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2014年5月

2014年5月10日 (土)

菅生城 【下総】

場所:茨城県常総市菅生町(場所) 

訪問:20145月ほか 

形態:平山城 

遺構:不明 

指定:常総市指定文化財 史跡 

駐車:道の脇にでも 

満足:(1.0) 

見所:案内から往時を偲ぶ 

 

築城時期など不明点は多いみたいですが、菅生越前守胤貞が在城していたことを記す文献が確認されているみたいです。1560年、弓田城の染谷氏と合戦になり、横瀬能登守永氏に攻められて菅生城は落城しました。

1576年、多賀谷氏に侵攻によって染谷氏が降伏。1577年にはこの菅生城も多賀谷氏の侵攻を受けたようです。1589年には筒戸城まで多賀谷氏が押し寄せていることから、それ以前には多賀谷氏によって制圧されていたものと思われます。

 

目印と呼べるものが少ないので、ちょっと場所がわかりづらい城址だと思いますね。googleのストリートビューを見ていたら、新しく新設された道路沿いに案内板の存在を確認できたので、守谷城訪問のついでに立ち寄ってきました。相馬氏関連(おそらく)でもありますしね。

この新設された道路のおかげで、以前よりは城山に近づきやすくなったと思います。ただ、城山の状態などは以前のままなので、訪問するまでの意味があるかは微妙ですが。

 

平成18年に発掘調査がおこなわれ、畝堀などが検出されました。ただ、現在は埋め戻されているので、畝堀を確認することはできません。

 

※動画の作成予定はありません

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↑【菅生城の概略図】

湿地に囲まれた台地で、城館を構えるには最適の場所ですね。


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↑【周囲の状況】

西側から見る城山。だだっ広い耕作地といった趣なので、場所がちょっと特定しづらいかも。


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↑【城山】

城山は藪が凄まじいので、とても入ろうという気持ちになりません。

この城山も発掘調査は行われたんでしょうか?主要部だったと思うので、何かしらの遺構が残されていそうな気がするのですが。

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↑【堀の痕跡?】

 城山の西側。農道のようなスロープが残されていますが、こういったものも堀の痕跡なんでしょうね。

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↑【Ⅱ郭】

どのような役割を担っていたのか、いまいち想像できないⅡ郭。

城山より藪の状態はマシでしたが、それでも何がなんだか・・・

2014年5月 8日 (木)

筒戸城 【下総】

場所:茨城県つくばみらい市筒戸(場所) 

訪問:20145月 

形態:平山城 

遺構:堀など 

指定:なし 

駐車:禅福寺の駐車場を拝借しました 

満足:★★(2.0) 

見所:案内から往時を偲ぶ 

 

筒戸城は1559年に相馬氏の一族である筒戸氏によって築城されましたが、1589年に多賀谷氏に攻められて城は落城し、その後に廃城になったと伝えられているみたいです。

 

牛久城を拠点としていた岡見氏でもそうでしたが、この時期の多賀谷氏の攻勢は凄まじいものがあったんですね。相馬氏の居城である守谷城と筒戸城は直線で1kmほどしか離れていないので、相馬氏もかなり苦戦していたということなんでしょうか。

 

低湿地に囲まれた平山城といった面影はよく残されているのですが、遺構は正直殆どわかりませんでした。まあ、そんなに時間をかけて歩き回った訳ではないのであれですが、そこまでしなくてもいいかなーなんて。

全体的に住宅が点在する普通の耕作地なんで、ウロウロ歩き回るのも何か気が引けるんですよね。

 

案内板が設置されているのは本当に有難いですね。旧状がなんとなくでも把握できたので、とても助かりました。

 

※動画の作成予定はありません

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↑【筒戸城の概略図】

現地案内を元に簡単に作成してみました。


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↑【台地下(西南側)から見た筒戸城】

地形は平山城だった面影をよく残しているように思います。


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↑【本丸北の堀跡】

現在は通路として使用されている本丸北の堀。城跡としての雰囲気を一番感じれる場所なんじゃないかと。


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↑【土塁跡?】

遺構かは不明ですが、その堀の脇には土塁が残されていました。


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↑【禅福寺】

禅福寺さんを目印に向かえばたぶん到着できると思います。

 

すぐ東隣の台地には妙見八幡社の存在が確認できます。これも城址だったことを現す面影のひとつなのかもしれませんね。

2014年5月 5日 (月)

守谷城 【下総】

場所: 茨城県守谷市本町(場所)

