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2013年11月

2013年11月30日 (土)

today news

松本城の外堀復元へ一歩 市、用地取得議案  日経電子版より抜粋

2013/11/28 23:32

 

松本市が2020年ごろの完成を目指している松本城の南・西外堀の復元事業をめぐり、市は12月市議会に用地を取得する議案を提出する。昭和初期までに埋め立てられた外堀復元への第一歩となる。

 

 12月2日に開く市議会に用地取得議案2件を提出する。南・西外堀約1100平方メートルと、隣接する道路用地540平方メートルを個人や企業から取得する。取得価格は1億2800万円余り。取得額は予算に盛り込んでいるが、市の大規模な土地取得には別に議会の議決が必要になる。

 

 市は代替地を必要としない金銭のみの補償案件から先に対応していく方針で、最終的には南・西外堀の約9200平方メートル、道路用地の約5800平方メートルの全体の取得を目指す。

 

 議案が可決されれば契約を結び、建物の所有者は今年度末までに建物を取り壊したうえで土地を市に引き渡す。年内にも建物の解体工事が始まりそうだ。

 

 松本城を囲む外堀は南西部がL字型に欠けている。明治期以降、コイの養殖のために藩士たちに払い下げられ、その後埋め立てられたためで、現在は住宅・商店などが建ち並んでいる。菅谷昭市長は城下町の再生を掲げ、数十年来の懸案だった外堀復元に意欲を見せている。

 

 

松本市、なかなか思い切りますね。古城絵図と照らし合わせると、対象地区はこんな感じなのかな。

復元の前には発掘調査が入ると思うので、どんな成果があるのか楽しみです。整備が終了するのは相当先になるんでしょうけど、楽しみに待ちましょう。

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2013年11月28日 (木)

today news

「天空の城」竹田城跡、本丸立ち入り禁止に 転落事故受け補修工事  gooニュースより抜粋

20131126日(火)10:05

 

朝来市は同市和田山町の国史跡・竹田城跡の石垣から男性が転落、重傷を負った事故を受け、城跡最上部の本丸への観光客の立ち入りを禁止し、周辺通路の補修工事を進めている。来訪者の安全確保と遺構保護が目的で、立ち入り禁止は12月10日ごろまで続く見込み。

 竹田城跡はテレビドラマのロケが行われるなど、雲海に浮かぶ「天空の城」として人気が急上昇。昨年は京阪神などから、幅広い老若男女のグループ連れなど約23万7千人が来訪、11月は1日平均約3千人が入山している。

 観光客の急増に伴い、坂道の表面にくぼみができ、土が雨で流れたり、石積みが緩んだりして、歩行危険箇所が出現。19日には坂道の石垣から西宮市の男性が誤って転落し、腰の骨を折る重傷を負った。さらに土が掘れて、中に埋まっていた瓦がむき出しになるなど文化財保護上も支障が出ている。

 こうした状況を重視した市は、20日に二の丸から本丸へ続く坂道の立ち入りを禁止するとともに、周囲の石垣の縁にもロープを張り巡らせ、近くへの立ち入りを規制。傷んだ通路には土を入れたり、土嚢(どのう)を積んだりする補修工事を行っている。

 市は警察と協議して危険箇所をチェックし、可能な限りの安全対策を実施する。一方、市教委社会教育課は「絶対的な安全策はない。危険に対する認識を持ってもらい、『自分の安全は自分で守る』という意識で来訪してほしい」と観光客に注意を呼びかけている。

どうなっていくんでしょうかね。自分はまだ未訪なんで、あまりおかしなことにならなければ良いんですけど。

2013年11月27日 (水)

浄福寺城【東京都八王子市】2013/11の動画をアップロードしました

頭にプランが浮かんだので、秒殺で動画にまとめてみました。ということで、25日に動画はアップロード済みです。

 

いつもながらの妄想全開の解説になっていますけど、楽しんでいただければ幸いです。

あとの細かいところは、ゆっくりブログにまとめていこうかな。

2013年11月26日 (火)

高崎城 【上野】

場所:群馬県高崎市高松町(場所)
訪問:20117
形態:平城
遺構:外堀・土塁・移築復元建造物(乾櫓、東門)など
指定:群馬県重要文化財(乾櫓)
駐車:なし ※市役所などの公共施設に付属している駐車場を拝借するのが良いかも
満足:★★★★(4.0)
見所:残されている外堀とその土塁はなかなか雰囲気良し

江戸時代、当地には高崎藩の藩庁である高崎城が置かれて幕末まで存続しましたが、高崎城は徳川家康の関東入封によって箕輪城主となった井伊直正が家康の命令によって築城したお城であり、それ以前は和田城というお城が当地には建てられていて、周辺を統治していました。

その和田城は平安時代に和田義信が築城し、戦国時代に至るまで和田氏の居城として使用されていました。室町時代になると上野国は管領上杉(山内上杉)氏が領するところとなり、和田氏は管領上杉家に帰属していましたが、関東管領が越後・上杉謙信に引き継がれるとそのまま謙信配下に収まり、その後は上野に進行してきた武田信玄、そして最後は後北条氏の傘下に属し、後北条氏の滅亡にあわせて和田氏も没落していきました。

小田原征伐の後は廃城になっていた和田城ですが、前述の通り、その城址は家康の命で井伊直正によって高崎城として再び使用されることになります。箕輪城も確かに西上野における要衝ではあったのですが、関東における騒乱の危険性が少なくなったことで、利根川に接した和田城の地のほうが、より重要性が増したということなのでしょう。

井伊氏は関ヶ原の戦いの後に彦根へ転封になりますが、高崎にはその後も譜代大名が目まぐるしく入り、藩主を務めました。明治の廃城令にて建物などは破却され、現在に至ります。


城内は市街地化が進んでしまっていますが、外堀と土塁は比較的良い雰囲気で残されているので、思う以上に楽しむことができました。乾櫓や東門以外にも、市内には徳川忠長が自刃した場所という書院が移築されて残されているみたい。

高崎城の縄張り内に取り込まれた和田城も、その土塁の一部が僅かながら和田橋付近で確認できるようなので、そのうちにまた再訪してみようかな。

※動画はまだ作成していません━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


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↑日本古城絵図の高崎城絵図と見比べれば判るとおり、外堀は比較的良好に残されています。
和田城の土塁とされる遺構も和田橋周辺に残されていたみたいなのですが、国道17号を整備した際に多くが崩されてしまったのだとか。戦後まもなくに撮影された航空写真を見ると、その土塁の存在を確認することができます。

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↑【外郭の堀および土塁】
主要部が消滅してしまっているのに、外郭の堀が良好に残されている城址って珍しくないですかね?軽視されてもっと消滅していてもおかしくないと思うのですが、本当に有難い事だと思います。

