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2014年10月

2014年10月20日 (月)

松ヶ崎城 【下総】

場所:千葉県柏市松ケ崎(場所) 
訪問:201410月 
形態:平山城 
遺構:空堀・土塁・物見台など 
指定:柏市指定文化財 
駐車:入口付近に12台程度駐車可 
満足:★★★★(4.0) 
見所:周辺の史跡とあわせて 

手賀沼の周辺にはいくつかの城址が残されていますが、松ヶ崎城もそのうちのひとつですね。松ヶ崎城の数百m南東には以前訪問した根戸城があります。

このあたりは香取の海の西端にあたる場所だったみたいで、湿地に囲まれた台地の突端部に松ヶ崎城は築かれていました。領主などの詳細は判明していないみたいですが、場所は相馬御厨に含まれることから古くは下総相馬氏に属していて、戦国期には増尾城などと同様に小金城を拠点とする高城氏に勢力下におかれていたものと推察されます。


※動画はまだ作成していません━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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↑【松ヶ崎城の縄張り】
現地案内板掲載の縄張り図。往時はここが主郭として機能し、その先に広がる根小屋が二郭、三郭となってこの場所を守っていたのでしょう。

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↑【土塁と堀】
しっかりと残されていて嬉しい限り。
以前は腰郭に人気の不動尊があったみたいなんですけど、浮浪者の失火により消失してしまったのだとか。宅地化など遺構消失を免れたのは、不動尊が存在していたおかげなんでしょうかね。

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↑【物見台】
古墳のひとつを転用したとされる物見台。

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↑低地が湿地だった頃は限られた台地上に集落を築き、勢力同士で互いに監視しあってたりしていたんでしょうね。

2014年10月18日 (土)

today news

家康時代の堀跡を発見 浜松城の発掘調査  ※日経電子版より抜粋 

  浜松市は17日、浜松城の発掘調査で徳川家康が本拠とした時代に造られたとみられる堀の跡を発見したと発表した。市によると、浜松城は1570年に家康が築城し、江戸末期まで多くの城主がいたが、家康が居城としていた頃の構造物が発見されたのは初めて。

  浜松城本丸の南側で確認されたのは深さ3メートル、幅11メートルと推定される堀跡。周囲の地層や出土した器のかけらの年代などから、家康がいた157086年に造られた可能性が極めて高いという。

  静岡文化芸術大の磯田道史教授は「当時敵対していた武田信玄の侵攻に備え、強固な守備を固めた家康の執念がうかがえる」と話した。

2014年10月17日 (金)

柏飛行場 【秋水燃料庫跡】

「秋水」という戦闘機が存在したことを、皆さんはご存知でしょうか?
秋水はロケットエンジンの局地戦闘機で、ナチスドイツの「Me163コメート」をモデルに日本軍が開発を進めていましたが、完成前に終戦を迎えたため、試作機で終わり実戦投入はありませんでした。 

ちなみに本家のMe163は航空機史上唯一の実用ロケット戦闘機として知られています。ロケットエンジンを活かした上昇力と高速性によって初期では戦果をあげますが、航続距離が極端に短いという弱点が露見すると連合軍はMe163が配備された基地上空の移動を避けたため、戦果はあっという間に途絶えてしまいました。
取り扱いの大変難しい燃料のこともあり、兵器としての評価は失敗作と位置づけられています。 

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↑【秋水 ※Wikipediaより 】 

第二次大戦中の千葉県柏市には柏陸軍飛行場があり、秋水の3機が置かれていたみたいです。その秋水は敗戦時に爆破処分されたみたいですが、秋水のために建設された燃料庫はいまでも残り、その名残を確認することが可能です。

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↑【柏飛行場】
大まかにですが作成した柏飛行場の想定図。かなり大規模な飛行場だったことが判ります。
今回の主題である秋水燃料庫は図の右端あたりで、飛行場からはちょっと離れたところに設置したみたいですね。空襲から守りやすくするためなのか、それとも人里から極力離れた場所を選んだ結果なのかも・・・。

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↑【秋水燃料庫の位置】
昔の航空写真を見ると、何気にハッキリとその姿を確認できる秋水燃料庫。8箇所チェックをいれましたが、全部が本当に燃料庫だったのかはわかりません(28は違うかも)
で、実際に訪問してみて今回確認できたのは2箇所(+脱気筒)のみでした。なにぶん住宅街なので人目が気になって仕方がない・・・。

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↑【秋水燃料庫1
明瞭にその姿を確認することができる1の燃料庫。昔の黒電話の受話器( [ )みたいな形状をしています。
すぐ脇の畑で農作業をしている老夫婦がいらっしゃったので話を聞こうか迷ったのですが、何となく話かけるな的な雰囲気を感じたのでやめることに。

