2015年7月20日 (月)

赤山陣屋 【武蔵】

場所:埼玉県川口市赤山(場所) 
訪問:20157月 
形態:陣屋 
遺構:空堀・土塁など 
指定:県指定文化財 
駐車:有 ※山王公園の脇
満足:★★★★★★(6.0) 
見所:陣屋というよりは赤山城と表現したくなる広大な城域。  

赤山陣屋は江戸時代に関東郡代(正式には関東代官)を務めた伊奈氏によって築かれ、1792年のお家騒動によって伊奈氏が改易・罷免されるまで代々の拠点として使用されていました。
伊奈氏改易後は廃城となり、施設は破却されたみたいです。
 

江戸幕府の元で関東郡代を代々勤めた伊奈氏の礎を築いたのは伊奈忠次で、忠次は徳川家康の関東入府の際に大久保長安や青山忠成、彦坂元正らと共に代官頭に任命され、家康の関東支配に貢献しました。
忠次は灌漑や新田開発、河川改修にて多大なる功績を残し、武蔵小室藩の藩主として現在の埼玉県北足立郡伊奈町に陣屋を築きましたが、2代目を継いだ長男・伊奈忠政が34歳の若さで亡くなってしまいます。
忠政の子息は僅か8歳であったため、関東郡代の役目は忠政の弟である伊奈忠治が引き継ぎました。なお、小室藩は3代目を継承した伊奈忠勝も跡を継いだ翌年に亡くなったため廃藩とされてしまいます。 

関東の幕府直轄領(30万石)を管轄していた関東郡代の拠点であっただけあって、その規模は想像を遥に超えたものでした。

全体的によく整備が行き届いておりますし、何より都心からそう遠くないこの場所にこれだけの自然が残されていることにびっくり。静岡の興国寺城でカブトムシに遭遇したことがありますが、まさか川口で確認することになろうとは・・・。 


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↑【伊奈氏陣屋と赤山陣屋】
武蔵小室藩が使用していた伊奈氏陣屋と赤山陣屋の位置関係。どちらも昔は付近をよく素通りしていましたが、史跡という認識で現地を訪れたのは赤山陣地が始めてです。 

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↑【赤山陣屋の概略図】
低湿地帯を利用した構造云々は埼玉東部や茨木南部ではお約束といった感じですね。
赤山陣屋が構築される以前はどのような使われ方をしていた場所だったのでしょうか。発掘調査も行われたみたいですから、中世の痕跡など見つかったりしていないのかが気になります。

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↑【堀跡】
今は深さも大した事ありませんが、往時は56mほどの深度があったのだとか。恐らく土塁も備えられていたことでしょう。

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↑【豊富な案内】
要所ごとに案内が備えられているのが有難いですね。

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↑【本丸】
南堀から見た本丸内部。奥に見える外環自動車道の付近までが本丸だった訳ですから、距離感を持って想像していただければ、赤山陣屋の広大さをご理解いただけるのではないかと。
往時は御殿だけでなく、高官や重臣の屋敷が立ち並んでいたことでしょう。

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↑【土塁】
南堀から南西堀への接続部あたりで見かけた土塁跡と思しき土壇。

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↑【赤山日枝神社】
山王公園脇の赤山日枝神社。ちなみにこの土壇も、空堀掘削時の廃土で築かれたものと考えられているらしいです。

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↑【残される自然】
地域の方々の並々ならぬご尽力があってのことなんでしょう。
一部消滅している箇所もありますが堀を伝ってほぼ本丸を一周できますので、自然を感じながら散歩をするには丁度良い場所の様に感じました。

2014年10月20日 (月)

松ヶ崎城 【下総】

場所:千葉県柏市松ケ崎(場所) 
訪問:201410月 
形態:平山城 
遺構:空堀・土塁・物見台など 
指定:柏市指定文化財 
駐車:入口付近に12台程度駐車可 
満足:★★★★(4.0) 
見所:周辺の史跡とあわせて 

手賀沼の周辺にはいくつかの城址が残されていますが、松ヶ崎城もそのうちのひとつですね。松ヶ崎城の数百m南東には以前訪問した根戸城があります。

このあたりは香取の海の西端にあたる場所だったみたいで、湿地に囲まれた台地の突端部に松ヶ崎城は築かれていました。領主などの詳細は判明していないみたいですが、場所は相馬御厨に含まれることから古くは下総相馬氏に属していて、戦国期には増尾城などと同様に小金城を拠点とする高城氏に勢力下におかれていたものと推察されます。


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↑【松ヶ崎城の縄張り】
現地案内板掲載の縄張り図。往時はここが主郭として機能し、その先に広がる根小屋が二郭、三郭となってこの場所を守っていたのでしょう。

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↑【土塁と堀】
しっかりと残されていて嬉しい限り。
以前は腰郭に人気の不動尊があったみたいなんですけど、浮浪者の失火により消失してしまったのだとか。宅地化など遺構消失を免れたのは、不動尊が存在していたおかげなんでしょうかね。

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↑【物見台】
古墳のひとつを転用したとされる物見台。

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↑低地が湿地だった頃は限られた台地上に集落を築き、勢力同士で互いに監視しあってたりしていたんでしょうね。

2014年10月13日 (月)

「総構え」に関して思うこと

江戸幕府の発令した一国一城例で城郭の集約化が加速し、近世では多く採用された総構え。今でも江戸城は外堀がよく残されており、総構えの面影が色濃く残されています。

戦国時代で総構えのお城となると、有名なのはやはり後北条氏の小田原城でしょうか。ただ、小田原城の総構えは秀吉の小田原征伐に備えて整備されたもので、Wikipediaによると確認できる最古の総構えは荒木村重の有岡城ということになるらしいです。なるほどね。

