« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »

2013年10月

2013年10月30日 (水)

宇都宮城 【下野】

場所:栃木県宇都宮市本丸町(場所)
訪問:2012年5月
形態:平城
遺構:土塁の一部 ほかに復元された堀や隅櫓など
指定:特になし
駐車:有
満足:★★★(3.5点)

見所:復元された隅櫓の景観や展示してある各種資料

宇都宮城は、宇都宮氏の祖である藤原円心が当地に館を築いたことが始まりであるとされています。
享徳の乱(1455-1483年)の最中に当主に就いた17代・宇都宮成綱の時代に宇都宮氏は全盛期を迎えますが、18代・忠綱や19代・興綱の代に変わると芳賀氏や壬生氏など家臣団の力が台頭し、宇都宮氏の権勢は急速に衰えていくことになりました。

16世紀も中頃になると、武蔵国まで勢力を伸ばしてきた後北条氏の影響力が北関東にも及んできます。後北条氏よりの政策をとる小山氏-結城氏に対して、宇都宮氏は佐竹氏や那須氏、小田氏などと組んで牽制を行いますが、河越夜戦(1546年)で古河公方・足利晴氏や管領上杉家が大敗すると、ますますもって後北条氏の圧力は増大し、戦国後期には居城を宇都宮城から山城の多気山城に移転させたりして、何とか勢力を維持させました。

宇都宮氏は秀吉による宇都宮仕置の後に本拠を宇都宮城に戻し、文禄の役(1592年)では朝鮮に出兵して戦功も上げますが、1597年に太閤検地の石高申告に偽りがあったとの理由で、突如改易とされてしまいました。

宇都宮氏改易後の宇都宮城には会津から転封の処分を受けた蒲生秀行が18万石で入り、江戸時代は宇都宮藩の藩庁として栄えました。近世城郭としての宇都宮城は本多正純の時代にほぼ整備が終了したと考えられているみたいです。

戊辰戦争の際に宇都宮藩は新政府軍についたため、土方歳三や大鳥圭介が率いる旧幕府軍の攻撃を受け、宇都宮城は落城。その後、新政府の救援軍によって宇都宮城は奪還されますが、この宇都宮戦争(1868年)によって城内の建物も藩校など一部を除き、すべて消失してしまいました。


明治になると城郭一帯が民間に払い下げられ、殆どの遺構は市街地化によって消滅してしまっています。本丸がおかれていた一角に水堀や土塁、櫓などが復元されていますが、遺構自体が少ないのであまり期待をして訪問すると、ちょっと拍子抜けしてしまうかもしれません。
古地図などを頼りに周囲を散策すると、多少は往時の面影を感じることができのかも!?

※動画はまだ作成していません
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_001 0_002b
↑日本古城絵図の宇都宮城絵図。田川に面した平城で大手口には丸馬出を配し、虎口周りを中心に一部では石垣が使用されていました。
市街地化によって遺構の大半は消滅してしまいましたが、現在は本丸の一部が復元されて城址公園として開放されています。

0_003
↑復元・整備された水堀と土塁、そして富士見櫓。正面から見るとなかなか見ごたえがあるのですが・・・

0_004 0_005
↑裏から見るとあまりにも整備されすぎていて、風情というものが全く感じられません。櫓の復元にはこだわりを感じますし、それなりに費用をかけて整備を行ったんでしょうけど、ちょっと担当者のセンスがずれているというか勿体無いですよね。

0_006
↑安全を優先させるにしても、もっとやり方があっただろうに。
城址の復元を行っている自治体は数多くあります。参考になる城址は、いっぱいあったのではないかと思いますが・・・

0_007
↑古河城がそうでしたが、この宇都宮城も日光社参の際には宿泊所として使用されていて、本丸には将軍の宿泊所である御成御殿が建てられていました。
このあたりには清水門と呼ばれる枡形門が設置されていて、将軍派その清水門を通過して本丸に入ったのだとか。

0_008
↑その枡形付近から見上げる清明台。

0_009 0_010
↑入口付近の案内所には復元図や模型などが展示されていました。ボランティアの方々だと思うんですけど、来園者に対して熱心に対応されている姿にはとても好感がもてましたね。
宇都宮文化財マップや各種カタログ、本当に有難うございました。

2013年10月28日 (月)

today news

 

山形・舘山城に石垣 伊達政宗の命で建設か 日経電子版より抜粋


山形県の米沢市教育委員会は戦国武将・伊達政宗(1567~1636年)の祖父、晴宗が築いたとされる舘山城跡(米沢市)の発掘調査で、新たに石垣の一部を発見したことを明らかにした。

権力を象徴していた石垣が発見されたことで、伊達家の本格的な居城だった可能性が高まった。市教委の菊池政信主査は「当時としてはかなり立派な石垣で、文献などから政宗が命じて造らせたものとみられる」と分析している。

今月実施した本丸跡付近の発掘で、7~8個の切り石からなる幅約5メートル、高さ約80センチの石垣の一部を確認した。その周辺からは石垣の補強や排水のために使われていたとみられる大量の丸みを帯びた石も見つかった。このほかに約20の柱穴が見つかっており、大規模な建物を構成していたと推定している。

政宗は24歳の時、豊臣秀吉の命令で、本拠としていた米沢から岩出山城(宮城県)に移ったが、その際に米沢の城を破壊したと伝えられる。

伊達家が勢力を拡大した時代の居城はこれまで米沢城(米沢市)と考えられていた。しかし2001年に舘山城跡の北側から武家屋敷の遺構が発見され、市教委が本格的な調査に乗り出した。この結果、舘山城は政宗の生誕地だった可能性も出ている。〔共同〕

舘山城って平山城だったみたいですね。米沢城から数kmの場所にある城址で、以前から伊達晴宗が桑折西山城から移転した居城は米沢城でなく、この舘山城だった可能性が指摘されていたみたい。
とても興味深い案件です。

2013年10月27日 (日)

西方・二条城 【下野】

場所:栃木県栃木市西方町本城(場所)
訪問:2012年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・竪堀・土塁・石垣など
指定:不明
駐車:開山不動尊前の広場に駐車可。但し、ここまでの道は狭いので注意が必要です。
満足:★★★★★★(6.5点)

見所:西方藩の居城。西方城のおまけと思って訪問すると驚かされる、しっかりした平山城。

西方城と至近の距離にあるため、もとは西方城の支城として使用されていたと考えられているみたいですが、正確なところは判っていないみたいですね。

関ヶ原の戦い(1600年)が終わると、西方には藤田信吉が1万5000石の所領をもって入り、西方藩が立藩されました。
信吉は山城である西方城ではなく、この二条城を本拠に定めました。現在の二条城という呼び名も、新城がなまったものと考えられています。
西方藩は大阪夏の陣(1615年)の後に当主である信吉が改易となったため、あわせて廃藩とされました。二条城が西方藩に使用された期間はそんなに長くはないですが、一応は近世城郭として改修されていたみたいで、本丸付近には石垣の痕跡なども確認することができます。

よく整備された西方城とは違い、全体的には薮に覆われた箇所が多く、全域を歩き回るのは困難です。ただ、ところどころに残されている枡形と思しき空間や、本丸周囲の高い土塁、石垣の痕跡など見所はあるので、西方城とあわせてどうぞ。