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↑【秋水燃料庫3
恐らくこの藪の向こうに隠れていると思われるのですが、確証はありません。この状態だと冬枯れ時期でも確認は無理っぽいかな。

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↑【秋水燃料庫4
1と同様にハッキリとその姿を確認することが出来ました。地下燃料庫の上に家が建っているように見えるんだけど、下水とかの家のインフラ整備を行うのに支障はなかったのだろうか・・・。

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↑【秋水燃料庫5の脱気筒】
現在も畑に残されている脱気筒。燃料庫5の入口はよーく目を凝らして確認したのですけど、発見には至りませんでした。冬枯れの時期なら何かしらの痕跡は見つけられそうな気がしましたけどね。
畑の関係者と思しき人がいたのですれ違い様に軽く挨拶してみたんですけど、見事にスルーされました。きっと間が悪かったんだろうな。そういうことにしておきたい・・・。 

【関連記事】
柏飛行場 【正門跡・無蓋掩体壕】

2014年10月15日 (水)

柏飛行場 【正門跡・無蓋掩体壕】

茨城県に程近い千葉県柏市。Jリーグの柏レイソルがあるので柏という名前はご存知の方も多いと思いますが、この柏市にも第二次大戦中は柏陸軍飛行場が設置されていて帝都防衛の任についていたんですねぇ。柏には何度も足を運んだことがあるのですが、そんなことはつい最近までまったく知りませんでした。
ちなみに柏陸軍飛行場のほかにも周囲には松戸陸軍飛行場(:松飛台)と藤ヶ谷陸軍飛行場(:下総航空基地)も続けて建設されていますが、航空基地として今も機能しているのは前述の通りで藤ヶ谷陸軍飛行場のみです。 

戦後ほどなくして柏飛行場は廃止されましたが、1950年に勃発した朝鮮戦争によって跡地の多くは米軍が摂取し柏通信所(キャンプ・トムリンソン)が設営されます。

この柏通信所は1977年に半分、そして1979年に米軍より全面返還され、現在の跡地は様々な国・官庁関連施設やガン研究センター、柏の葉公園や住宅街などに転用されました。そうしたなかで柏飛行場の面影は徐々に薄れてしまっているみたいではあるのですが、残されている僅かな痕跡を確認すべく、柏を訪問してみました。

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↑【柏飛行場】
大まかにですが作成した柏飛行場の想定図。かなり大きな飛行場だったことが判ります。
飛行場以外にも周辺には射撃演習場や高射砲連隊の駐屯地などが存在していましたが、地図には記していません。

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↑【航空隊正門跡】
最寄の東部第102部隊とあわせて最大で7,000人以上の兵員がいたとされる柏飛行場。その名残として今も正門跡が残されています。
奥の住宅街からなのか、車の往来がひっきりなしでした。

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↑【滑走路の面影】
柏の葉公園の脇を通る並木道の一部は往時の滑走路と重なっているみたいです。なので、滑走路の面影といえなくもないのかも。

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↑【柏の葉公園】
各種競技場も立ち並ぶ柏の葉公園。何気に駐車場は有料でした。
そこそこ広大な公園ではあるのですが、それでも飛行場の一区画でしかなかったんだよなー。 

第二次大戦中に使用されていた飛行場跡地といえば、つきものなのが掩体壕。この柏飛行場にも往時は多くの掩体壕が設置されていました。

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↑【航空写真から見る掩体壕】
東誘導路沿いに確認できる掩体壕の面影。写真によっては掩体壕の形状まではっきり確認できるものも。

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↑【掩体壕の配置図】
東誘導路は面影を強く残していますが、掩体壕となると今でも確認できるものはごく僅か。
青→確認した掩体壕、緑→未確認もたぶん残されている?、黄色→すでに消滅

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↑【公開されている無蓋掩体壕】
こんぶくろ池自然博物公園の一角に残される掩体壕。無蓋掩体壕ということで、爆風を防ぐための土塁しか築かれていません。まあ、コンクリがない分は確かにインパクト弱いかもしれないですけどね。お城や幕末の台場だって土塁から往時を想像している自分には馴染み深い代物ではあります。
自然公園の事務所にはNPOの方がたくさんいらっしゃったので掩体壕のことに関していろいろ質問をしてみたのですが、なぜか帰ってくる反応はイマイチ。戦争史跡は展示してみるも思うほど反響がなくてガッカリだったからなのか、それとももしかしたら地元の方は戦争史跡の存在そのものを暗に苦々しく思われているのかもなんて想像してみたり・・・。

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↑【ホテルリーベの入口前の掩体壕は・・・】
ホテルリーベの前あたりにも掩体壕の一部が残存しているみたいなんですけど、正直まったく判りませんでした。
何か新しくアスファルトのわき道が整備されたような感があるので、もしかしたらその時に消滅してしまったのかも・・・。

