地域 - 茨城

2014年5月10日 (土)

菅生城 【下総】

場所:茨城県常総市菅生町(場所) 

訪問:20145月ほか 

形態:平山城 

遺構:不明 

指定:常総市指定文化財 史跡 

駐車:道の脇にでも 

満足:(1.0) 

見所:案内から往時を偲ぶ 

 

築城時期など不明点は多いみたいですが、菅生越前守胤貞が在城していたことを記す文献が確認されているみたいです。1560年、弓田城の染谷氏と合戦になり、横瀬能登守永氏に攻められて菅生城は落城しました。

1576年、多賀谷氏に侵攻によって染谷氏が降伏。1577年にはこの菅生城も多賀谷氏の侵攻を受けたようです。1589年には筒戸城まで多賀谷氏が押し寄せていることから、それ以前には多賀谷氏によって制圧されていたものと思われます。

 

目印と呼べるものが少ないので、ちょっと場所がわかりづらい城址だと思いますね。googleのストリートビューを見ていたら、新しく新設された道路沿いに案内板の存在を確認できたので、守谷城訪問のついでに立ち寄ってきました。相馬氏関連(おそらく)でもありますしね。

この新設された道路のおかげで、以前よりは城山に近づきやすくなったと思います。ただ、城山の状態などは以前のままなので、訪問するまでの意味があるかは微妙ですが。

 

平成18年に発掘調査がおこなわれ、畝堀などが検出されました。ただ、現在は埋め戻されているので、畝堀を確認することはできません。

 

※動画の作成予定はありません

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


1b
↑【菅生城の概略図】

湿地に囲まれた台地で、城館を構えるには最適の場所ですね。


0_02_2
↑【周囲の状況】

西側から見る城山。だだっ広い耕作地といった趣なので、場所がちょっと特定しづらいかも。


0_03_2 0_04_2
↑【城山】

城山は藪が凄まじいので、とても入ろうという気持ちになりません。

この城山も発掘調査は行われたんでしょうか?主要部だったと思うので、何かしらの遺構が残されていそうな気がするのですが。

0_07

↑【堀の痕跡?】

 城山の西側。農道のようなスロープが残されていますが、こういったものも堀の痕跡なんでしょうね。

0_05 0_06
↑【Ⅱ郭】

どのような役割を担っていたのか、いまいち想像できないⅡ郭。

城山より藪の状態はマシでしたが、それでも何がなんだか・・・

2014年5月 8日 (木)

筒戸城 【下総】

場所:茨城県つくばみらい市筒戸(場所) 

訪問:20145月 

形態:平山城 

遺構:堀など 

指定:なし 

駐車:禅福寺の駐車場を拝借しました 

満足:★★(2.0) 

見所:案内から往時を偲ぶ 

 

筒戸城は1559年に相馬氏の一族である筒戸氏によって築城されましたが、1589年に多賀谷氏に攻められて城は落城し、その後に廃城になったと伝えられているみたいです。

 

牛久城を拠点としていた岡見氏でもそうでしたが、この時期の多賀谷氏の攻勢は凄まじいものがあったんですね。相馬氏の居城である守谷城と筒戸城は直線で1kmほどしか離れていないので、相馬氏もかなり苦戦していたということなんでしょうか。

 

低湿地に囲まれた平山城といった面影はよく残されているのですが、遺構は正直殆どわかりませんでした。まあ、そんなに時間をかけて歩き回った訳ではないのであれですが、そこまでしなくてもいいかなーなんて。

全体的に住宅が点在する普通の耕作地なんで、ウロウロ歩き回るのも何か気が引けるんですよね。

 

案内板が設置されているのは本当に有難いですね。旧状がなんとなくでも把握できたので、とても助かりました。

 

※動画の作成予定はありません

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

1 2
↑【筒戸城の概略図】

現地案内を元に簡単に作成してみました。


0_01
↑【台地下(西南側)から見た筒戸城】

地形は平山城だった面影をよく残しているように思います。


0_02
↑【本丸北の堀跡】

現在は通路として使用されている本丸北の堀。城跡としての雰囲気を一番感じれる場所なんじゃないかと。


0_03
↑【土塁跡?】

遺構かは不明ですが、その堀の脇には土塁が残されていました。


0_04
↑【禅福寺】

禅福寺さんを目印に向かえばたぶん到着できると思います。

 

すぐ東隣の台地には妙見八幡社の存在が確認できます。これも城址だったことを現す面影のひとつなのかもしれませんね。

2014年5月 5日 (月)

守谷城 【下総】

場所: 茨城県守谷市本町(場所)

訪問:201111月ほか

形態:平山城

遺構:曲輪・馬出・枡形・空堀・土塁・土橋など

指定:市指定史跡

駐車:

満足:★★★★★(5.5)