※西方城に続いて12:00頃からが二条城の動画になっています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_1
↑西方城と二条城。

0_002
↑【東から見る二条城】
二条城を訪問する際には開山不動尊を目安にすると良いのですが、正直、開山不動尊までのアクセスルートはかなり判りづらいです。配達中の郵便局員さんがいらっしゃったので、「開山不動尊という神社がこの先にある筈なんですけど・・・」って訪ねてみたのですが、聞いたことが無いといって知りませんでしたし。

動画を見ていただくのが、一番参考になると思います。12:00くらいからが、二条城の部分です。
ヴィッツ程度の小型車なら奥まで入れます。開山不動尊付近まで入らないと駐車できるスペースは無いので、不可の場合は金剛寺に用意されている西方城訪問客用の駐車場に車を停めて、歩いてくれば良いと思います。

0_003
↑【開山不動尊前の広場】
動画を見ると判ると思いますが、自分はここに車を駐車しました。

0_014_2
↑西方城の案内に掲載されていた二条城の縄張り図。
周囲に腰郭を多く配置してあり、なかなかしっかりしている平山城です。

0_004 0_005
↑【開山不動尊】
ここまでの道はかなり不便ですが、その割にはしっかりと管理されていそうな開山不動尊。由来が記された碑も、綺麗な状態が保たれていました。
花吹雪の中にたたずむ開山不動産の映像を動画に採用しようか散々迷ったんですけど、尺の問題で結局諦めたんだっけかな・・・
結構綺麗だと思うので、お気に入りの映像ではあるのですが。

0_006
↑【①:主要部への入口である竪堀】
開山不動尊の脇にある竪堀状の虎口から、二条城の主要部を目指します。縄張り図を見ると他に虎口っぽい箇所が無いので、大手と考えても良いのかな?

0_007 0_008
↑【②:枡形?】
いかにも枡形といった雰囲気を残す②部分の虎口。

0_009
↑【③:枡形?】
ここも枡形だったんじゃないの?臭を強く感じる虎口風の場所。

0_010
↑【④:本丸東側の曲輪】
③の虎口の先にある曲輪で、右手は本丸の塁壁、左手は土塁に挟まれた通路状の構造をしています。

0_011
↑【本丸土塁に残る石塁】
本丸を囲む土塁の高さは3m以上ある感じで、結構高さがあります。
その壁面には一部、石垣の面影が残されていて、西方城とは違った趣を感じさせてくれる場所です。

0_012_2 0_013_2
↑【本丸の土塁上に登る】
本丸内部は背丈の高い薮にびっしり覆われていて、とても確認する気にはなれませんでした。

確認したのは東側だけで、西半分は殆ど散策していません。機会があれば、また訪問してみたいお城ですね。

2013年10月26日 (土)

today news

江戸城の天守、木造で2020年に復元 NPOが構想  課題多いが… ※日経電子版より抜粋

江戸城天守閣の再建を目指す東京のNPO法人が、26日までに復元構想を発表した。1657年に焼失した天守閣を木造建築で再現する。東京五輪と同じ2020年の竣工が目標。ただ、天守閣跡は国有地の皇居・東御苑にあり、特別史跡に指定されている。総事業費350億円の調達も課題で、実現へのハードルは高そうだ。
このNPO法人は大学教授らでつくる「江戸城天守を再建する会」(東京・千代田)。構想によると、再建する天守閣は5層で、現存する石垣を活用。高さは約60メートルと19階建てマンションに相当し、現存の天守閣で最大級となる。
同NPOは今後、東御苑を管理する宮内庁、史跡を所管する文化庁などと協議する。小竹直隆理事長は「課題は多いが、天守閣を東京の新しいシンボルとして実現したい」と話している。

江戸城の天守なんて明暦の大火で消失してから復元されていないのに、なんで今更って感じですかね。
確かに江戸城は観光客が多いし、一般の人には櫓門とかより天守閣があったほうが受けが良いのも理解できます。でも、今の江戸城は皇居でもありますからね。警備上の問題も大きいんじゃないでしょうか。

本当に江戸城を観光名所として有名にしたいというのであれば、他にいくらでもやるべきことがあるように思います。
例えば観光案内。あれだけ巨大な渡櫓門や櫓などの建築物、それに巨石を使用した石垣や天守台、水堀などが残されているのに、それを全然活用できていないですよね。
もっと案内板を増やすとか、ボランティアでも解説する人を採用していけば、"江戸城=何もない城跡"なんてイメージはある程度払拭できるように思うのですが。

それに、建築物を復元するのであれば、天守閣にこだわらずとも本丸御殿(の一部)や枡形門など、もっと効果的な方法が残されているように思います。特に本丸御殿のあった場所は、今はたんなる広場でしかないんですし、天守閣より現実的じゃないですか。
名古屋城だって頑張っている最中なんですし。

東京五輪に便乗した、このNPOさんの売名行為ってだけなのかも知れませんけどね。今はCGという便利な方法があるのだから、どうせなら、そちらをもっと有効活用する方法で提案して欲しかったかな。

2013年10月24日 (木)

西方城 【下野】

場所:栃木県栃木市西方町本城(場所)
訪問:2012年4月
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・馬出・枡形・井戸跡など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★★★★★(9.0点)

見所:枡形を絡めた技巧的な縄張。整備も行き届いて、案内も豊富です。

西方城は宇都宮氏の一族である西方氏が、居城として使用していました。

戦国末期は後北条氏の圧力が増す中で、周辺の皆川氏や壬生氏は後北条氏方に組していたために大変だったと思いますが、これは何とか凌ぎきったみたいですね。ただ、宇都宮氏の領内でも西端だった西方は、秀吉の宇都宮仕置で結城氏の領地とされてしまい、所領を失った西方氏は没落してしまいました。西方には結城氏の後に藤田信吉(信吉は天神山城や花園城の城主だった藤田氏の一族です)が入り西方藩が立藩されますが、西方藩はこの西方城ではなく、麓の二条城に本拠を構えていたみたいですね。

もしかしたら知名度はあまり高くないのかもしれませんが、残されている遺構も見応えがありますし、案内も豊富で非常に素晴らしい城跡だと感じました。
西の丸がゴルフ場造成の影響で消滅してしまっているのが悔やまれますが、枡形や馬出など工夫の跡が明瞭に残されているので、空想が膨らんで見る者を飽きさせません。

城内の案内を見ていると、東の丸から二条城まで訪問できそうな気がしたのでチャレンジしたんですけど、途中で沢に阻まれて断念してしまいました。
薮漕ぎに自信のある方でしたら強行突破できるのかも知れませんけど、二条城には開山不動尊から普通に訪問することをお勧めします。

※動画は2012年4月訪問時に撮影して編集・アップロードしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_1 0_001
↑西方城の現地案内図。要所ごとに案内が設置されている親切設計です。

0_002
↑【長徳寺】
いかにも根小屋だったと思いたくなるような場所に建てられている長徳寺。
墓地の脇に西方城への訪問口があるので、そこから城址を目指しましょう。

