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2013年7月11日 (木)

水野忠邦の墓

場所:茨城県結城市山川新宿(場所)
訪問:2013年6月
指定:県指定史跡
駐車:有

水野氏は戦国時代、刈谷城を本拠として西三河に勢力をもつ豪族でした。西三河といえば松平氏(後の徳川氏)が有名ですが、水
野氏と松平氏は頻繁に通婚するなど、比較的良好な関係が保たれていたようです。家康の母、伝通院も当時の水野家当主だった水野忠政の娘ですしね。

尾張において織田信秀が台頭し勢力を拡大すると、水野氏は織田氏に協力するようになります。一方の松平氏は今川氏に従属するようになりますので一時は反目しあいますが、桶狭間の戦い以降は織田氏と松平氏が締結した清洲同盟を仲介するなど、その関係は以前の状態に修復されていきました。

1575年、水野氏は武田勝頼との内通を信長に疑われ、当時の当主だった水野信元(忠政・次男)は殺害、水野氏も断絶とされてしまいます。
その後の刈谷城は佐久間信盛(有名な退き佐久間です)が管理するところとなりますが、その佐久間信盛が1580年に織田家から追
放されると、信元から離れて家康の麾下で働いていた水野忠重(忠政・九男)が信長の命によって刈谷城に入り、織田家の武将として水野氏の再興が許されます。
その際、尾張・緒川城には忠守(忠政・四男)が城主として入りました。

徳川の世になると、水野氏の一族は多くの藩を興します。
宗家というか忠重の跡を継いだ勝成(忠重・長男)の系統は三河刈谷藩・大和郡山藩主・備後福山藩などを経過して、最後は下総結城
として幕末まで存続。
勝成の弟・忠清(忠重・四男)の系統は上野小幡藩・三河刈谷藩・三河吉田藩・信濃松本藩などを経過して、ここも駿河沼津藩として幕
末まで存続します(ただ、最後は明治元年に移封となった上総菊間藩ですけど)。
他にも鶴牧藩として幕末を迎えた系統など盛りだくさん。

で、前置きが大変長くなってしまいましたが、ようやくここで本題に入りたいと思います。今回訪問した水野忠邦の系統の話ですね。
忠邦の系統は水野忠重の時代、緒川城主となった忠守の三男・忠元を祖とする系統です。忠元は幼少の砌(みぎり)より徳川秀忠に
仕え、領地として下総山川藩を賜りました。この系統の水野氏は駿河田中藩・三河吉田藩・三河岡崎藩・肥前唐津藩を経過して、最後は羽前山形藩主として幕末を迎えることになります。

水野忠邦は肥前唐津藩第4代藩主(系統としては11代目)であり、1839年には老中となって天保の改革を実施しました。幕府の財政難を解消するために商人の談合を制約して物価の引き下げを図ったり、倹約令をだして生活や風俗を厳しく統制したのですが、民衆や大名の反発を招いて失脚してしまいました。余談ですが、このとき側近として働いていた遠山景元という人が、かの有名な「遠山の金さん」のモデルになった人物だということですね。

ここ、史跡名としては水野忠邦の墓となっていますが、どちらかというと忠邦までの水野家累代の墓と呼んだほうが正しい感じです。水野氏が山川藩主だったのは2代・忠善までなのですが、初代である忠元が大名になったことを記念し、許可を得て菩提寺である万松寺に墓所が建てられました。万松寺は1855年の火災で消失した後、明治5年に廃寺になったため残されていませんが、墓所だけは今でもしっかりと残されています。
ただ、2年以上の月日が経過した現在でも東日本大震災の影響が色濃く、倒壊した状態のお墓が数多くありました。それぞれがか
なり立派な墓所になっていたみたいで、それだけに復旧といっても簡単にはいかないのでしょうね。傷ついた石を直そうにも相当な修復費用がかかりそうですしね。いつか元に戻る日がくればいいのだけど・・・

0mizunograve_001
↑墓所の入口。敷地は当然立ち入り禁止です。
0mizunograve_002 0mizunograve_003
↑それぞれが立派なお墓だっただけに、なおさら修復が大変っていう状態に思います。うーん、残念。
0mizunograve_004
↑徐々に修復が進んでいるのだと思いたい・・・

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