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2014年5月 5日 (月)

守谷城 【下総】

場所: 茨城県守谷市本町(場所)

訪問:201111月ほか

形態:平山城

遺構:曲輪・馬出・枡形・空堀・土塁・土橋など

指定:市指定史跡

駐車:

満足:★★★★★(5.5)

見所:堀・土塁もかなり良いのですが、主郭・二郭に残る枡形が一番の見所だと思います

201211月の記事に若干の修正を加えました

【概要】 ※Wikipediaから転載
 
平将門の創建と言い伝えられている。当時は霞ヶ浦に連なる大湖沼地帯に面し、本丸のあった出島の部分のみの天然の要塞であった。源経基が3万の軍で将門城を攻め落とした。
その後、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常が相馬一郡を領有し拡張され5連郭からなる相馬治胤の城(相馬城)となっていたが、豊臣秀吉の小田原征伐での後北条氏没落により、浅野長政軍が松戸小金城を落した次に、天正18年(1590年)5月相馬城を攻め落とした。徳川家康が関東に移封されると文禄2年(1593年)土岐定政が守谷領を受取り入城し、6連郭の城とし城下町や寺社を整備する。 
土岐氏・酒井氏が去った後、守谷城は空城となったが土岐氏の整備した近代的城下町が残り脇往還路、宿場として繁栄し、今日に至る。
 
相馬氏というと奥州が有名かもしれませんが、出自は千葉氏なんですよね。なので、衰退したとはいえ下総相馬氏は守谷城を本拠に存続していました。
現在残されているのは中心部のみですが、本来は外郭を備えた大きなお城だったみたいですね。各郭の繋がりなど、往時の状態がわかりづらい部分もありますが、宅地化が迫る中でも良く遺構が残されている城跡だと思いますよ。

 

※動画は20145月に撮影・編集したものです 

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↑【古城絵図と1960年代の守谷市の状況】

この頃はまだ宅地化も進んでいないので、まだまだ古城の面影が多く残っていそうな感じですね。

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↑【守谷城の鳥瞰図】

現地の鳥瞰図にいろいろと注釈を加えてみました。

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↑現地案内図より抜粋した城跡概要図。

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↑案内には調査された土塁に関しての説明も用意されていました。

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↑その案内板の辺りから見た守谷城の中心部。この中心部と堀以外は宅地化によって消滅してしまっていますが、中心部は公園化されているので、いつでも見学が可能です。

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↑なんて思っていたら、いきなりまさかの通行止め。ここは御馬家台と平台の間にある堀切で、この先のスロープから御馬家台を訪問するんだと思うのですが、入っちゃ駄目ってことなんですかね。冒頭の概要を見てもらうと判りますが、御馬家台には矢倉台や枡形虎口があるみたいなのに残念です。

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↑まあ、無理に超えようと思えば超えられなくもない柵なんですけどね。でも、なんか気乗りしなかったので、今回は諦めました。写真は平台から覗き見た御馬家台。これじゃあ、よく判らないですね・・・。

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↑【二郭(御馬屋台)

前回は見学を諦めた二郭。

とても良く土塁が残されていて、枡形もしっかりと確認することができました。

枡形は藪でちょっと形状が把握しづらいですね。直に見れば一目瞭然なんですが・・・。

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↑平台。城内でも一番の高所にありますし、広さもあるので、主郭だと思って間違い無さそうです。

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↑平台の枡形虎口。歩道で分断されていますが、結構な大きさです。御馬家台側の土塁には切れ目があるので、往時は木橋が架けられていたのかもしれません。

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↑【枡形に架かる橋のイメージ】

動画でも紹介した橋のイメージ図です。あくまでも妄想なので、実際にどうだったのかは全然わかりません。

ただ、橋脚台っぽい畝が見当たらなかったので、門や木橋的なものでは無い様な気がしていますが。

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↑平台には上記の枡形以外にも複数虎口があったみたいで、ここもそのひとつです。ここからは冒頭の堀まで降りることが出来るので、船着場だったと考えられているみたいですね。

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↑平台の東側には、まだ郭が続きます。これは東虎口に残る土橋。手すりがあるので、斜めから見ると木橋に見えちゃいますよね。

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↑でも、正面から見ると、やっぱり土橋です。写真右は堀切の覗いたところ。

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↑土橋を渡った先にある小郭。

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↑その小郭から堀切を渡った先にある郭跡。

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↑平台の半分くらいの広さがあるみたいなんですが、藪っている場所が多いので、いまいち実感できませんでした。
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↑千葉氏関連では馴染み深い妙見郭。郭内には後世の改変なのかもしれませんが、意味ありげな窪地も残されていました。

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コメント

はじめまして。突然ですがお邪魔させていただきます。
冒頭に紹介されている守谷城の「古城絵図」とされるものについて、
一見したところ、浅野文庫の「諸国古城之図」に収録されている守谷城の絵図と同系統のものと思われますが、
ここでご紹介された絵図の所蔵者および掲載書籍などがございましたら
ご教示いただきますようお願いいたします。
不躾な質問で大変恐縮ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

失礼いたします。
上記の件、国立国会図書館デジタルコレクションにて公開さているということで、自己解決いたしました。
お手数おかけして申し訳ございませんでした。
今後ともご指導いただきますようお願い申し上げます。

>あぐ丸さん
いえいえ。
返答コメを書き掛だったので、折角だからそのままのせちゃいます。参考になれば嬉しいです。


守谷城の絵図は「日本古城絵図・下総国守谷之古城」です。国立国会図書館デジタル化資料で公開されているものですが、他にも国立公文書館では「正保城絵図」が公開されていたりします。岡山大学・池田家文庫絵図も面白いですね。 

遅くなりましたが、ご返答いただきましてありがとうございました。
守谷城についていろいろ調べているうちに貴HPにたどり着いた次第です。
守谷城を描いた城絵図がいくつかあることは分かったのですが、
城下(というか近世守谷の町)を描いた絵図なんてのはあるのでしょうか?
ご存知でしたらご教示いただければ幸いです。

>あぐ丸さん
申し訳ないのですが、守谷城に関してはブログに記載してある以上のことは把握しておりません。現地の郷土史家などを訪問してみると何かしらの情報が得られるかもと思うのですが、戦後の開発で結構新しい人が増えたといったような話を以前に聞いたことがあるので、成果がでるかは微妙かもとも思ってみたり・・・。

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