0_003 0_004
↑【長徳寺裏の竹薮】
ちょっとルートを外れて散策してみると、竹薮の中には段々に構築された削平地や石積み、横堀っぽい溝など、昔は何かに使用されていたであろう面影がそこかしこに残されていました。
沢が傍にあるので耕作地の名残なのかもしれませんが、城好きとしては武家屋敷が建ち並ぶ姿をどうしても想像してしまう・・・

0_005 0_006
↑【屈曲する竪堀(案内:①)】
長大な竪堀の途中に設けられている折。
この方面から進入してくる敵兵の移動や視界を制限するだけでなく、攻撃も有効に行うことができるようになっています。

0_008
↑【枡形のような空間】
竪堀を登りきると、そこには枡形のような空間が残されていました。

0_007
↑【馬出(案内:②)】
北側から進入してくる敵兵を阻害するために、北の丸の前面に構築された馬出。

0_009
↑【北の丸虎口】
散策路として設置された階段とは別に、往時の虎口がしっかりと残されていました。
細道で、いかにも虎口といった趣です。

0_010 0_011_2
↑【屈折する通路(案内:④)】
北の丸からさらに奥へ侵入しようとする敵兵を阻む仕掛けが、案内④のあたりに良い状態で残されています。
北の丸(上段)に入るための枡形を何とか突破しても、すぐに隣接する三郭からの攻撃にさらされ、その三郭に向かうためのルートは狭い土橋が一本あるだけ。なんとも嫌らしい構造ですよね。

0_012 0_013 0_014 0_015
↑【屈折する通路(案内:⑤)】
こちらも技巧的な構造で、とても見応えのある案内⑤の屈折する通路。
南側や東側から侵入してきた敵兵の合流地点になっているこの場所を効果的に守れるよう、周囲には枡形が施されています。攻撃が行い易くなる、張り出された小曲輪も良ポイントですね。

0_016
↑【井戸跡(案内:⑦)】
井戸跡とされる窪地。

0_017 0_018 0_019
↑【連続する枡形(案内:⑧)】
連続する枡形とされる場所。解釈としては、3つの枡形が連続して設置されていたと認識すれば良いのかな?
見様によっては何でも枡形に見えちゃったりすると思うので、こういうのって解釈が難しいですよね。

0_020 0_021
↑【西方城と二条城の間に立ち塞がる沢】
この沢を越えて二条城まで訪問できないかチャレンジしてみたんですけど、ちょっと無謀過ぎましたかね。いろいろと試してみたのですが、自分のレベルでは全て跳ね返されてしまいました。
昔は行き来できたんじゃないかと思うので、何かしらのルートはありそうなんですけど・・・

2013年10月21日 (月)

皆川城 【下野】

場所:栃木県栃木市皆川城内町(場所)
訪問:2012年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・井戸跡など
指定:栃木市指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.0点)

見所:法螺貝城とも呼ばれるその構造

皆川城は、小山政光の子である長沼秀宗が築城したとされています。
長沼氏はその後に皆川氏と称し、周辺に勢力を拡大。戦国時代になると宇都宮城の宇都宮氏と幾度か合戦を行い、戦国後期にはかなり押されて領地の多くを失いますが、何とか皆川城を守りきることには成功しました。
しかし、1590年の小田原征伐が行われると、後北条氏寄りの政策を行っていた皆川氏は後北条方について、当主の皆川広照は小田原城に入城。
広照は小田原城が落城する前に投降して領地は安堵されるも、皆川城は既に秀吉軍に攻撃されていて落城していたため、1591年、新たに栃木城を築城して本拠を移転。皆川城は廃城となりました。

広照はその後、家康・六男の松平忠輝(正宗の娘婿として有名ですね)の附家老となって忠輝の補佐役を勤めますが、行状の悪い忠輝の現状を幕府に訴えたところ、逆に家老として不適格とされて皆川氏は改易されてしまいました。程なく赦免されて府中陣屋に入り常陸府中藩の藩主となりますが、嗣子不在のため、皆川氏は三代で断絶・改易となりました。


東北自動車道を下って栃木インターが近くなってくると、それこそ法螺貝のような奇妙な丘が高速道の左手に見えてくると思います。それが皆川城です。
城址は公園としてよく整備されていて、通年を通して見学することが可能なんじゃないでしょうか。遺構も見応えがありますが、周辺には皆川氏累代のお墓なども残されているので、そちらのチェックも怠り無く。

※動画は2012年4月に撮影した映像を編集したものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_1 0_001
↑作成した簡単な概略図と、現地案内に掲載されていた復元模型。

0_002
↑【南から見る皆川城】
遠目にも段が連なるその姿はひときわ目につくと思います。

0_003 0_004
↑【居館跡】
現在は市役所の施設が建てられている居館跡。周囲を覆う土塁がよく残されていて、ここが既に城内であることを実感させられます。
土塁の外には小川が流れているのですが、これは水堀の名残なんでしょうかね。

0_005
↑【南東部の巨大な横堀】
連なる帯郭を守るかのように最下段に設置されている巨大な横堀。かなりの迫力です。

0_006 0_007
↑【帯郭群】
見上げると先の状況が把握しづらい帯郭群ですが、上から見下ろすと一目瞭然ですね。

0_011 0_008 0_010 0_009
↑【山頂の主要部】
皆川城の最高所が本丸、見はらし台という平地を挟んで反対側には西の丸と呼ばれる櫓台状の台地が残されています。

0_012 0_013 0_014
↑【南西部の竪堀や横堀】
見応えのある竪堀や縦土塁。途中で横掘りとも連結しています。
ワイドは引き伸ばしになっちゃうので、どうしても画質が荒くなってしまう・・・

0_015 0_016
↑【皆川家歴代祖廟】
金剛寺には皆川家歴代祖廟が残されています。

2013年10月18日 (金)

多良崎城 【常陸】

場所:茨城県ひたちなか市足崎(場所)
訪問:2011年10月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁(櫓台や狼煙台を含む)・水の手など
指定:市指定史跡
駐車:入口付近に路駐できます
満足:★★★★★★(6.0点)

見所:土塁や堀がしっかり残る

多良崎城の詳しい歴史は不明みたいですが、大掾系図に吉田三郎兼幹の第二子、多良崎次郎盛忠の居館とされ、鎌倉時代初期の築城と記されているみたいです。ただ、発掘調査による測定では鎌倉時代末期~南北朝時代頃の築城と考えられ、ちょっとズレがあるみたいですね。

多良崎氏は南北朝時代に南朝方に組して没落し、その後は江戸通重の次男が土着して足崎氏を称しました。
足崎氏は戦国末期まで当地を治めますが、1590年の佐竹氏による江戸氏攻撃の際に多良崎城も攻略され、城は落城してしまいました。
その後、程なくして廃城になったものと思われます。

周辺の低地も今は耕地になっていますが、昔は太平洋に繋がる形で真崎浦という広大な内海が形成されていたみたいです。
その真崎浦に突き出す半島状台地に、この多良崎城は築かれていました。台地の大半はゴルフ場として使用されていますが、もしかしたらそちら側にも遺構が残されていたのかもしれませんね。


