史跡

2014年4月20日 (日)

国府台合戦 【下総】 

場所:千葉県市川市国府台~千葉県松戸市松戸あたりまで 

訪問:20144月 

形態:古戦場 

満足:★★★(3.0) 

 

今年になって殆ど車を動かしていなかったんですよね。で、たまにはエンジンかけなきゃと思ってキーを久々にまわすもエンジンがかからない。電力がなくなってバッテリーが上がってしまっていました・・・。

セルもまわらなかったんで、本当に電気が底をついってしまっていたという状態なんでしょうね。こんな醜態演じたのは初めてです。

 

流石にこれは拙いよな。

ということで、当面のバッテリー充電を兼ねてちょっとドライブに行ってきました。行き先は国府台。

 

国府台というと古戦場ということで知られています。なので、心霊系でもたまに紹介されたりしますね。近代では病院(しかもなんと精神科病棟らしい!)などが建てられていたということもあるので、そういうもの好きな方にも堪らない場所なのかも。

 

古戦場ということで、まずはその合戦の内容を振り返ってみることにしましょう。国府台合戦と呼ばれる合戦は大きく分けて2度ありました。

・第一次国府台合戦 (1538:後北条氏vs小弓公方足利氏)

・第二次国府台合戦 (1563年および1564:後北条氏vs里見氏)

 

勝利したのはいずれも後北条氏。古い出来事なので合戦の詳細は不明ということが多いですが、それぞれの合戦の内容をわかる範囲で簡単に確認していきましょうか。

 

■第一次国府台合戦(1538) 

 

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※境界線は現在のものなので、往時の境界線はこれとは異なります。 

 

古河公方の内訌によって当主・足利利政の次男・足利義明が真里谷武田氏によって担ぎ出され、小弓城において「小弓公方」を名乗り、古河公方と対立していきます。

勢いにのった小弓公方・足利義明は1538年、安房・上総・下総の諸軍勢(安房里見氏・真里谷武田氏・庁南武田氏・上総土岐氏・上総酒井氏など)を率いて国府台に出陣。国府台には享徳の乱の際に太田道灌が陣城を築いたことがあったので、その跡地を活用して小弓公方も陣城の構築を行いました。

小弓公方軍は国府台~松戸まで、太日川に沿うように連なる台地上に陣取ります。足利義明は松戸城、もしくは相模台のあたりに陣を構えました。

 

程なくして後北条氏と合戦になり、足利義明が戦死。小弓公方軍は潰走状態となり、小弓公方はこの合戦をもって滅亡してしまいました。

なお、小弓公方の登場により領土を圧迫されていた下総(馬加)千葉氏ですが、小弓公方の滅亡によって国府台のみならず小弓などの旧領を回復させることに成功しました。

 

第一次国府台合戦はざっとこんな感じですね。続いて第二次国府台合戦にうつります。

 

■第二次国府台合戦(1563年および1564) 

第一次国府台合戦の勝利により、後北条氏は下総のみならず上総にまで勢力を伸ばしていきました。上総酒井氏や上総武田氏も後北条氏の影響下に組み込まれていき、1554年には里見氏の本拠である久留里城を攻撃するほどまでに勢力を広げていきます。

この時の里見氏は大変なピンチで、後北条氏の援助の下に峰上城では吉原玄蕃助が里見氏に対してゲリラ活動を行っていましたし、小糸(秋元)の秋元氏や造海(百首)の内房正木氏も後北条方に降伏。遂には里見氏の上総におけるもう一方の重要な拠点であった佐貫城が陥落するなど、まさに風前の灯といった状態にまで追い込まれてしまっていました。

しかし、1560年に越後の上杉謙信が関東に出兵すると流れが一変。越後勢への対応で手一杯になった後北条氏をよそ目に、里見氏は上総のみならず下総にまで急速に影響力を拡大させていき、ついには下総千葉氏に対して次々と攻勢をかけられるまでに勢力を強めていきました。

