋敷は結城家初代の結城朝光によって築かれ、室町時代に結城城が築かれるまでの間はここ、城の内館が結城氏の居城だったと考えられているみたいですね。

分類としては典型的な武家屋敷跡です。区画は東西約178メートル、南北約128メートルと比較的広く、周囲に土塁が廻るこの場所は、現在は散策路として整備されていて非常に見学がし易いのが有難いですね。結城氏の始まりの場所とも言えますし、駐車場も完備されているので、気軽に立ち寄ってみてはいかがでしょう。

※動画は撮影していません
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↑駐車場も完備していますが、入口が道路に面していないので、ちょっとだけ注意が必要です。脇にある三角州状の駐車場を抜けて、城の内館の専用駐車場に入ります。
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↑パッと見は草木が生い茂っているように見えますが、下草は程よく処理してあるので、歩きづらいということは無いと思います。
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↑【館・西側の土塁】
駐車場入口付近から撮影。うっすらと土塁が残されているのが判ると思います。
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↑発掘調査によって露になった北西部隅の堀と土塁。堀は上幅が約5m、深さ1.8mの薬研堀だったみたいですね。現在、堀は埋め戻されてしまって姿を見ることはできません。
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↑【館・北東隅部あたりの土塁】
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↑【立木之地蔵尊】
南東には立木之地蔵尊が建てられています。
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↑【館・南側の土塁】
土塁の手前は道路として使用されていますが、この道路も堀跡だったりするのかも知れませんね。

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↑結城市は結城百選なるものを選定していて、ここ城の内館も百選に選ばれています。

2013年7月 2日 (火)

ちょっと廃な場所【軍艦島】

皆さんは端島という島をご存知でしょうか。通称、軍艦島。
廃墟好きには断トツの知名度を誇る場所だと思うのですが、近年は一部区画が整備されて観光で見学できる地区も用意されているので、意外とご存知の方は多いかも知れません。

軍艦島はもともと炭鉱の島として栄えていた場所で、1974年に閉山となり無人島となりました。
なかなか良質な炭鉱だったみたいで、最盛期の1960年には5,267人の人口を数え(当時の人口密度では世界一)、島内には炭鉱労働者やその家族のための集合アパートは勿論のこと、学校・病院・映画館・寺院などが完備され、一つの都市として島内で完結できるように整備されていました(ただ、墓所だけは別だったみたいです)。

無人島になった後も各種施設は廃墟として残され、妙に探検心をくすぐられる場所ではあったのですが、当然のことながら島内は立ち入り禁止です。
映画やゲーム(SIREN2が有名)の舞台にもなった軍艦島、探検するのは無理な場所だと思っていたのですが・・・

Youtubeでこんな動画を発見してしまいました。




ご存知、Googleストリートビューですね。長崎市の協力を得て、島全体を撮影したのだとか。
早速、ストリートビューを使って軍艦島を確認してみました。


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ストリートビューなんで、移動はPSで発売されていた「クーロンズゲート」みたいな感じになりますね。なので、そこまで自由度が高いという訳ではないのですが、欲を言ったら切がない。自分はこれで大満足です。


Googleさん、大手柄なんて思いながら軍艦島を疑似散策していたんですけど、このブログのメインテーマであるお城。もしかしたらと思って、「ストリートビュー 城」で検索してみると、ストリートビューギャラリーなるものを発見。その中に日本の城という項目がありました。

やっぱりあるんですね。自分は知らなかったですけど、このギャラリーって結構有名なサービスなのかな。
今のところ、熊本城・小田原城・会津若松城(鶴ヶ城)・名古屋城・犬山城・松江城・岡山城が公開されています。早速確認してみたんですけど、正直これ、なかなかいいですね。動画と違って静止画なので自分のペースで視聴を進められますし、なにより360度見渡せるので臨場感もバッチリ。見せ方としては動画より数倍良い方法だと思いました。

ストリートビューを使ってプチ旅行気分なんてのは有りなのかもと思っていたんですけど、ちょっと盲点でしたね。
ただ、自分でやろうと思うと、それなりの360度カメラを用意しなくては駄目ですからね。今はちょっと無理ですけど、将来はこの表現方法を使った旅行ブログなどが増えてくるのかも知れませんよ。