多良崎城はアンビリバボーの影響だと思うんですけど、心霊スポットとしても有名です。まあ、全く気にしなくていいと思いますよ。怖いというだけなら、ここより凄いところがいっぱいあると思うので。

※動画は2011年10月に撮影した映像を同年12月に編集してアップロードしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_1 0_001
↑多良崎城の大まかな概略図。
周辺の耕地は、昔は真崎浦という広大な内海でした。この真崎浦を囲むように、周辺には多数の城館が建てられていたみたいです。
概略図や多良崎城の縄張を見ていただくと判るかもしれませんが、主要部の堀はどちらかというと真崎浦方面の北側に向けて作成されており、ちょっと不思議な構造をしているように思いました。
詳しくは主要部の項にて。

0_002 0_003
↑【多良崎城の周辺】
南側から見た多良崎城。
あくまで憶測ですが、城址とゴルフ場の間に設置されている道路は、もしかしたら堀切だったのかも知れないですね。

0_004 0_005
↑【大手の木戸跡】
大手道には2箇所の木戸跡が残されています。雰囲気的には違和感が無いですが、調査でこの場所から門跡が見つかったとかいう裏づけがあったりすると、なお良いんだけど。

0_006
↑【切通しを監視する腰郭?】
二の木戸を抜けると切通しの通路がありますが、この切通しの真上は、実は主郭です。主郭は城内で最も高い場所にあるので、ここからだとそれなりに高低差があるのですが、それでも直接攻撃されたら厄介ですよね。
その主郭南の崖下には腰郭のような場所が見られました。おそらく、二の木戸や切通しの守備を担っていたんでしょう。

0_007 0_008
↑【主郭】
主郭には「大手門」や「屋形跡」と書かれた案内が設置されています。
東側の虎口が現在の主な訪問口であり、大手門の案内もこちらに設置されているのですが、これだと二郭や三郭の担う役割が低下してしまうと思うので、大手は別方面にあったのではないかと思うのですが・・・

0_009 0_010 0_011 0_012
↑【二郭】
主郭とは土塁で仕切られている二郭。かなり浅いですが、土塁手前にうっすらと堀の痕跡も確認できます。

0_013 0_014
↑【三郭】
なだらかながらも傾斜している三郭。

0_015
↑【三郭北西隅の櫓台のような場所】
ちょっと奥まった場所に残されていた櫓台のような場所。眼下には船溜りがあったと想定されているみたいなので、監視するという意味があったのでしょうか。

0_016 0_017
↑【出郭】
城内の最北端に位置する曲輪跡です。
ボコボコな地面と、アマガエルが異常に多かったのが印象的。

0_018
↑【水の手】
今でも豊富に水が涌き出ていて、ちょっとした湿地を形成しています。

2013年10月15日 (火)

片野城 【常陸】

場所:茨城県石岡市根小屋(場所)
訪問:2012年2月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・水堀・土塁・馬出など
指定:市指定史跡
駐車:七代天神社に駐車 ※浄瑠璃光寺の敷地に駐車したほうが無難かも知れません
満足:★★★★★★(6.0点)

見所:巨大な堀切や角馬出、僅かに残る水堀などの遺構。太田資正のお墓も忘れずに。

片野城は13世紀の半ば頃、小田氏の一族である八代将監が小田城の北の守りとして当地に城を築いたのが始まりと伝えられているみたいです。

鎌倉時代は常陸守護を務めるなど権威を誇った小田氏ですが、南北朝時代以降は徐々に勢いを失っていき、戦国時代になるとたびたび本拠である小田城を奪われるようになってしまいます。その都度、土浦城などに退避しながら何とか小田城に復帰してきた小田氏ですが、1566年に佐竹氏に小田城を選挙された際には、片野城に佐竹氏客将の太田資正が入り、以降は戦国末に至るまで太田資正が片野城の城主を務めあげました。
ちなみに柿岡城には梶原政景が入り、城主となっています。

1591年、太田資正が病没すると、片野城には石塚城の石塚氏が入り、城主を務めます。
1602年、その石塚氏も佐竹氏の秋田転封によって転出してしまいますが、その後は徳川家に召しだされた滝川雄利が2万石にて片野城に入城し、片野藩を興しました。
しかし、片野藩は雄利の跡を継いだ正利が病弱なために二代しか続かず、正利は1625年に2万石のうち1万8千石を幕府に返納して旗本となりました。
片野城も、この時に廃城になったものと思われます。


付近に在住されている方は、今でも片野城に縁のある方が多いみたいですね。付近でお話を伺うと、意外な伝承などを聞くことができるかもしれません。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_1
↑大まかな片野城の概略図。各名称はあくまでブログ主の主観によるものなので、一般的な呼び名という訳ではありません。ご注意を。


片野城ではあまり写真を撮影できていないので、編集したビデオをメインに使用して城址紹介していきます。ちなみにYoutubeにアップした動画は最適化が上手にできず、画質があまりよくないです。ただ、ニコニコ動画にアップしたものは無駄に高画質なので、画質が気になる方はニコニコ版で確認してみて下さい。


■二郭および主郭


【ニコニコ動画】片野城 二郭-主郭【ブログ用】
二郭と三郭の間にあった堀切が現在は道路になっていて、その道路から二郭に入るとすぐに片野城の案内が設置されています。

主郭と二郭の間にある堀切は現在でも大きいですが、数十年前はもっと何メートルも深かったんだとか。ということは、廃城前の堀はどれだけ深かったんでしょうね。
西側の堀の中には住宅が建てられています。

主郭は南の虎口周りと北辺に土塁がよく残されています。特に北の土塁は規模も大きく、そちら側からの侵入者を遮断しようとする意図を感じとることができます。


■大堀切および北郭


【ニコニコ動画】片野城 北郭-大堀切【ブログ用】
主郭の北にある堀は非常に大規模です。
大堀切の先にある北郭。この北郭の先に水堀が残されているのですが・・・


■水堀周辺


【ニコニコ動画】片野城 水堀周辺【ブログ用】
北郭の先には大きな腰郭と、土塁や水堀が残されています。

この水堀、片野城での見所のひとつなので訪問者が多いみたいなのですが、この腰郭一帯はよく整備されていることからも判るとおり、地権者の方がしっかりと管理されております。
無断で立ち入られる方が多いことに憂慮されていたので、一言お声掛をして、許可をいただいてから立ち入るようにお願いしますね。

今は水堀も堆積物で埋もれてしまっていますが、数十年前まではもっと深くて鯉なども放されていたのだとか。あと、ここの水はどんなに日照りが続いても枯れた事が無く、集落で幾度か発生した火事の際にも、火消しに活用されたみたいです。何か神秘的ですね。


■三郭

0_001 0_002 0_003 0_004
城内で一番広大な曲輪で、現在は七代天神社の敷地として使用されています。この七代天神社は佐竹氏の時代に建立されたもので、母屋などをよく確認すると佐竹氏の家紋である「扇に月」を見つけることができると思います。


■角馬出


【ニコニコ動画】片野城 角馬出【ブログ用】
道路の設営で三郭と馬出の明確な接点が判りづらくなっていますが、馬出は比較的良好な状態で残されています。あと、堀の一部が浄瑠璃光寺の関係だったか、埋められてしまっているみたいです。