そんななかの156211月、謙信が越中攻めにて関東を空けているその間隙を突いて、武田・後北条連合軍が武蔵・松山城に攻撃を仕掛けます。この武州松山城は上杉氏の武蔵における重要な要衝で、ここを奪われるということは武蔵における上杉氏の影響が大きく後退してしまうということを意味しており、謙信としては何としても死守しなければならない重要な拠点でした。

 

ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、ここから第二次国府台合戦の件に突入します。

雪で思うように動きが取れない謙信は後北条氏への牽制として、里見氏に後北条氏領への攻撃を要請します。要請を受理した里見氏は軍勢を国府台まで出陣、一方の後北条氏側は防戦のために江戸城とその支城の葛西城から富永直勝と遠山綱景が出陣しますが、15631月に両軍は第一次国府台合戦同様の国府台~松戸まで太日川に沿うように連なる台地付近にて激突し、合戦をおこないました。この1563年の合戦は里見氏が後北条勢を見事に打ち破り、勝利を飾りました。

(補足:出陣と記しましたが、里見氏と後北条氏は1561年には既に葛西城の争奪戦を繰り広げていたみたいなので、当該台地は1561年には里見氏の前線基地として使用されていた可能性も考えられます)

合戦では後北条側の富永直勝と遠山綱景、舎人恒忠などが討ち死に。このときの合戦は現在の松戸市矢切近辺が特に激戦となったみたいで、当地には様々な伝承が残されているみたいです。

 

謙信は急いで松山城に向かいますが、松山城の守勢は武田・後北条連合軍の攻撃の前に抗しきれず、15632月に開城・降伏してしまいました。なお、この年の謙信はこの後に忍城騎西城唐沢山城祇園城結城城など後北条氏寄りの姿勢を見せていた諸勢力を次々と攻略して、関東での地盤固めに奔走します。

 

武蔵では岩槻城の太田資正が後北条氏に反抗的な姿勢を見せ続ける中、15641(もしくは2)に国府台付近の台地で再び後北条軍と里見軍が激戦を繰り広げました。

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この合戦では後北条勢は正面渡河で攻撃を仕掛けるのではなく、市川南部や舟橋など台地の南東近辺をまず制圧し、その後に台地上に陣取る里見勢に攻撃を仕掛けていったみたいです。攻勢には恐らく北松戸の小金城を拠点とする高城氏も加わっていたことでしょう。

この戦いで重臣・正木信茂などが戦死するなど里見氏は大敗を喫し、戦線を上総南部まで後退せざるを得ない状況に追い込まれました。引き続き後北条氏の圧力が強まる中、里見氏は佐貫城そばで発生した三船山合戦に勝利して意地は見せるもののそれは束の間の勝利でしかなく、これ以降の里見氏はついに以前の勢いを取り戻すことが出来ないまま、戦国時代を終えていくことになります。

 

 

ちょっと長くなりましたが、ここまでが国府台合戦のだいたいのあらましですね。

解説の中でも触れていますが、合戦の舞台になったのは国府台~松戸あたりまでと幅広いです。

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3Dではないものの、こうしてみると地形の凹凸が何となく掴み取れますよね。グーグルアース、本当に偉大です。

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ちなみに往時の太日川流域はこんな感じだったみたいですよ。実際、松戸~矢切くらいまでは湿原が広がっていたみたいですが、場所によっては本当にこんな感じのところもあったんでしょうね。

 

 

特に目立った遺構が残されているわけではありませんが、めぼしい場所をいくつか訪問してみました。最後に軽く紹介していきたいと思います。

 

■国府台城址 (場所) 

 

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里見公園の案内図。このうち、それっぽい雰囲気が残されているのは公園左上の敷地です。

病院として使用されていたのは公園の南側ということなので、左上側は多少は昔の面影が残されていると考えていいのかな?