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↑内側から土塁を見るとご覧の通り。場所にもよるんでしょうけど、大きくてなかなかの迫力です。
ちなみに今見ると虎口だったっぽく見えてしまいますが、古城絵図でこの位置を確認すると虎口は描かれておりません。

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↑【復元・移築された乾櫓と東門】
簡単に立ち寄っただけだったので、あまり良い写真が残されていません。

移築再現された復元水路も確認していないし、和田城土塁も見ておきたい。これは、近くまで行ったときに再訪しなきゃ駄目ですね。

2013年11月25日 (月)

ちょっと雑談【経済】

高速道路の割引縮小 深夜3割に、平日昼は廃止 【最終調整】  日経電子版より抜粋
2013/11/23 2:05日本経済新聞 電子版

国土交通省と東日本、中日本、西日本の高速道路会社3社は高速道路の料金割引制度を来年度から大幅に縮小する方針だ。地方での平日昼間や大都市での休日の各3割引きを廃止するほか、深夜の割引率は5割から3割に縮める。景気対策として2008年度から投入した国費負担分の割引財源が今年度で切れるため、渋滞緩和や地域経済の活性化などの効果が小さい割引メニューを削る。


安倍政権、来年は本当に大丈夫なのか?って話にどうしてもならざるを得ませんね。次の増税時に検討するとされていた軽減税率の話などは、何故か今から積極的に行っていますけど、いっこうに来年から開始される消費増税に対しての経済対策といったものが、具体的に見えてこない。
黒田総裁は日銀の責任で、景気浮揚に向けて最大限頑張るなんて話をされていますけど、金融緩和だけじゃ自ずと限界が決まっていますしね・・・。

2013年11月24日 (日)

11/23 訪城報告

11/23()は久々に東京都八王子市の浄福寺城を訪問してきました。

 

前回訪問は20114月。当時はデジカメで動画を撮影していたので、広大な城域を誇る当城のために電池の残量を気にして、写真は殆ど撮影しなかったんですよね。あと、支尾根も一本いかなかったんだよな。

 

で、今回。結論から言うと、今回も見逃した支尾根の確認は殆ど行いませんでした。どの尾根かは浄福寺城の項で説明しますけど、なんか大変なんですよ。藪ってるし、傾斜もあるし、トゲのついた植物がトラップとしてところどころに生えていて痛いし、おまけに尾根方面が逆光で視界も悪いわで、堀切1本確認して断念しました。勇気ある撤退だと思いたい・・・。

 

あと致命的だったのが、縄張り図として「関東の名城を歩く 南関東編」をもってきたつもりが、現地でリュックから取り出すと、何故か「北関東編」が入ってたこと(´・ω・`)

それでも、一度訪問しているし、何となく縄張りは頭に入ってるし、なんて油断していたんですけど、1箇所だけ帰りに使う予定だった支尾根に向かう堀切を間違えて大きなロスタイムが発生しちゃうことに。

 

9301400までぶっ続けで見学してましたけど、結構疲れたかな。でも、見応えのある城址なんで、それなりに満足です。

 

城址の紹介は11/26に高崎城がアップされるんですけど、その次は浄福寺城にしたいなと考えています。ただ、ちょっとまとめたいので、今まで通りの中2日ペースではなく、ちょっとだけ日数が開くかもしれません。

today newsなんかはネタを見つけることができればあげるので、更新はされるかも知れませんけどね。

 

とりあえず明日はジャパンカップでもやろうかな。アホみたいな宝くじを買うんだったら、僕はwin5で夢を見させてもらいます。

→【ジャパンカップ 結果報告】
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ごちそうさまでした(´・ω・`)b

2013年11月23日 (土)

箕輪城 【上野】

場所:群馬県高崎市箕郷町(場所)
訪問:2011年11月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・石垣・土塁・馬出など
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★★★(9.0点)

見所:主要部に設けられた巨大な堀は必見

箕輪城は上野長野氏の居城として築城されました。
戦国時代に城主を務めた長野業正は、箕輪衆や上野衆を率いて武田信玄の上野進行をことごとく防ぎ、その活躍から信玄をして「業正がいる限り、上野はとれぬ」と言わしめた程でした。
ただ、その長野業正も1561年に死去してしまい、業正の跡は三男の業盛が継承します。しかし、その死を知った信玄は小幡氏や安中氏など西上野の諸勢力を調略によって勢力下におき、最終的には箕輪城を孤立化させた上で、1566年には箕輪長野氏を攻め滅ぼしました。業盛は箕輪城の御前曲輪において、一族郎党とともに自害したと伝えられています。

箕輪城を占拠した武田氏は箕輪城を上野国の重要拠点に定め、甘利昌忠や真田幸隆、内藤昌豊などの有力家臣を箕輪城の城代として配置します。

1582年に織田氏の侵攻で武田氏が滅亡すると、箕輪城には織田信長より上野と信濃2郡を領地として与えられた織田家重臣・滝川一益が新領主として入りますが、6月には本能寺の変が発生し、直後に上野国に侵攻してきた後北条氏との合戦に滝川一益は破れ、箕輪城は鉢形城主・北条氏邦が管理することになりました。

1590年の小田原征伐で後北条氏は滅亡し、関東には徳川家康が入封します。
箕輪城は井伊直政が12万石で城主を務めますが、直政は家康の命によって利根川沿いに高崎城を築城し、1598年に本拠を移転。箕輪城は廃城とされました。



江戸時代になると江戸の発展に欠かすことのできない利根川の水運が重要視されて、高崎や厩橋に要衝としての立場を奪われてしまいますが、戦国時代までは南北の通行だけでなく信濃からの動きも監視できる、この箕輪城のほうが要衝とされていたみたいですね。
歴代の城主も壮々たる顔ぶれです。


毎年、10月最終週の日曜日には箕輪城祭りが開催されていて、今年は10/27に執り行われたみたいです。祭りの実施は知っていたので訪問してみたかったんですけど、その週は台風27号・28号で大騒ぎしてましたしね。チャンスがあれば、また。

※そういえば櫓門と高麗門を復元するなんてニュースがありましたね。状況を見守りたいものです。

※動画は2011年11月に撮影した映像を、2012年6月に編集してアップロードしたものです。
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↑現地案内より箕輪城の概略図。

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↑【大手門周辺】
大手の痕跡が残されている丸戸張。主要部だけでなく、外郭の大手が残されているのも良いですね。

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↑【大手1:虎韜門口】
大手門から主要部に至る大手口のひとつである虎韜門口。
こちらは虎韜門から鍛冶曲輪を抜けて、三の丸に至るルートでした。虎韜門跡の周辺は駐車場になっていますし、鍛冶曲輪や三の丸の石垣も見られるので、大手口らしさを感じることができると思います。

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↑【大手2:大手尾根口】
こちらは大手門から尾根道を抜けて、木俣(きまた)や郭馬出を通りながら二の丸に至るルートです。
木俣の名称の由来は通路が五方向にわかれているからということや、井伊氏重臣に木俣という者がいて、その屋敷があったからとも言われています。
場所的には交差点のような認識だったとしてもおかしくないので、前者の説のほうが面白い気がしてしまいますね。

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↑【木俣方面に対する二の丸の守り】
箕輪城の見所のひとつに巨大な空堀の存在があげられると思いますが、二の丸などがある主要部とその南側の曲輪は、まるで自然の谷戸と見間違うくらいの巨大な堀で断ち切られ、唯一の連絡口である郭馬出を突破しないと、奥に進むことができません。

現在は確認できないのですが、諸国古城之図を見ると、この郭馬出の手前にも馬出のような空間が描かれています。前から気になっていたんですけど、現地で説明が見当たらなかったということは、調査でも特に痕跡が見つからなかったということなのかな?

