国府台合戦 【下総】
場所:千葉県市川市国府台~千葉県松戸市松戸あたりまで
訪問:2014年4月
形態:古戦場
満足:★★★(3.0点)
今年になって殆ど車を動かしていなかったんですよね。で、たまにはエンジンかけなきゃと思ってキーを久々にまわすもエンジンがかからない。電力がなくなってバッテリーが上がってしまっていました・・・。
セルもまわらなかったんで、本当に電気が底をついってしまっていたという状態なんでしょうね。こんな醜態演じたのは初めてです。
流石にこれは拙いよな。
ということで、当面のバッテリー充電を兼ねてちょっとドライブに行ってきました。行き先は国府台。
国府台というと古戦場ということで知られています。なので、心霊系でもたまに紹介されたりしますね。近代では病院(しかもなんと精神科病棟らしい!)などが建てられていたということもあるので、そういうもの好きな方にも堪らない場所なのかも。
古戦場ということで、まずはその合戦の内容を振り返ってみることにしましょう。国府台合戦と呼ばれる合戦は大きく分けて2度ありました。
・第一次国府台合戦 (1538年:後北条氏vs小弓公方足利氏)
・第二次国府台合戦 (1563年および1564年:後北条氏vs里見氏)
勝利したのはいずれも後北条氏。古い出来事なので合戦の詳細は不明ということが多いですが、それぞれの合戦の内容をわかる範囲で簡単に確認していきましょうか。
■第一次国府台合戦(1538年)
※境界線は現在のものなので、往時の境界線はこれとは異なります。
古河公方の内訌によって当主・足利利政の次男・足利義明が真里谷武田氏によって担ぎ出され、小弓城において「小弓公方」を名乗り、古河公方と対立していきます。
勢いにのった小弓公方・足利義明は1538年、安房・上総・下総の諸軍勢(安房里見氏・真里谷武田氏・庁南武田氏・上総土岐氏・上総酒井氏など)を率いて国府台に出陣。国府台には享徳の乱の際に太田道灌が陣城を築いたことがあったので、その跡地を活用して小弓公方も陣城の構築を行いました。
小弓公方軍は国府台~松戸まで、太日川に沿うように連なる台地上に陣取ります。足利義明は松戸城、もしくは相模台のあたりに陣を構えました。
程なくして後北条氏と合戦になり、足利義明が戦死。小弓公方軍は潰走状態となり、小弓公方はこの合戦をもって滅亡してしまいました。
なお、小弓公方の登場により領土を圧迫されていた下総(馬加)千葉氏ですが、小弓公方の滅亡によって国府台のみならず小弓などの旧領を回復させることに成功しました。
第一次国府台合戦はざっとこんな感じですね。続いて第二次国府台合戦にうつります。
■第二次国府台合戦(1563年および1564年)
第一次国府台合戦の勝利により、後北条氏は下総のみならず上総にまで勢力を伸ばしていきました。上総酒井氏や上総武田氏も後北条氏の影響下に組み込まれていき、1554年には里見氏の本拠である久留里城を攻撃するほどまでに勢力を広げていきます。
この時の里見氏は大変なピンチで、後北条氏の援助の下に峰上城では吉原玄蕃助が里見氏に対してゲリラ活動を行っていましたし、小糸(秋元)城の秋元氏や造海(百首)城の内房正木氏も後北条方に降伏。遂には里見氏の上総におけるもう一方の重要な拠点であった佐貫城が陥落するなど、まさに風前の灯といった状態にまで追い込まれてしまっていました。
しかし、1560年に越後の上杉謙信が関東に出兵すると流れが一変。越後勢への対応で手一杯になった後北条氏をよそ目に、里見氏は上総のみならず下総にまで急速に影響力を拡大させていき、ついには下総千葉氏に対して次々と攻勢をかけられるまでに勢力を強めていきました。
