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2013年8月30日 (金)

犬掛古戦場跡【里見家の墓・八房伝説】

戦国時代、関東制覇をもくろむ後北条氏と激しく争った安房・里見氏。里見氏は里見義堯の代に最盛期をむかえ、最大版図を築き上げました。
この義堯という人物、戦国物のゲームなどでもよく登場するので里見歴代当主の中でも一番知名度が高いかもしれませんね。ただ、この義堯は当主になるまでも一悶着あったりして、平穏無事に里見家の当主になれた訳ではありませんでした。そうですね、俗に言う「天文の内訌」です。

■天文の内訌
義堯が当主になる以前の里見家は里見義豊という人物が当主を務めていました。
そんな中、海向かいの相模では伊豆の後北条氏が徐々に勢力を伸ばしてきていて、1516年には名族・三浦氏を新井城にて打ち倒し、遂には相模国を完全に掌握してしまいます。

三浦半島と南房総は海で隔てられているとはいえ非常に至近距離です。勢いのある後北条氏が安房水軍を率いる里見氏をそのまま放っておく筈が無く、後北条氏は里見氏に対して工作活動を仕掛けました。近年里見家内で勢力を伸ばしていた義豊の叔父である里見実堯と正木道綱を裏から援助して、現当主である里見義豊を倒してしまおうという訳です。

ただこの工作活動は途中で明るみに出てしまい、里見義豊は小弓公方・足利義明の承諾の下、里見実堯と正木道綱を本拠である稲村城に呼び出して誅殺。さらにはその勢力を駆逐するため、実堯の本拠であった金谷城を攻撃して実堯の息子・義堯を追い出します。
追い出された里見義堯は上総・真里谷武田氏の城である造海城(百首城)に篭って後北条氏に援助を要請。後北条氏の援助を取り付けた義堯は正木時茂と共に金谷城で挙兵し、後北条氏の援軍と力を合わせて安房国を攻撃、今度は義豊を安房から追い出してしまいます。
義豊は真里谷信清の元に逃走しますが、再起を図って軍を興し、再び安房国内に戻りました。その際に義堯の軍と激突したのが、この犬掛古戦場跡です。
この合戦で義堯は義豊を打ち破り、安房の勢力を完全に掌握することに成功しました。敗れた義豊は戦死、もしくは自害したと伝えられています。

天文の内訌に関してはざっとこんな感じですね。
義堯は主家を倒して家督を奪ったため、義豊までの里見氏を前期里見氏、義堯以降を後期里見氏と分けて呼ぶことが多いです。
里見義堯はこの後、小弓公方に接近して後北条氏と対立し、上総の真里谷武田氏を倒して領土を拡げていきました。戦国の世の話なので分家が本家を倒したり過去に助けてもらったこともある勢力を後に攻撃するなどさして珍しい話でもありませんが、こう見ていくと義堯は下克上の典型といった感じがしてしまうかもしれませんね。ただ、義堯の人柄と勇気は敵国であった後北条氏からも認められていたという話も見られるので、事象だけで単純な判断はできませんが。


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↑犬掛古戦場と周辺図。
今の館山市のあたりには平地が広がっていますが、その穀倉地帯を望む三芳に昔は国衙がおかれていました。
犬掛古戦場は上総方面からその安房中心地へと抜ける通路のような谷あいの途中にあり、昔は戦略上重要な土地だったことが推察されます。

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↑【犬掛古戦場】 →案内の場所
今は静かな田園が広がっているのみなので、普通に訪れても全く気がつくことは無いでしょうね。
案内もありますが、殆ど人は訪れていないんだろうなー。

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↑【里見義道・義豊の墓】 →場所
里見義道・義豊親子のお墓。もとは大雲院(廃寺)にありましたが、明治42年(1909年)にこの場所に移設されました。
墓は室町時代の多層塔です。

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↑【春日神社(八房伝説)】
犬掛は南総里見八犬伝に登場する八房の生誕地なんだそうです。


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↑余裕があれば正面中央の山に残る「里見番所」の遺構を確認しようと思っていたのですが、暑さで精神的余裕が無くなったので、今回はキャンセルです。
滝田城や勝山城の場所も判ったので、シーズンがきたらまとめて訪問しようっと。



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