■太田資正の墓

0_005 0_006
現在、浄瑠璃光寺が建てられている曲輪跡に、岩槻城主だった太田資正のお墓が残されています。3.11の地震で墓石が崩れてしまったみたいなのですが、子孫の方がいらっしゃって修復されたのだとか。

2013年10月12日 (土)

二条山館 【常陸】

場所:茨城県石岡市宇治会(場所)
訪問:2012年2月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀(三重堀)・土塁など
指定:不明
駐車:源照寺の駐車場を拝借
満足:★★★★★(5.5点)

見所:高低差のある見事な三重堀

余湖くんのお城のページを拝見して二条山館の存在を知り、遺構が結構良さそうな場所だったので訪問してみました。

城暦の詳細は不明ですが、「路川氏の館」という伝承が残されているみたいですね。
城域はそんなに広くも無いのですが、高低差のある三重堀が見事に残されていて、なかなか見応えのある城址でした。
ちょっと薮っているのが難点ですけど、遺構もそんなに無理せずに確認できますし、まあ許容範囲内といったところでしょうか。
お勧めです。結構楽しめるんじゃないかと思いますよ。

※動画は2012年2月に撮影・編集したものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

0_1
↑大まかな概略図。

0_001
↑【訪問路の入口付近】
源照寺の墓地裏を少し奥に進むと写真の三叉路を見つけることができると思います。目印は小さな祠ですかね。
写真右に進むと集落に降りてしまいますし、そのまま道なりに進んでも廃道のような道にでるだけで、二城山館には向かえません。二城山館はすぐ脇の獣道を進むしかないんですけど、方向感だけ間違わなければ問題なく到着できると思います。
もしくは動画を参考にしていただくのが一番判りやすいかも。

0_003 0_002
↑【北側の三重堀】
高低差があって、内から上・中・下段と分けられるんですが、最下層にある下段が一番深く掘られています。
上段と中段は埋まってしまっただけかもしれませんけど、それほどの深さはありません。
上段から写真を撮ってみたんですけど、藪が邪魔をして何がなんだか判らないですね。このあたりは、映像のほうが明らかに判りやすいです。

0_008 0_009
↑【東側の三重堀】
東側も北側と同様に三重堀で守られています。最下段が北側よりも低い位置にあるので、中段との高低差が大きいです。

0_004 0_005
↑【主郭】
郭の内部は薮なので、あまり細かく見れていません。
南側には土橋に繋がる虎口と、明瞭に土塁が残されていました。周囲を土塁で囲まれていたような雰囲気は感じるのですが、いかんせん殆どの場所の土盛が少なすぎるので、気のせいといえば気のせいのように思えてくるし・・・。

0_006 0_007
↑【南郭】
内部は段差で仕切られています。藪は無いんですけど、伐採された木がゴロゴロ転がっていて、これはこれで歩きづらかった。
おかげで展望が開けていて、西側からは眼下に集落を見渡せます。

2013年10月 9日 (水)

小幡城 【常陸】

場所:茨城県東茨城郡茨城町小幡(場所)
訪問:2012年2月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・櫓台・井戸など
指定:町指定文化財
駐車:有
満足:★★★★★★★★★★(10.0点)

見所:迷路のような感覚に陥る空堀の存在感は一見の価値あり。高い技巧性を感じる縄張りも見逃せない。

小幡城は石岡府中城を本拠とする大掾詮幹の三男・義幹が1420年頃に築いたという説と、小田城を拠点とする小田知重(八田知重)の三男・光重が1220年頃に築いたという説の2パターンが伝えられているみたいです。

なんにしても小幡氏(常陸小幡氏)が小幡城を管理していたようなのですが、1532年、水戸城に本拠を置く江戸氏(常陸江戸氏)は、南から勢力を伸ばしてきた小幡氏の小幡義清を大洗に誘い出して殺害し、小幡氏と小幡城を自分達の勢力下に収めました。
その後、小幡城は大掾氏との境目の城として重要視され、拠点として拡張されていったものと思われます。

1590年、秀吉の小田原攻めが開始されます。佐竹氏は小田原攻めを行う秀吉のもとに参陣しましたが、江戸氏を含む常陸の多くの勢力はこのとき動かなかったことから、秀吉から佐竹氏に常陸国のほぼ全域を任せる旨の通達を許す結果となってしまいました。
佐竹氏は同年12月、水戸城を急襲して落城させ、12月22日には府中の大掾氏をも攻め滅ぼしてしまいました。
こうして小幡城は佐竹氏の管理するところとなり、管理は和田昭為が行いました。
1602年、佐竹氏は秋田に転封となりますが、それにあわせて小幡城も廃城になったものと思われます。


見事な空堀と土塁が残る小幡城です。鬱蒼と茂る林の中に残る空堀の遺構は、その薄暗さと見事なまでの比高差で、うっかり予備知識なしで入り込むと迷子になってしまいそうな感覚に陥ってしまいます。作成した概略図における曲輪の配置は現地案内に準じましたが、周囲の状況を考えると二郭が主郭だったと考えられなくもないですね。
様々な仕掛けの跡も垣間見れて、まさに土の城の真骨頂といった感じ。未訪の方はぜひ実際に訪問して、隅々までその醍醐味を堪能してもらいたいです。

※動画は2012年2月に撮影・編集したものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_1_2
↑大まかな小幡城の概略図。
往時の進行ルートはどうなっていたんでしょうね。個人的には2箇所で、七郭→五郭→四郭・・・と抜けていくルート(恐らく正解のルート)と、現在も入口になっている空堀に突入してしまうルートが存在していたんじゃないかと空想しています。そして二郭北側の堀は土塁か何かで塞がれていたんじゃないかと。

0_001_2
↑【東側から見る小幡城】
小幡城の東側と南側は低地です。なので、その2方面は湿地で守られていたか、さもなくば堀が存在していたんじゃないかと概略図では仮定してみました。でないと簡単に回り込まれてしまいますものね。
ちなみに正面に見える家の奥が二郭北側の堀で、上記で土塁か何かで塞がれていたんじゃないかと仮定した場所に繋がっています。

0_002_2
↑【小幡城への入口】
普通車であれば3台は停められそうな感じの広場があって、その奥にある堀底道を歩いて城内を見学します。
「おっ!ここから城内に入れそうだぞ」なんて思ってここから進入していくと・・・

0_003_3 0_004_3 0_005_3 0_006_4
↑【堀底道①:十字路】
しばらく道沿いに歩くと十字路に出くわします。この十字路、左の道は後世に作成された道なので除外しますが、正面・右のどちらのルートを進んでも、城の中枢にはたどり着けません。どちらのルートを選択しても、五郭と七郭の間にある土橋に、結局は向かうことになります。
突破しようにも六郭や五郭、変形武者走りから執拗に攻撃を受けるでしょうし、では土塁を越えて進撃しようかなと何とかよじ登っても、二重堀なうえに二郭から攻撃を受けてしまいますね。後続の兵で退くにも退けずなんて考えていくと、目も当てられない・・・。

0_007_2
↑上記の内容を図で要約すると、こういうことです。あくまで憶測に過ぎませんが、よく考えられている縄張りだと思いませんか?