 

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園内に残された土塁。実はこの土塁は前方後円墳の名残なんだそうで、今は露出した石棺が配置されています。周囲には他にいくつか同様の土塁が残されているけど、それらも古墳の名残なんでしょうね。

国府台城と呼ばれる陣城も、この古墳を土塁代わりにうまく活用して構築されていたのでしょう。

 

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そのうち一箇所には「市川市最高標高地点」の案内が。

 

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「夜泣き石」と「里見軍将士亡霊の碑」。

ちなみに戦死した正木信茂の妻・種姫は出家して尼になり、隠遁生活をして余生を過ごしました。そしてこの種姫こそが南総里見八犬伝に登場する伏姫のモデルになった人物だとも言われているみたいです。

※南総里見八犬伝に興味のある方はこちらの記事もどうぞ(伏姫籠穴八房生誕の地

 

■矢切 (場所) 

 

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1563年の戦いで大激戦が繰り広げられたという矢切。

ちなみにこの矢切という地名の由来は国府台合戦にあるみたいで、この戦乱に大変苦しんだ当地の住人が弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれたと伝承されているんだとか。でも矢喰村とかなんか嫌だなぁ。

余談ですがこの切通し、えらく交通量が多かったです。ちょっとだけ西蓮寺も見てみようと思ったけど、そういった訳でこれは断念。

 

■相模台 (場所) 

 

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松戸市役所や駅周辺の市街地などに突き出すような形でそびえる高台が相模台です。

台地上は教育施設や公園などとして使用されていて遺構などは全く残されていませんが、聖徳大学のキャンパス内に経世塚という供養塚が残されていました。

 

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【おまけ】松戸中央公園の正門は旧陸軍工兵学校歩哨哨舎時代のレンガ建造物です。

 

自分は訪問しませんでしたが松戸城址(戸定が丘歴史公園)や国分寺など、国府台合戦の面影は他にもいくつか点在しています。興味ある方はぜひ。

 

2013年9月16日 (月)

品川台場【第三台場】

1853年、米のペリー率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航。江戸幕府に対して開国を迫りました。
これに脅威を感じた幕府は海防のために台場を各地に設置していきますが、この品川台場もその時に建造された要塞のひとつです。
品川台場の建設を指揮したのは伊豆・韮山代官の江川英龍。洋式の海上砲台を11基建造する予定でしたが、建造された台場は未完も含めて8基(洋上7基、御殿山の山下台場1基)でした。

埋め立てなどの要因で埋没、または撤去され、現在残されているのは2基のみですね。そのうち忍藩が防御を担当したという第三台場は都立台場公園として整備され、往時の御台場の雰囲気の一端を感じることが可能です。

都内って意外に保存状態の良い史跡が多いんですよね。同潤会アパートや九段会館のように耐震性などの問題で最近取り壊された建物(まあ、これらは史跡ではないですが)もありますけど、都市化が進んでも何気なく残る史跡の数々。前方後円墳などが有名かも知れませんが、古絵図などを頼りにぶらりと散策してこういった史跡を探してみるのも、なかなか楽しいものですよ。


※ニコニコ動画はこちら

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↑往時の台場の位置関係を見てみると、埋め立てによって随分と景観が変わっている事が判りますね。
現在残されているのは第三台場と第六台場のみですが、6番台場は立ち入り不可な為、確認できるのは台場公園として整備されている第三台場のみです。

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↑【往時の台場】
洋上に構築された第一台場~第六台場までの往時の姿。
第七台場は海中の土台しか造られなかったみたいなので、写真がないですね。

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↑【レインボーブリッジから見る第三台場と第六台場】
現在の台場の姿ですね。レインボーブリッジ、この撮影のために始めて徒歩で歩きました。

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↑【第三台場】
現在訪問できる第三台場は四角形ですが、殆どの台場は五角形をしていました。
俗に稜堡式と呼ばれる形状ですね。西洋から取り入れられた、当時としては最新式の築城技術です。

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↑【陣屋跡】
第三台場の中央付近には休憩所などに使用された陣屋が建てられていました。
それにしても、このコンクリートの構造物は何なんでしょうね。陣屋の土台を判りやすく再現したものなのか、はたまた近代以降に建てられた建造物の名残なのか・・・。

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↑【弾薬庫】
夏草に埋もれた弾薬庫跡。入り口は封鎖されているので、中に入ることはできません。

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↑【かまど場】
非常に目立つオブジェクトですが、かまど場は江戸時代のものではないとの旨が案内に記されていました。
もしかしてここ、キャンプ場みたいな使われ方をしていた時代があるのかな?なんでそう思うのかは後述・・・。