そもそもの総構えについて、もう一度おさらいしておきましょう。総構えとは軍事拠点である「城」もしくは「砦」のみならず、その周囲に形成されている「城下町」までを堀や土塁によって取り囲み、俗に言う城内に取り込んだ形式の拠点のことを指す用語です。

こういった防御形態は城塞都市として欧州から中国まで、ユーラシア大陸では古くから採用されていました。日本の総構えと一緒の構造ですね。都市は城壁や堀に囲まれ、外敵から身を守っていました。

近隣異民族との紛争や広大な平野の有無など日本と地勢の違いはあれど、日本の集落は現代のように外敵に対して無防備な状態で存在していたのでしょうか?答えはNoです。

日本では環濠集落といって古くは集落は周囲に堀をめぐらし、逆茂木を設置するなどして外敵から身を守っていました。時代による形式の移り変わりはあれど、基本的には危険な世相であれば集落の周囲に防御構造を築くといった流れは江戸時代、はては近世城郭まで含めると近代に至るまで変化はありません。戦国時代の堺の町などがわかりやすい代表例としてあげられるかも。

これから先の時代がどうなるかはわかりませんが、今も昔も変わらないことのひとつに人口=経済力といったものがあります。特に人口=生産力に直結する近代以前では領主にとって重要な問題で、これを確保・維持できなければ勢力を保つことは非常に難しかったのではないかと。

戦国時代の戦術のひとつに「青田刈り」があります。敵領内に攻め込んだ際、相手方の田畑の実を刈り取って敵国の生産力を落としてしまうといった手法です。でもこれは人間にも当てはまる。
周辺の従属する集落なら自衛に任せておけばある程度良いのかもしれませんが、少なくとも城下町(根小屋)の住人は自分たちで守らなければ、たとえ寄せ手を撃退しても経済的損失は計り知れません。身代金などによる返還はまだましなほうで、殺されたり奴隷として他国に住民が売却されるなんてことになれば目も当てられないですよね。

このように考えていくと総構えと呼ばれる形式の城郭は、少なくとも戦国時代中期にはそこかしこで見られる一般的なものだったように思えてなりません。それこそお城の立地でよく表現される「舌状台地の先端に築かれた」なんて場所は、広大な外郭を残していることも多いですしね。香取の海(1)があったとされる場所の周囲は特に顕著かも。


こうやっていろいろ疑問に思って空想をぶつけられるようになったのは、やはり「村の城」という考え方の存在を知ったことが大きいですかね。たしかこのキーワードを初めて確認したのは余湖くんのお城のページだったような。

今回は総構えについて書いてきましたが、なんだかんだ思うところは他にもあります。「障子堀」もそうですし、「東国の城は簡素だった」と言われることもちょっといろいろと思ってみたり。機会があれば、また記事にするかもしれません。

【※1 香取の海】
現在の茨城県南部から千葉県北部あたりに存在していたとされる広大な内海。現在の霞ヶ浦・牛久沼(茨城県)・印旛沼・手賀沼(千葉県)などはその名残とされる。

2014年9月25日 (木)

根木内城 【下総】

場所:千葉県松戸市根木内(場所) 
訪問:20145月 
形態:平山城 
遺構:空堀・土塁・土橋など 
指定:なし 
駐車:根木内歴史公園の駐車場 
満足:★★★★(4.5) 
見所:意外と大きくて迫力のある堀や土塁  

戦国時代、小金城を本拠としていた高城氏が、それ以前に拠点として定めていたのが根木内城です。高城氏が小金城に移動した後も、根木内城は小金城の支城として使用されていたものと思われます。

湿地に突き出す半島状台地の先端に構えられたお城でしたが、台地先端は国道設置や宅地化の影響で結構な範囲が削られてしまっており、主要部はほぼ消滅。現在はごく一部しか残されておりません。ただ、遺構としては雄大な空堀の面影や土塁などを確認することができますので、小金城とセットで訪問するとよいのかも。

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↑【1940年代の周辺の様子と現況】
まあ、なんというか随分な変わり様ですね。宅地化で地形の凹凸が判りづらくなってしまっていますが、現地で確認すると意外と地形に面影が残されていることが判ります。当然、削られてしまった台地は別としてですが・・・。

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↑【在りし日の根木内城・曲輪配置図】
現地の案内に歴史紹介とあわせて曲輪の配置図が掲載されていたのですが、日焼けによって色褪せしてしまっていたので、ちょっと手を加えてわかり易くしてみました。
今でも残されていれば、なかなか楽しめそうな感じなのにな。勿体無い・・・。

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↑【案内掲載の復元イメージ】
案内が数多く設置されている新設設計でした。周辺住民、もしくは自治体が保全活動に熱心なのでしょうね。
非常に助かります。

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↑【雄大な空堀】
公園の入口にあるスロープを登って最初に目にするのがこの空堀。なかなかの迫力で、城内で一番の見どころかも。

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↑【虎口】
公園の入口。往時も虎口として使用されていたのかなぁ。土塁が重圧で、見事の一言。

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↑【公園内】
なかなか広大ですが、往時はもっと広かったんですよね。
端っこはバッサリと断ち切られていますが、本来ならこの先にはまだ台地が続いていたんだよなー。削られた土は、周囲の湿地を埋め立てるのにでも使用されたんでしょうか?

