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2013年12月 1日 (日)

浄福寺城 【武蔵】 

場所:東京都八王子市下恩方町(場所)

訪問:201311月ほか

形態:山城

遺構:曲輪・堀切・横堀・竪堀・畝状竪堀・土塁

指定:八王子市指定史跡

駐車:案内板の前に23台分

満足:★★★★★★★★(8.0)

見所:関東では珍しい畝状竪堀は勿論、各種遺構が良好に残されていて見応え有

 

浄福寺城は別名・案下城、千手山城、新城など様々な呼び名が存在していますが、城暦に関しては不明な部分が多いみたいですね。1384年に大石信重によって築城されたとの伝承があるみたいですが、戦国末期には八王子城の搦め手地区を守備する、有力な支城として機能していたものと思われます。

また、そばを通る陣馬街道は案下道とも呼ばれ、甲州裏街道という名称もありました。とういことで、街道を監視する役割も担っていたことでしょう。

 

城主とされる大石氏は、もとは管領上杉氏の家中でも武蔵守護代を務めていた有力領主でしたが、後北条氏の関東進出が勢いを増す中で、河越夜戦における管領上杉家の大敗をきっかけに後北条氏の傘下に入り、北条氏康の次男・氏照を養子として迎えて家名を存続させる道を選びました。

 

この時代、大石氏の居城がどこだったのかは定かでありません。高月城もしくは滝山城といったところが有力みたいですが、浄福寺城の残る山の南尾根に建つ薬師堂は、1525年に大石氏が建立したなんて話も残されているくらいですから、もしかしたら居城は浄福寺城だったなんて可能性も!?

養子に入った氏照は当初は由井源三と名乗り、由井城に拠ったとされています。この由井城こそが浄福寺城だとする説もあるみたですが、実際のところはどうだったんでしょうね。

 

大石定久は家督を譲った後、戸倉城に隠居しました。定久の弟、定基は氏照の重臣として仕え、その定基に養子に入った照基は信濃守を名乗って八王子城の松木曲輪(二郭)の守備を担当し、1590年の八王子城攻防戦で落命しています。

 

 

戦国末期の浄福寺城の城主(城代)は誰が務めていたのか、その辺りは定かではありませんが、八王子城攻防戦で八王子城落城の要因をつくったのは、搦め手から攻めた直江勢を中心とする遊撃隊だったと伝えられていますね。

氏照など主力4,000人が小田原城に篭る中、八王子城の守備あたっていたのは3,000人ということなので、守備隊は広大な八王子城を固めるのに手一杯で、浄福寺城には殆ど守備兵を配置できていなかったんじゃないでしょうか。

 

細尾根が多いので居住性のありそうな曲輪は多くないのですが、その細尾根が何本もの支尾根に分岐しているので、城域は支城とは思えないほど広大です。尾根伝いに進入してくる敵には堅固な防御線が構築されているのですが、奇襲などで分断されてしまったら元も子もないので、守備を固めるのにはそれなりの兵力が必要だったかも知れませんね。

 

 

※動画は201311月に撮影・編集したものです。

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↑【浄福寺城の周辺】
地図で見ると、浄福寺城が八王子城の搦め手を守備する、重要な支城であったことが一目瞭然ですね。
北側は土取で消滅してしまいましたが、この部分にも遺構が残されていたりしていたんでしょうかね?消滅部分は過去の航空写真をもとに記入したものです。

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↑【浄福寺城の縄張り図】
案内が新しく取り替えられていて、縄張り図は「東京都の中世城郭」のものが使用されていました。これは有難い処置ですね。

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↑【城址への訪問口】
訪問口はいくつかありますが、浄福寺裏の墓地から南尾根先端に残る薬師堂へと向かい、その裏から尾根伝いに歩くのが一番判り易いです。
ちなみに、浄福寺城の案内は陣馬街道沿いに設置されているものだけなので、城址への誘導および説明書きはありません。こういった場所に不慣れな方は、多少の注意が必要かも。

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↑【浄福寺城の鳥瞰図①:南尾根および主郭付近】
動画も作り直すつもりだったので、頭にあるイメージを鳥瞰図にして表現してみました。細かい相違は気にしないで下さいね。

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↑【支尾根1:南尾根】
細尾根が続きますが、主郭に近づくにつれ、勾配を活かした防御構造と思える遺構が散見されるようになります。

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↑【主郭】
主郭にはまとまった広さが用意されていて、中央にはちょっとした土壇が。この土壇に何か象徴的な建物が建てられていたりしたとすれば、かなり嬉しいんですけどね。
南側の虎口付近には窪みがあって、これも何となく井戸を想像したくなります。

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↑【北東尾根付け根の畝状竪堀】
見所のひとつである北東尾根の付け根付近に残される畝状竪堀。
浄福寺城の北側部分は土取で崩されてしまっているので、現在は実質の北端ということになりますね。昔の航空写真を見ると、主尾根・北東尾根ともに消滅部分が確認できます。

主尾根と北東尾根の接続点であるこの場所は、北方面からの攻撃に対しての、守備の要だったんじゃないかと思いますね。画像だとどうしても説明しきれないなと思ったので、思い切って頭に浮かんだイメージをイラスト化してみました。

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↑【東尾根の虎口のような場所】
東尾根に見られる大規模な横堀や切通し。時期が悪く、藪で映像や写真だとなかなか確認しづらいので、ここも簡単にイラストを作成してみたんですけど、こうしてみて見ると、ここが大手とも呼びたくなるような立派な虎口だった気がしてきませんか?

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↑相変わらず木々に埋もれて把握しづらいと思いますが、虎口をでて少し行ったところから、この場所を撮影した写真です。

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↑上記写真の部分、脳内補正もあわせると、こんなイメージになっちゃいました(笑)。
まあ何にしても、これが虎口遺構だったりすると、中世城郭でこれだけの遺構が残されている場所も珍しいのでは?


浄福寺城でのお気に入り場所はざっとこんな感じです。
長くなりすぎるので、これ以外の場所はおまけってことで、ちょっとだけ別ページにまとめたいと思います。
浄福寺城のおまけページ

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