見所:堀・土塁もかなり良いのですが、主郭・二郭に残る枡形が一番の見所だと思います

201211月の記事に若干の修正を加えました

【概要】 ※Wikipediaから転載
 
平将門の創建と言い伝えられている。当時は霞ヶ浦に連なる大湖沼地帯に面し、本丸のあった出島の部分のみの天然の要塞であった。源経基が3万の軍で将門城を攻め落とした。
その後、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常が相馬一郡を領有し拡張され5連郭からなる相馬治胤の城(相馬城)となっていたが、豊臣秀吉の小田原征伐での後北条氏没落により、浅野長政軍が松戸小金城を落した次に、天正18年(1590年)5月相馬城を攻め落とした。徳川家康が関東に移封されると文禄2年(1593年)土岐定政が守谷領を受取り入城し、6連郭の城とし城下町や寺社を整備する。 
土岐氏・酒井氏が去った後、守谷城は空城となったが土岐氏の整備した近代的城下町が残り脇往還路、宿場として繁栄し、今日に至る。
 
相馬氏というと奥州が有名かもしれませんが、出自は千葉氏なんですよね。なので、衰退したとはいえ下総相馬氏は守谷城を本拠に存続していました。
現在残されているのは中心部のみですが、本来は外郭を備えた大きなお城だったみたいですね。各郭の繋がりなど、往時の状態がわかりづらい部分もありますが、宅地化が迫る中でも良く遺構が残されている城跡だと思いますよ。

 

※動画は20145月に撮影・編集したものです 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

_ _01

↑【古城絵図と1960年代の守谷市の状況】

この頃はまだ宅地化も進んでいないので、まだまだ古城の面影が多く残っていそうな感じですね。

__2

↑【守谷城の鳥瞰図】

現地の鳥瞰図にいろいろと注釈を加えてみました。

Moriya_001_
↑現地案内図より抜粋した城跡概要図。

Moriya_004_ Moriya_003_b_3
↑案内には調査された土塁に関しての説明も用意されていました。

Moriya_005__2
↑その案内板の辺りから見た守谷城の中心部。この中心部と堀以外は宅地化によって消滅してしまっていますが、中心部は公園化されているので、いつでも見学が可能です。

Moriya_006_
↑なんて思っていたら、いきなりまさかの通行止め。ここは御馬家台と平台の間にある堀切で、この先のスロープから御馬家台を訪問するんだと思うのですが、入っちゃ駄目ってことなんですかね。冒頭の概要を見てもらうと判りますが、御馬家台には矢倉台や枡形虎口があるみたいなのに残念です。

Moriya_007_ Moriya_008_
↑まあ、無理に超えようと思えば超えられなくもない柵なんですけどね。でも、なんか気乗りしなかったので、今回は諦めました。写真は平台から覗き見た御馬家台。これじゃあ、よく判らないですね・・・。

0_02 0_03

↑【二郭(御馬屋台)

前回は見学を諦めた二郭。

とても良く土塁が残されていて、枡形もしっかりと確認することができました。

枡形は藪でちょっと形状が把握しづらいですね。直に見れば一目瞭然なんですが・・・。

Moriya_009_
↑平台。城内でも一番の高所にありますし、広さもあるので、主郭だと思って間違い無さそうです。

Moriya_010_ Moriya_011_
↑平台の枡形虎口。歩道で分断されていますが、結構な大きさです。御馬家台側の土塁には切れ目があるので、往時は木橋が架けられていたのかもしれません。

__3 __4

↑【枡形に架かる橋のイメージ】

動画でも紹介した橋のイメージ図です。あくまでも妄想なので、実際にどうだったのかは全然わかりません。

ただ、橋脚台っぽい畝が見当たらなかったので、門や木橋的なものでは無い様な気がしていますが。

Moriya_012_
↑平台には上記の枡形以外にも複数虎口があったみたいで、ここもそのひとつです。ここからは冒頭の堀まで降りることが出来るので、船着場だったと考えられているみたいですね。

Moriya_013_
↑平台の東側には、まだ郭が続きます。これは東虎口に残る土橋。手すりがあるので、斜めから見ると木橋に見えちゃいますよね。

Moriya_014_ Moriya_015_
↑でも、正面から見ると、やっぱり土橋です。写真右は堀切の覗いたところ。

Moriya_016_
↑土橋を渡った先にある小郭。

Moriya_017_
↑その小郭から堀切を渡った先にある郭跡。

Moriya_002_b_2
↑平台の半分くらいの広さがあるみたいなんですが、藪っている場所が多いので、いまいち実感できませんでした。
Moriya_018_ Moriya_019_
↑千葉氏関連では馴染み深い妙見郭。郭内には後世の改変なのかもしれませんが、意味ありげな窪地も残されていました。

2013年12月10日 (火)

小田城の現地説明会(2013年)

個人的には恒例のイベントとなっている小田城の現地説明会。今年も参加してきてきました。

小田城メインページ

2012年の様子

週初は天気予報がよくなかったのでちょっと気になっていたのですが、週半ばには晴れに変化して今年も問題なし。

2013
簡単にまとめた発掘調査の状況

今回は前回よりやや西側の調査をおこなったみたいです。恐らくですが、来年はさらに西側の調査報告を楽しめるのではないかと。

今回も各ポイントごとに紹介していきたいと思います。


①:木製構造物の痕跡

0_01_3 0_02_3
曲輪Ⅳの枡形状空間と曲輪Ⅴ(南館)を接続するための、何かしらの施設があったように想像したくなる場所ではあります。
柱穴っぽい痕跡を拝見したときには、"橋脚台でも検出されたのかな?"と期待をしていたんですけど、説明を聞いてみると、現在のところはこの痕跡が何のものであるのか、ハッキリした状況は判明していないんだそうで・・・。