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↑【馬出手前の曲輪】
土塁を超えて奥の曲輪へ。この曲輪は先程の曲輪より一段高いですね。台地先端に向かって徐々に高さが増していくような構造をしていたのかも。

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↑【竪堀】
公園の通路として整備された竪堀跡。雰囲気はよく残されています。

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↑【湿地】
ゲンゴロウやヤゴだけでなく、タガメなんかも生息してるのかな?

2014年5月10日 (土)

菅生城 【下総】

場所:茨城県常総市菅生町(場所) 

訪問:20145月ほか 

形態:平山城 

遺構:不明 

指定:常総市指定文化財 史跡 

駐車:道の脇にでも 

満足:(1.0) 

見所:案内から往時を偲ぶ 

 

築城時期など不明点は多いみたいですが、菅生越前守胤貞が在城していたことを記す文献が確認されているみたいです。1560年、弓田城の染谷氏と合戦になり、横瀬能登守永氏に攻められて菅生城は落城しました。

1576年、多賀谷氏に侵攻によって染谷氏が降伏。1577年にはこの菅生城も多賀谷氏の侵攻を受けたようです。1589年には筒戸城まで多賀谷氏が押し寄せていることから、それ以前には多賀谷氏によって制圧されていたものと思われます。

 

目印と呼べるものが少ないので、ちょっと場所がわかりづらい城址だと思いますね。googleのストリートビューを見ていたら、新しく新設された道路沿いに案内板の存在を確認できたので、守谷城訪問のついでに立ち寄ってきました。相馬氏関連(おそらく)でもありますしね。

この新設された道路のおかげで、以前よりは城山に近づきやすくなったと思います。ただ、城山の状態などは以前のままなので、訪問するまでの意味があるかは微妙ですが。

 

平成18年に発掘調査がおこなわれ、畝堀などが検出されました。ただ、現在は埋め戻されているので、畝堀を確認することはできません。

 

※動画の作成予定はありません

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↑【菅生城の概略図】

湿地に囲まれた台地で、城館を構えるには最適の場所ですね。


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↑【周囲の状況】

西側から見る城山。だだっ広い耕作地といった趣なので、場所がちょっと特定しづらいかも。


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↑【城山】

城山は藪が凄まじいので、とても入ろうという気持ちになりません。

この城山も発掘調査は行われたんでしょうか?主要部だったと思うので、何かしらの遺構が残されていそうな気がするのですが。

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↑【堀の痕跡?】

 城山の西側。農道のようなスロープが残されていますが、こういったものも堀の痕跡なんでしょうね。

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↑【Ⅱ郭】

どのような役割を担っていたのか、いまいち想像できないⅡ郭。

城山より藪の状態はマシでしたが、それでも何がなんだか・・・

2014年5月 8日 (木)

筒戸城 【下総】

場所:茨城県つくばみらい市筒戸(場所) 

訪問:20145月 

形態:平山城 

遺構:堀など 

指定:なし 

駐車:禅福寺の駐車場を拝借しました 

満足:★★(2.0) 

見所:案内から往時を偲ぶ 

 

筒戸城は1559年に相馬氏の一族である筒戸氏によって築城されましたが、1589年に多賀谷氏に攻められて城は落城し、その後に廃城になったと伝えられているみたいです。

 

牛久城を拠点としていた岡見氏でもそうでしたが、この時期の多賀谷氏の攻勢は凄まじいものがあったんですね。相馬氏の居城である守谷城と筒戸城は直線で1kmほどしか離れていないので、相馬氏もかなり苦戦していたということなんでしょうか。

 

低湿地に囲まれた平山城といった面影はよく残されているのですが、遺構は正直殆どわかりませんでした。まあ、そんなに時間をかけて歩き回った訳ではないのであれですが、そこまでしなくてもいいかなーなんて。

全体的に住宅が点在する普通の耕作地なんで、ウロウロ歩き回るのも何か気が引けるんですよね。

 

案内板が設置されているのは本当に有難いですね。旧状がなんとなくでも把握できたので、とても助かりました。

 

※動画の作成予定はありません

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↑【筒戸城の概略図】

現地案内を元に簡単に作成してみました。


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↑【台地下(西南側)から見た筒戸城】

地形は平山城だった面影をよく残しているように思います。


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↑【本丸北の堀跡】

現在は通路として使用されている本丸北の堀。城跡としての雰囲気を一番感じれる場所なんじゃないかと。


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↑【土塁跡?】

遺構かは不明ですが、その堀の脇には土塁が残されていました。


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↑【禅福寺】

禅福寺さんを目印に向かえばたぶん到着できると思います。

 

すぐ東隣の台地には妙見八幡社の存在が確認できます。これも城址だったことを現す面影のひとつなのかもしれませんね。

2014年5月 5日 (月)

守谷城 【下総】

場所: 茨城県守谷市本町(場所)

訪問:201111月ほか

形態:平山城

遺構:曲輪・馬出・枡形・空堀・土塁・土橋など

指定:市指定史跡

駐車:

満足:★★★★★(5.5)

見所:堀・土塁もかなり良いのですが、主郭・二郭に残る枡形が一番の見所だと思います

201211月の記事に若干の修正を加えました

【概要】 ※Wikipediaから転載
 
平将門の創建と言い伝えられている。当時は霞ヶ浦に連なる大湖沼地帯に面し、本丸のあった出島の部分のみの天然の要塞であった。源経基が3万の軍で将門城を攻め落とした。
その後、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常が相馬一郡を領有し拡張され5連郭からなる相馬治胤の城(相馬城)となっていたが、豊臣秀吉の小田原征伐での後北条氏没落により、浅野長政軍が松戸小金城を落した次に、天正18年(1590年)5月相馬城を攻め落とした。徳川家康が関東に移封されると文禄2年(1593年)土岐定政が守谷領を受取り入城し、6連郭の城とし城下町や寺社を整備する。 
土岐氏・酒井氏が去った後、守谷城は空城となったが土岐氏の整備した近代的城下町が残り脇往還路、宿場として繁栄し、今日に至る。
 