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↑【火薬庫跡】
土塁に囲まれているこの場所は古図によると火薬庫だったみたいですね。
二箇所のうち一箇所はかまど場として使用されて、もう一方には建物が建てられていたような雰囲気。

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↑【砲台跡】
オブジェクトですが、こういったものがあると雰囲気がでていいですね。
この方面には5挺のカノン砲が設置されていたみたいです。

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↑【波止場】
埋立地が広がって陸続きになるまでは、ここから上陸していたんですね。
コンクリートになっている箇所は近代に補強された部分なんでしょう。

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↑【公園施設の廃墟】
木々に埋もれた区画には、池や水飲み場などの痕跡が廃な雰囲気で残されていました。
ひび割れた池跡は歩くと地面に靴が沈み込んだので、もしかしたら現役なのかも知れないですね。

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↑【土塁跡と思われる土盛】
周囲を囲む大規模な土塁の上にも、土塁と思われる土盛がところどころに残されていました。
これも土塁の遺構だとしたら、もしかしたら竹ヶ岡砲台大房岬台場で見られる土塁のように切込みを入れて、そこで大砲を固定していたりしていたんでしょうか。


2013年8月30日 (金)

犬掛古戦場跡【里見家の墓・八房伝説】

戦国時代、関東制覇をもくろむ後北条氏と激しく争った安房・里見氏。里見氏は里見義堯の代に最盛期をむかえ、最大版図を築き上げました。
この義堯という人物、戦国物のゲームなどでもよく登場するので里見歴代当主の中でも一番知名度が高いかもしれませんね。ただ、この義堯は当主になるまでも一悶着あったりして、平穏無事に里見家の当主になれた訳ではありませんでした。そうですね、俗に言う「天文の内訌」です。

■天文の内訌
義堯が当主になる以前の里見家は里見義豊という人物が当主を務めていました。
そんな中、海向かいの相模では伊豆の後北条氏が徐々に勢力を伸ばしてきていて、1516年には名族・三浦氏を新井城にて打ち倒し、遂には相模国を完全に掌握してしまいます。

三浦半島と南房総は海で隔てられているとはいえ非常に至近距離です。勢いのある後北条氏が安房水軍を率いる里見氏をそのまま放っておく筈が無く、後北条氏は里見氏に対して工作活動を仕掛けました。近年里見家内で勢力を伸ばしていた義豊の叔父である里見実堯と正木道綱を裏から援助して、現当主である里見義豊を倒してしまおうという訳です。

ただこの工作活動は途中で明るみに出てしまい、里見義豊は小弓公方・足利義明の承諾の下、里見実堯と正木道綱を本拠である稲村城に呼び出して誅殺。さらにはその勢力を駆逐するため、実堯の本拠であった金谷城を攻撃して実堯の息子・義堯を追い出します。
追い出された里見義堯は上総・真里谷武田氏の城である造海城(百首城)に篭って後北条氏に援助を要請。後北条氏の援助を取り付けた義堯は正木時茂と共に金谷城で挙兵し、後北条氏の援軍と力を合わせて安房国を攻撃、今度は義豊を安房から追い出してしまいます。
義豊は真里谷信清の元に逃走しますが、再起を図って軍を興し、再び安房国内に戻りました。その際に義堯の軍と激突したのが、この犬掛古戦場跡です。
この合戦で義堯は義豊を打ち破り、安房の勢力を完全に掌握することに成功しました。敗れた義豊は戦死、もしくは自害したと伝えられています。

天文の内訌に関してはざっとこんな感じですね。
義堯は主家を倒して家督を奪ったため、義豊までの里見氏を前期里見氏、義堯以降を後期里見氏と分けて呼ぶことが多いです。
里見義堯はこの後、小弓公方に接近して後北条氏と対立し、上総の真里谷武田氏を倒して領土を拡げていきました。戦国の世の話なので分家が本家を倒したり過去に助けてもらったこともある勢力を後に攻撃するなどさして珍しい話でもありませんが、こう見ていくと義堯は下克上の典型といった感じがしてしまうかもしれませんね。ただ、義堯の人柄と勇気は敵国であった後北条氏からも認められていたという話も見られるので、事象だけで単純な判断はできませんが。