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↑【香取神社付近】
国道16号を挟んだ反対側、香取神社のちょっと先にも3基の掩体壕が残されているっぽいのですが、残念ながら発見には至りませんでした。とにかく藪なので、パッと見での判別は不可能に近いです。
一番わかりやすそうな気がしたので林のなかにも突撃をしてみたのですが、まだまだ蜘蛛が元気なんですよね。また冬枯れの時期にでも機会があれば再度・・・。

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↑【こんぶくろ池自然公園】
湿地帯であったであろう面影を色濃く残す自然公園です。自然を配備しつつも人工的な感が否めない公園や手付かずの山林とはまた違った雰囲気があるので、こういう場所は大切にしてもらいたいなー。
敷地内には野馬土手と呼ばれる土塁がそこかしこに残されていました。場所的に相馬御厨の範疇っぽいので、坂東武者お約束というか相馬氏で有名な相馬野馬追と何かしらの関係がと思って聞いてみたんですけど、これも反応はイマイチでした。園内の案内によれば、この野間土手は徳川幕府が軍馬の養成のために作成したもので、相馬野馬追の関連史跡ではなかったみたい。 

【関連】
柏飛行場 【秋水燃料庫跡】

2014年10月13日 (月)

「総構え」に関して思うこと

江戸幕府の発令した一国一城例で城郭の集約化が加速し、近世では多く採用された総構え。今でも江戸城は外堀がよく残されており、総構えの面影が色濃く残されています。

戦国時代で総構えのお城となると、有名なのはやはり後北条氏の小田原城でしょうか。ただ、小田原城の総構えは秀吉の小田原征伐に備えて整備されたもので、Wikipediaによると確認できる最古の総構えは荒木村重の有岡城ということになるらしいです。なるほどね。

そもそもの総構えについて、もう一度おさらいしておきましょう。総構えとは軍事拠点である「城」もしくは「砦」のみならず、その周囲に形成されている「城下町」までを堀や土塁によって取り囲み、俗に言う城内に取り込んだ形式の拠点のことを指す用語です。

こういった防御形態は城塞都市として欧州から中国まで、ユーラシア大陸では古くから採用されていました。日本の総構えと一緒の構造ですね。都市は城壁や堀に囲まれ、外敵から身を守っていました。

近隣異民族との紛争や広大な平野の有無など日本と地勢の違いはあれど、日本の集落は現代のように外敵に対して無防備な状態で存在していたのでしょうか?答えはNoです。

日本では環濠集落といって古くは集落は周囲に堀をめぐらし、逆茂木を設置するなどして外敵から身を守っていました。時代による形式の移り変わりはあれど、基本的には危険な世相であれば集落の周囲に防御構造を築くといった流れは江戸時代、はては近世城郭まで含めると近代に至るまで変化はありません。戦国時代の堺の町などがわかりやすい代表例としてあげられるかも。

これから先の時代がどうなるかはわかりませんが、今も昔も変わらないことのひとつに人口=経済力といったものがあります。特に人口=生産力に直結する近代以前では領主にとって重要な問題で、これを確保・維持できなければ勢力を保つことは非常に難しかったのではないかと。

戦国時代の戦術のひとつに「青田刈り」があります。敵領内に攻め込んだ際、相手方の田畑の実を刈り取って敵国の生産力を落としてしまうといった手法です。でもこれは人間にも当てはまる。
周辺の従属する集落なら自衛に任せておけばある程度良いのかもしれませんが、少なくとも城下町(根小屋)の住人は自分たちで守らなければ、たとえ寄せ手を撃退しても経済的損失は計り知れません。身代金などによる返還はまだましなほうで、殺されたり奴隷として他国に住民が売却されるなんてことになれば目も当てられないですよね。

このように考えていくと総構えと呼ばれる形式の城郭は、少なくとも戦国時代中期にはそこかしこで見られる一般的なものだったように思えてなりません。それこそお城の立地でよく表現される「舌状台地の先端に築かれた」なんて場所は、広大な外郭を残していることも多いですしね。香取の海(1)があったとされる場所の周囲は特に顕著かも。


こうやっていろいろ疑問に思って空想をぶつけられるようになったのは、やはり「村の城」という考え方の存在を知ったことが大きいですかね。たしかこのキーワードを初めて確認したのは余湖くんのお城のページだったような。

今回は総構えについて書いてきましたが、なんだかんだ思うところは他にもあります。「障子堀」もそうですし、「東国の城は簡素だった」と言われることもちょっといろいろと思ってみたり。機会があれば、また記事にするかもしれません。