もしかしたらもっと後の時代の遺構というか、要は城郭遺構でない可能性も捨てきれないとのことでしたが、まだハッキリと決まった訳では無いですからね。今後の解析結果を期待したいところです。


②:障子堀

0_03_3 0_04_3 0_05_3
小田城の各所から検出されている障子堀。
小田城の障子堀がいつ頃整備されたのか不明ですが、現在の埼玉東部~茨城南部に広がる広大な平地に設けられた城館には、思うより古くから障子堀の技術は周囲の泥地を管理するために発達していたのではないかと想像しています。これら地域には湿地も多いですしね。勢力というよりも地域が育んだ築城術という気がしてなりません。

山中城のインパクトがありすぎて障子堀=後北条氏とリンクされることが多いように思いますが、後北条氏は武蔵に領地を拡張していく中でこれら地域の技術を吸収し、活用そして独自の進化させていっただけなのかなって。

話を戻しますが、小田城の堀は調査のための掘り下げると、いまでも土中から水が湧き出してきて大変なんだそうです。写真の障子堀も、朝には水抜き作業を行ったらしいのですが、説明会が行われる昼前にはご覧の状態に。
湿地はやはり湿地なんですよね。よく聞く話ではありますが、注意したいものです。


③:曲輪Ⅹを区画する堀跡

0_07_2 0_06_2
↑今は消滅してしまっていますが、曲輪Ⅹの南西部は堀によって区分けされ、馬出状の小曲輪を形成していたことが判明したみたいです。
この堀も、周囲の土塁や殿塔山の一部を切り崩して埋め立てたんでしょうかね。

それにしても、小田城って馬出状の小曲輪が本当に多い気がします。何度か落城している城ではありますから、構造もそれなりに実戦的だったということなんでしょう。


④:帯状の曲輪跡

0_08_2 0_09_2
帯曲輪の一部が見つかったことで、慶長小田城跡図に描かれている帯曲輪の存在が前にも増して明らかなものとなりました。


■出土品

0_10
↑今回も新たな出土品はそう多くないらしいです。過去出土品も多そうなので、写真はこれ一枚きりで。


■着々と進む公園化

0_11 0_12 0_13 0_14
↑23年後の完成を目指して、着々と整備作業は進行中です。
これだけの遺構が残る中世城郭の平城も珍しいので、出来上がりには期待したいところですね。史跡保護と観光施設の両立は難しい(というか基本無理?)とは思いますが、こればかりは担当者のセンシビリティに期待するほか無く・・・

小田城のメインページ

小田城の現地説明会(2012)

2013年11月20日 (水)

江戸崎城 【常陸】

場所:茨城県稲敷市江戸崎(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:点在する台地・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:神社などの駐車場を拝借
満足:★★★(3.0点)

見所:僅かに残る江戸崎土岐氏の居城

江戸崎城は、土岐原氏が室町時代の初期に築城したものと考えられているみたいです。その後、土岐原景秀によって江戸崎城は修築され、以降は景成-治頼(土岐頼芸の弟)-治英-治綱の五代に渡って居城として使用されていました。

土岐原氏は美濃の名家・土岐氏の一族で、世継ぎに恵まれなかった景成の死後、美濃総領家から養子として治頼を迎え、家名を存続させました。
景成の死から治頼が家督を継ぐまでの間、土岐原氏はお家騒動が発生してしまい、その隙に乗じた小田氏によって、一時は江戸崎城を奪われてしまっていたのだとか。

治頼を当主に迎えた土岐原氏は江戸崎城を奪還し、次第に周囲に勢力を広げていくようになります。ただ、逆に美濃総領家は長井氏(斉藤道三)の台頭によって急速に力を失っていき、遂には没落。美濃を追放された兄・頼芸は、一時は治頼を頼って江戸崎に身を寄せていて、その際に土岐宗家の座を治頼に譲ったとされています。
以降、土岐原氏は土岐氏を名乗りさらに勢力を拡大していきますが、増大してくる後北条氏の圧力の前に、次第にその傘下に組み込まれるようになっていきます。

1590年の小田原征伐では、後北条氏方の勢力だったために豊臣軍に攻め込まれ、龍ヶ崎城ともども攻め落とされてしまいました。
江戸崎土岐氏の没落後、伊達政宗によって会津を追われた芦名義広(盛重)が秀吉から4万石を与えられて竜ヶ崎に入り、次いで江戸崎城に移ってきました。
その義広も1602年、兄の佐竹義宣が秋田に転封に伴って移動したため、江戸崎城は廃城となり、現在に至ります。