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↑犬掛古戦場と周辺図。
今の館山市のあたりには平地が広がっていますが、その穀倉地帯を望む三芳に昔は国衙がおかれていました。
犬掛古戦場は上総方面からその安房中心地へと抜ける通路のような谷あいの途中にあり、昔は戦略上重要な土地だったことが推察されます。

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↑【犬掛古戦場】 →案内の場所
今は静かな田園が広がっているのみなので、普通に訪れても全く気がつくことは無いでしょうね。
案内もありますが、殆ど人は訪れていないんだろうなー。

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↑【里見義道・義豊の墓】 →場所
里見義道・義豊親子のお墓。もとは大雲院(廃寺)にありましたが、明治42年(1909年)にこの場所に移設されました。
墓は室町時代の多層塔です。

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↑【春日神社(八房伝説)】
犬掛は南総里見八犬伝に登場する八房の生誕地なんだそうです。


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↑余裕があれば正面中央の山に残る「里見番所」の遺構を確認しようと思っていたのですが、暑さで精神的余裕が無くなったので、今回はキャンセルです。
滝田城や勝山城の場所も判ったので、シーズンがきたらまとめて訪問しようっと。



2013年7月24日 (水)

江川家住宅(韮山代官所跡)

場所:静岡県伊豆の国市韮山韮山(場所)
訪問:2013年6月
指定:重要文化財
駐車:有

韮山城とは城池を挟んだ反対側には韮山代官所がありました。韮山代官は代々江川氏が勤め、夏は江戸、冬は韮山に常駐していたみたいです。
江川氏は平安末期から当地に居を構える名家らしく、韮山を支配するその時代時代の権力者に仕えて家を存続してきました。

江川氏の中で特に著名なのは、幕末期の江川英龍ではないでしょうか。自分は光栄から発売されていた「維新の嵐」にはまっていた時期(始めは88版で後に98版をプレイ)があるので、名前だけは存じていました。
この江川英龍、調べてみるとなかなかの人物で、斎藤弥九郎(神道無念流/練兵館の創立者)とは深い親交をもつだけではなく、砲
学者として著名な高島秋帆に弟子入りして砲術を学び、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが英龍の門下生として学びました。そうそうたる面子です。

変わったところでは、日本で始めてパンを焼いたのも江川英龍みたいです。あと、集団行動時によく号令として使われる"気をつけ"や"回れ右""右向け右"などの掛け声も、英龍が組織したとされる西洋式軍隊で始めて使われたのだとか。

江川邸や郷土資料館は有料ですが、いろいろな資料が揃っていて楽しいです。案内の方もいらっしゃるので、いろいろ質問しながら展示資料を見れるのが良いですね。
シャイな自分はさっと資料を拝見するだけで終わってしまいましたが。

※動画はまだ作成していません
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↑入口。
江川邸単独で\300、郷土資料館とあわせてだと\400だったかな。単独での拝観料はハッキリ覚えていないので曖昧です。すみません。

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↑母屋。中部には資料が展示してあり、係りの方がいろいろな説明を行っていました。
たまたまかもしれませんが、何気に結構な数の来訪者がいてびっくり。シャイなので、見学もそこそこに次の場所へ移動です。

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↑西蔵。正面から見ると将棋の駒のような形をしていることから、駒蔵とも呼ばれているみたいです。
あと、軒の屋根が瓦でなく伊豆石で葺かれているのが特徴なんだとか。

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↑でも、すぐ横にある蔵は瓦でした。こちらも昔は伊豆石が使用されていたのかな。


この裏手にある台地が江川砦です。訪問前はこの江川邸から見学できるかなと思ったんですけど、どうも無理っぽいですね。城池の方面からは入れると思いますが、江川家の私有地なので無理はしないほうが良いかもしれません。

