地域 - 千葉

2014年10月20日 (月)

松ヶ崎城 【下総】

場所:千葉県柏市松ケ崎(場所) 
訪問:201410月 
形態:平山城 
遺構:空堀・土塁・物見台など 
指定:柏市指定文化財 
駐車:入口付近に12台程度駐車可 
満足:★★★★(4.0) 
見所:周辺の史跡とあわせて 

手賀沼の周辺にはいくつかの城址が残されていますが、松ヶ崎城もそのうちのひとつですね。松ヶ崎城の数百m南東には以前訪問した根戸城があります。

このあたりは香取の海の西端にあたる場所だったみたいで、湿地に囲まれた台地の突端部に松ヶ崎城は築かれていました。領主などの詳細は判明していないみたいですが、場所は相馬御厨に含まれることから古くは下総相馬氏に属していて、戦国期には増尾城などと同様に小金城を拠点とする高城氏に勢力下におかれていたものと推察されます。


※動画はまだ作成していません━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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↑【松ヶ崎城の縄張り】
現地案内板掲載の縄張り図。往時はここが主郭として機能し、その先に広がる根小屋が二郭、三郭となってこの場所を守っていたのでしょう。

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↑【土塁と堀】
しっかりと残されていて嬉しい限り。
以前は腰郭に人気の不動尊があったみたいなんですけど、浮浪者の失火により消失してしまったのだとか。宅地化など遺構消失を免れたのは、不動尊が存在していたおかげなんでしょうかね。

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↑【物見台】
古墳のひとつを転用したとされる物見台。

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↑低地が湿地だった頃は限られた台地上に集落を築き、勢力同士で互いに監視しあってたりしていたんでしょうね。

2014年10月17日 (金)

柏飛行場 【秋水燃料庫跡】

「秋水」という戦闘機が存在したことを、皆さんはご存知でしょうか?
秋水はロケットエンジンの局地戦闘機で、ナチスドイツの「Me163コメート」をモデルに日本軍が開発を進めていましたが、完成前に終戦を迎えたため、試作機で終わり実戦投入はありませんでした。 

ちなみに本家のMe163は航空機史上唯一の実用ロケット戦闘機として知られています。ロケットエンジンを活かした上昇力と高速性によって初期では戦果をあげますが、航続距離が極端に短いという弱点が露見すると連合軍はMe163が配備された基地上空の移動を避けたため、戦果はあっという間に途絶えてしまいました。
取り扱いの大変難しい燃料のこともあり、兵器としての評価は失敗作と位置づけられています。 

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↑【秋水 ※Wikipediaより 】 

第二次大戦中の千葉県柏市には柏陸軍飛行場があり、秋水の3機が置かれていたみたいです。その秋水は敗戦時に爆破処分されたみたいですが、秋水のために建設された燃料庫はいまでも残り、その名残を確認することが可能です。

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↑【柏飛行場】
大まかにですが作成した柏飛行場の想定図。かなり大規模な飛行場だったことが判ります。
今回の主題である秋水燃料庫は図の右端あたりで、飛行場からはちょっと離れたところに設置したみたいですね。空襲から守りやすくするためなのか、それとも人里から極力離れた場所を選んだ結果なのかも・・・。

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↑【秋水燃料庫の位置】
昔の航空写真を見ると、何気にハッキリとその姿を確認できる秋水燃料庫。8箇所チェックをいれましたが、全部が本当に燃料庫だったのかはわかりません(28は違うかも)
で、実際に訪問してみて今回確認できたのは2箇所(+脱気筒)のみでした。なにぶん住宅街なので人目が気になって仕方がない・・・。

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↑【秋水燃料庫1
明瞭にその姿を確認することができる1の燃料庫。昔の黒電話の受話器( [ )みたいな形状をしています。
すぐ脇の畑で農作業をしている老夫婦がいらっしゃったので話を聞こうか迷ったのですが、何となく話かけるな的な雰囲気を感じたのでやめることに。

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↑【秋水燃料庫3
恐らくこの藪の向こうに隠れていると思われるのですが、確証はありません。この状態だと冬枯れ時期でも確認は無理っぽいかな。

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↑【秋水燃料庫4
1と同様にハッキリとその姿を確認することが出来ました。地下燃料庫の上に家が建っているように見えるんだけど、下水とかの家のインフラ整備を行うのに支障はなかったのだろうか・・・。

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↑【秋水燃料庫5の脱気筒】
現在も畑に残されている脱気筒。燃料庫5の入口はよーく目を凝らして確認したのですけど、発見には至りませんでした。冬枯れの時期なら何かしらの痕跡は見つけられそうな気がしましたけどね。
畑の関係者と思しき人がいたのですれ違い様に軽く挨拶してみたんですけど、見事にスルーされました。きっと間が悪かったんだろうな。そういうことにしておきたい・・・。 

【関連記事】
柏飛行場 【正門跡・無蓋掩体壕】

2014年10月15日 (水)

柏飛行場 【正門跡・無蓋掩体壕】

茨城県に程近い千葉県柏市。Jリーグの柏レイソルがあるので柏という名前はご存知の方も多いと思いますが、この柏市にも第二次大戦中は柏陸軍飛行場が設置されていて帝都防衛の任についていたんですねぇ。柏には何度も足を運んだことがあるのですが、そんなことはつい最近までまったく知りませんでした。
ちなみに柏陸軍飛行場のほかにも周囲には松戸陸軍飛行場(:松飛台)と藤ヶ谷陸軍飛行場(:下総航空基地)も続けて建設されていますが、航空基地として今も機能しているのは前述の通りで藤ヶ谷陸軍飛行場のみです。 

