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2013年10月 9日 (水)

小幡城 【常陸】

場所:茨城県東茨城郡茨城町小幡(場所)
訪問:2012年2月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・櫓台・井戸など
指定:町指定文化財
駐車:有
満足:★★★★★★★★★★(10.0点)

見所:迷路のような感覚に陥る空堀の存在感は一見の価値あり。高い技巧性を感じる縄張りも見逃せない。

小幡城は石岡府中城を本拠とする大掾詮幹の三男・義幹が1420年頃に築いたという説と、小田城を拠点とする小田知重(八田知重)の三男・光重が1220年頃に築いたという説の2パターンが伝えられているみたいです。

なんにしても小幡氏(常陸小幡氏)が小幡城を管理していたようなのですが、1532年、水戸城に本拠を置く江戸氏(常陸江戸氏)は、南から勢力を伸ばしてきた小幡氏の小幡義清を大洗に誘い出して殺害し、小幡氏と小幡城を自分達の勢力下に収めました。
その後、小幡城は大掾氏との境目の城として重要視され、拠点として拡張されていったものと思われます。

1590年、秀吉の小田原攻めが開始されます。佐竹氏は小田原攻めを行う秀吉のもとに参陣しましたが、江戸氏を含む常陸の多くの勢力はこのとき動かなかったことから、秀吉から佐竹氏に常陸国のほぼ全域を任せる旨の通達を許す結果となってしまいました。
佐竹氏は同年12月、水戸城を急襲して落城させ、12月22日には府中の大掾氏をも攻め滅ぼしてしまいました。
こうして小幡城は佐竹氏の管理するところとなり、管理は和田昭為が行いました。
1602年、佐竹氏は秋田に転封となりますが、それにあわせて小幡城も廃城になったものと思われます。


見事な空堀と土塁が残る小幡城です。鬱蒼と茂る林の中に残る空堀の遺構は、その薄暗さと見事なまでの比高差で、うっかり予備知識なしで入り込むと迷子になってしまいそうな感覚に陥ってしまいます。作成した概略図における曲輪の配置は現地案内に準じましたが、周囲の状況を考えると二郭が主郭だったと考えられなくもないですね。
様々な仕掛けの跡も垣間見れて、まさに土の城の真骨頂といった感じ。未訪の方はぜひ実際に訪問して、隅々までその醍醐味を堪能してもらいたいです。

※動画は2012年2月に撮影・編集したものです。
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↑大まかな小幡城の概略図。
往時の進行ルートはどうなっていたんでしょうね。個人的には2箇所で、七郭→五郭→四郭・・・と抜けていくルート(恐らく正解のルート)と、現在も入口になっている空堀に突入してしまうルートが存在していたんじゃないかと空想しています。そして二郭北側の堀は土塁か何かで塞がれていたんじゃないかと。

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↑【東側から見る小幡城】
小幡城の東側と南側は低地です。なので、その2方面は湿地で守られていたか、さもなくば堀が存在していたんじゃないかと概略図では仮定してみました。でないと簡単に回り込まれてしまいますものね。
ちなみに正面に見える家の奥が二郭北側の堀で、上記で土塁か何かで塞がれていたんじゃないかと仮定した場所に繋がっています。

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↑【小幡城への入口】
普通車であれば3台は停められそうな感じの広場があって、その奥にある堀底道を歩いて城内を見学します。
「おっ!ここから城内に入れそうだぞ」なんて思ってここから進入していくと・・・

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↑【堀底道①:十字路】
しばらく道沿いに歩くと十字路に出くわします。この十字路、左の道は後世に作成された道なので除外しますが、正面・右のどちらのルートを進んでも、城の中枢にはたどり着けません。どちらのルートを選択しても、五郭と七郭の間にある土橋に、結局は向かうことになります。
突破しようにも六郭や五郭、変形武者走りから執拗に攻撃を受けるでしょうし、では土塁を越えて進撃しようかなと何とかよじ登っても、二重堀なうえに二郭から攻撃を受けてしまいますね。後続の兵で退くにも退けずなんて考えていくと、目も当てられない・・・。

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↑上記の内容を図で要約すると、こういうことです。あくまで憶測に過ぎませんが、よく考えられている縄張りだと思いませんか?

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↑【堀底道②:折(おり)】
堀底道はところどころに折をともなっていて、多少直線でも奥が見渡せなくなっています。移動の阻害もそうですが、こういったことによる心理圧迫効果が何とも嫌らしいですね。

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↑【変形武者走り】
簡単に説明すると左右を土塁に囲まれた帯郭なんですが、このような遺構が確認できる城址は稀ですよね。

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↑【五郭虎口の馬出】
非常に重要な場所だったと思われる五郭の虎口には、しっかりと馬出が設けられていました。
七郭側は現在猛烈な薮になっているので、判別不能。

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↑【五郭】
五郭は外側(六郭)に向かって高い土塁が残されているのと、北側に櫓台が設置されています。その櫓台の先は変形武者走りだし、七郭とは虎口で繋がっているしで、守備の要といった感じの場所だったんでしょうね。

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↑【六郭】
六郭には馬出から土塁上を歩いて向かってみたんですけど、危険なので途中でリタイアしました。
往時の虎口を探す意味で歩いてみたんですけどね。五郭からは微妙に空堀で距離が離れているし、どこから出入りしていたんだろ。

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↑【主郭】
現在、案内では主郭とされている場所で、小幡城主要部のほぼ真ん中に位置し、周囲は高い土塁で囲まれています。虎口は四郭と土橋で繋がっていますが、案内によれば防御面から見て不自然なので、往時は少し東よりのところから跳ね橋などで四郭と接続していたのではないかとのこと。

五郭やそこから伸びる土塁を敵が突破すると、四郭かもしくは城内の内堀に侵入者は入ることになります。
四郭との接続が土橋か跳ね橋だったかはとりあえず置いておくとして、ここからはあくまで想像ですが、四郭に侵入してきた敵から主郭とされている郭に攻撃をしかれられたのであれば、ここから奥に侵入していこうとする敵の足止めができますし、もしも敵が主郭を無視してさらに奥に侵入していこうものなら、その敵を主郭から側面攻撃、もしくは隙を見て打ってでて敵を撃退する、なんてこともできちゃいますよね。
主郭の土塁には三郭側にちょっとへこんでいる箇所があり、もしそれが意図的につくられたものだったりすると、三郭と主郭は橋で繋がっていて、兵の補充もそこからできた。

そのように考えていくと、現在の主郭とされている場所は能動的というかあまりにも使い勝手が良すぎるので、実際の主郭として最も相応しいのは、現在は二郭とされている場所の方が相応しいように思えてきちゃうんですけどね。

現在の主郭のされる郭も小幡城のほぼ中心にあるので、どの方面が突破されても四方が深い堀と高い土塁で固められたこの郭は、単独でも立て篭もれるって言えばその通りで、それはそれで主郭に相応しいとも考えられます。
まあ、何ていうか想像が尽きません。

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↑【二郭】
城内の最奥だったであろう二郭。敷地も非常に広大で、残された土塁も結構な高さがあります。
現在は椎茸の栽培か何かに使われている感じですね。

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↑【三郭および七郭】
三郭は薮率が高かったので、土塁上から撮影している映像版のほうが判りやすいと思います。
七郭は茨城空港の開設にあわせて東関道が整備され、そのために一部(というか貫通)が破壊されてしまいました。主要部が破壊されずに済んだのは不幸中の幸いなのか、もしくは嘆願のおかげなのか・・・

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↑【大手(土門)】
小幡城には非常に大きな外郭が置かれていて、往時はかなりの規模をもつお城だったとする説もあるみたいです。実際はどうだったんでしょうかね。

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