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↑【その他の残されている馬出】
馬出は他に本丸手前と、城内の北端にて丸馬出を確認することができます。古図によっては、虎韜門の手前にも馬出が描かれているものが残されているのだとか。

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↑【本丸の堀】
大堀切も凄い規模でしたが、本丸の堀もなかなかのものです。
以前は草木に埋もれていましたが、2011年11月に訪問すると草木が綺麗に伐採されて、より確認し易くなっていました。

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↑【本丸】
箕輪城の中心に当たる本丸と、その奥に残された御前曲輪。
西上野の要衝だった箕輪城は何度も支配勢力が変わっていきましたが、その流れの中で徐々に拡張されていきました。
御前曲輪は当初の領主だった長野氏時代の本丸だったとされる曲輪で、長野氏最後の当主・業盛は落城の際、この御前曲輪にて一族もろとも自害して果てたとされています。

本丸には複数のオブジェが配置されていますが、これはお祭りにあわせて一時的に置かれていただけだと思います。
箕輪城祭りは例年10月最終週の週末に実施されているみたいなので、興味のある方は調べてみては。

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↑【点在する石垣の痕跡】
いつの頃から箕輪城に石垣が使用され始めたのか判りませんが、少なくとも後北条氏の管理する時代には要所は石垣で固められていたものと思われます。
長く放置されていた割には、これだけ各所で石垣を確認できることに驚きじゃないですかね。

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↑箕輪城は結構大きいので、全部見て回ろうとするとそれなりに時間を消費してしまうかもしれません。
まあ、見応えのある城址ではあると思うので、じっくり楽しんでみては如何でしょう。


2013年11月22日 (金)

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鳥羽城:甦る天守閣 再建目指しロータリークラブ公表 広大大学院・三浦教授、古文書基に図面作製 /三重  毎日jpより抜粋
毎日新聞 20131121日 地方版

江戸時代後期の絵図以外に構造が不明だった鳥羽市鳥羽3の鳥羽城天守閣の概略図面を、再建活動に取り組む鳥羽ロータリークラブ(松田音寿会長)が公表した。同クラブは12月1日に市民文化会館で「鳥羽歴史と文化のシンポジウム」を開催、制作に携わった広島大大学院の三浦正幸教授が「甦(よみがえ)る鳥羽城天守閣」と題して記念講演を行う。

鳥羽城は戦国武将の九鬼嘉隆が築城し、1871(明治4)年に取り壊された。天守閣の概略図面は、市立図書館に保管されていた古文書を元に、三浦教授の指導で描かれた。古文書は5代城主の内藤忠勝が1680年、江戸の芝増上寺で刃傷事件を起こして切腹し、城を明け渡す際に作製された。

天守閣は正面5間(約9メートル)、奥行き6間(約10・3メートル)、天守台からの高さは19・5メートルあり、3層構造だった。1層と2層は同じ大きさで、3層はやや小さい。絵図に描かれた上層になるにつれ次第に小さくなる天守とは異なっている。また、脇に描かれた小天守は確認できていない。

同クラブは、創立50周年記念事業で、三浦教授に天守閣の図面作製を依頼。現地を視察し古文書などの資料の解読を進めてきた。23日には市民の参加を求め、城山公園の鳥羽城跡に天守閣をイメージしたイルミネーションの飾り付けを行い、シンポジウムを開催する12月1日に点灯する予定だ。

シンポジウムでは、三浦教授の記念講演の後、「歴史と文化の夢を語る」をテーマにパネルディスカッションを行う。「かたらずか劇団」による鳥羽藩の3代城主争いを題材にした史劇「海よ永遠に!」も上演する。

東谷佳一実行委員長(61)は「一連のイベントを機に市民の間に、天守閣再建に向けた取り組みを広げていきたい」と意気込んでいる。


本丸跡は近年まで小学校のグランドとして使用されていたんですね。周辺には観光施設も多そうな場所ですし、九鬼氏や鳥羽城は比較的認知度高いかもと思うので、良い感じで進展してもらいたいものです。

2013年11月21日 (木)

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兵庫・竹田城跡“天空の城”から転落し男性重傷 ※Yahooニュースより抜粋
TBS系(JNN 1119()1356分配信

「天空の城」とも呼ばれ、美しい雲海で知られる兵庫県朝来市の竹田城跡。19日の朝も観光客で混み合う竹田城跡で雲海を見に来ていた男性が足を滑らせて転落しました。男性は重傷です。

雲海に包まれる竹田城跡。「天空の城」とも呼ばれ、およそ400年前の石垣が当時のまま残っています。幻想的な風景が評判を呼び、兵庫県朝来市には数年前から観光客が急増。多い日には一日3000人以上が訪れる観光スポットになりました。

ところが、19日午前6時半頃、観光客が石垣から転落する事故が起きました。男性は、登ってきた少年をよけようとして石垣から転落したということです。

およそ2メートル下に転落した兵庫県西宮市のアルバイト男性は腰の骨を折る重傷です。男性は子どもに道を譲ろうとして足を滑らせたということです。事故があった場所は、道幅が4メートルほど。以前は土のうが積まれ、階段状になっていましたが、観光客の急増で土のうが破れ滑りやすい状態に。加えて、先週の雨でぬかるみができていました。

・「道があんなでしょ。だから雨が降ったらあの道は登れない」(観光客)
・「もうちょっと整備できないものか。観光客もいっぱい来ているので」(観光客)

事故があった早朝の時間帯は雲海が発生しやすく、観光客が集中します。本丸につながる唯一の道は、いつも混雑しています。

「来訪者が安全に見学できるよう、動線を確保しながら見学路のコース設定も含めて今後、検討していきたい」(朝来市教育委員会・田畑基課長)

朝来市では応急処置として事故があった場所に土のうを積み直すなどの対策をとるということです。(1918:01

 

