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2013年9月28日 (土)

石浜城 【武蔵】

場所:東京都荒川区南千住(場所),もしくは東京都台東区浅草(場所)
訪問:2013年9月
形態:不明
遺構:消滅?
指定:なし
駐車:可能
満足:★(1.0点)

見所:下総復帰が叶わなかった武蔵千葉氏が居城としていたお城。

石浜城の築城年など詳細は不明ですが、武蔵国・江戸郷を拠点としていた武蔵江戸氏によって築城されたのではないかと考えられています。

享徳の乱の最中に発生した千葉家の内訌で千葉宗家は馬加氏に滅ぼされてしまいますが、千葉宗家最後の当主である胤宣のいとこにあたる実胤と自胤は城を脱出しました。
こうして武蔵千葉氏が誕生します。

下総や上総の旧千葉領は馬加氏の系統である下総千葉氏が掌握してしまいますが、武蔵千葉氏は将軍・足利義政に正式な千葉家当主として認められ、旧領復帰に向けて美濃より下向してきた東常緑や太田道灌などの助勢により努力します。

太田道灌が下総・臼井城を攻め落とすなど一定の成果はありましたが、下総千葉氏は本佐倉城を拠点に頑強に抵抗し、武蔵千葉氏の旧領復帰はついに叶いませんでした。

下総脱出後、実胤は石浜城、自胤は赤塚城を与えられ拠点としていましたが、実胤の隠居によって下総千葉氏の拠点は石浜城に統合され、管領上杉氏が衰退した後は後北条氏の勢力下に組み込まれていきました。
後北条氏の滅亡によって石浜城も廃城になったものと思われます。

遺構が残されていない場所には殆ど訪問しないのですが、本佐倉城のブログ内容を修正していたら石浜城のことが気になったので、ちょっとだけ現地を確認しに行ってきました。
南関東を流れる河川の位置は治水工事などの影響で昔とかなり変化していたりすることが多いんですけど、江戸の古地図を見る感じだと石浜周辺の隅田川はそんなに変化していなさそうに見えますね。
両国橋の由来でも判るとおり隅田川は武蔵と下総の国境を流れる川でしたから、少なくとも戦国中期までは国境の城として重要な役割を担っていたんでしょう。

なお、石浜城址とされる場所は現・石浜神社周辺と、浅草にある本龍院(待乳山聖天)に意見が分かれているみたいです。
どちらにしろ再開発はほぼ不可能だと思うので、特定に至るのはちょっと難しいかも知れませんね。

※動画の作成予定はありません
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↑現代と江戸後期の石浜周辺図です。
石浜周辺は隅田の渡しから察するに、昔から経済の要衝だった可能性もありますよね。


■石浜神社

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↑【石浜(石濱)神社】
石浜城の周辺地とされる石浜神社。石浜神社自体の創建は724年と歴史は古いみたいですが、建立当時からこの場所にあったのかは定かでないので、あしからず。
境内の中にある真崎稲荷は武蔵千葉氏によって祀られたと伝えられているので、まったく縁がない訳でもないですね。

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↑【石浜神社より隅田川堤防を望む】
白髭橋は1914年の架橋で、それまでは船で隅田川を往来していました。
江戸中期ごろから真崎稲荷へ参拝に訪れる人が多くなり、この周辺は大変賑わっていたそうです。

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↑【石浜神社周辺】
周辺の殆どが東京ガスの敷地ですね。往時を想像させるようなものは何も残されていません。


■本龍院(待乳山聖天)

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↑【待乳山聖天】
もうひとつの石浜城址推定値とされる待乳山聖天。見ての通りちょっと小高い丘になっていて、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称されたみたいです。
こういった地形が、待乳山聖天が城址推定値とされる根拠になっているのでしょうか。


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↑【山谷堀】
江戸時代には隅田川から吉原まで続く山谷堀が設けられていました。江戸に張り巡らされていた水路の一つなんでしょうね。
途中で発見したので、ついでに掲載しておきます。

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