0_008_2
↑【堀底道②:折(おり)】
堀底道はところどころに折をともなっていて、多少直線でも奥が見渡せなくなっています。移動の阻害もそうですが、こういったことによる心理圧迫効果が何とも嫌らしいですね。

0_009_2
↑【変形武者走り】
簡単に説明すると左右を土塁に囲まれた帯郭なんですが、このような遺構が確認できる城址は稀ですよね。

0_010 0_011
↑【五郭虎口の馬出】
非常に重要な場所だったと思われる五郭の虎口には、しっかりと馬出が設けられていました。
七郭側は現在猛烈な薮になっているので、判別不能。

0_012 0_013 0_014 0_015
↑【五郭】
五郭は外側(六郭)に向かって高い土塁が残されているのと、北側に櫓台が設置されています。その櫓台の先は変形武者走りだし、七郭とは虎口で繋がっているしで、守備の要といった感じの場所だったんでしょうね。

0_016 0_017
↑【六郭】
六郭には馬出から土塁上を歩いて向かってみたんですけど、危険なので途中でリタイアしました。
往時の虎口を探す意味で歩いてみたんですけどね。五郭からは微妙に空堀で距離が離れているし、どこから出入りしていたんだろ。

0_019_2 0_020_2 0_021_2 0_022_2
↑【主郭】
現在、案内では主郭とされている場所で、小幡城主要部のほぼ真ん中に位置し、周囲は高い土塁で囲まれています。虎口は四郭と土橋で繋がっていますが、案内によれば防御面から見て不自然なので、往時は少し東よりのところから跳ね橋などで四郭と接続していたのではないかとのこと。

五郭やそこから伸びる土塁を敵が突破すると、四郭かもしくは城内の内堀に侵入者は入ることになります。
四郭との接続が土橋か跳ね橋だったかはとりあえず置いておくとして、ここからはあくまで想像ですが、四郭に侵入してきた敵から主郭とされている郭に攻撃をしかれられたのであれば、ここから奥に侵入していこうとする敵の足止めができますし、もしも敵が主郭を無視してさらに奥に侵入していこうものなら、その敵を主郭から側面攻撃、もしくは隙を見て打ってでて敵を撃退する、なんてこともできちゃいますよね。
主郭の土塁には三郭側にちょっとへこんでいる箇所があり、もしそれが意図的につくられたものだったりすると、三郭と主郭は橋で繋がっていて、兵の補充もそこからできた。

そのように考えていくと、現在の主郭とされている場所は能動的というかあまりにも使い勝手が良すぎるので、実際の主郭として最も相応しいのは、現在は二郭とされている場所の方が相応しいように思えてきちゃうんですけどね。

現在の主郭のされる郭も小幡城のほぼ中心にあるので、どの方面が突破されても四方が深い堀と高い土塁で固められたこの郭は、単独でも立て篭もれるって言えばその通りで、それはそれで主郭に相応しいとも考えられます。
まあ、何ていうか想像が尽きません。

0_023 0_024
↑【二郭】
城内の最奥だったであろう二郭。敷地も非常に広大で、残された土塁も結構な高さがあります。
現在は椎茸の栽培か何かに使われている感じですね。

0_025 0_026
↑【三郭および七郭】
三郭は薮率が高かったので、土塁上から撮影している映像版のほうが判りやすいと思います。
七郭は茨城空港の開設にあわせて東関道が整備され、そのために一部(というか貫通)が破壊されてしまいました。主要部が破壊されずに済んだのは不幸中の幸いなのか、もしくは嘆願のおかげなのか・・・

0_027
↑【大手(土門)】
小幡城には非常に大きな外郭が置かれていて、往時はかなりの規模をもつお城だったとする説もあるみたいです。実際はどうだったんでしょうかね。

2013年10月 6日 (日)

関宿城 【下総】

場所:千葉県野田市関宿町(場所)
訪問:2012年6月ほか
形態:平城
遺構:本丸の一部・移築建築物など ※城址付近に模擬天守あり
指定:なし
駐車:有
満足:★★★★(4.0点)

見所:各地に散らばる移築建築物の散策

関宿城は戦国時代に古河公方の勢力下にあった梁田氏によって築城されたと考えられています。

梁田氏は上杉禅秀の乱(1416年)の際に鎌倉公方側の勢力として大きな成果を挙げ、下河辺荘付近に勢力をはりました。享徳の乱(1455-1483年)が勃発して鎌倉公方の本拠である鎌倉が駿河国・今川氏に制圧されると、梁田氏は足利成氏を下河辺荘の近くにある古河に迎い入れ、自身は古河城に近くて水運の要衝だった関宿に城を築城(1457年)して、関宿城を拠点に古河公方家の側近として仕えます。

管領上杉家の家督問題から永正の乱に発展し、古河公方家も政氏(二代目)と高基(三代目)の両派に別れて争いますが、梁田氏内でもこのときは両派に分かれての諍いが発生しました。
古河公方家における争いは高基側が勝利し、高基派について活躍した梁田高助は筆頭家老に取り立てられました。こうして梁田氏は、古河公方家中における地位を万全のものとしていきます。

北条氏綱の代までは比較的良好だった古河公方と後北条氏ですが、北条氏康に代替わりする頃になると、徐々に両家の関係は悪化していくようになりました。
古河公方四代目・晴氏は管領上杉氏と後北条氏を攻めますが、河越夜戦で惨敗を喫し、古河公方の勢力は大きく衰退。こうして後北条氏が古河公方家に直接介入してくるようになります。
北条氏康は晴氏を引退させると、自身の甥である足利義氏を五代目の古河公方に就任させました。さらに氏康は要衝の地であった関宿城に目をつけ、義氏を古河城に配置して、梁田氏を古河城に転換させてしまいます。

一旦は後北条氏の勢力に逆らえず古河城に移動した梁田氏ですが、1560年に上杉謙信の関東出兵が開始されると、梁田氏は再び関宿城への復帰を果たしました。
以降、後北条氏は関宿城を三度(1565年、1568年、1574年)に渡って攻撃します。最後は一年近く攻防戦を続けるも、関宿城は矢玉尽きて遂に開城し、梁田氏は投降。
こうして後北条氏は北関東への圧力を、更に強めていくことになります。

後北条氏の滅亡後、要衝である関宿城には家康の異父弟にあたる松平康元が2万石(翌年には4万石)で入り、関宿藩が立藩されました。
江戸時代、関宿の藩主は目まぐるしく変わりますが、出世城と称えられたお城に相応しく、多くの人物が幕府の要職を務めています。

関宿城は明治の廃城令にて廃城が決定し、1875年には破却されました。城址は利根川東遷事業の一環で大規模な治水工事が行われ、主要部は堤防の下に埋没。外郭も農地や市街地化によって、現在はほぼ完全に消滅してしまっています。


城址の遺構はほぼ残されていませんが、関宿が水運の要衝だった面影は、現地でも少しだけ感じ取ることができます。天守風外観の博物館では利根川の歴史を紹介しており、あわせて見学すると、多少は興味の沸き方が違うんじゃないでしょうか。なんていうか、川の位置は時代で結構変わっちゃってたりしますから、自分には判らな過ぎてイマイチ興味が・・・。
「お城」を楽しみたかったら、ここよりも逆井城を訪問するのがベストですよね。模擬天守につられて関宿城を訪問している方も多いんでしょうが、それだったら近くにもっといい所がありますよと教えてあげたくなっちゃいます。まあ、余計なお世話なんでしょうけど。