観光客のぼやき。そりゃ、判らないでもないですけどね。

観光地としての安全性にどうしても偏りがちなご時勢なので、竹田城は史跡の保全を優先して欲しいというのが正直な気持ちです。

改変してしまったら失われてしまうものも多くあるでしょうに。利便性や安全性を追求するのだったら、わざわざ山上のお城跡なんていかずに、シンデレラ城や熱海城を訪問したほうが絶対楽しいですよ。これらはエンターテインメントに特化した施設なんですから。

2013年11月20日 (水)

江戸崎城 【常陸】

場所:茨城県稲敷市江戸崎(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:点在する台地・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:神社などの駐車場を拝借
満足:★★★(3.0点)

見所:僅かに残る江戸崎土岐氏の居城

江戸崎城は、土岐原氏が室町時代の初期に築城したものと考えられているみたいです。その後、土岐原景秀によって江戸崎城は修築され、以降は景成-治頼(土岐頼芸の弟)-治英-治綱の五代に渡って居城として使用されていました。

土岐原氏は美濃の名家・土岐氏の一族で、世継ぎに恵まれなかった景成の死後、美濃総領家から養子として治頼を迎え、家名を存続させました。
景成の死から治頼が家督を継ぐまでの間、土岐原氏はお家騒動が発生してしまい、その隙に乗じた小田氏によって、一時は江戸崎城を奪われてしまっていたのだとか。

治頼を当主に迎えた土岐原氏は江戸崎城を奪還し、次第に周囲に勢力を広げていくようになります。ただ、逆に美濃総領家は長井氏(斉藤道三)の台頭によって急速に力を失っていき、遂には没落。美濃を追放された兄・頼芸は、一時は治頼を頼って江戸崎に身を寄せていて、その際に土岐宗家の座を治頼に譲ったとされています。
以降、土岐原氏は土岐氏を名乗りさらに勢力を拡大していきますが、増大してくる後北条氏の圧力の前に、次第にその傘下に組み込まれるようになっていきます。

1590年の小田原征伐では、後北条氏方の勢力だったために豊臣軍に攻め込まれ、龍ヶ崎城ともども攻め落とされてしまいました。
江戸崎土岐氏の没落後、伊達政宗によって会津を追われた芦名義広(盛重)が秀吉から4万石を与えられて竜ヶ崎に入り、次いで江戸崎城に移ってきました。
その義広も1602年、兄の佐竹義宣が秋田に転封に伴って移動したため、江戸崎城は廃城となり、現在に至ります。


江戸崎土岐氏の居城だった江戸崎城ですが、台地などある程度の面影は残されているものの、城址自体はその後の改変で大きく様変わりしてしまい、遺構と呼べるようなものは殆ど確認することができません。
台地を大きく削られてしまった江戸崎小学校付近には流石に入りづらいですけど、その他は邪魔にならない程度あれば歩き回れるので、周囲を散策して楽しみました。

たまたま鹿島神社でお話を伺える機会に恵まれたので、神社北側に残る土塁など城址に関していろいろ質問してみたんですけど、この土塁に関しては特に遺構だという話は聞いたことがないらしく・・・。
小学校のある場所は云々なども教えてくれましたが、このあたりのことは余湖くんのHPや「図説・茨城の城郭」に記述されているので、そちらで確認してみてください。かなり参考になると思います。


五百羅漢、藪に覆われていて、ちょっと可哀そうな状態になっていました。

小雨が多少ぱらつくこともありましたが、濡れてしまうような雨だけは何とか回避することができたのは幸いでしたね。相変わらず雨で大被害を被ったのは、あの日の逆井城の1回のみ。ある意味恵まれているんでしょうけどあれを教訓にして、油断しないように気をつけなきゃ。

※動画はまだ作成していません
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↑古城図などを参考に概略図を作成してみました。遺構は殆ど残されていないみたいですが、ある程度の台地が残されているので、城址が存在した面影は比較的に感じられると思います。

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↑【遠視】
主要部が存在したと思われる台地を、西側から撮影してみました。古城図に描かれている帯郭もしっかり残されていますね。

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↑【主要部(主郭および二郭)】
主郭には江戸崎高校が建てられていたみたいですが、高校は現在移転され、現況は耕作地などとして使用されています。
一段低い場所にある二郭には案内が設置してあったので簡単にチェック。

台地上は様々な用途に使用されていたみたいなので、かなり改変されてしまっているんでしょうね。北端で土塁の痕跡が確認できるみたいなのですが、ちょっと畑を通り抜ける勇気がでなかった・・・

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↑【鹿島神社】
鹿島神社の脇に残る大きな土塁。現在管理されている方がたまたまいらっしゃったのでこの土塁に関しても質問してみたんですけど、この土塁が遺構だという話はとくに聞いていないのだとか。
そうなのかー。かなり立派な土塁なので、遺構だとかなり嬉しいんですけどね^^;

現江戸崎城学校の辺りは台地がかなり削られてしまっているみたいなので、この鹿島神社の辺りも同様なのかも知れませんね。
現在土塁に見えるこの土壇は、削り残された台地の名残だったりして。

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↑鹿島神社と瑞祥院の間を通る道。ちょうど、鹿島神社の土壇の裏側に当たります。
ここは堀跡みたいなんですよね。瑞祥院入口にあるひょうたん池は、水堀だった頃の名残なんだとか。

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↑【瑞祥院】
この辺りも城域に含まれるみたいです。古城絵図に描かれる小山みたいなのが、瑞祥院裏の小山のことなんだろうか。
ちなみにこの小山、羅漢山とも呼ばれていて五百羅漢という史跡が山上に残されています。せっかくなので、ちょっと確認してみることに。

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↑【遺構?】
五百羅漢まで到着する途中に、土橋のような場所と竪堀っぽいものが残されていました。
それっぽく見えるだけなんだろうけど、ネタとしては十分に使えるので撮影。

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↑【五百羅漢】
なかなか由緒ある史跡みたいに思うのですが、藪に埋もれているせいか荒廃感がなんともいえないですね。
現在残されている羅漢像は493基らしいのですが、そんなに配置されているようには思えないです。

城址としては、物見に適した場所ですね。景観は悪くないです。

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↑旧道っぽい道も残されていましたが、薄暗くて何か物の怪でも現れそうな雰囲気。石段で厳かですが、しばらく使用されていない感じですね。3.11の影響かも。
そういえば登っていく途中、黒猫が自分を出迎えてくれました。フラッシュで光る目が、またなんとも・・・

2013年11月17日 (日)

大日山城 【常陸】

場所:茨城県龍ケ崎市塗戸町(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀切・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:ため池のそばに駐車させていただきました
満足:★★★★★★(6.0点)

見所:巨大な堀切が残されています

城暦の詳細は不明です。
付近に残る登城山城と同様に、台地の先端に築かれた単郭の館跡といった趣の城址ではあるのですが、この大日山城には深さ3~4mはあろうかという巨大な堀切が残されているので、より迫力のある遺構を楽しむことが可能です。


