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2013年8月16日 (金)

石垣山一夜城 【相模】

場所:神奈川県小田原市早川(場所)
訪問:2012年1月ほか
形態:山城
遺構:曲輪・堀切・土塁・天守台・櫓台・石垣(高石垣)・井戸など
指定:国指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★★(8.0点)

見所:豊臣秀吉が手がけた城で残されているのは佐賀県の名護屋城とここ、一夜城だけ。井戸曲輪は必見です。

別名、石垣山城や太閤一夜城とも。

1587年、九州を制圧した秀吉は同年12月、関東に向けても惣無事例を発令。しかし、1589年11月に発生した猪俣氏による名胡桃城奪還が口実となり、1590年、秀吉の小田原征伐が開始されました。
秀吉は東海道から主力を、東山道からは前田・上杉などを主力とした北国勢を送り込み、3/27に沼津・三枚橋城に到着した秀吉は瞬く間に箱根の山を突破、4/3には先方が小田原に到着し小田原城に篭城する北条氏政・氏直親子を包囲してしまいます。

そんな中、秀吉は小田原城のそばにある山の一つ、笠懸山の山頂に陣城の築城を計画しました。築城に動員された人員は約3~4万人、完成まで80~100日間を要したと伝えられています。
位攻めの一環なのでしょうね。石垣山一夜城は関東では当時存在していなかった高石垣を使用していました。また、秀吉は山王丸に千利休や茶々などを招き、茶会を催していたそうです。

7月になると小田原城も遂に開城。小田原攻めの終了に伴って石垣山一夜城もその役目を終えたものと思われます。

石垣山一夜城は関東で貴重な高石垣の残るお城というだけでなく、肥前・名護屋城と同様に現在に残る秀吉が築城に関係したお城というレアな要素を含んだ城跡なんですよね。
言い伝えによると近代まで高石垣が非常に良好に残されていたみたいなのですが、関東大震災でその多くが崩落してしまったらしいです。それでも一部には高石垣が今でも残されていますし、石垣に囲まれたここの井戸曲輪は凄いの一言。必見です。

※動画は2011年6月に撮影した内容を2011年9月にニコニコ動画にアップロードしたものです。
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↑大まかにですが小田原城とその周辺図を作成してみました。

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↑【小田原城天守より見る石垣山一夜城】
小田原城から見える高石垣の近世城郭は相当なインパクトがあったことでしょう。陣城でここまでの普請が行われた例というのは他にそうないんじゃないですかね。そりゃ、篭城方も驚くわな・・・

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↑【石垣山一夜城から見る小田原城】
箱根十城が突破された時点で陣城が小田原城のそばに構築されることは理解していたと思うので、相手方に城内を見渡せられるということは、後北条氏にとってそんなに大した問題では無かったように思います。

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↑【概略図】
現地の案内に記入されていなかった曲輪名を虎口などをともに追加してみました。

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↑【南曲輪側面の高石垣】
多くの石垣が崩落してしまっている中で、一番保存状態が良いのがこの石垣です。
1590年の築城当時のものだとすればかれこれ400年以上経過していることになります。残っていてくれたことに感謝!

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↑【大手口】
公園化によって舗装された道ではなく、入口近くの案内の脇のルートが往時の大手だと伝えられています。
見ての通りで巨石がゴロゴロ。

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↑【天守台】
本丸に残る天守台。往時はここに瓦葺の立派な天守閣が建てられていたそうです。
今はちょっとした小山ですが、石垣が崩された後に風雨にでもさらされて削れてしまったんでしょうかね。出来る事といったら、周囲に残る大量の石片から往時を想像するのみかな。

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↑【二の丸】
公園内で最大の敷地面積を誇ります。

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↑【井戸曲輪】
石垣山一夜城の最大の見所である井戸曲輪。すり鉢状に廻らした石垣の中央には、今も僅かながらも水が湧き出ています。
往時の水量がどうだっかのか云々は脇においておくとして、なんにしてもこんなに大掛かりな井戸はそう多く見られるものではありません。しかもこの石垣山一夜城は陣城ですよ。それなのに何故、ここまで大掛かりな井戸を設けたのか・・・

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↑【北口通路】
大掛かりな井戸曲輪の存在理由。そのヒントは井戸曲輪の脇を通過する北口と呼ばれる通路に答えがあるように思われます。城内に通じる道は大手の他にこの北口が連絡通路として使用されていました。

秀吉の小田原征伐は単に後北条氏を討伐するだけではなく、どちらかというと東国で最大の勢力を誇っていた後北条氏を圧倒することで、東国諸大名の降伏を加速させるといった効果を期待しての行動だったように思います。
関東でも遠いのに、それより奥にある遠国までわざわざ遠征するのも大変ですものね。できれば早々に決着をつけたい(まあ、この後は宇都宮まで足を伸ばしますが)。
正直、後北条氏との決着だけにスポットをあてると、秀吉がその気になればもっと早く決着がついたのではないかと考えています。いわれるほど小田原城が鉄壁の防御を誇っていたかというと、実際はそうでもないような・・・。

ということで、3ヶ月に及ぶ篭城戦は無駄な損害を避けるという意味も当然あったのだと思いますが、それよりも東国大名に秀吉の力を見せつけるという意味のほうが重要だったんじゃないかと考えるようになりました。
そう考えると、この井戸曲輪の存在意義も理解できてきますね。挨拶に来た東国武将には大手でなく北口を通して城内に案内させ、彼らにはこの井戸曲輪を大いに見せつける。総石垣の陣城というだけでも凄いのに、なんとも壮大な井戸の存在が追撃ちをかける。まあ、これを見た東国武将は度肝を抜かれたことでしょう。

結論をいうと位攻めの名残りってことになりますかね。このことは石垣山一夜城全体でもいえることではあるのですが、特にこの井戸曲輪はその象徴みたいな場所なんだと思っています。

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↑【北曲輪】
今は展望台になっている櫓台の下に存在していた北曲輪。そこそこ広さはありそうなんですが、曲輪内はご覧の通り。

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↑【その先の北口通路】
掲載画像はかなり縮小してあるので判別しづらいかもしれませんが、石垣がしっかりと残されているのが確認できます。
この辺りが整備されていないのは地権の問題なんでしょうかね。薮を伐採すればここも見所のあるスポットになると思うのですが・・・。


石垣山一夜城は良い素材なので、いつか再編した動画をアップしてみたいですね。

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