【※1 香取の海】
現在の茨城県南部から千葉県北部あたりに存在していたとされる広大な内海。現在の霞ヶ浦・牛久沼(茨城県)・印旛沼・手賀沼(千葉県)などはその名残とされる。

2014年10月10日 (金)

ちょっと経済news

JXエネ、「エネファーム」生産を終了 家庭用燃料電池 ※日経電子版より抜粋  

 JX日鉱日石エネルギーは10日、来年3月末で家庭用燃料電池「エネファーム」の自社製品の開発と生産を終えると発表した。すでに販売した製品の保守サービスについては継続するほか、製品は東芝から仕入れて販売していく。

 JXエネは昨年3月に自社製品の品質に問題が起こり、今年3月まで販売を停止していた。4月に再開したが、販売が伸び悩んでおり事業体制の見直しを進めてきた。

 JXエネは充電効率の高い固体酸化物型(SOFC)のエネファームを2011年に実用化し販売していた。ただ今年9月までの累計販売台数は生産停止などの影響もあり約4000台にとどまっていた。一方、東芝から仕入れていた製品は昨年4月から今年9月までに約8000台を販売している。今後は仕入れ販売に特化することで事業を立て直していく。

水素もなかなか大変ですねえ。ふむ・・・。

2014年10月 5日 (日)

大房岬・回天発射台

以前、戦争史跡や幕末の台場跡などを紹介した大房岬。いくつかの見落としがあったので、今回は回天発射台を確認しに再び大房岬を訪問してみることにしました。

人間魚雷「回天」。その名の示すとおり魚雷型の特攻兵器ですが、「桜花」や「震洋」と比べると知名度はわりと高めな気がします。映画やドラマの影響なんでしょうか。

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↑靖国神社に展示されている回天。Wikipediaより転載。

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↑大房岬には戦争史跡や幕末の台場跡などいろいろ残されています。戦国時代後期、里見家当主の里見義頼が本拠に定めていた岡本城も至近の距離にあり、中世には砦などが築かれていた可能性も大です。

駐車場に車を停め、史跡の残る海岸まで降りていきます。朝早めの時間ではあるのですが、お盆時期なので家族連れは多めでしたね。

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↑【回天・発射台跡】
満ち潮で海中に沈んでしまい、あまり確認することができませんでした。この日はお昼くらいに訪問するのがよかったみたい。
画像右よりの海中に沈む箸のような構造物が、回天発射のために使用されるレールの土台となっていたみたいです。引き潮のときに訪問すれば、ハッキリとした姿を確認することができるんですけどね。

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↑【回天・収納庫もしくは待機所?】
発射台のそばに洞窟と壕がひとつずつ残されています。場所からいって恐らく回天の収納庫、もしくは人員の待機所だったと思われるのですが、正確なところはどうなんでしょう?

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↑【洞窟に残る落書き】
K・N・Hと恐らくS・Oであろう単語はなんとなく確認できます。あと、Yっぽい単語は大小おりまぜ複数。 

館山には進駐軍の先遣隊が上陸し、数日の間ですが米軍による軍政が実施されました。この落書きは、そういった際に米軍によって記されたメモ書きのようなものなのかもしれません。

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↑【防空壕】
こちらは明らかに人力で掘られた防空壕ですね。穴の高さは感覚的には1.51.6m程度だと思うので、回天を収容することはできたでしょう。レールか何か敷いて出し入れさせる予定だったのかな?

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↑この防空壕、入口になぜか神社のお札(板札って言うんですか?こういうの?)が置かれていました。何かこの辺りで過去に事故でもあって、その名残りなのかもなどと考えつつ折角なので防空壕に入ってみたのですが・・・

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↑内部で撮影した写真には何故か赤色が写りこんでしまいました。「えっ?」と思ったので慌ててもう一枚撮影するも、そちらはまったく問題なし。
なんにせよ、あまり気分のいいものではないですよね。お墓参りにいった後でしたし。慌てて防空壕から撤退です。

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↑【山岡部隊(S)が訓練に使用していたとされる崖】
山岡部隊は海軍陸戦隊が結成したSpecial Forcesです。最後は東南アジア各地に散らばる米軍基地を強襲してB29を破壊するといった計画が検討されましたが、出撃寸前のところで終戦をむかえ中止となりました。
山岡部隊の訓練は過酷を極め、この崖を素手で登るというのも訓練の一環だったそうです。いまでいうロッククライミングですけど、もしも装備を背負いつつとかだったら難易度も相当なはず。

Photo
↑【何かしらの痕跡?】
ピットみたいに見えなくもないかな?波止場にはもっとハッキリした痕跡が残されていたんですけど、撮影するのを忘れちゃった。


↑動画です。いままでよりビットレート落としてアップしてみたんだけど、Youtubeのはなかなか最適な方法がみつからないや・・・

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