ただ、城内に通じる道が無さそうなので、ちょっとだけ直登りをしないと城内に入れないのと、内部は竹薮状態なので、歩きづらい&視界が悪いということが難点でしょうか。


小雨がたまにぱらつく天候ということもあったのでしょうが、時間はまだ14:00台だというのにもの凄く暗くて、撮影に難儀してしまいました。まだまだ藪蚊も元気だし、竹で移動に時間は掛かるし、撮影はなかなかうまくいかないし・・・。そんなこんなで、至近まで近づきながら、この城址の代名詞の様に紹介されているお社の確認を忘れてしまいました。
まあ、仕方ないかな。

※動画はアップロード済みです。このページの最下段にプレイヤーも貼り付けてあります。
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↑大日山城の簡単な概略図。
主要部に直接繋がる道は残されていなさそうなので、他サイトの情報を参考にして、今回は東側から訪問してみました。
地図を見ると台地続きの西側からも訪問できそうに思いますが、この農道がどこまで続いているのかや、駐車スペースを確保できるのかなど、googlemapだけでは不明点も多いです。
こちらからスムーズに訪問できれば、比較的楽に訪問できる城址ということになるのですが・・・

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↑【東側から見た大日山城】
山麓に残る溜池や田んぼは、湿地だった往時の名残だったりするのでしょうか。

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↑【帯郭】
下から見上げると九十九折の道に見える帯郭。ですが、実際は繋がっているわけではありません。

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↑【主郭】
内部は竹薮になっていますが、朽ちて倒れた竹がそんなに多くないことが不幸中の幸いといったところでしょうか。
決して歩きやすい訳ではないのですが、歩行困難ではないので散策続行です。

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↑【土塁】
良好に確認できる遺構のひとつである土塁。

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↑【堀切】
台地と主郭を遮断する堀切。とても規模が大きくて見応えがあります。
時刻は14:30。それにしてはえらく暗くて、デジカメでは満足いくような画像を納めることができませんでした。

薄暗い場所だと、デジカメよりビデオカメラのほうが、意外と綺麗に撮影できてよかったりするんですよね。無駄にフラッシュで電池の消耗が早くなるのも難点。
ということで、動画を簡単に編集してみました。



堀切の大きさなどは、写真より判りやすいと思います。

2013年11月15日 (金)

牛久城の動画をアップロードしました

先日の大日山城に続いて、牛久城の動画もアップロードしました。
1本撮りなんで編集の手間が少ないのがよかった。



そのうちに牛久城のブログページも修正したいですね。
あと、東林寺城の動画作成も検討中です。週末の予定次第ですかね。

2013年11月14日 (木)

登城山城 【常陸】

場所:茨城県龍ケ崎市半田町(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:墓地前の駐車場を拝借
満足:★★★★★(5.0点)

見所:良好に残る土塁や、意外と迫力のある竪堀など

城暦などの詳細は不明です。
台地の先端に残されている小規模な城址で、土豪か何かの居館として使われていたのではないかと思われます。

満願寺さんの周囲はいろいろと改変されているみたいですが、奥に残る主郭は土塁や土橋を良好に確認することができました。
見事な竪堀が残されているのですが、「図説・茨城の城郭」によると、これは旧参道として使われていたものらしく、遺構では無い可能性もあるらしいです。ちょっとがっかり。

この後は大日山城を訪問しましたが、周辺には同様の館跡っぽい遺構が他にも複数残されているみたいです。
まとめて訪問してみるのも、良いかも知れませんね。

※動画はまだ作成していません
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↑作成した簡単な概略図。

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↑【満願時参道】
現在の城址に向かう入口となる満願寺の参道。「図説・茨城の城郭」によると、この道は堀跡とかではないとのこと。

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↑【満願寺】
参道をあがると立派な山門が出迎えてくれます。
当然城域に含まれるんでしょうけど、あちこち改変されている感じなので、それっぽく見えても遺構か否かの判断が難しい・・・

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↑【本堂脇の竪堀?】
おお、これは見事な竪堀だと思って悦に入っていたんですけど、どうやらこの場所は現在の参道が造られる前の参道だったみたいでして。
まあ、だからといって、この竪堀が遺構ではないという訳ではないんでしょうけどね。

ここに竪堀があったとすると、反対側には堀切が続いていたのかなーなんて現地では考えていたんですけど、これが後世の改変だったりすると、堀が続いていないのも当たり前ではあったりするし。

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↑ちなみにこの竪堀、車道から見上げるとこんな感じです。車道設置の影響で、結構改変されているんでしょうね。

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↑【主郭脇の腰郭と帯郭】
主郭の脇は窪地になっていて、帯郭と腰郭状の平地が残されています。腰郭から東側の集落に抜けていく道が続いているんですけど、往時も搦め手のとして使用されていたのかな?

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↑【主郭の堀と土橋】
明瞭に残る堀と土橋。

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↑【主郭】
台地の先端なので、周囲を監視するには絶好の場所だったことでしょう。
東側の土塁には切れ込みが入っています。下の帯郭や腰郭と何かしらのやり取りを行う設備が、ここに設置されていたりしたのでしょうか。

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↑満願寺からしばらく台地に沿って歩いてみたんですけど、特に何も見つけられませんでした。

2013年11月11日 (月)

龍ヶ崎城 【常陸】

場所:茨城県龍ケ崎市古城(場所)
訪問:2013年3月
形態:平山城
遺構:点在する台地
指定:たぶんなし
駐車:なし
満足:★★(2.0点)

見所:龍ヶ崎市の城址を散策するなら、余った時間でついでに

伝承では下河辺氏の一族である龍ヶ崎氏が白幡台の地に居館を構え、龍ヶ崎城の地に出城を構えたことが、龍ヶ崎城興りの由来とされているみたいですね。

戦国時代になると江戸崎城を本拠とする江戸崎土岐氏が龍ヶ崎氏を攻め滅ぼし、1568年には一族の土岐胤倫が出城跡に新たに城を築いて、龍ヶ崎一帯を治めました。

江戸崎土岐氏は後北条氏寄りの立場を取っていたため、1590年の小田原征伐で江戸崎城・龍ヶ崎城ともに攻め落とされてしまいます。
こうして大名としての江戸崎土岐氏は没落し、江戸時代の龍ヶ崎は仙台藩領となって、古城山麓には陣屋が置かれていました。
幕末の一時期には米津家によって龍ヶ崎藩も立藩されていたみたいです。


