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2013年11月20日 (水)

江戸崎城 【常陸】

場所:茨城県稲敷市江戸崎(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:点在する台地・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:神社などの駐車場を拝借
満足:★★★(3.0点)

見所:僅かに残る江戸崎土岐氏の居城

江戸崎城は、土岐原氏が室町時代の初期に築城したものと考えられているみたいです。その後、土岐原景秀によって江戸崎城は修築され、以降は景成-治頼(土岐頼芸の弟)-治英-治綱の五代に渡って居城として使用されていました。

土岐原氏は美濃の名家・土岐氏の一族で、世継ぎに恵まれなかった景成の死後、美濃総領家から養子として治頼を迎え、家名を存続させました。
景成の死から治頼が家督を継ぐまでの間、土岐原氏はお家騒動が発生してしまい、その隙に乗じた小田氏によって、一時は江戸崎城を奪われてしまっていたのだとか。

治頼を当主に迎えた土岐原氏は江戸崎城を奪還し、次第に周囲に勢力を広げていくようになります。ただ、逆に美濃総領家は長井氏(斉藤道三)の台頭によって急速に力を失っていき、遂には没落。美濃を追放された兄・頼芸は、一時は治頼を頼って江戸崎に身を寄せていて、その際に土岐宗家の座を治頼に譲ったとされています。
以降、土岐原氏は土岐氏を名乗りさらに勢力を拡大していきますが、増大してくる後北条氏の圧力の前に、次第にその傘下に組み込まれるようになっていきます。

1590年の小田原征伐では、後北条氏方の勢力だったために豊臣軍に攻め込まれ、龍ヶ崎城ともども攻め落とされてしまいました。
江戸崎土岐氏の没落後、伊達政宗によって会津を追われた芦名義広(盛重)が秀吉から4万石を与えられて竜ヶ崎に入り、次いで江戸崎城に移ってきました。
その義広も1602年、兄の佐竹義宣が秋田に転封に伴って移動したため、江戸崎城は廃城となり、現在に至ります。


江戸崎土岐氏の居城だった江戸崎城ですが、台地などある程度の面影は残されているものの、城址自体はその後の改変で大きく様変わりしてしまい、遺構と呼べるようなものは殆ど確認することができません。
台地を大きく削られてしまった江戸崎小学校付近には流石に入りづらいですけど、その他は邪魔にならない程度あれば歩き回れるので、周囲を散策して楽しみました。

たまたま鹿島神社でお話を伺える機会に恵まれたので、神社北側に残る土塁など城址に関していろいろ質問してみたんですけど、この土塁に関しては特に遺構だという話は聞いたことがないらしく・・・。
小学校のある場所は云々なども教えてくれましたが、このあたりのことは余湖くんのHPや「図説・茨城の城郭」に記述されているので、そちらで確認してみてください。かなり参考になると思います。


五百羅漢、藪に覆われていて、ちょっと可哀そうな状態になっていました。

小雨が多少ぱらつくこともありましたが、濡れてしまうような雨だけは何とか回避することができたのは幸いでしたね。相変わらず雨で大被害を被ったのは、あの日の逆井城の1回のみ。ある意味恵まれているんでしょうけどあれを教訓にして、油断しないように気をつけなきゃ。

※動画はまだ作成していません
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3 Photo
↑古城図などを参考に概略図を作成してみました。遺構は殆ど残されていないみたいですが、ある程度の台地が残されているので、城址が存在した面影は比較的に感じられると思います。

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↑【遠視】
主要部が存在したと思われる台地を、西側から撮影してみました。古城図に描かれている帯郭もしっかり残されていますね。

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↑【主要部(主郭および二郭)】
主郭には江戸崎高校が建てられていたみたいですが、高校は現在移転され、現況は耕作地などとして使用されています。
一段低い場所にある二郭には案内が設置してあったので簡単にチェック。

台地上は様々な用途に使用されていたみたいなので、かなり改変されてしまっているんでしょうね。北端で土塁の痕跡が確認できるみたいなのですが、ちょっと畑を通り抜ける勇気がでなかった・・・

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↑【鹿島神社】
鹿島神社の脇に残る大きな土塁。現在管理されている方がたまたまいらっしゃったのでこの土塁に関しても質問してみたんですけど、この土塁が遺構だという話はとくに聞いていないのだとか。
そうなのかー。かなり立派な土塁なので、遺構だとかなり嬉しいんですけどね^^;

現江戸崎城学校の辺りは台地がかなり削られてしまっているみたいなので、この鹿島神社の辺りも同様なのかも知れませんね。
現在土塁に見えるこの土壇は、削り残された台地の名残だったりして。

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↑鹿島神社と瑞祥院の間を通る道。ちょうど、鹿島神社の土壇の裏側に当たります。
ここは堀跡みたいなんですよね。瑞祥院入口にあるひょうたん池は、水堀だった頃の名残なんだとか。

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↑【瑞祥院】
この辺りも城域に含まれるみたいです。古城絵図に描かれる小山みたいなのが、瑞祥院裏の小山のことなんだろうか。
ちなみにこの小山、羅漢山とも呼ばれていて五百羅漢という史跡が山上に残されています。せっかくなので、ちょっと確認してみることに。

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↑【遺構?】
五百羅漢まで到着する途中に、土橋のような場所と竪堀っぽいものが残されていました。
それっぽく見えるだけなんだろうけど、ネタとしては十分に使えるので撮影。

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↑【五百羅漢】
なかなか由緒ある史跡みたいに思うのですが、藪に埋もれているせいか荒廃感がなんともいえないですね。
現在残されている羅漢像は493基らしいのですが、そんなに配置されているようには思えないです。

城址としては、物見に適した場所ですね。景観は悪くないです。

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↑旧道っぽい道も残されていましたが、薄暗くて何か物の怪でも現れそうな雰囲気。石段で厳かですが、しばらく使用されていない感じですね。3.11の影響かも。
そういえば登っていく途中、黒猫が自分を出迎えてくれました。フラッシュで光る目が、またなんとも・・・

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コメント

おはようございます

江戸崎城は、行ったつもりになっていました

独立した、丘全体を城郭化と云う感じですかね?

神社によってですが、歴史的な背景もありますが詳しく把握していない神主さんもいますからね

ちょっと、忘れてしまいましたが桜川市の城だったか?神社裏手の城について神主が案内して頂き遺構の改変なども詳しく説明してもらいました。

>ヤマシロさん

おはようございます。

台地東を流れる小野川も、昭和中頃の航空写真で見ると大きな流域だったことが判りますからね。湿地に周囲を囲まれた突き出すような半島状台地を城砦化といった感じだったのでしょう。
まあ、このあたりの城址は殆どがそのパターンなように思いますけれど。

地元ならではの情報を聞けるのは本当にあり難いです。
まあでも、これも運次第ですよね。予習が足りないと、あとで"あれも確認しておけばよかった"なんて後悔することしきり。

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