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↑【品川台場の資料】
幕末、東京湾に構築された品川台場の資料。この品川台場も江川英龍が指揮して構築していたんですね。昔は6基あった品川台場も、現在残されているのは2基のみ。周辺はお台場として開発され、第三台場はいつでも訪問することが可能です。



2013年7月19日 (金)

伝堀越御所跡 【伊豆】

場所:静岡県伊豆の国市四日町(場所)
訪問:2013年6月
形態:平城
遺構:なし
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★(2.0点)

室町時代、室町幕府の中心は京都にありましたが、前政権の中心であった鎌倉には鎌倉公方を配置して東国(主に関東)を治めていました。
この鎌倉公方、初代の足利基氏は足利尊氏の四男で、家系的には将軍と非常に近かったんですよね。幕府にとって鎌倉公方はそ
れだけ重要なポジションで、鎌倉公方の補佐役として上杉氏(関東管領)を配したことからも察することができます。

ただ、その権力から増長が発生したのか判りませんが、鎌倉公方は代を重ねるごとに幕府との軋轢が強まっていきます。そんななか、ついには関東管領とも対立が発生し、1416年には上杉禅秀の乱が勃発。この反乱をきっかけに関東は長い戦乱の時代に突入しました。

永享の乱で鎌倉公方は一旦滅亡しますが、結城合戦などを経て再び再興を許されます。しかし程なくして鎌倉公方はまたも上杉氏と対立し、今度は鎌倉を追い出されて下総・古河に本拠を移します。これが世に言う享徳の乱ですね。扇谷上杉家臣・太田道灌が活躍した時代です。
利根川を境に管領上杉方と古河公方の勢力が対峙して享徳の乱は30年近く続くことになるのですが、時の将軍・足利義政は古河公
方・足利成氏への対抗策として異母兄の足利政知を関東管領に命じ、関東に送り込みました。ただ、政知は扇谷上杉氏などの支持が得られなかったため、妨害を受けて鎌倉には入れませんでした。
そのため政知は伊豆の堀越に入り居を構え、堀越公方と称しました。

前置きが非常に長くなってしまいましたが、その堀越公方が居を構えたとされる場所が、ここ、伝堀越御所跡です。
ちなみに堀越公方は2代目・茶々丸のときに興国寺城を本拠にしていた伊勢新九郎(宗瑞/北条早雲)に攻められ、滅ぼされてしまい
ました。茶々丸は傍にある願成就院において自刃、もしくは伊豆を脱出した後、甲斐国にて捕縛されて自害したと伝えられています。

発掘調査は何度も行われたみたいで池跡などが発見されているようですが、案内があるだけで今はたんなる野原です。正直いって公園と呼ぶのも微妙な感じ。
史跡公園に向けての構想はあるみたいですが、ネックはやはり土地問題みたい。

案内は立派なので、ちょっと立ち寄って感慨にふけってみるのはありですかね。
あとこの一帯は北条氏(後北条氏じゃないですよ、本物の北条氏です)に縁がある土地だったみたいで、周辺には北条氏関連の史跡が残されています。
伊豆の中でも古くから重要な場所だったんでしょうかね。あわせて散策してみては如何でしょう。

※動画はまだ作成していません

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↑伝堀越御所跡は韮山城からそう遠くない場所にあります。

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↑周辺地図。この守山周辺は鎌倉幕府の執権として権勢を誇った北条氏に縁の深い場所みたいで、北条氏関連の史跡も点在しています。そういうこともあって、堀越公方もここに居を構えたということなんでしょうか。

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↑【伝堀越御所跡】
現状では単なる野原ですね。
20回に及ぶ発掘調査によって池跡などは発見されているみたいなのですが、建物の痕跡は未だ見つかっていないみたいです。史跡公園に向けての整備計画なるものがあるみたいですが、現状ではちょっと難しいのかな。

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↑【北条政子 産湯の井戸】
非常に有名な人物だと思うので、説明は不要ですよね。
伝堀越御所跡の反対側に、この産湯の井戸は残されています。

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↑【北条氏邸跡】
守山に詰めの城を築いて、周辺には北条氏の館が建ち並んでいたんでしょうね。