自分もいつかはやってみたいかな。



2013年7月 1日 (月)

結城城 【下総】

場所:茨城県結城市結城(場所)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:横堀など
指定:なし
駐車:有
満足:★★★★(4.5点)

小山氏の祖である下野大掾・小山政光の四男・朝光が功により結城に入って結城城を築いたのが始まりとされているみたいですね
なんといっても結城城が脚光を浴びたのは「結城合戦」が一番でしょう。永享の乱で滅亡した鎌倉公方の遺児を擁立して室町幕府
に反旗を翻した結城氏は、圧倒的な戦力を誇る幕府軍を相手に一年近く篭城を続け持ちこたえさせます。
忍城を舞台にした「のぼうの城」が昨年秋に公開され、ちょっと前にDVDレンタルなども開始されましたが、遡ること150年も前に
、もっと圧倒的なスケールで同じような戦いが繰り広げられていたのです。詳しくは「結城合戦」を調べてみてください。
「結城合戦」に敗れた結城氏は一時滅亡しますが、鎌倉公方の復活に伴って結城氏も再興を許され、成朝が結城家13代当主として
結城家の勢力回復に向け尽力していくことになります。15代当主・政朝の頃にはそれなりに勢力を回復させ、16代・政勝は最盛期を築き上げました。その後、結城氏は越前に移封となり、越前松平家へ発展していきました。
結城氏の移封によって結城城は廃城となりますが、1700年に能登より水野勝長が18,000石で封じられ、以降は下総結城藩が幕末
まで統治していくことになります。1703年に再建を許された結城城も、幕末に新政府軍の攻撃を受けて建物の多くが焼失してしまいました。

現在は宅地化の影響で遺構は一部しか残されていません。ただその大きな堀跡と残された地形から、往時の状況を想像するのみですね。
あと、結城城には埋蔵金伝説があります。でも、これだけ周囲が開発されてしまっている状況から察するに、とっくの昔に埋
蔵金は持ち出されてしまっているのではないでしょうか。
こういう埋蔵金伝説は全国に津々浦々ありますが、何かのアクシデントで意図せずに埋蔵金となってしまったもの以外の多くは
、とっくに持ち出されているような気がしてならないんですがね。持ち出した人間からすると口外しても百害あって一理なしでしょうから、いつまでも伝説だけが残ってしまっているというパターン。そう考えたほうが自然なんじゃないかなと思いますけどね。実際どうなのかは判りませんが。

※動画はまだ作成していません
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↑結城城の遺構を簡単に書き込んでみました。幕末まで存続していた結城城も、平城の宿命というか、今ではすっかり住宅街に飲み込まれてしまっています。
※図ではⅠを実城としていますが、現地案内によればⅠは「館」で、十二天郭と記した場所が「実城(本丸)」だったみたいです。なので、以下はその呼び名に修正して結城城を紹介していきたいと思います。
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↑【Ⅰ(館)に残る城跡公園】
特に何があるという訳でもありません。Ⅰは館というくらいですから、御殿でも建てられていたんでしょうね。
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↑【みかつきはし】
公園からちょっと南に進んだ先、同じⅠ(館)の中にある「みかつきはし」。てっきり三日月堀の跡なのかと思っていたら、どうも違うみたいですね。なんでも、江戸時代に行われた埋蔵金発掘現場の跡だという説も伝わるんだとか。
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↑【Ⅰ(館)の堀跡】
唯一といってもいい遺構が、この堀跡です。公園脇は浄水施設を設置するために埋められてしまっていますけど、それ以外は比較良好に残されています。
大きな堀だったみたいですね。周囲の土塁は埋め立てなどに使用されてしまったのかな?
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↑こちらはⅠ(館)・南側の堀跡。竹で守られている分、こちらのほうがよい雰囲気を残しているように思います。
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↑Ⅲ(西館)・北西隅の現況。ふらふら散策してたどり着いたんですけど、こういった薮の中に土塁などが残されているかも知れませんね。

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↑付近にある結城小学校はなんともお城チックな雰囲気を漂わせた施設でした。この薬医門は、何か謂れがあったりするのかな!?
ちょっと付近の方に尋ねてみたんですけど、「何も判りません」とキッパリ。

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