・白幡城 → 竜ヶ崎第一高校
・龍ヶ崎城 → 竜ヶ崎第二高校
・龍ヶ崎陣屋 → 竜ヶ崎小学校
ということらしいです。第二高校内に土塁も一部残されているみたいなのですが、11/2は何か文化祭とかイベント事が開催されていたのかな?
警備っぽい人まで配置される有様で、とても内部に入れそうな状況ではありませんでした。まあ、そんなイベント日に遭遇していなかったとしても、内部の見学はしなかったと思いますが(笑)。
歴史資料館で拝見した航空写真では確認できた第二高校と御嶽神社の間の台地も、今はごっそり削られて面影すら残されていません。
せめて調査か何かが行われていて、資料館でそれを確認できたら良かったのに。江戸崎土岐氏の有力拠点だっただけに、なおのこと勿体無いですね。
そういえば資料館に資料が展示してあった屋代城。ここは北信濃の屋代氏の一族が統治していた場所だったんですね。帰宅して調べてみたら判ったんですけど、やっぱりというか、なんか納得です。
資料館の見学は無料なので、付近城址の散策ついでに立ち寄ってみるのも、良いかもしれませんよ。

※動画の作成予定はありません
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↑龍ヶ崎氏の居城とされる白幡城と、その時代は出城だった龍ヶ崎城。
台地先端に構えられた白幡城より独立した台地となっている龍ヶ崎城のほうが、より要害の地であると言えますよね。集落をおける場所等もろもろ地勢の変化など事情があるのかもしれませんが、現状を見る限りでは白幡城から龍ヶ崎城に拠点を移したのは、当然のことの様に思ってしまいます。

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↑龍ヶ崎城が存在していた台地は、その一部が土取によって完全に消滅してしまいました。龍ヶ崎市歴史民族資料館に展示してあった昭和30年代の航空写真を見ると、台地の旧状を確認することができますね。
消滅部分が主郭だったのかな?



■白幡城

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↑白幡城が構えられていたとされる白幡台。竜ヶ崎第一高校の敷地なので中は確認していませんが、何かしらの遺構が残されていたりするんでしょうかね。

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↑竜ヶ崎第一高校の他は、流通経済大学の敷地として使用されています。現在の低地の殆どは湿地で、もともとはこの台地上に集落が構えられていたのかも知れませんね。


■龍ヶ崎城

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↑そしてこちらが龍ヶ崎城が構えられていたとされる台地。竜ケ崎第二高校が置かれている場所は二郭にあたる場所だったみたいなんですけど、龍ヶ崎城は江戸崎土岐氏の重要拠点だったというだけあって、なかなか大きな台地です。

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↑主郭があったとされる台地は、土取にて完全に消滅してしまいました。採取された土で周囲の湿地を埋め立てて、それで住宅地を拡充したのかな?

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↑ポツンと残される台地先端。現在は御嶽神社が建てられているみたいです。

2013年11月 8日 (金)

東林寺城 【常陸】

場所:茨城県牛久市新地町(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀切・土塁など
指定:なし
駐車:三郭内にお断りして駐車するのが無難かと(多少、悪路を走りますが)
満足:★★★★★★★(7.0点)

見所:広大な曲輪、巨大な土塁と堀切

東林寺城は戦国時代、牛久城を本拠にしていた岡見氏によって築かれました。

東には江戸崎城の江戸崎土岐氏、西は多賀谷氏、そして北からは小田氏を圧迫する佐竹氏と抗争は続き、そんななかで徐々に衰退を始めてきた岡見氏は、下総から影響力を強めてくる後北条氏の勢力下に入り、自家を存続させる方向に向かっていきました。

多賀谷氏との抗争は続き、後北条氏を背後につけつつも岡見氏単独ではなかなか多賀谷氏に抗しきれず、遂には岡見氏の主要城郭である足高城と、本拠である牛久城の間にある要地に多賀谷氏の砦(泊崎城)が築かれてしまいます。
足高城も落とされ、風前の灯となった岡見氏。その岡見氏を守るために、後北条氏は支配下の諸勢力に牛久番として軍を牛久に駐屯させる方針を固めました。

こうして多賀谷氏からの攻勢は何とか凌いだ岡見氏ですが、1590年の後北条氏滅亡後は、大名としての地位を失っていまいました。
牛久城には秀吉の命で由良国繁が入りましたが、東林寺城はこの時期に廃城になったものと思われます。


牛久番は坂田城の井田氏や小金城の高城氏などが勤め、岡見氏とともに牛久を守りました。多賀谷氏はこの東林寺城まで攻め寄せたらしいですが、周辺の江戸崎土岐氏や相馬氏もこの頃には後北条氏に従っていましたし、牛久を抜くのは難しかったんじゃないでしょうかね。

牛久城も広大な城域を誇りますが、広大な曲輪跡が残される東林寺城は、この牛久番の諸勢力が駐屯するための基地というか、その名残りが残される城址して考えられています。
一部で土取による破壊で消滅してしまっていますが、残されている広大な曲輪跡と、非常に巨大な堀切は見学に来て損は無いと思います。
周辺の地理状況を頭に入れておくと、より感慨深くなるかも知れませんね。

そうだ、牛久城の項もそのうちに修正しとかねば・・・

※動画はまだ作成していません
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↑【戦国末期の牛久周辺勢力図】
牛久城と東林寺城、見ての通りで非常に近いです。
岡見氏は主要拠点である足高城と牛久城の間の地に、多賀谷氏によって砦(泊崎城)を築かれてしまったと紹介しましたが、こうして地図で見ると、それが如何に絶望的な状況かが判りますよね。こうして足高城は攻め落とされ、東林寺城には牛久番として井田氏や高城氏、豊島氏が詰めることになります。

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↑作成した東林寺城の概略図。竜ヶ崎市歴史資料館で撮影させていただいた昭和30年代の航空写真と比較してみると、今より稲荷川が全然巨大で台地のすぐ下まで水が流れていたことや、削られてしまった主郭の形状まで確認することができます。
※稲荷川が何かで埋まって見えるのは、恐らく木材か何かを浮かせているんだと思います。1943年(昭和23年)撮影の航空写真を確認してみると、違いがよく判るのですが。

余談ですが、この航空写真からは、今は消滅してしまった泊崎城の堀や、牛久城の崩落してしまった主郭南部など、他にもいろいろな現状との違いを確認することができて、結構面白いです。
古い航空写真は国土地理院の国土変換アーカイブで閲覧することができるので、気になる場所は確認してみましょう。

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↑【稲荷川から見る東林寺城】
目の前に見える田んぼは全て川だったんですよね。関東でも茨城南部から埼玉東部あたりは、特にこのような"つい数十年前までは湿地だった"てきな場所が多いですね。

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↑【主要部に入るためのルート】
城址を南北に貫くように農道が走っていますが、その農道に入るためのルートは2箇所。三郭までは車を使って移動できると思いますが、城址は大半が農地として使用されているので、作業従事者の邪魔にならないよう気をつけましょう。
二郭はどちらにしろ車では難しいと思いますので、牛久観光アヤメ園の駐車場か、河川敷に駐車して歩いてくるのも有だと思います。

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↑【四郭】
規模はそれ程でもありませんが、それでも土塁と堀の存在はしっかりと確認することができます。
薮も手伝って、写真にはハッキリと写らないですね。