そんななかの1562年11月、謙信が越中攻めにて関東を空けているその間隙を突いて、武田・後北条連合軍が武蔵・松山城に攻撃を仕掛けます。この武州松山城は上杉氏の武蔵における重要な要衝で、ここを奪われるということは武蔵における上杉氏の影響が大きく後退してしまうということを意味しており、謙信としては何としても死守しなければならない重要な拠点でした。
ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、ここから第二次国府台合戦の件に突入します。
雪で思うように動きが取れない謙信は後北条氏への牽制として、里見氏に後北条氏領への攻撃を要請します。要請を受理した里見氏は軍勢を国府台まで出陣、一方の後北条氏側は防戦のために江戸城とその支城の葛西城から富永直勝と遠山綱景が出陣しますが、1563年1月に両軍は第一次国府台合戦同様の国府台~松戸まで太日川に沿うように連なる台地付近にて激突し、合戦をおこないました。この1563年の合戦は里見氏が後北条勢を見事に打ち破り、勝利を飾りました。
(補足:出陣と記しましたが、里見氏と後北条氏は1561年には既に葛西城の争奪戦を繰り広げていたみたいなので、当該台地は1561年には里見氏の前線基地として使用されていた可能性も考えられます)
合戦では後北条側の富永直勝と遠山綱景、舎人恒忠などが討ち死に。このときの合戦は現在の松戸市矢切近辺が特に激戦となったみたいで、当地には様々な伝承が残されているみたいです。
謙信は急いで松山城に向かいますが、松山城の守勢は武田・後北条連合軍の攻撃の前に抗しきれず、1563年2月に開城・降伏してしまいました。なお、この年の謙信はこの後に忍城・騎西城・唐沢山城・祇園城・結城城など後北条氏寄りの姿勢を見せていた諸勢力を次々と攻略して、関東での地盤固めに奔走します。
武蔵では岩槻城の太田資正が後北条氏に反抗的な姿勢を見せ続ける中、1564年1月(もしくは2月)に国府台付近の台地で再び後北条軍と里見軍が激戦を繰り広げました。
この合戦では後北条勢は正面渡河で攻撃を仕掛けるのではなく、市川南部や舟橋など台地の南東近辺をまず制圧し、その後に台地上に陣取る里見勢に攻撃を仕掛けていったみたいです。攻勢には恐らく北松戸の小金城を拠点とする高城氏も加わっていたことでしょう。
この戦いで重臣・正木信茂などが戦死するなど里見氏は大敗を喫し、戦線を上総南部まで後退せざるを得ない状況に追い込まれました。引き続き後北条氏の圧力が強まる中、里見氏は佐貫城そばで発生した三船山合戦に勝利して意地は見せるもののそれは束の間の勝利でしかなく、これ以降の里見氏はついに以前の勢いを取り戻すことが出来ないまま、戦国時代を終えていくことになります。
ちょっと長くなりましたが、ここまでが国府台合戦のだいたいのあらましですね。
解説の中でも触れていますが、合戦の舞台になったのは国府台~松戸あたりまでと幅広いです。
3Dではないものの、こうしてみると地形の凹凸が何となく掴み取れますよね。グーグルアース、本当に偉大です。
ちなみに往時の太日川流域はこんな感じだったみたいですよ。実際、松戸~矢切くらいまでは湿原が広がっていたみたいですが、場所によっては本当にこんな感じのところもあったんでしょうね。
特に目立った遺構が残されているわけではありませんが、めぼしい場所をいくつか訪問してみました。最後に軽く紹介していきたいと思います。
■国府台城址 (場所)
里見公園の案内図。このうち、それっぽい雰囲気が残されているのは公園左上の敷地です。
病院として使用されていたのは公園の南側ということなので、左上側は多少は昔の面影が残されていると考えていいのかな?