相馬氏というと奥州が有名かもしれませんが、出自は千葉氏なんですよね。なので、衰退したとはいえ下総相馬氏は守谷城を本拠に存続していました。
現在残されているのは中心部のみですが、本来は外郭を備えた大きなお城だったみたいですね。各郭の繋がりなど、往時の状態がわかりづらい部分もありますが、宅地化が迫る中でも良く遺構が残されている城跡だと思いますよ。

 

※動画は20145月に撮影・編集したものです 

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↑【古城絵図と1960年代の守谷市の状況】

この頃はまだ宅地化も進んでいないので、まだまだ古城の面影が多く残っていそうな感じですね。

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↑【守谷城の鳥瞰図】

現地の鳥瞰図にいろいろと注釈を加えてみました。

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↑現地案内図より抜粋した城跡概要図。

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↑案内には調査された土塁に関しての説明も用意されていました。

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↑その案内板の辺りから見た守谷城の中心部。この中心部と堀以外は宅地化によって消滅してしまっていますが、中心部は公園化されているので、いつでも見学が可能です。

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↑なんて思っていたら、いきなりまさかの通行止め。ここは御馬家台と平台の間にある堀切で、この先のスロープから御馬家台を訪問するんだと思うのですが、入っちゃ駄目ってことなんですかね。冒頭の概要を見てもらうと判りますが、御馬家台には矢倉台や枡形虎口があるみたいなのに残念です。

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↑まあ、無理に超えようと思えば超えられなくもない柵なんですけどね。でも、なんか気乗りしなかったので、今回は諦めました。写真は平台から覗き見た御馬家台。これじゃあ、よく判らないですね・・・。

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↑【二郭(御馬屋台)

前回は見学を諦めた二郭。

とても良く土塁が残されていて、枡形もしっかりと確認することができました。

枡形は藪でちょっと形状が把握しづらいですね。直に見れば一目瞭然なんですが・・・。

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↑平台。城内でも一番の高所にありますし、広さもあるので、主郭だと思って間違い無さそうです。

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↑平台の枡形虎口。歩道で分断されていますが、結構な大きさです。御馬家台側の土塁には切れ目があるので、往時は木橋が架けられていたのかもしれません。

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↑【枡形に架かる橋のイメージ】

動画でも紹介した橋のイメージ図です。あくまでも妄想なので、実際にどうだったのかは全然わかりません。

ただ、橋脚台っぽい畝が見当たらなかったので、門や木橋的なものでは無い様な気がしていますが。

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↑平台には上記の枡形以外にも複数虎口があったみたいで、ここもそのひとつです。ここからは冒頭の堀まで降りることが出来るので、船着場だったと考えられているみたいですね。

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↑平台の東側には、まだ郭が続きます。これは東虎口に残る土橋。手すりがあるので、斜めから見ると木橋に見えちゃいますよね。

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↑でも、正面から見ると、やっぱり土橋です。写真右は堀切の覗いたところ。

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↑土橋を渡った先にある小郭。

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↑その小郭から堀切を渡った先にある郭跡。

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↑平台の半分くらいの広さがあるみたいなんですが、藪っている場所が多いので、いまいち実感できませんでした。
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↑千葉氏関連では馴染み深い妙見郭。郭内には後世の改変なのかもしれませんが、意味ありげな窪地も残されていました。

2014年4月20日 (日)

国府台合戦 【下総】 

場所:千葉県市川市国府台~千葉県松戸市松戸あたりまで 

訪問:20144月 

形態:古戦場 

満足:★★★(3.0) 

 

今年になって殆ど車を動かしていなかったんですよね。で、たまにはエンジンかけなきゃと思ってキーを久々にまわすもエンジンがかからない。電力がなくなってバッテリーが上がってしまっていました・・・。

セルもまわらなかったんで、本当に電気が底をついってしまっていたという状態なんでしょうね。こんな醜態演じたのは初めてです。

 

流石にこれは拙いよな。

ということで、当面のバッテリー充電を兼ねてちょっとドライブに行ってきました。行き先は国府台。

 

国府台というと古戦場ということで知られています。なので、心霊系でもたまに紹介されたりしますね。近代では病院(しかもなんと精神科病棟らしい!)などが建てられていたということもあるので、そういうもの好きな方にも堪らない場所なのかも。

 

古戦場ということで、まずはその合戦の内容を振り返ってみることにしましょう。国府台合戦と呼ばれる合戦は大きく分けて2度ありました。

・第一次国府台合戦 (1538:後北条氏vs小弓公方足利氏)

・第二次国府台合戦 (1563年および1564:後北条氏vs里見氏)

 

勝利したのはいずれも後北条氏。古い出来事なので合戦の詳細は不明ということが多いですが、それぞれの合戦の内容をわかる範囲で簡単に確認していきましょうか。

 

■第一次国府台合戦(1538) 

 

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※境界線は現在のものなので、往時の境界線はこれとは異なります。 

 

古河公方の内訌によって当主・足利利政の次男・足利義明が真里谷武田氏によって担ぎ出され、小弓城において「小弓公方」を名乗り、古河公方と対立していきます。

勢いにのった小弓公方・足利義明は1538年、安房・上総・下総の諸軍勢(安房里見氏・真里谷武田氏・庁南武田氏・上総土岐氏・上総酒井氏など)を率いて国府台に出陣。国府台には享徳の乱の際に太田道灌が陣城を築いたことがあったので、その跡地を活用して小弓公方も陣城の構築を行いました。