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↑【三郭】
とても広大な三郭。今まで訪問してきたなかで、こういった巨大な郭を有する城址となると、木原城の三郭や、坂田城林外城小高城相賀城の外郭などが思い出されます。
このうち木原城は、岡見氏と同じく、戦国末には後北条氏の勢力下に組み込まれていた江戸崎土岐氏の前線基地として、霞ヶ浦対岸の佐竹勢を抑える役割を担っていましたし、坂田城は牛久番を勤めた井田氏の居城です。
後北条氏の勢力拡大における何かが、広大な外郭というキーワードで繋がっていると考えるのは、自然な流れなのかもしれません。

三郭の巨大な堀と土塁は、東林寺城における見所のひとつです。さらにこの土橋の先には・・・

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↑【三郭虎口前に存在していた馬出の痕跡?】
見学をしていて四郭側にも土塁があることと、脇にちょっとした溝が見られたので何なのかなと思って見ていたんですけど、これがたぶん馬出の痕跡っていうことなんでしょうね。台地下に駐車している車のことが気になって、現地ではそこまで気が回らなかった。

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↑【二郭虎口と堀】
東側は東林寺の墓地設営の影響で改変されているので、旧状はあまりよく判りませんが、西側には広大な堀と土塁が残されていて、往時の規模を何となく想像することが可能です。
堀は藪が凄いのが難点ですけどね。

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↑【二郭】
現在の最南端に当たる二郭。

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↑【台地の南端】
本来はこの先にも台地があって郭が存在していたのですが、現在は土取で綺麗に削られてしまいました。
土塁手前の畑を農作業用の車両で耕されている方がいたので、旧状をお聞きするかとても迷ったんですけれど、雰囲気的に忙しそうな感じだったので止めておきました。
古い航空写真で確認してみても堀っぽいものが見当たらないんですけど、昔々は存在していたものなんだろうか・・・。

2013年11月 5日 (火)

高井城 【下総】

場所:茨城県取手市下高井(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・土塁・櫓台など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★(5.0点)

見所:比較的良好に残されている土塁や堀、他に主郭の櫓台はなかなか良し

築城時期は不明みたいですが、戦国時代の高井城は守谷城を本拠とする下総相馬氏の管理化に置かれていました。
下総相馬氏は後北条氏の勢力拡大に伴い、次第にその勢力下に組み込まれていくことになりますが、1590年の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、下総相馬氏も没落していきました。
高井城も小田原征伐の後に程なくして、廃城になったものと思われます。


常磐道に近く気軽に訪問できそうな場所にあるため、茨城遠征した際の訪問予定リストには高確立で組み込まれていたのですが、だいたいが時間調整のための補欠というか最終訪問予定になっていたりしたので、ついつい訪問できずに後回しにされていた城跡です。
久々の城跡巡りということもあって、安近楽(安全・近い・見学が楽)なイメージの高井城を初訪問場所に決めました。

想像よりしっかりとした土塁や堀跡が残されていて、それなりに楽しむことができました。これぞ櫓台といった感じの土壇もポイント高いですね。
主要部近辺しか遺構を楽しむことはできませんが、ちょっとした公園くらいの広さはあるので、言うほど狭いといった感じはしませんでした。


主郭と違い、二郭はボチボチの薮。果敢に奥に進んでいくと、西側の土塁の外には、横堀のように感じる場所が残されていました。
現在は登城口として使用されている主郭と二郭の間にある竪堀、この横堀と竪堀は昔は接続していたんじゃないかなーなんて空想してみたり。何となく薮漕ぎのシーズン到来を予兆させてくれた高井城なのでありました。

※動画はまだ作成していません
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↑作成した高井城の概略図。
今シーズンの1箇所目ということで久々の城址訪問になりましたが、広さ的には、暖気に丁度いい感じでした。

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↑【北西から眺める高井城】
低地はちょっとした公園になっていて、水路や池が湿地感を醸し出しています。

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↑【主郭】
広さもそこそこあって、周囲を囲む土塁も良い状態で確認することができます。見所は南東隅に残されている櫓台。
東側は随分浅くなってしまっていますが、往時は堀だったんでしょうね。北東側に建てられている住宅は一段低くなっているように見られました(住民が庭を掃除されていたので、あまりジロジロとは確認できず)が、同じくらいの深さがあったのかも知れません。

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↑【主郭(北部)】
仕切り土塁の奥にも平地が続いていますが、削平が甘くてかなり自然地形に近いような印象を受けました。往時はどのような使われ方をした曲輪だったんでしょうか。

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↑【主郭西の帯郭】
帯郭は遊歩道として整備されていますが、滑りやすくてちょっと歩きづらかったです。
扱いが微妙なのが、南西部に接続する枡形状の空間。まあ、単なる腰郭ってだけなのかも知れませんけど、帯郭が湿地に設けられた船溜りに繋がっていたなんて仮定をしてみれば、その方面に対する虎口として機能していたとも考えられる訳で・・・

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↑【主郭と二郭間の堀】
現在は城内に上がる主要道として使用されている堀跡。

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↑【二郭】
歩き易かった主郭と違い、二郭はちょっとした薮状態でした。
土塁は西側にはある程度明瞭に、南側は堀とあわせて何となく残されているといった感じでしょうか。写真にしてしまうと、あまり判別できないですね。

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↑【二郭西の横堀】
案内の通りで単なる腰郭かも知れませんけど、見た目から横堀っぽい印象をうけたので、このブログでは横堀とさせていただきました。
東と南は宅地化で消滅してしまっていますけど、この西側に残る横堀は北にある主郭と二郭間の堀に接続していて、二郭はぐるっと周囲を堀で囲まれていたんじゃないかと。

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↑土塁や堀は南に続いていく感じでしたが、そちらは住宅の脇に入っていってしまうかも知れなかったので、先に進むのは止めておきました。
横堀内は竹びっしりで薄暗かったですしね。

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↑【妙見社】
外郭に残る妙見社。相馬氏ということで、千葉氏関連ではお馴染みの神社を高井城でも確認することができました。

外郭は宅地となっていて、そんなに遺構は残されていないみたいです。現地案内には推定大手などが記載されていますが、これは古地図か何かが残っていて、そこから推察されたものなのかな?

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↑【西の半島状台地】
こちらにも何かしらの施設が設けられていた可能性がありますよね。ただ、私有地ということで、こちらは立ち入り禁止の看板が設置されていました。
皆、考えることは同じというか、確認のために台地上を訪問する人が多かったのかも知れませんね。

2013年11月 3日 (日)

11/2 訪城報告

季節は11月。そろそろ頃合というか、城廻りを行うのに丁度良い環境が整ってきました。

そんな訳で久々に訪城報告です。
11/2(土)は茨城県南部を訪問して、高井城→牛久城→東林寺城→龍ヶ崎市歴史民族資料館→龍ヶ崎城(&白幡城)→登城山城→大日山城→江戸崎城と確認してきました。

牛久城は2度目の訪問ですね。ブログにも記事をアップ済みですが、動画用にと思って東林寺城のついでに立ち寄って、ビデオ撮影してきました。ということで、のアップされる動画は牛久城が有力かな?