園内に残された土塁。実はこの土塁は前方後円墳の名残なんだそうで、今は露出した石棺が配置されています。周囲には他にいくつか同様の土塁が残されているけど、それらも古墳の名残なんでしょうね。
国府台城と呼ばれる陣城も、この古墳を土塁代わりにうまく活用して構築されていたのでしょう。
そのうち一箇所には「市川市最高標高地点」の案内が。
「夜泣き石」と「里見軍将士亡霊の碑」。
ちなみに戦死した正木信茂の妻・種姫は出家して尼になり、隠遁生活をして余生を過ごしました。そしてこの種姫こそが南総里見八犬伝に登場する伏姫のモデルになった人物だとも言われているみたいです。
※南総里見八犬伝に興味のある方はこちらの記事もどうぞ(伏姫籠穴・八房生誕の地)
■矢切 (場所)
1563年の戦いで大激戦が繰り広げられたという矢切。
ちなみにこの矢切という地名の由来は国府台合戦にあるみたいで、この戦乱に大変苦しんだ当地の住人が弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれたと伝承されているんだとか。でも矢喰村とかなんか嫌だなぁ。
余談ですがこの切通し、えらく交通量が多かったです。ちょっとだけ西蓮寺も見てみようと思ったけど、そういった訳でこれは断念。
■相模台 (場所)
松戸市役所や駅周辺の市街地などに突き出すような形でそびえる高台が相模台です。
台地上は教育施設や公園などとして使用されていて遺構などは全く残されていませんが、聖徳大学のキャンパス内に経世塚という供養塚が残されていました。
【おまけ】松戸中央公園の正門は旧陸軍工兵学校歩哨哨舎時代のレンガ建造物です。
自分は訪問しませんでしたが松戸城址(戸定が丘歴史公園)や国分寺など、国府台合戦の面影は他にもいくつか点在しています。興味ある方はぜひ。
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コメント
この記事へのコメントは終了しました。
松戸の住民なので、「第一次国府台合戦」(「相模台の合戦」とも)に興味を持っているものです。市川市の千野原氏が国府台合戦の研究者として有名ですが、このBlogで書かれている内容は、千野原氏の書かれているものに大分似ているようです。
しかし、松戸の郷土史家の中には、第一次国府台合戦は、千野原氏が主張している「(上・中・下)矢切台」ではなく、松戸駅近くの「相模台」「松戸台」近辺とする方がいるようです。私も、松戸の郷土史家の説に賛成する立場のものですが、最近、葛飾区の一町史に、「国府台合戦」を葛飾区の立石辺りで行われたとする説があることを知りました。「通説」とは全く異なるものですが、青砥の葛西城を巡っては後北条方と上杉・里見方とのせめぎ合いがあったようなので、興味深い説ではあると思います。現在、葛飾区の郷土史研究会にこの説についての問い合わせをしていますが、未だ返事を得ていません。
投稿: 松戸@住民 | 2014年8月 7日 (木) 10時36分
>松戸@住民さん
コメントいただき有難うございました。非常に面白い情報で、とても感謝です。
第一次国府台合戦となると、足利義明の目標がどこであったかによって見方が変わってきそうですね。どこで拝見した情報だったかは定かではないのですが、なるほどと思ったのは小弓公方軍の目的地は古河公方の拠点である古河城だったとする説。後北条氏との合戦はあくまでもその一通過点に過ぎなかったとすると、太日川を渡った先にある立石近辺よりは、合戦の中心は松戸~国府台周辺であった考えるほうがしっくりくるように思います。まあ、いろいろな可能性を考えていってしまうとキリがないですが(笑)。
立石説の根拠が確認できると面白いですね。江戸周辺は河川も含めて時代で随分と変化していますから、いろいろと興味深い話がでてきたりするのかも!?
投稿: hakucyanKK | 2014年8月 7日 (木) 19時47分
>松戸@住民さん
あと補足です。
矢切周辺での合戦模様を伝える内容は里見を中心としたものが多いので、自分も矢切周辺が激戦となったのは第二次国府台合戦のほうであったと思いますね。 付近で確認できた「矢喰村庚申塚の由来」にも後北条氏里見氏の国府台合戦と記されてありましたし。
投稿: hakucyanKK | 2014年8月 7日 (木) 20時09分