小弓公方軍は国府台~松戸まで、太日川に沿うように連なる台地上に陣取ります。足利義明は松戸城、もしくは相模台のあたりに陣を構えました。

 

程なくして後北条氏と合戦になり、足利義明が戦死。小弓公方軍は潰走状態となり、小弓公方はこの合戦をもって滅亡してしまいました。

なお、小弓公方の登場により領土を圧迫されていた下総(馬加)千葉氏ですが、小弓公方の滅亡によって国府台のみならず小弓などの旧領を回復させることに成功しました。

 

第一次国府台合戦はざっとこんな感じですね。続いて第二次国府台合戦にうつります。

 

■第二次国府台合戦(1563年および1564) 

第一次国府台合戦の勝利により、後北条氏は下総のみならず上総にまで勢力を伸ばしていきました。上総酒井氏や上総武田氏も後北条氏の影響下に組み込まれていき、1554年には里見氏の本拠である久留里城を攻撃するほどまでに勢力を広げていきます。

この時の里見氏は大変なピンチで、後北条氏の援助の下に峰上城では吉原玄蕃助が里見氏に対してゲリラ活動を行っていましたし、小糸(秋元)の秋元氏や造海(百首)の内房正木氏も後北条方に降伏。遂には里見氏の上総におけるもう一方の重要な拠点であった佐貫城が陥落するなど、まさに風前の灯といった状態にまで追い込まれてしまっていました。

しかし、1560年に越後の上杉謙信が関東に出兵すると流れが一変。越後勢への対応で手一杯になった後北条氏をよそ目に、里見氏は上総のみならず下総にまで急速に影響力を拡大させていき、ついには下総千葉氏に対して次々と攻勢をかけられるまでに勢力を強めていきました。

そんななかの156211月、謙信が越中攻めにて関東を空けているその間隙を突いて、武田・後北条連合軍が武蔵・松山城に攻撃を仕掛けます。この武州松山城は上杉氏の武蔵における重要な要衝で、ここを奪われるということは武蔵における上杉氏の影響が大きく後退してしまうということを意味しており、謙信としては何としても死守しなければならない重要な拠点でした。

 

ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、ここから第二次国府台合戦の件に突入します。

雪で思うように動きが取れない謙信は後北条氏への牽制として、里見氏に後北条氏領への攻撃を要請します。要請を受理した里見氏は軍勢を国府台まで出陣、一方の後北条氏側は防戦のために江戸城とその支城の葛西城から富永直勝と遠山綱景が出陣しますが、15631月に両軍は第一次国府台合戦同様の国府台~松戸まで太日川に沿うように連なる台地付近にて激突し、合戦をおこないました。この1563年の合戦は里見氏が後北条勢を見事に打ち破り、勝利を飾りました。

(補足:出陣と記しましたが、里見氏と後北条氏は1561年には既に葛西城の争奪戦を繰り広げていたみたいなので、当該台地は1561年には里見氏の前線基地として使用されていた可能性も考えられます)

合戦では後北条側の富永直勝と遠山綱景、舎人恒忠などが討ち死に。このときの合戦は現在の松戸市矢切近辺が特に激戦となったみたいで、当地には様々な伝承が残されているみたいです。

 

謙信は急いで松山城に向かいますが、松山城の守勢は武田・後北条連合軍の攻撃の前に抗しきれず、15632月に開城・降伏してしまいました。なお、この年の謙信はこの後に忍城騎西城唐沢山城祇園城結城城など後北条氏寄りの姿勢を見せていた諸勢力を次々と攻略して、関東での地盤固めに奔走します。

 

武蔵では岩槻城の太田資正が後北条氏に反抗的な姿勢を見せ続ける中、15641(もしくは2)に国府台付近の台地で再び後北条軍と里見軍が激戦を繰り広げました。

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この合戦では後北条勢は正面渡河で攻撃を仕掛けるのではなく、市川南部や舟橋など台地の南東近辺をまず制圧し、その後に台地上に陣取る里見勢に攻撃を仕掛けていったみたいです。攻勢には恐らく北松戸の小金城を拠点とする高城氏も加わっていたことでしょう。

この戦いで重臣・正木信茂などが戦死するなど里見氏は大敗を喫し、戦線を上総南部まで後退せざるを得ない状況に追い込まれました。引き続き後北条氏の圧力が強まる中、里見氏は佐貫城そばで発生した三船山合戦に勝利して意地は見せるもののそれは束の間の勝利でしかなく、これ以降の里見氏はついに以前の勢いを取り戻すことが出来ないまま、戦国時代を終えていくことになります。

 

 

ちょっと長くなりましたが、ここまでが国府台合戦のだいたいのあらましですね。

解説の中でも触れていますが、合戦の舞台になったのは国府台~松戸あたりまでと幅広いです。

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3Dではないものの、こうしてみると地形の凹凸が何となく掴み取れますよね。グーグルアース、本当に偉大です。

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ちなみに往時の太日川流域はこんな感じだったみたいですよ。実際、松戸~矢切くらいまでは湿原が広がっていたみたいですが、場所によっては本当にこんな感じのところもあったんでしょうね。

 

 

特に目立った遺構が残されているわけではありませんが、めぼしい場所をいくつか訪問してみました。最後に軽く紹介していきたいと思います。

 

■国府台城址 (場所) 

 

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里見公園の案内図。このうち、それっぽい雰囲気が残されているのは公園左上の敷地です。

病院として使用されていたのは公園の南側ということなので、左上側は多少は昔の面影が残されていると考えていいのかな?