江戸崎土岐氏の居城だった江戸崎城ですが、台地などある程度の面影は残されているものの、城址自体はその後の改変で大きく様変わりしてしまい、遺構と呼べるようなものは殆ど確認することができません。
台地を大きく削られてしまった江戸崎小学校付近には流石に入りづらいですけど、その他は邪魔にならない程度あれば歩き回れるので、周囲を散策して楽しみました。

たまたま鹿島神社でお話を伺える機会に恵まれたので、神社北側に残る土塁など城址に関していろいろ質問してみたんですけど、この土塁に関しては特に遺構だという話は聞いたことがないらしく・・・。
小学校のある場所は云々なども教えてくれましたが、このあたりのことは余湖くんのHPや「図説・茨城の城郭」に記述されているので、そちらで確認してみてください。かなり参考になると思います。


五百羅漢、藪に覆われていて、ちょっと可哀そうな状態になっていました。

小雨が多少ぱらつくこともありましたが、濡れてしまうような雨だけは何とか回避することができたのは幸いでしたね。相変わらず雨で大被害を被ったのは、あの日の逆井城の1回のみ。ある意味恵まれているんでしょうけどあれを教訓にして、油断しないように気をつけなきゃ。

※動画はまだ作成していません
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


3 Photo
↑古城図などを参考に概略図を作成してみました。遺構は殆ど残されていないみたいですが、ある程度の台地が残されているので、城址が存在した面影は比較的に感じられると思います。

0_001
↑【遠視】
主要部が存在したと思われる台地を、西側から撮影してみました。古城図に描かれている帯郭もしっかり残されていますね。

0_002 0_003 0_004 0_005
↑【主要部(主郭および二郭)】
主郭には江戸崎高校が建てられていたみたいですが、高校は現在移転され、現況は耕作地などとして使用されています。
一段低い場所にある二郭には案内が設置してあったので簡単にチェック。

台地上は様々な用途に使用されていたみたいなので、かなり改変されてしまっているんでしょうね。北端で土塁の痕跡が確認できるみたいなのですが、ちょっと畑を通り抜ける勇気がでなかった・・・

0_006 0_007
↑【鹿島神社】
鹿島神社の脇に残る大きな土塁。現在管理されている方がたまたまいらっしゃったのでこの土塁に関しても質問してみたんですけど、この土塁が遺構だという話はとくに聞いていないのだとか。
そうなのかー。かなり立派な土塁なので、遺構だとかなり嬉しいんですけどね^^;

現江戸崎城学校の辺りは台地がかなり削られてしまっているみたいなので、この鹿島神社の辺りも同様なのかも知れませんね。
現在土塁に見えるこの土壇は、削り残された台地の名残だったりして。

0_008
↑鹿島神社と瑞祥院の間を通る道。ちょうど、鹿島神社の土壇の裏側に当たります。
ここは堀跡みたいなんですよね。瑞祥院入口にあるひょうたん池は、水堀だった頃の名残なんだとか。

0_009
↑【瑞祥院】
この辺りも城域に含まれるみたいです。古城絵図に描かれる小山みたいなのが、瑞祥院裏の小山のことなんだろうか。
ちなみにこの小山、羅漢山とも呼ばれていて五百羅漢という史跡が山上に残されています。せっかくなので、ちょっと確認してみることに。

0_010 0_011
↑【遺構?】
五百羅漢まで到着する途中に、土橋のような場所と竪堀っぽいものが残されていました。
それっぽく見えるだけなんだろうけど、ネタとしては十分に使えるので撮影。

0_012 0_013
↑【五百羅漢】
なかなか由緒ある史跡みたいに思うのですが、藪に埋もれているせいか荒廃感がなんともいえないですね。
現在残されている羅漢像は493基らしいのですが、そんなに配置されているようには思えないです。

城址としては、物見に適した場所ですね。景観は悪くないです。

0_014 0_015
↑旧道っぽい道も残されていましたが、薄暗くて何か物の怪でも現れそうな雰囲気。石段で厳かですが、しばらく使用されていない感じですね。3.11の影響かも。
そういえば登っていく途中、黒猫が自分を出迎えてくれました。フラッシュで光る目が、またなんとも・・・

2013年11月17日 (日)

大日山城 【常陸】

場所:茨城県龍ケ崎市塗戸町(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀切・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:ため池のそばに駐車させていただきました
満足:★★★★★★(6.0点)

見所:巨大な堀切が残されています

城暦の詳細は不明です。
付近に残る登城山城と同様に、台地の先端に築かれた単郭の館跡といった趣の城址ではあるのですが、この大日山城には深さ3~4mはあろうかという巨大な堀切が残されているので、より迫力のある遺構を楽しむことが可能です。


ただ、城内に通じる道が無さそうなので、ちょっとだけ直登りをしないと城内に入れないのと、内部は竹薮状態なので、歩きづらい&視界が悪いということが難点でしょうか。


小雨がたまにぱらつく天候ということもあったのでしょうが、時間はまだ14:00台だというのにもの凄く暗くて、撮影に難儀してしまいました。まだまだ藪蚊も元気だし、竹で移動に時間は掛かるし、撮影はなかなかうまくいかないし・・・。そんなこんなで、至近まで近づきながら、この城址の代名詞の様に紹介されているお社の確認を忘れてしまいました。
まあ、仕方ないかな。

※動画はアップロード済みです。このページの最下段にプレイヤーも貼り付けてあります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


1 0_001
↑大日山城の簡単な概略図。
主要部に直接繋がる道は残されていなさそうなので、他サイトの情報を参考にして、今回は東側から訪問してみました。
地図を見ると台地続きの西側からも訪問できそうに思いますが、この農道がどこまで続いているのかや、駐車スペースを確保できるのかなど、googlemapだけでは不明点も多いです。
こちらからスムーズに訪問できれば、比較的楽に訪問できる城址ということになるのですが・・・

0_002 0_003
↑【東側から見た大日山城】
山麓に残る溜池や田んぼは、湿地だった往時の名残だったりするのでしょうか。

0_004 0_005
↑【帯郭】
下から見上げると九十九折の道に見える帯郭。ですが、実際は繋がっているわけではありません。

0_006
↑【主郭】
内部は竹薮になっていますが、朽ちて倒れた竹がそんなに多くないことが不幸中の幸いといったところでしょうか。
決して歩きやすい訳ではないのですが、歩行困難ではないので散策続行です。

0_007 0_008
↑【土塁】
良好に確認できる遺構のひとつである土塁。

0_009 0_010
↑【堀切】
台地と主郭を遮断する堀切。とても規模が大きくて見応えがあります。
時刻は14:30。それにしてはえらく暗くて、デジカメでは満足いくような画像を納めることができませんでした。

薄暗い場所だと、デジカメよりビデオカメラのほうが、意外と綺麗に撮影できてよかったりするんですよね。無駄にフラッシュで電池の消耗が早くなるのも難点。
ということで、動画を簡単に編集してみました。



堀切の大きさなどは、写真より判りやすいと思います。

2013年11月14日 (木)

登城山城 【常陸】

場所:茨城県龍ケ崎市半田町(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:墓地前の駐車場を拝借
満足:★★★★★(5.0点)

見所:良好に残る土塁や、意外と迫力のある竪堀など

城暦などの詳細は不明です。
台地の先端に残されている小規模な城址で、土豪か何かの居館として使われていたのではないかと思われます。

満願寺さんの周囲はいろいろと改変されているみたいですが、奥に残る主郭は土塁や土橋を良好に確認することができました。
見事な竪堀が残されているのですが、「図説・茨城の城郭」によると、これは旧参道として使われていたものらしく、遺構では無い可能性もあるらしいです。ちょっとがっかり。

この後は大日山城を訪問しましたが、周辺には同様の館跡っぽい遺構が他にも複数残されているみたいです。
まとめて訪問してみるのも、良いかも知れませんね。

※動画はまだ作成していません
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2
↑作成した簡単な概略図。

0_001_2
↑【満願時参道】
現在の城址に向かう入口となる満願寺の参道。「図説・茨城の城郭」によると、この道は堀跡とかではないとのこと。

0_002_2
↑【満願寺】
参道をあがると立派な山門が出迎えてくれます。
当然城域に含まれるんでしょうけど、あちこち改変されている感じなので、それっぽく見えても遺構か否かの判断が難しい・・・

0_005_2 0_007_2
↑【本堂脇の竪堀?】
おお、これは見事な竪堀だと思って悦に入っていたんですけど、どうやらこの場所は現在の参道が造られる前の参道だったみたいでして。
まあ、だからといって、この竪堀が遺構ではないという訳ではないんでしょうけどね。

ここに竪堀があったとすると、反対側には堀切が続いていたのかなーなんて現地では考えていたんですけど、これが後世の改変だったりすると、堀が続いていないのも当たり前ではあったりするし。

0_006_2
↑ちなみにこの竪堀、車道から見上げるとこんな感じです。車道設置の影響で、結構改変されているんでしょうね。

0_003_2 0_004_2
↑【主郭脇の腰郭と帯郭】
主郭の脇は窪地になっていて、帯郭と腰郭状の平地が残されています。腰郭から東側の集落に抜けていく道が続いているんですけど、往時も搦め手のとして使用されていたのかな?

0_008 0_009
↑【主郭の堀と土橋】
明瞭に残る堀と土橋。

0_010 0_011 0_012 0_013
↑【主郭】
台地の先端なので、周囲を監視するには絶好の場所だったことでしょう。
東側の土塁には切れ込みが入っています。下の帯郭や腰郭と何かしらのやり取りを行う設備が、ここに設置されていたりしたのでしょうか。

0_014
↑満願寺からしばらく台地に沿って歩いてみたんですけど、特に何も見つけられませんでした。

2013年11月11日 (月)

龍ヶ崎城 【常陸】

場所:茨城県龍ケ崎市古城(場所)
訪問:2013年3月
形態:平山城
遺構:点在する台地
指定:たぶんなし
駐車:なし
満足:★★(2.0点)

見所:龍ヶ崎市の城址を散策するなら、余った時間でついでに

伝承では下河辺氏の一族である龍ヶ崎氏が白幡台の地に居館を構え、龍ヶ崎城の地に出城を構えたことが、龍ヶ崎城興りの由来とされているみたいですね。

戦国時代になると江戸崎城を本拠とする江戸崎土岐氏が龍ヶ崎氏を攻め滅ぼし、1568年には一族の土岐胤倫が出城跡に新たに城を築いて、龍ヶ崎一帯を治めました。

江戸崎土岐氏は後北条氏寄りの立場を取っていたため、1590年の小田原征伐で江戸崎城・龍ヶ崎城ともに攻め落とされてしまいます。
こうして大名としての江戸崎土岐氏は没落し、江戸時代の龍ヶ崎は仙台藩領となって、古城山麓には陣屋が置かれていました。
幕末の一時期には米津家によって龍ヶ崎藩も立藩されていたみたいです。


・白幡城 → 竜ヶ崎第一高校
・龍ヶ崎城 → 竜ヶ崎第二高校
・龍ヶ崎陣屋 → 竜ヶ崎小学校
ということらしいです。第二高校内に土塁も一部残されているみたいなのですが、11/2は何か文化祭とかイベント事が開催されていたのかな?
警備っぽい人まで配置される有様で、とても内部に入れそうな状況ではありませんでした。まあ、そんなイベント日に遭遇していなかったとしても、内部の見学はしなかったと思いますが(笑)。
歴史資料館で拝見した航空写真では確認できた第二高校と御嶽神社の間の台地も、今はごっそり削られて面影すら残されていません。
せめて調査か何かが行われていて、資料館でそれを確認できたら良かったのに。江戸崎土岐氏の有力拠点だっただけに、なおのこと勿体無いですね。
そういえば資料館に資料が展示してあった屋代城。ここは北信濃の屋代氏の一族が統治していた場所だったんですね。帰宅して調べてみたら判ったんですけど、やっぱりというか、なんか納得です。
資料館の見学は無料なので、付近城址の散策ついでに立ち寄ってみるのも、良いかもしれませんよ。

※動画の作成予定はありません
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


1
↑龍ヶ崎氏の居城とされる白幡城と、その時代は出城だった龍ヶ崎城。
台地先端に構えられた白幡城より独立した台地となっている龍ヶ崎城のほうが、より要害の地であると言えますよね。集落をおける場所等もろもろ地勢の変化など事情があるのかもしれませんが、現状を見る限りでは白幡城から龍ヶ崎城に拠点を移したのは、当然のことの様に思ってしまいます。

1_2 0_001
↑龍ヶ崎城が存在していた台地は、その一部が土取によって完全に消滅してしまいました。龍ヶ崎市歴史民族資料館に展示してあった昭和30年代の航空写真を見ると、台地の旧状を確認することができますね。
消滅部分が主郭だったのかな?



■白幡城

0_002
↑白幡城が構えられていたとされる白幡台。竜ヶ崎第一高校の敷地なので中は確認していませんが、何かしらの遺構が残されていたりするんでしょうかね。

0_003
↑竜ヶ崎第一高校の他は、流通経済大学の敷地として使用されています。現在の低地の殆どは湿地で、もともとはこの台地上に集落が構えられていたのかも知れませんね。


■龍ヶ崎城

0_004 0_005
↑そしてこちらが龍ヶ崎城が構えられていたとされる台地。竜ケ崎第二高校が置かれている場所は二郭にあたる場所だったみたいなんですけど、龍ヶ崎城は江戸崎土岐氏の重要拠点だったというだけあって、なかなか大きな台地です。

0_006
↑主郭があったとされる台地は、土取にて完全に消滅してしまいました。採取された土で周囲の湿地を埋め立てて、それで住宅地を拡充したのかな?

0_007
↑ポツンと残される台地先端。現在は御嶽神社が建てられているみたいです。

2013年11月 8日 (金)

東林寺城 【常陸】

場所:茨城県牛久市新地町(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀切・土塁など
指定:なし
駐車:三郭内にお断りして駐車するのが無難かと(多少、悪路を走りますが)
満足:★★★★★★★(7.0点)

見所:広大な曲輪、巨大な土塁と堀切

東林寺城は戦国時代、牛久城を本拠にしていた岡見氏によって築かれました。

東には江戸崎城の江戸崎土岐氏、西は多賀谷氏、そして北からは小田氏を圧迫する佐竹氏と抗争は続き、そんななかで徐々に衰退を始めてきた岡見氏は、下総から影響力を強めてくる後北条氏の勢力下に入り、自家を存続させる方向に向かっていきました。

多賀谷氏との抗争は続き、後北条氏を背後につけつつも岡見氏単独ではなかなか多賀谷氏に抗しきれず、遂には岡見氏の主要城郭である足高城と、本拠である牛久城の間にある要地に多賀谷氏の砦(泊崎城)が築かれてしまいます。
足高城も落とされ、風前の灯となった岡見氏。その岡見氏を守るために、後北条氏は支配下の諸勢力に牛久番として軍を牛久に駐屯させる方針を固めました。

こうして多賀谷氏からの攻勢は何とか凌いだ岡見氏ですが、1590年の後北条氏滅亡後は、大名としての地位を失っていまいました。
牛久城には秀吉の命で由良国繁が入りましたが、東林寺城はこの時期に廃城になったものと思われます。


牛久番は坂田城の井田氏や小金城の高城氏などが勤め、岡見氏とともに牛久を守りました。多賀谷氏はこの東林寺城まで攻め寄せたらしいですが、周辺の江戸崎土岐氏や相馬氏もこの頃には後北条氏に従っていましたし、牛久を抜くのは難しかったんじゃないでしょうかね。

牛久城も広大な城域を誇りますが、広大な曲輪跡が残される東林寺城は、この牛久番の諸勢力が駐屯するための基地というか、その名残りが残される城址して考えられています。
一部で土取による破壊で消滅してしまっていますが、残されている広大な曲輪跡と、非常に巨大な堀切は見学に来て損は無いと思います。
周辺の地理状況を頭に入れておくと、より感慨深くなるかも知れませんね。

そうだ、牛久城の項もそのうちに修正しとかねば・・・

※動画はまだ作成していません
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


1_2
↑【戦国末期の牛久周辺勢力図】
牛久城と東林寺城、見ての通りで非常に近いです。
岡見氏は主要拠点である足高城と牛久城の間の地に、多賀谷氏によって砦(泊崎城)を築かれてしまったと紹介しましたが、こうして地図で見ると、それが如何に絶望的な状況かが判りますよね。こうして足高城は攻め落とされ、東林寺城には牛久番として井田氏や高城氏、豊島氏が詰めることになります。

1_3 0_002_2
↑作成した東林寺城の概略図。竜ヶ崎市歴史資料館で撮影させていただいた昭和30年代の航空写真と比較してみると、今より稲荷川が全然巨大で台地のすぐ下まで水が流れていたことや、削られてしまった主郭の形状まで確認することができます。
※稲荷川が何かで埋まって見えるのは、恐らく木材か何かを浮かせているんだと思います。1943年(昭和23年)撮影の航空写真を確認してみると、違いがよく判るのですが。

余談ですが、この航空写真からは、今は消滅してしまった泊崎城の堀や、牛久城の崩落してしまった主郭南部など、他にもいろいろな現状との違いを確認することができて、結構面白いです。
古い航空写真は国土地理院の国土変換アーカイブで閲覧することができるので、気になる場所は確認してみましょう。

0_001_2
↑【稲荷川から見る東林寺城】
目の前に見える田んぼは全て川だったんですよね。関東でも茨城南部から埼玉東部あたりは、特にこのような"つい数十年前までは湿地だった"てきな場所が多いですね。

0_003_2 0_004_2
↑【主要部に入るためのルート】
城址を南北に貫くように農道が走っていますが、その農道に入るためのルートは2箇所。三郭までは車を使って移動できると思いますが、城址は大半が農地として使用されているので、作業従事者の邪魔にならないよう気をつけましょう。
二郭はどちらにしろ車では難しいと思いますので、牛久観光アヤメ園の駐車場か、河川敷に駐車して歩いてくるのも有だと思います。

0_005_2 0_006_2
↑【四郭】
規模はそれ程でもありませんが、それでも土塁と堀の存在はしっかりと確認することができます。
薮も手伝って、写真にはハッキリと写らないですね。

0_007_2 0_009_2 0_008_2 0_010_2
↑【三郭】
とても広大な三郭。今まで訪問してきたなかで、こういった巨大な郭を有する城址となると、木原城の三郭や、坂田城林外城小高城相賀城の外郭などが思い出されます。
このうち木原城は、岡見氏と同じく、戦国末には後北条氏の勢力下に組み込まれていた江戸崎土岐氏の前線基地として、霞ヶ浦対岸の佐竹勢を抑える役割を担っていましたし、坂田城は牛久番を勤めた井田氏の居城です。
後北条氏の勢力拡大における何かが、広大な外郭というキーワードで繋がっていると考えるのは、自然な流れなのかもしれません。

三郭の巨大な堀と土塁は、東林寺城における見所のひとつです。さらにこの土橋の先には・・・

0_011_2 0_012_2
↑【三郭虎口前に存在していた馬出の痕跡?】
見学をしていて四郭側にも土塁があることと、脇にちょっとした溝が見られたので何なのかなと思って見ていたんですけど、これがたぶん馬出の痕跡っていうことなんでしょうね。台地下に駐車している車のことが気になって、現地ではそこまで気が回らなかった。

0_013_2 0_014_2
↑【二郭虎口と堀】
東側は東林寺の墓地設営の影響で改変されているので、旧状はあまりよく判りませんが、西側には広大な堀と土塁が残されていて、往時の規模を何となく想像することが可能です。
堀は藪が凄いのが難点ですけどね。

0_015_2 0_017_2
↑【二郭】
現在の最南端に当たる二郭。

0_018_2 0_019_2
↑【台地の南端】
本来はこの先にも台地があって郭が存在していたのですが、現在は土取で綺麗に削られてしまいました。
土塁手前の畑を農作業用の車両で耕されている方がいたので、旧状をお聞きするかとても迷ったんですけれど、雰囲気的に忙しそうな感じだったので止めておきました。
古い航空写真で確認してみても堀っぽいものが見当たらないんですけど、昔々は存在していたものなんだろうか・・・。

2013年11月 5日 (火)

高井城 【下総】

場所:茨城県取手市下高井(場所)
訪問:2013年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・土塁・櫓台など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★(5.0点)

見所:比較的良好に残されている土塁や堀、他に主郭の櫓台はなかなか良し

築城時期は不明みたいですが、戦国時代の高井城は守谷城を本拠とする下総相馬氏の管理化に置かれていました。
下総相馬氏は後北条氏の勢力拡大に伴い、次第にその勢力下に組み込まれていくことになりますが、1590年の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、下総相馬氏も没落していきました。
高井城も小田原征伐の後に程なくして、廃城になったものと思われます。


常磐道に近く気軽に訪問できそうな場所にあるため、茨城遠征した際の訪問予定リストには高確立で組み込まれていたのですが、だいたいが時間調整のための補欠というか最終訪問予定になっていたりしたので、ついつい訪問できずに後回しにされていた城跡です。
久々の城跡巡りということもあって、安近楽(安全・近い・見学が楽)なイメージの高井城を初訪問場所に決めました。

想像よりしっかりとした土塁や堀跡が残されていて、それなりに楽しむことができました。これぞ櫓台といった感じの土壇もポイント高いですね。
主要部近辺しか遺構を楽しむことはできませんが、ちょっとした公園くらいの広さはあるので、言うほど狭いといった感じはしませんでした。


主郭と違い、二郭はボチボチの薮。果敢に奥に進んでいくと、西側の土塁の外には、横堀のように感じる場所が残されていました。
現在は登城口として使用されている主郭と二郭の間にある竪堀、この横堀と竪堀は昔は接続していたんじゃないかなーなんて空想してみたり。何となく薮漕ぎのシーズン到来を予兆させてくれた高井城なのでありました。

※動画はまだ作成していません
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


1
↑作成した高井城の概略図。
今シーズンの1箇所目ということで久々の城址訪問になりましたが、広さ的には、暖気に丁度いい感じでした。

0_001 0_002
↑【北西から眺める高井城】
低地はちょっとした公園になっていて、水路や池が湿地感を醸し出しています。

0_003 0_004 0_005 0_006
↑【主郭】
広さもそこそこあって、周囲を囲む土塁も良い状態で確認することができます。見所は南東隅に残されている櫓台。
東側は随分浅くなってしまっていますが、往時は堀だったんでしょうね。北東側に建てられている住宅は一段低くなっているように見られました(住民が庭を掃除されていたので、あまりジロジロとは確認できず)が、同じくらいの深さがあったのかも知れません。

0_007 0_008
↑【主郭(北部)】
仕切り土塁の奥にも平地が続いていますが、削平が甘くてかなり自然地形に近いような印象を受けました。往時はどのような使われ方をした曲輪だったんでしょうか。

0_011 0_010
↑【主郭西の帯郭】
帯郭は遊歩道として整備されていますが、滑りやすくてちょっと歩きづらかったです。
扱いが微妙なのが、南西部に接続する枡形状の空間。まあ、単なる腰郭ってだけなのかも知れませんけど、帯郭が湿地に設けられた船溜りに繋がっていたなんて仮定をしてみれば、その方面に対する虎口として機能していたとも考えられる訳で・・・

0_012
↑【主郭と二郭間の堀】
現在は城内に上がる主要道として使用されている堀跡。

0_013 0_014
↑【二郭】
歩き易かった主郭と違い、二郭はちょっとした薮状態でした。
土塁は西側にはある程度明瞭に、南側は堀とあわせて何となく残されているといった感じでしょうか。写真にしてしまうと、あまり判別できないですね。

0_015 0_016
↑【二郭西の横堀】
案内の通りで単なる腰郭かも知れませんけど、見た目から横堀っぽい印象をうけたので、このブログでは横堀とさせていただきました。
東と南は宅地化で消滅してしまっていますけど、この西側に残る横堀は北にある主郭と二郭間の堀に接続していて、二郭はぐるっと周囲を堀で囲まれていたんじゃないかと。

0_017
↑土塁や堀は南に続いていく感じでしたが、そちらは住宅の脇に入っていってしまうかも知れなかったので、先に進むのは止めておきました。
横堀内は竹びっしりで薄暗かったですしね。

0_018
↑【妙見社】
外郭に残る妙見社。相馬氏ということで、千葉氏関連ではお馴染みの神社を高井城でも確認することができました。

外郭は宅地となっていて、そんなに遺構は残されていないみたいです。現地案内には推定大手などが記載されていますが、これは古地図か何かが残っていて、そこから推察されたものなのかな?

0_019
↑【西の半島状台地】
こちらにも何かしらの施設が設けられていた可能性がありますよね。ただ、私有地ということで、こちらは立ち入り禁止の看板が設置されていました。
皆、考えることは同じというか、確認のために台地上を訪問する人が多かったのかも知れませんね。

より以前の記事一覧