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自分はこれで散策を止めてしまいましたが、北条時政公墓所や北条氏一族の供養塔など見所はたくさんあります。
韮山城や韮山反射炉などとあわせて、じっくり散策してみてはいかがでしょう。

2013年7月11日 (木)

水野忠邦の墓

場所:茨城県結城市山川新宿(場所)
訪問:2013年6月
指定:県指定史跡
駐車:有

水野氏は戦国時代、刈谷城を本拠として西三河に勢力をもつ豪族でした。西三河といえば松平氏(後の徳川氏)が有名ですが、水
野氏と松平氏は頻繁に通婚するなど、比較的良好な関係が保たれていたようです。家康の母、伝通院も当時の水野家当主だった水野忠政の娘ですしね。

尾張において織田信秀が台頭し勢力を拡大すると、水野氏は織田氏に協力するようになります。一方の松平氏は今川氏に従属するようになりますので一時は反目しあいますが、桶狭間の戦い以降は織田氏と松平氏が締結した清洲同盟を仲介するなど、その関係は以前の状態に修復されていきました。

1575年、水野氏は武田勝頼との内通を信長に疑われ、当時の当主だった水野信元(忠政・次男)は殺害、水野氏も断絶とされてしまいます。
その後の刈谷城は佐久間信盛(有名な退き佐久間です)が管理するところとなりますが、その佐久間信盛が1580年に織田家から追
放されると、信元から離れて家康の麾下で働いていた水野忠重(忠政・九男)が信長の命によって刈谷城に入り、織田家の武将として水野氏の再興が許されます。
その際、尾張・緒川城には忠守(忠政・四男)が城主として入りました。

徳川の世になると、水野氏の一族は多くの藩を興します。
宗家というか忠重の跡を継いだ勝成(忠重・長男)の系統は三河刈谷藩・大和郡山藩主・備後福山藩などを経過して、最後は下総結城
として幕末まで存続。
勝成の弟・忠清(忠重・四男)の系統は上野小幡藩・三河刈谷藩・三河吉田藩・信濃松本藩などを経過して、ここも駿河沼津藩として幕
末まで存続します(ただ、最後は明治元年に移封となった上総菊間藩ですけど)。
他にも鶴牧藩として幕末を迎えた系統など盛りだくさん。

で、前置きが大変長くなってしまいましたが、ようやくここで本題に入りたいと思います。今回訪問した水野忠邦の系統の話ですね。
忠邦の系統は水野忠重の時代、緒川城主となった忠守の三男・忠元を祖とする系統です。忠元は幼少の砌(みぎり)より徳川秀忠に
仕え、領地として下総山川藩を賜りました。この系統の水野氏は駿河田中藩・三河吉田藩・三河岡崎藩・肥前唐津藩を経過して、最後は羽前山形藩主として幕末を迎えることになります。

水野忠邦は肥前唐津藩第4代藩主(系統としては11代目)であり、1839年には老中となって天保の改革を実施しました。幕府の財政難を解消するために商人の談合を制約して物価の引き下げを図ったり、倹約令をだして生活や風俗を厳しく統制したのですが、民衆や大名の反発を招いて失脚してしまいました。余談ですが、このとき側近として働いていた遠山景元という人が、かの有名な「遠山の金さん」のモデルになった人物だということですね。

ここ、史跡名としては水野忠邦の墓となっていますが、どちらかというと忠邦までの水野家累代の墓と呼んだほうが正しい感じです。水野氏が山川藩主だったのは2代・忠善までなのですが、初代である忠元が大名になったことを記念し、許可を得て菩提寺である万松寺に墓所が建てられました。万松寺は1855年の火災で消失した後、明治5年に廃寺になったため残されていませんが、墓所だけは今でもしっかりと残されています。
ただ、2年以上の月日が経過した現在でも東日本大震災の影響が色濃く、倒壊した状態のお墓が数多くありました。それぞれがか
なり立派な墓所になっていたみたいで、それだけに復旧といっても簡単にはいかないのでしょうね。傷ついた石を直そうにも相当な修復費用がかかりそうですしね。いつか元に戻る日がくればいいのだけど・・・