 

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園内に残された土塁。実はこの土塁は前方後円墳の名残なんだそうで、今は露出した石棺が配置されています。周囲には他にいくつか同様の土塁が残されているけど、それらも古墳の名残なんでしょうね。

国府台城と呼ばれる陣城も、この古墳を土塁代わりにうまく活用して構築されていたのでしょう。

 

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そのうち一箇所には「市川市最高標高地点」の案内が。

 

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「夜泣き石」と「里見軍将士亡霊の碑」。

ちなみに戦死した正木信茂の妻・種姫は出家して尼になり、隠遁生活をして余生を過ごしました。そしてこの種姫こそが南総里見八犬伝に登場する伏姫のモデルになった人物だとも言われているみたいです。

※南総里見八犬伝に興味のある方はこちらの記事もどうぞ(伏姫籠穴八房生誕の地

 

■矢切 (場所) 

 

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1563年の戦いで大激戦が繰り広げられたという矢切。

ちなみにこの矢切という地名の由来は国府台合戦にあるみたいで、この戦乱に大変苦しんだ当地の住人が弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれたと伝承されているんだとか。でも矢喰村とかなんか嫌だなぁ。

余談ですがこの切通し、えらく交通量が多かったです。ちょっとだけ西蓮寺も見てみようと思ったけど、そういった訳でこれは断念。

 

■相模台 (場所) 

 

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松戸市役所や駅周辺の市街地などに突き出すような形でそびえる高台が相模台です。

台地上は教育施設や公園などとして使用されていて遺構などは全く残されていませんが、聖徳大学のキャンパス内に経世塚という供養塚が残されていました。

 

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【おまけ】松戸中央公園の正門は旧陸軍工兵学校歩哨哨舎時代のレンガ建造物です。

 

自分は訪問しませんでしたが松戸城址(戸定が丘歴史公園)や国分寺など、国府台合戦の面影は他にもいくつか点在しています。興味ある方はぜひ。

 

2014年1月25日 (土)

武田氏館(躑躅ヶ崎館) 【山梨】

場所:山梨県甲府市屋形(場所)

訪問:201210月ほか

形態:平城

遺構:曲輪・堀・土塁・枡形・馬出・天守台(未公開)など

指定:国の史跡

駐車:

満足:★★★★★(5.5)

見所:良好に残る遺構

 

武田氏館こと躑躅ヶ崎館は武田信虎が築城した平城で、以降は勝頼が新府城に本拠を移転するまで、甲斐武田3代の居城として使用されていました。

 

甲斐武田氏は清和源氏(河内源氏)の一門で、新羅三郎義光を祖として20代に渡って栄えた名族ですね。武田氏が甲斐国に入国したのは3代目・清光からで、武田の名跡はそれまでに領していた常陸国那珂郡武田郷にて武田冠者を名乗っていたことが始まりとされています。

武田氏からは小笠原氏や南部氏、板垣氏など多くの氏族を輩出し、5代・信光の頃には甲斐守護とあわせて安芸守護を務めるなど順調に勢力を維持していきますが、転機は13代・信満のときに訪れました。

 

関東大乱の初戦ともいえる上杉禅秀の乱が1416年に発生すると、上杉禅秀と縁戚関係にあったときの当主・信満は禅秀方として参戦し敗北。信満は天目山にて自決し、甲斐守護は不在という事態に陥ってしまいます。

こうした混乱は逸見氏や跡部氏など国人衆の台頭を許し、さらには武田氏の内訌なども重なってしばらくは苦難の時代を過ごしますが、18代・信虎によって甲斐国は統一され、武田氏はようやく権威を回復。

このあと19代・信玄、20代・勝頼と続いて甲斐武田氏は大大名へと成長していきますが、そのあたりの話は有名すぎるので、端折りますね。甲斐武田氏は勝頼の自決をもって滅亡してしまいましたが、その血脈は徳川家の旗本などとして存続しており、現代までしっかりと受け継がれています。

 

織田氏による甲州征伐の後、躑躅ヶ崎館には河尻秀隆が甲斐国主として入りますが、同年6月に本能寺の変が発生し、あわせて起こった国人一揆によって河尻秀隆は死亡。続く天正壬午の乱にて甲斐国は徳川領となり、平岩親吉が一条小山城跡に甲府城を築城するまで、躑躅ヶ崎館は甲府支配の中心として使用され続けました。現在残る天守台も、この時代に整備されたものと考えられています。

 

 

城跡は大正時代から武田神社の敷地として使用され、現在は武田氏館跡として国の史跡にも指定されていますね。あと、日本100名城でもあるのかな。

山梨県は何度かドライブに来たことがあるので、武田氏館も過去に何度か訪問したことがあると思うのですが、そのときのことは全く記憶に残っていないです()

武田氏館から北に2kmほどいった場所に、戦時に立て篭もるための要害山城が造られていました。この要害山城の付近にある積翠寺には信玄公産湯の井戸が残されているので、興味ある方はチェック忘れずに。

 

※動画は201210月に撮影・編集してアップロードしたものです。

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↑【武田氏館・周囲の状況】
平城でさほど防御力も無さそうな武田氏館ですが、建てられている場所は山脈の凹地であり、天然の防壁を活かした要地であることが窺い知れると思います。各尾根やポイントには武田氏館を守るための城砦を配置し、また、緊急時にはより要害性の強い詰の城である要害山城に篭城して抵抗できるように造られていました。