龍ヶ崎城と江戸崎城は、戦国末期はともに江戸崎土岐氏が管理する平山城でしたが、現在は高校の敷地だったりなんだりで、旧状は殆ど確認することができません。
龍ヶ崎城は資料館に行けば何かあるかと思ったんですけど、屋代城に関する展示はあっても、龍ヶ崎城に関する話題は殆ど無し。屋代城、今回の訪問予定には入ってないや・・・(ヽ´ω`)
申請をして、昭和34年だったかの、周辺の空撮写真をデジカメに収めさせていただきました。これはブログで使用させていただきます。

厳しい山城とかを訪問したわけではないんですけど、今回は結構疲れました。久々というのもあるんでしょうけど、東林寺城とか、かなり城域が広いですしね。
まあ、体は徐々に慣らしていけばいいかな。

2013年11月 2日 (土)

多気山城 【下野】

場所:栃木県宇都宮市田下町(場所)
訪問:2012年5月
形態:山城
遺構:曲輪・各種空堀・土塁など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.5点)

見所:山全体に張り巡らされた広大な縄張り

多気山城と書いて"たげさんじょう"と呼びます。
一説には宇都宮氏の祖である藤原円心が築いたとも言われているみたいですが、詳細に関しては不明みたいですね。

着実に北関東に勢力を広げてくる後北条氏に対し、宇都宮氏は常陸の佐竹氏や下野の那須氏、下総の結城氏などと共闘して対抗していきますが、後北条氏の攻勢がますます増大する中で、宇都宮氏は平城である宇都宮城から、山城である多気山城に本拠を移転して守りを固めました。

後北条氏が滅亡して宇都宮仕置が終了すると、宇都宮氏は本拠を再び宇都宮城に戻しました。その後の多気山城の処遇に関しては、よく判りません。

多毛山という山全体に曲輪や堀を配置した、かなり広大な山城です。周囲を巡る林道を歩いてみると、なおのことその大きさを実感できると思います。
ハイキングコースも設置されていますし、周辺の方々は気軽にハイキングを楽しんでいるみたいですね。登るのは意外と大変ではないのですが、全体を見てまわろうとすると結構な時間を要するので、時間配分は慎重に。



周辺は大谷石と呼ばれる石材の産地だそうで、古くから採石が行われてきたそうです。大谷石は重量が軽いのが特徴なので、そのことが逆に仇となって、3.11の際には多くの石塀が崩れて大変だったと仰ってました。
採掘方法にも特徴があるらしく、大谷資料館にいけば地下採掘場が公開されているのだとか。面白そうなので、そのうちに訪問してみたいですね。間違えて山本園大谷グランドセンターを訪問したりしないようにしなければ。

※動画は2012年5月に撮影・編集してアップロードしたものです。
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↑戦国後期、後北条氏の圧力が強まるなかで、宇都宮氏は居城を平城の宇都宮城から、山城の多気山城へと移しました。

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↑【東からの遠視】
多気山城は宇都宮氏の本拠として使用する際に改修されたのか、非常に広大な縄張りをもつ城跡です。山麓には大きな横堀を配し、ほぼ全山に曲輪跡などの遺構が残されています。

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↑【山麓の長大な横堀】
駐車場に車を停めて歩いてくると、まず目に付くのがこの山麓に設けられた横堀です。タイミングが悪く、整備作業の最中だったのか、伐採された木材で堀が埋まっていて、いまいち良い写真が残されていない・・・

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↑【南東方面の尾根に設けられた曲輪群】
ハイキングコースに沿いに山頂を目指すと確認できる、南東尾根に設けられた曲輪群。山城の割には大きな面積の曲輪が多く、ここに集落が形成されていたといってもおかしくないのかなと、思わず思ってしまいました。

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↑【整備最中の主郭周辺】
主郭の周辺は樹木が綺麗に伐採され、整備が進められている真っ最中でした。この整備事業は2011年から開始されたものらいしいのですが、今年(2013年)もさらに進行しているのかも知れませんね。

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↑【恐らく虎口跡だと思われる箇所】
綺麗に伐採された台地と、上空からの強烈な太陽光が反射して、微妙な凹凸などの確認がしづらかったです。
ここは、恐らく両脇を土塁に挟まれた虎口だったであろうと感じた場所。普通に写真で見てもさっぱり判らないのですが、線画を注入すると、何となく理解してもらえるかな?

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↑【主郭からの風景】
現況を見ただけだと、ちょっと整備しすぎな感が否めない状況ですが、新木が成長してくると、かなりイメージが変わってくるんでしょうかね。

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↑【主郭】
仕切り土塁や帯曲輪まで配置されている、広大な主郭。御殿跡とも呼ばれているみたいですが、確かになんて納得してしまいます。
比較的薮に覆われいる場所が多いので、ハイキング目当ての人達は、あまりこちらまで立ち入らないみたいですね。

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↑【北尾根】
主郭の北側に続く尾根にも複数の曲輪が残されているみたいなのですが、なにぶん道以外は猛烈な薮なので、構造などは殆ど確認できませんでした。
ところどころに土塁も散見できるし、曲輪も結構残されていそうなんだけど。
このルートをつかって林道まで降りてみましたが、急な箇所が多くて搦め手といった雰囲気でした。林道間近では虎口というか旧道っぽい場所も残されていたんですけど、崩落してる感じだったので、確認は途中で断念。

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↑【主郭の南虎口】
大手口だったのではないかと思われる、主郭の南虎口。
主郭直下の帯曲輪を歩いてくると、枡形状の空間と、主郭に通じる坂虎口が今も残されています。この坂虎口に設置されていたのが櫓門だったりなんかすると、非常に格好いいんですけどね。
整備されたのが戦国も後期ですし、これだけの規模を誇る山城です。西方城もなかなか技巧的な城跡でしたし、これくらいの施設がここに設けられていたとしても、おかしくない様な気がしてしまいます。

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↑【南東尾根と南尾根に挟まれた谷戸】
整備に使用する重機を山頂付近に上げるルートとして、この谷戸が使用されていました。林道からここまで、重機が作成した道がくっきり。初訪問だったのでよく存じ上げないんですけど、このルートには遺構はそんなに残されていなかったのだろうかと、ちょっと心配になるレベルの破壊度でしたが・・・。

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↑多気山城の南側近辺、林道沿いで見かけた削平地っぽい場所と石積み。


このときはいろいろタイムロスをしてしまって、主郭南側の尾根や、南西側などを確認できていません。その後の整備状況も気になるし、今シーズンも訪問してみるつもりです。
続けて報告できると良いですね。

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