※動画は2012年6月に撮影した映像を中心に、2012年7月に作成したものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


_1
↑【作成した大まかな関宿周辺における河川の移り変わり】
現在は利根川と江戸川の分岐点にあたる関宿。でも、江戸時代以前の利根川は関宿を通過しておらず、渡良瀬川が江戸(東京)湾に直接繋がっていたのだとか。
ちなみに往時の利根川はもっと内陸にあって、忍城の残る行田市などの付近を流れていたそうです。ということは、石田三成の水攻め(石田堤)にも活用されていたんだろうなぁ。

0_1 Photo
↑大まかな関宿城の概略図と古城絵図の関宿城図。
同じ渡良瀬川流域に存在していた古河城と同様に、関宿城も堤防の下に埋もれてしまいました。

0_001 0_002
↑【本丸跡】
堤防の脇に僅かに残る本丸跡。公園として整備しようとした風はありますが、博物館から訪問しようとするとちょっと不便なので、物好き以外は立ち寄ることはないでしょうね。

0_003
↑【天守風外観の博物館】
関宿城博物館では河川の歴史や関宿城に関するあれこれが展示されています。ちなみに、博物館の場所は関宿城の城域から僅かに外れているので、ご注意を。

0_004
↑【処刑場跡】
南無妙法蓮華経と刻まれた石碑は1801年に作成されたものだと推定されています。あまり目立たない場所にあるので、指摘されないと存在に気付かないかも。


■関宿城の移築建築物

城址は消滅して面影も殆ど残されてはいませんが、関宿城内で使用されていたという移築物は複数残されているので、簡単に紹介していきたいと思います。

0_005
↑【移築物①:実相寺に残る本丸御殿】 →場所
実相寺の客殿は本丸御殿の一部が移築されたものと伝えられています。

0_006_2
↑【移築物②:埋門】 →場所
関宿城内の佐竹門と辰の門の間に設置されていた埋門。屋根の鬼瓦には久世家の家紋が彫りこまれています。

0_007
↑【移築物③:薬医門】 →場所
逆井城に残されている移築薬医門。

0_008 0_009
↑【移築物④:伝大手門】 →場所
最後は栃木県下野市のとんかつ合掌さんに残る伝大手門。
門内に用意された説明書きによると、幕末の資金不足の中で売却された大手門が鷲宮付近に移築された後、昭和53年に現在地に再度移築・復元された建造物なんだとか。
当然、現在見られる姿は往時のものではなく、移築にあわせて長屋門に改修されたあとの姿なんでしょけど、大きくてとても風格がありますよね。

あわせてとんかつも食事させていただきました。とても美味しくて大満足。
食事を終えて店を出ると、明らかに大手門目当てと思われる老夫婦が門のまわりをウロウロされていました。結構、この大手門目当てに訪問される方も多いのかな?

2013年10月 3日 (木)

古河公方館(鴻巣御所) 【下総】

場所:茨城県古河市鴻巣(地図)
訪問:2012年6月
形態:平城
遺構:曲輪・土塁・堀など
指定:茨城県指定文化財
駐車:古河総合公園の駐車場
満足:★★★★★(5.0点)

見所:初代古河公方である足利成氏も一時滞在した、古河公方に縁の深い中世城郭。

古河城から1kmも離れていない鴻巣の地に残されている古河公方館ですが、この館は享徳の乱で古河に拠点を移した足利成氏によって築城されたと伝えられています。
およそ2年ほどで御所としての機能を古河城に移してしまったみたいなので、以降は別館として使用されていたのでしょうか。

古河公方の五代目・足利義氏は嫡男が早世していたため、義氏の死去後は姫の氏姫を家臣団は擁立しました。後北条氏の傘下にあって古河公方の権力は既に有名無実化していたので、特に養子などの必要もなかったということなのでしょう。

1590年の小田原征伐で後北条氏が滅ぶと、秀吉は古河城の破却を命じます。そのため氏姫は古河公方館に入り、小弓公方・足利義明の孫である足利国朝と結婚(国朝は途中で病没してしまうため、その弟の頼氏と再婚)して、古河公方館にて余生を過ごしました。

古河公方館には氏姫の孫にあたる尊信が最後まで残っていましたが、喜連川藩主である頼氏が亡くなった為、1630年に跡継ぎとして下野国・喜連川に移動し、古河公方館は使用されなくなりました。


沼に突き出すような台地の先端に築かれた城館で、往時は古河城と堀で繋がっていたみたいですね。古河公方館の周囲は古河総合公園として整備され、干拓によって消滅していた御所沼も少しだけ復元されており、往時を偲びやすい状況にあると思います。
敷地内には古民家が移設されているので、あわせて見学するのが良いですね。料金は無料です。

※2012年6月に撮影した動画です。前半は古河城ですが、4:57頃から古河公方館が始まります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_1_3 0_1_4
↑大まかな古河公方館の概略図。沼に囲まれた半島状台地に古河公方館は築かれていて、往時は古河城とも船で往来できるようになっていました。

0_001_2
↑【復元された御所池】
干拓事業で消滅していた御所池ですが、公園の整備にあわせて一部が復元されました。

0_002_2
↑【主郭】
現在は公方の森という呼ばれ方もされているみたいです。来園されている人の中で、ここが史跡だと認識している方はどの程度いらっしゃるんだろうか。

0_003_2
↑【城址碑および案内】
森の入口付近にひっそりと設けられています。

0_004_2 0_005_2
↑【堀切と土塁】
碑のすぐ脇に残る堀切と土塁。

0_006_2 0_007_2
↑【古民家】
敷地内には古民家が移築されているので、あわせて確認しておきましょう。両宅とも結構貴重な古民家で
・旧中山家住宅 → 茨城県有形指定文化財
・旧飛田家住宅 → 国指定重要文化財
とそれぞれ指定を受けています。

0_008_2
↑内部にはさりげなく古河城時代の炉をかたどった模型が展示されていました。

2013年10月 2日 (水)

ちょっと雑談【消費増税】③

来年4月からの消費増税(8%)が確定してしまいましたね。

現在の経済回復が持続していくというのなら、別に構わないと思うんですけどね。自分にはどうしても逆になるイメージしか浮かばないので、非常に残念と言わざるを得ないです。
今回の安倍政権は長期政権になりそうな気もしていたんですけど、これが原因で足元をすくわれなければいいのですが・・・。

8月の消費者物価指数が先日発表されましたが、依然としてコアコアCPIは0.1%のマイナスです(ちなみにコアCPIは0.8%のプラスで3ヶ月連続上昇。コアコアCPIは7月と横ばい)。せめてこれが安定的にプラス圏で推移する状態になるのを確認してからでも遅くなかったと思うんですけどね。
どこまで消費者をごまかして消費を喚起できるのかが見ものです。うまくやらないと、結局は経済回復に失敗して政府歳入も増えず、分配する予算が増えた財務省のみが喜ぶなんていう最悪の結果になっちゃいますよ。
それだけは本当に勘弁してもらいたい・・・。