武田氏館、十分に要塞ですね。
実はこれと似たような場所をもう一箇所見たことがあります。川中島の海津城(松代城)周辺がそうなんですが、その話は海津城の項にて。

かつては有名な「人は城、人は石垣・・・」の例えと、信玄は甲斐国内に堅固な城を築かなかったという話がごっちゃになった事例を、自分も「いい例えだな~」的な感じで信じていましたが、いろいろ城廻りをしていくうちに明らかな誤認であることが理解できるようになりました。まあ、いい例えだとは変わらず思ってはいますが、そもそもこの発言自体も後世の創作みたいですしね・・・。

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↑【武田氏館の構造】
主郭部は武田神社設営の影響で破壊が一部みられますが、全体的には土塁も含めてよく残されているほうなんだと思います。徳川氏統治時代に整備されたと思われる天守台もあるのですが、神社社務所か何かの裏手に位置しているため、間近で見学することはできなくなっています。これがちょっと残念かな。

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↑【西曲輪・南虎口の枡形】
周囲を取り巻く水堀に目が行きがちですが、武田神社の建つ主郭の隣にある西曲輪の虎口には、明瞭な形で枡形が残されています。直線的で、さらに凹ませる形状の内桝形は面白いですね。あまり他大名の城跡では見たことない形状かも。

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↑【西曲輪・北虎口の土橋と枡形】
深い空堀の影響か、南虎口より雰囲気のある北虎口の枡形。形状的には南虎口と同じで、いつの時代のものかは判りませんが、石垣の痕跡が色濃く残されていました。

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↑【西曲輪】
西曲輪は武田信玄の嫡男である武田義信の結婚に合わせて新造された曲輪であると考えられているみたいです。
内部に残る段差は仕切りとして使用された名残なのか、はたまた後世に改変による影響なのか・・・。

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↑【姫の井戸】
主郭内に残る姫の井戸は、信玄公のご息女誕生の折に産湯に使用したことが名称の由来とされています。
この井戸の脇の施設の裏手に天守台が残されているのですが、そちらに立ち入ることはできないんですよね。残念。

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↑【天守台】
でも西曲輪の土塁上から、うっすらと石垣の存在を確認することができました。主郭内から見るともっと凄い感じみたいなんだけど、今はこれで我慢かな。
周囲の堀の側面も、往時は石垣で覆われていたのかも知れませんね。でも、甲府城の造成や、周囲に作られた段々畑の補強などで、多くは石材として転用されたいったということなのかも。

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↑【整備が進む大手】
主郭東の大手方面は調査が進み、公園として綺麗に整備されていました。
虎口前にはコの字型の石塁が復元されていますが、この石塁の下からは三日月堀が調査によって検出されています。それにしても、なんで改変したんでしょうかね?その理由が何となく気になってしまう・・・。

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↑【梅翁曲輪の堀跡】
西曲輪の南にあった梅翁曲輪。一部消滅してしまっていますが、面影はしっかり。

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↑【武田二十四将の館跡】
この武田氏館を中心として、市内には有名な武田二十四将の館跡とされる場所が、地図つきで案内として展示されていました。周囲を歩いてみると、ちらほらと各所に武将を紹介する案内が。

観光ネタ頑張ってるなと思いつつ武田氏館の散策も終了し、最後は記念に宝物殿を見学。ちょっと冊子などを買い物をしたついでに、この二十四将館について「パンフか何かあるんですか?」と尋ねてみたところ、主殿そばの社務所で聞いてみるとよいですよと教えてくれたので、ちょっと確認しに社務所でお伺いしてみたんですよ。
そうしたら露骨に面倒くさそうな表情をしながら、「そんなものはない。だいたい二十四将の館跡なんて何も根拠がないんだから、そんなこと意味ないでしょ。あんた馬鹿なの?」てきな感じで、はき捨てるように言われてしまいました。

出先でできるだけ揉め事起こしたくないですからね。笑顔で「そうですか~^^」って返事しましたけど、久々にちょっと切れそうになっちゃったかな。”観光のためとはいえ、勝手にこんなもの決めやがって。住民も迷惑してるんだぞ。”とか、いろいろ事情あるのかもしれんですけど、その態度はちょっといただけないっすよ。いや、マジで。

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↑【付近から見る要害山城】
武田氏館からでも、詰の城であった要害山城の姿を確認することができます。距離は2kmくらいだと思うんですけど、登城口に着くまでも緩やかな傾斜を登っていく感じになるので、徒歩だと意外と大変かも知れないですね。

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↑【積翠寺・信玄公産湯の井戸】
1521年、駿河・今川氏の家臣である福島正成が甲斐国に侵攻して来ます。初戦における福島勢の勢い侮りがたく、信虎はそのとき晴信(武田信玄)を身篭っていた大井夫人を万が一に備え、要害山城へ退避するよう命じました。その滞留中に晴信が生まれたため、この積翠寺の井戸は産湯に使用されたと今に伝えられています。

井戸は本殿の裏手にあるので、ちょっと場所が判りづらいかもしれませんね。よくよく見ると案内があるのですが、初回訪問時は時間がないと焦っていた事もあり、見つけることができませんでした。

ちなみに福島正成は「ふくしま」ではなく、「くしま」と読みます。後北条氏家中で黄八幡として知られる北条綱成の父親だと伝えられている人物ですね。昔、高城(たかぎ)と書いて、「たき」と読む方もいらっしゃいました。
漢字の読み方は本当に難しいですよね。日本語をある程度使いこなせる外国人を、自分は本当に尊敬しています。あれ?なんか話が城から逸れてきた・・・。

2014年1月13日 (月)

壬生城 【下野】 

場所:栃木県下都賀郡壬生町本丸(場所)

訪問:201312

形態:平城

遺構:一部の本丸堀と土塁・移築門(未確認)

指定:なし

駐車:

満足:★★★(3.0)

見所:歴史的に気になるのであれば・・・

 

壬生城は壬生氏2代目当主・壬生綱重によって築城されたと伝えられています。

 

壬生氏は初代・壬生胤業のときに宇都宮氏に勤め、戦国末まで5代続く壬生氏の礎を築きました。2代・壬生綱重は宇都宮氏の命で鹿沼氏を攻略し、鹿沼城に拠点を移しました。壬生城には嫡男で後に3代目となる壬生綱房を配置していたみたいです。

1512年に宇都宮成綱と芳賀高勝にの対立によって発生した宇都宮錯乱でも、綱重は宇都宮成綱に加勢して乱の鎮圧に協力し、宇都宮家中における壬生氏の権限を徐々に強めていきました。

 

3代目・壬生綱房はさらなる権限強化に努め、宇都宮家の宿老として芳賀氏・益子氏に次ぐ勢力にまで発展していました。

1549年、宇都宮尚綱が那須氏討伐に出陣して戦死すると、綱房はその混乱に乗じて宇都宮城を占拠するという行動にでます。那須氏とは和議を結び、壬生城には嫡男の壬生綱重を配し、居城の鹿沼城は弟の壬生周長(徳雪斎)に任せました。綱房は宇都宮氏家中をほぼ掌握し、敵対するのは真岡城に幼少の宇都宮広綱を匿う芳賀高定だけとなります。

ただ、この芳賀高定はなかなか手ごわい人物で、まずは尚綱の仇である那須烏山城主・那須高資を千本城にて誘殺させ、続いて綱房と共に宇都宮城を管理していた芳賀高照を殺害。それから間もなくして綱房も急死することから、この綱房の死も芳賀高定の謀略と言われることもあるみたいですね。

 

宇都宮城は跡を継いだ4代目・壬生綱雄が管理しますが、佐竹義昭に宇都宮城奪還の援軍を要請してその助力を得た芳賀高定によって、1557年に奪い返されました。

自身は鹿沼城へ退却し、壬生城は子の壬生義雄に任せますが、後北条氏の勢力拡大を助力に宇都宮氏からの独立を模索する綱雄と、その叔父であくまで宇都宮氏との共存を考える壬生周長(徳雪斎)が対立し、綱雄は1576年に壬生周長と芳賀高定の謀略によって鹿沼城の天満宮で暗殺されてしまいます。

 

鹿沼城を掌握した壬生周長(徳雪斎)は、勢いに乗って5代目・壬生義雄が治める壬生城に攻め寄せますが、壬生周長(徳雪斎)は義雄によって逆に討ち取られてしまいました。

義雄は後北条氏と結んで宇都宮氏と抗争を繰り広げ、秀吉の小田原征伐の際は小田原城に篭城して戦いました。ただ、小田原開城直後に義雄は病死してしまい、義雄に子がなかったため壬生氏は断絶とされてしまいました。

 

壬生氏が滅んだ後も壬生城は壬生藩の藩庁として使用され続け、最後は鳥居家が藩主を務める中で幕末を迎えました。戊辰戦争では宇都宮城を占拠した幕府軍に対する官軍の攻略拠点としても使用されています。

 

 

宇都宮氏・芳賀氏・壬生氏は何か歴史が複雑ですよね。何となく芳賀氏より知名度が劣っていそうなんだけど、戦国後期は下野南部で大きな勢力を築いていた壬生氏なので、ちょっと壬生氏のまとめ的な感じで壬生城の項は作成して見ました。鹿沼城を訪問してブログをあげるとすると、歴史紹介はこれとほぼ同じ内容になっちゃうのかな()

 

遺構の多くは早くに消滅してしまったみたいで、1948年時点で確認できる本丸堀も、1960年になると現在の範囲にまで縮小されてしまっています。絵図を見ると見事な丸馬出が描かれているのですが、だいたいの場所の目処はついたとしても、痕跡が残されていたようにはみえずといった感じ。

 

規模も小さいですし整備され過ぎてて味気ないですけど、周辺を散策したついでに立ち寄るくらいは十分にいけるんじゃないかと。壬生氏の重要拠点だった場所ですし、資料館もありますからね。

 

※動画の作成予定はありません

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↑日本古城絵図の壬生城図。大手には立派な丸馬出が存在していました。

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↑ただ、現在は本丸堀の一部が残るのみ。

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↑その堀も公園化によって、かなりいじられてしまいました。現地案内で改修前の堀の様子が紹介されていますが、これを見ると以前は空堀だったみたいですね。

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↑内側から見る土塁。
壬生城は、日光社参の復路の宿泊所として、宇都宮城の代わりに使用されることもあったみたいなんですよね。
ということは、本丸には将軍が宿泊するための本丸御殿が建てられていたのでしょう。

同じように宿泊所として使用されていた宇都宮城古河城は、将軍が城内に入る際に通る御成門や御成道沿いには、将軍家への配慮のためなのか石垣が用いられていました。
岩槻城は主要部が消滅しているのでよく判りませんが、この壬生城はどうだったんでしょうね。古城絵図からは、石垣の存在を確認することはできませんが。

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↑道路沿いの二の丸虎口だったあたりには、立派な門が復元(?)されていました。

市の公共施設に併設する、のどかな町の公園といった感じの場所です。城跡という先入観をもたないで訪れていたら、自分ももしかしたら城址公園だとは気付かないかも。

 

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