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↑墓所の入口。敷地は当然立ち入り禁止です。
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↑それぞれが立派なお墓だっただけに、なおさら修復が大変っていう状態に思います。うーん、残念。
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↑徐々に修復が進んでいるのだと思いたい・・・

2013年5月 5日 (日)

塚原卜伝の墓

場所:茨城県鹿嶋市須賀(場所)
訪問:2013年4月
駐車:有

嶋崎城から林外城へ移動してる最中に案内を見つけたので、ついでに立ち寄ってみました。塚原卜伝はあまりにも有名だと思うので、特に解説は不要ですよね。つい最近までNHKにて堺雅人主演でドラマを放送してましたし。

ちょっと後悔なのが塚原城を訪問しなかったこと。鹿島城を訪問する際には塚原城もあわせて訪問しようとずっと考えてはいたのですが、今回ネットで塚原城のことを調べてみると結構な薮らしいとの情報だったので、訪問予定から外してしまったんですよね。薮突も微妙な時期にさしかかってきたので、仕方なかったと思います。
卜伝のお墓にきて塚原城への訪問意欲が再燃したんですけど、場所が判らないので如何ともしがたく、今回はパスしました。また機会があれば訪問してみたいですね。そう、機会があ
ればね・・・

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↑ちょっと奥まったところにあるのですが、案内がしっかりしているので迷うことは無いと思います。
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↑塚原卜伝のお墓
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↑そう遠くないところに塚原城はあります。ついでに立ち寄ってみるのも悪くないですね。

2012年9月29日 (土)

石田堤

忍城に続いて石田堤です。

■忍川沿いに今も残る石田堤(場所はここです)

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↑石田堤の案内および碑。

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↑この付近には石田堤がよく残されています。

■石田堤史跡公園(場所はここです)

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↑三成の水攻めの様子が絵物語で展示されていました。

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↑復元された石田堤。

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↑日陰に展示してないと色褪せしちゃって探せません(汗)。こんな場所じゃ耐候インク使っても限界あるかと・・・

■さきたま古墳公園(丸墓山古墳の場所はここです)

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↑公園内の丸墓山古墳は石田三成が本陣を構えたところであると伝えられています。

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↑その丸墓山古墳。さきたま古墳公園には他にいくつもの前方後円墳を見学することができ、いろいろ楽しそうな場所です。

忍城の動画の中で一緒に石田堤も紹介しています。よろしければ見てやってください。

2012年8月29日 (水)

吉見百穴

今回は城ではなく史跡紹介です。

埼玉県比企郡吉見町に残る吉見百穴は横穴式のお墓が残されていることで有名(?)な場所ですね。たしか歴史の教科書にも載っていたような気が・・・。ちなみに吉見百穴は国の史跡に指定されています。

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↑吉見百穴。昔はコロボックルの住居だと思われていたとか。

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武州松山城は吉見百穴のすぐ隣です。

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↑別の横穴墓。内部の削った跡に見えるのは落書きですかね?

このあたりは地質が軟らかく、比較的楽に穴を掘ることが可能みたいなんです。そんな事情も手伝ってか、戦時中には地下軍需工場も設営されました。

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↑ぽっかり開いた軍需工場入口。

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↑内部。公開されているのはほんの一部で全体は結構大きいみたいです。松山城下にも広がっているのだとか・・・。

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↑ヒカリゴケの生息地や危険な場所へのルートは封鎖されています。

案内には朝鮮人労働者に関しての記述がありました。朝鮮人労働者と聞くと、それこそ奴隷のような扱いを受けながら、日本軍によって強制的に労働を強いられた人々だと勝手に解釈してしまう方もいるみたいですが、果たして本当にそうなんでしょうか?

~おまけ~

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↑松山城壁面に存在する岩窟ホテル高壮館。

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↑在りし日の内部。茶屋で確認できます。

武州松山城といえば有名なのが武田軍の坑道作戦。なんでも吉見百穴からこの作戦は連想されたんだとか。
聞いてみたらあの話は嘘ですときっぱり否定されてしまいました。残念、まあ小説の脚色だとしてもそういったことを想像させる場所ではありますけどね。