2013年10月 1日 (火)

古河城 【下総】

場所:茨城県古河市中央町(場所) ※古河歴史博物館の建つ諏訪曲輪跡
訪問:2012年6月
形態:平山城
遺構:一部の曲輪跡・土塁・堀など
指定:なし
駐車:古河歴史博物館の駐車場
満足:★★★★★(5.0点)

見所:古河公方の拠点としても使用された歴史のある城址。

平安時代、下河辺荘を管理する下河辺氏が古河に館を築いたことが、古河城の始まりと考えられています。

室町時代になると、関東では鎌倉公方と管領上杉家の対立から、大乱がたびたび発生しました。
その緒戦ともいえる上杉禅秀の乱(1416年)では鎌倉公方が勝利しますが、続く永享の乱(1438年)では鎌倉公方は幕府の支持を得られず、逆に討伐されて鎌倉公方は滅ぼされてしまいます。
しかし、諸勢力間の権力争いというか、鎌倉公方の復活を望む勢力は関東各所に根強く、結城合戦(1440年)を経て1446年には足利成氏の鎌倉帰還が実現。鎌倉公方は再興されました。

再興された鎌倉公方・足利成氏ですが、すぐに管領上杉家と対立を始め、この対立がやがて享徳の乱(1455-1483年)へと発展します。
緒戦において管領上杉軍を破った成氏は管領上杉氏の拠点を次々と攻略していきますが、幕府から成氏の追討令を下された駿河・今川氏が鎌倉に侵攻して制圧したため、成氏は鎌倉に代わる新たな拠点として古河に入って、古河城を御所として使用することにしました。これ以降、成氏は古河公方と呼ばれることになります。
古河は鎌倉に変わる新たな東都として非常に栄えました。

二代目・政氏は後継問題などで、子の高基や義明と対立。しかし、家臣の支持を得られなかった政氏は高基に破れ、晩年は武蔵国・久喜に館を設けて余生を過ごしました(足利政氏館)。
なお、この騒乱の最中に義明は下総国・真里谷城を拠点とする真里谷信清に擁立されて、小弓公方を名乗り独立しました。小弓公方は古河公方と対立して遂には第一国府台合戦(1538年)に至りますが、後北条氏に敗戦して小弓公方は滅亡してしまいます。

北条氏綱の代の頃は良好な関係であった後北条氏と古河公方ですが、北条氏康の代に替わると両家の関係は悪化してしまいます。四代目・晴氏は管領上杉氏と組んで大軍で後北条氏を攻めますが、有名な河越夜戦(1546年)で大敗を喫し、古河公方の権威は大きく失墜してしまいました。
この後、後北条氏は古河公方に対して露骨な介入を開始します。氏康は晴氏の長男・藤氏を廃嫡とし、さらには晴氏を引退させ、自身の甥にあたる義氏を五代目古河公方として擁立しました。晴氏・藤氏親子はこれに反抗しますが敗北してしまい、晴氏は栗橋城に幽閉されて1560年に死去。
藤氏は安房・里見氏に匿われつつ、上杉謙信の助力で一時は古河城への復帰を果たしたりもしますが、程なく古河城は後北条氏に攻められて藤氏は捕虜となってしまい、最後は消息不明となってしまいます。こうして五代目・義氏の地位は確立されました。

義氏は1583年に死去しますが、嫡男が早世していたため、家臣団は長女の氏姫を後継として擁立します。1590年、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると古河城は破却され、氏姫は古河公方館(鴻巣御所)に入って余生を過ごしました。この系統は喜連川氏として江戸時代も存続し、現在も足利姓で存続しているみたいです。

徳川家康が関東に入封すると、古河には小笠原秀政が3万石で入部し、古河城は修復・拡張されました。その後の古河藩は目まぐるしく藩主が変更されますが、佐倉城から移転してきた土井利勝の時代に実質の天守である御三階櫓や諏訪曲輪が整備され、明治の廃城令までその姿を残していくことになります。

明治の利根川改修計画によって利根川水系である渡良瀬川も改修され、その影響で城域の殆どが河川敷と堤防に埋没してしまいました。
残された遺構は僅かですが、町を散策してみると意外と往時の雰囲気を楽しむことができる場所だと思いました。古河公方館とあわせて訪問するのがお勧めです。


※動画は2012年6月に撮影・編集したものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


0_1
↑古河城と古河公方館(鴻巣御所)は、往時は水堀で繋がっていたみたいです。距離もそんなに離れていないので、あわせての訪問がベストですね。

0_1_2 Photo
↑古城絵図と、作成した大まかな古河城の概略図。
渡良瀬川の改修工事によって、主要部は河川敷や堤防作成のために消滅してしまいました。

0_001 0_003 0_002 0_004
↑【諏訪曲輪】
現在、歴史博物館が設置されている諏訪曲輪。往時は出丸としての役割を担っていたものと思われます。
古河城で唯一、曲輪としての面影を残す場所ですね。昭和の初め頃までは比較的良い状態で残されていたみたいなのですが、運動場の拡張などで北側を中心に土塁が崩され、堀は埋められてしまいました。

歴史博物館のある南側は一部の土塁が残され、堀の雰囲気を楽しむこともできます。

0_005 0_006
↑【御茶屋口と御成道】
日光参拝の宿泊所として古河城は使用されていたため、将軍が城内に入るための御成道が決められていました。旧日光街道から諏訪曲輪まで、良い雰囲気で今も面影が残されています。

0_007
↑【古河城の移築門】
二の丸御殿の入口に使用されていたという乾門。
古河城で使用されていたとされる移築物は、他にも蔵や裏門などが点在しています。

0_008 0_009
↑【大手門跡】
現在は市街地に飲みこまれてしまっていますが、屈折した道が枡形だった往時の面影を残しているように感じます。

0_010 0_011
↑【観音寺曲輪の土塁】
その大きさから、往時の土塁の規模を推察することができますね。付近には作事所跡の碑も残されています。

0_012 0_013 0_014 0_015
↑【獅子ヶ崎と御成門】
古河城で枡形に石垣が使用されていた場所は、獅子ヶ崎のそばに設けてあった御成門と本丸表門のみでした。
御成門は残されていませんが、獅子ヶ崎は一部が保存されているので雰囲気を確認することができます。
すぐ脇には家老屋敷に使用されていたとされる長屋門も残されているのですが、デジカメの画像がなかったので紹介はパス。

0_016 0_017 0_018
↑【河川敷に埋もれた古河城主要部】
この河川敷一帯には古河城の主要な曲輪が設置され、本丸には三層四階の御三階櫓や複数の隅櫓が置かれていました。御三階櫓の構造は佐倉城を彷彿とさせますね。


古河城が崩される様子などは、歴史博物館で販売されていた資料に僅かながらも写真が掲載されていたりしたので、そこから古河城の塁の高さなどを何となく推察することができます。
ちなみにその資料、絵図なども豊富に掲載されているので、個人的には結構お気に入りですかね。絵図や古写真が多く残されている城址は往時を想像し易いので、本当に有難いです。


« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »