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2013年10月 1日 (火)

古河城 【下総】

場所:茨城県古河市中央町(場所) ※古河歴史博物館の建つ諏訪曲輪跡
訪問:2012年6月
形態:平山城
遺構:一部の曲輪跡・土塁・堀など
指定:なし
駐車:古河歴史博物館の駐車場
満足:★★★★★(5.0点)

見所:古河公方の拠点としても使用された歴史のある城址。

平安時代、下河辺荘を管理する下河辺氏が古河に館を築いたことが、古河城の始まりと考えられています。

室町時代になると、関東では鎌倉公方と管領上杉家の対立から、大乱がたびたび発生しました。
その緒戦ともいえる上杉禅秀の乱(1416年)では鎌倉公方が勝利しますが、続く永享の乱(1438年)では鎌倉公方は幕府の支持を得られず、逆に討伐されて鎌倉公方は滅ぼされてしまいます。
しかし、諸勢力間の権力争いというか、鎌倉公方の復活を望む勢力は関東各所に根強く、結城合戦(1440年)を経て1446年には足利成氏の鎌倉帰還が実現。鎌倉公方は再興されました。

再興された鎌倉公方・足利成氏ですが、すぐに管領上杉家と対立を始め、この対立がやがて享徳の乱(1455-1483年)へと発展します。
緒戦において管領上杉軍を破った成氏は管領上杉氏の拠点を次々と攻略していきますが、幕府から成氏の追討令を下された駿河・今川氏が鎌倉に侵攻して制圧したため、成氏は鎌倉に代わる新たな拠点として古河に入って、古河城を御所として使用することにしました。これ以降、成氏は古河公方と呼ばれることになります。
古河は鎌倉に変わる新たな東都として非常に栄えました。

二代目・政氏は後継問題などで、子の高基や義明と対立。しかし、家臣の支持を得られなかった政氏は高基に破れ、晩年は武蔵国・久喜に館を設けて余生を過ごしました(足利政氏館)。
なお、この騒乱の最中に義明は下総国・真里谷城を拠点とする真里谷信清に擁立されて、小弓公方を名乗り独立しました。小弓公方は古河公方と対立して遂には第一国府台合戦(1538年)に至りますが、後北条氏に敗戦して小弓公方は滅亡してしまいます。

北条氏綱の代の頃は良好な関係であった後北条氏と古河公方ですが、北条氏康の代に替わると両家の関係は悪化してしまいます。四代目・晴氏は管領上杉氏と組んで大軍で後北条氏を攻めますが、有名な河越夜戦(1546年)で大敗を喫し、古河公方の権威は大きく失墜してしまいました。
この後、後北条氏は古河公方に対して露骨な介入を開始します。氏康は晴氏の長男・藤氏を廃嫡とし、さらには晴氏を引退させ、自身の甥にあたる義氏を五代目古河公方として擁立しました。晴氏・藤氏親子はこれに反抗しますが敗北してしまい、晴氏は栗橋城に幽閉されて1560年に死去。
藤氏は安房・里見氏に匿われつつ、上杉謙信の助力で一時は古河城への復帰を果たしたりもしますが、程なく古河城は後北条氏に攻められて藤氏は捕虜となってしまい、最後は消息不明となってしまいます。こうして五代目・義氏の地位は確立されました。

義氏は1583年に死去しますが、嫡男が早世していたため、家臣団は長女の氏姫を後継として擁立します。1590年、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると古河城は破却され、氏姫は古河公方館(鴻巣御所)に入って余生を過ごしました。この系統は喜連川氏として江戸時代も存続し、現在も足利姓で存続しているみたいです。

徳川家康が関東に入封すると、古河には小笠原秀政が3万石で入部し、古河城は修復・拡張されました。その後の古河藩は目まぐるしく藩主が変更されますが、佐倉城から移転してきた土井利勝の時代に実質の天守である御三階櫓や諏訪曲輪が整備され、明治の廃城令までその姿を残していくことになります。

明治の利根川改修計画によって利根川水系である渡良瀬川も改修され、その影響で城域の殆どが河川敷と堤防に埋没してしまいました。
残された遺構は僅かですが、町を散策してみると意外と往時の雰囲気を楽しむことができる場所だと思いました。古河公方館とあわせて訪問するのがお勧めです。


※動画は2012年6月に撮影・編集したものです。
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↑古河城と古河公方館(鴻巣御所)は、往時は水堀で繋がっていたみたいです。距離もそんなに離れていないので、あわせての訪問がベストですね。

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↑古城絵図と、作成した大まかな古河城の概略図。
渡良瀬川の改修工事によって、主要部は河川敷や堤防作成のために消滅してしまいました。

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↑【諏訪曲輪】
現在、歴史博物館が設置されている諏訪曲輪。往時は出丸としての役割を担っていたものと思われます。
古河城で唯一、曲輪としての面影を残す場所ですね。昭和の初め頃までは比較的良い状態で残されていたみたいなのですが、運動場の拡張などで北側を中心に土塁が崩され、堀は埋められてしまいました。

歴史博物館のある南側は一部の土塁が残され、堀の雰囲気を楽しむこともできます。

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↑【御茶屋口と御成道】
日光参拝の宿泊所として古河城は使用されていたため、将軍が城内に入るための御成道が決められていました。旧日光街道から諏訪曲輪まで、良い雰囲気で今も面影が残されています。

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↑【古河城の移築門】
二の丸御殿の入口に使用されていたという乾門。
古河城で使用されていたとされる移築物は、他にも蔵や裏門などが点在しています。

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↑【大手門跡】
現在は市街地に飲みこまれてしまっていますが、屈折した道が枡形だった往時の面影を残しているように感じます。

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↑【観音寺曲輪の土塁】
その大きさから、往時の土塁の規模を推察することができますね。付近には作事所跡の碑も残されています。

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↑【獅子ヶ崎と御成門】
古河城で枡形に石垣が使用されていた場所は、獅子ヶ崎のそばに設けてあった御成門と本丸表門のみでした。
御成門は残されていませんが、獅子ヶ崎は一部が保存されているので雰囲気を確認することができます。
すぐ脇には家老屋敷に使用されていたとされる長屋門も残されているのですが、デジカメの画像がなかったので紹介はパス。

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↑【河川敷に埋もれた古河城主要部】
この河川敷一帯には古河城の主要な曲輪が設置され、本丸には三層四階の御三階櫓や複数の隅櫓が置かれていました。御三階櫓の構造は佐倉城を彷彿とさせますね。


古河城が崩される様子などは、歴史博物館で販売されていた資料に僅かながらも写真が掲載されていたりしたので、そこから古河城の塁の高さなどを何となく推察することができます。
ちなみにその資料、絵図なども豊富に掲載されているので、個人的には結構お気に入りですかね。絵図や古写真が多く残されている城址は往時を想像し易いので、本当に有難いです。


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コメント

おはようございます

古河にも、いらしたんですね。

古河は近いので何度となく訪れてますよ、数年前に城門や遺構に石碑巡りをしました。

古河城は河川工事で残っていた遺構を、大分破壊しましたかね

それでも遺構は断片的には残ってますからね


これは、タブレットからのアドレスです。


ヤマシロ

>ヤマシロさん

残留物は少ないけれど、遺構のポイントごとに目印がつけてあるし、町には城下町だった面影も何気に色濃く残されているので、思うより散策を楽しめる城址なんですよね。
今更ながらかもしれませんが、それでも今できることで昔の面影を大事にしようかなとしているように思わせてくれることがポイントかも。

羽生や深谷なんかも同様だったら、まだ訪問してみようかなと思うのですが。

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