訪問:201111月ほか

形態:平山城

遺構:曲輪・馬出・枡形・空堀・土塁・土橋など

指定:市指定史跡

駐車:

満足:★★★★★(5.5)

見所:堀・土塁もかなり良いのですが、主郭・二郭に残る枡形が一番の見所だと思います

201211月の記事に若干の修正を加えました

【概要】 ※Wikipediaから転載
 
平将門の創建と言い伝えられている。当時は霞ヶ浦に連なる大湖沼地帯に面し、本丸のあった出島の部分のみの天然の要塞であった。源経基が3万の軍で将門城を攻め落とした。
その後、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常が相馬一郡を領有し拡張され5連郭からなる相馬治胤の城(相馬城)となっていたが、豊臣秀吉の小田原征伐での後北条氏没落により、浅野長政軍が松戸小金城を落した次に、天正18年(1590年)5月相馬城を攻め落とした。徳川家康が関東に移封されると文禄2年(1593年)土岐定政が守谷領を受取り入城し、6連郭の城とし城下町や寺社を整備する。 
土岐氏・酒井氏が去った後、守谷城は空城となったが土岐氏の整備した近代的城下町が残り脇往還路、宿場として繁栄し、今日に至る。
 
相馬氏というと奥州が有名かもしれませんが、出自は千葉氏なんですよね。なので、衰退したとはいえ下総相馬氏は守谷城を本拠に存続していました。
現在残されているのは中心部のみですが、本来は外郭を備えた大きなお城だったみたいですね。各郭の繋がりなど、往時の状態がわかりづらい部分もありますが、宅地化が迫る中でも良く遺構が残されている城跡だと思いますよ。

 

※動画は20145月に撮影・編集したものです 

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↑【古城絵図と1960年代の守谷市の状況】

この頃はまだ宅地化も進んでいないので、まだまだ古城の面影が多く残っていそうな感じですね。

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↑【守谷城の鳥瞰図】

現地の鳥瞰図にいろいろと注釈を加えてみました。

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↑現地案内図より抜粋した城跡概要図。

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↑案内には調査された土塁に関しての説明も用意されていました。

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↑その案内板の辺りから見た守谷城の中心部。この中心部と堀以外は宅地化によって消滅してしまっていますが、中心部は公園化されているので、いつでも見学が可能です。

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↑なんて思っていたら、いきなりまさかの通行止め。ここは御馬家台と平台の間にある堀切で、この先のスロープから御馬家台を訪問するんだと思うのですが、入っちゃ駄目ってことなんですかね。冒頭の概要を見てもらうと判りますが、御馬家台には矢倉台や枡形虎口があるみたいなのに残念です。

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↑まあ、無理に超えようと思えば超えられなくもない柵なんですけどね。でも、なんか気乗りしなかったので、今回は諦めました。写真は平台から覗き見た御馬家台。これじゃあ、よく判らないですね・・・。

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↑【二郭(御馬屋台)

前回は見学を諦めた二郭。

とても良く土塁が残されていて、枡形もしっかりと確認することができました。

枡形は藪でちょっと形状が把握しづらいですね。直に見れば一目瞭然なんですが・・・。

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↑平台。城内でも一番の高所にありますし、広さもあるので、主郭だと思って間違い無さそうです。

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↑平台の枡形虎口。歩道で分断されていますが、結構な大きさです。御馬家台側の土塁には切れ目があるので、往時は木橋が架けられていたのかもしれません。

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↑【枡形に架かる橋のイメージ】

動画でも紹介した橋のイメージ図です。あくまでも妄想なので、実際にどうだったのかは全然わかりません。

ただ、橋脚台っぽい畝が見当たらなかったので、門や木橋的なものでは無い様な気がしていますが。

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↑平台には上記の枡形以外にも複数虎口があったみたいで、ここもそのひとつです。ここからは冒頭の堀まで降りることが出来るので、船着場だったと考えられているみたいですね。

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↑平台の東側には、まだ郭が続きます。これは東虎口に残る土橋。手すりがあるので、斜めから見ると木橋に見えちゃいますよね。

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↑でも、正面から見ると、やっぱり土橋です。写真右は堀切の覗いたところ。

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↑土橋を渡った先にある小郭。

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↑その小郭から堀切を渡った先にある郭跡。

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↑平台の半分くらいの広さがあるみたいなんですが、藪っている場所が多いので、いまいち実感できませんでした。
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↑千葉氏関連では馴染み深い妙見郭。郭内には後世の改変なのかもしれませんが、意味ありげな窪地も残されていました。

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