戦後ほどなくして柏飛行場は廃止されましたが、1950年に勃発した朝鮮戦争によって跡地の多くは米軍が摂取し柏通信所(キャンプ・トムリンソン)が設営されます。

この柏通信所は1977年に半分、そして1979年に米軍より全面返還され、現在の跡地は様々な国・官庁関連施設やガン研究センター、柏の葉公園や住宅街などに転用されました。そうしたなかで柏飛行場の面影は徐々に薄れてしまっているみたいではあるのですが、残されている僅かな痕跡を確認すべく、柏を訪問してみました。

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↑【柏飛行場】
大まかにですが作成した柏飛行場の想定図。かなり大きな飛行場だったことが判ります。
飛行場以外にも周辺には射撃演習場や高射砲連隊の駐屯地などが存在していましたが、地図には記していません。

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↑【航空隊正門跡】
最寄の東部第102部隊とあわせて最大で7,000人以上の兵員がいたとされる柏飛行場。その名残として今も正門跡が残されています。
奥の住宅街からなのか、車の往来がひっきりなしでした。

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↑【滑走路の面影】
柏の葉公園の脇を通る並木道の一部は往時の滑走路と重なっているみたいです。なので、滑走路の面影といえなくもないのかも。

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↑【柏の葉公園】
各種競技場も立ち並ぶ柏の葉公園。何気に駐車場は有料でした。
そこそこ広大な公園ではあるのですが、それでも飛行場の一区画でしかなかったんだよなー。 

第二次大戦中に使用されていた飛行場跡地といえば、つきものなのが掩体壕。この柏飛行場にも往時は多くの掩体壕が設置されていました。

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↑【航空写真から見る掩体壕】
東誘導路沿いに確認できる掩体壕の面影。写真によっては掩体壕の形状まではっきり確認できるものも。

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↑【掩体壕の配置図】
東誘導路は面影を強く残していますが、掩体壕となると今でも確認できるものはごく僅か。
青→確認した掩体壕、緑→未確認もたぶん残されている?、黄色→すでに消滅

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↑【公開されている無蓋掩体壕】
こんぶくろ池自然博物公園の一角に残される掩体壕。無蓋掩体壕ということで、爆風を防ぐための土塁しか築かれていません。まあ、コンクリがない分は確かにインパクト弱いかもしれないですけどね。お城や幕末の台場だって土塁から往時を想像している自分には馴染み深い代物ではあります。
自然公園の事務所にはNPOの方がたくさんいらっしゃったので掩体壕のことに関していろいろ質問をしてみたのですが、なぜか帰ってくる反応はイマイチ。戦争史跡は展示してみるも思うほど反響がなくてガッカリだったからなのか、それとももしかしたら地元の方は戦争史跡の存在そのものを暗に苦々しく思われているのかもなんて想像してみたり・・・。

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↑【ホテルリーベの入口前の掩体壕は・・・】
ホテルリーベの前あたりにも掩体壕の一部が残存しているみたいなんですけど、正直まったく判りませんでした。
何か新しくアスファルトのわき道が整備されたような感があるので、もしかしたらその時に消滅してしまったのかも・・・。

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↑【香取神社付近】
国道16号を挟んだ反対側、香取神社のちょっと先にも3基の掩体壕が残されているっぽいのですが、残念ながら発見には至りませんでした。とにかく藪なので、パッと見での判別は不可能に近いです。
一番わかりやすそうな気がしたので林のなかにも突撃をしてみたのですが、まだまだ蜘蛛が元気なんですよね。また冬枯れの時期にでも機会があれば再度・・・。

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↑【こんぶくろ池自然公園】
湿地帯であったであろう面影を色濃く残す自然公園です。自然を配備しつつも人工的な感が否めない公園や手付かずの山林とはまた違った雰囲気があるので、こういう場所は大切にしてもらいたいなー。
敷地内には野馬土手と呼ばれる土塁がそこかしこに残されていました。場所的に相馬御厨の範疇っぽいので、坂東武者お約束というか相馬氏で有名な相馬野馬追と何かしらの関係がと思って聞いてみたんですけど、これも反応はイマイチでした。園内の案内によれば、この野間土手は徳川幕府が軍馬の養成のために作成したもので、相馬野馬追の関連史跡ではなかったみたい。 

【関連】
柏飛行場 【秋水燃料庫跡】

2014年10月 5日 (日)

大房岬・回天発射台

以前、戦争史跡や幕末の台場跡などを紹介した大房岬。いくつかの見落としがあったので、今回は回天発射台を確認しに再び大房岬を訪問してみることにしました。

人間魚雷「回天」。その名の示すとおり魚雷型の特攻兵器ですが、「桜花」や「震洋」と比べると知名度はわりと高めな気がします。映画やドラマの影響なんでしょうか。

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↑靖国神社に展示されている回天。Wikipediaより転載。

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↑大房岬には戦争史跡や幕末の台場跡などいろいろ残されています。戦国時代後期、里見家当主の里見義頼が本拠に定めていた岡本城も至近の距離にあり、中世には砦などが築かれていた可能性も大です。

駐車場に車を停め、史跡の残る海岸まで降りていきます。朝早めの時間ではあるのですが、お盆時期なので家族連れは多めでしたね。

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↑【回天・発射台跡】
満ち潮で海中に沈んでしまい、あまり確認することができませんでした。この日はお昼くらいに訪問するのがよかったみたい。
画像右よりの海中に沈む箸のような構造物が、回天発射のために使用されるレールの土台となっていたみたいです。引き潮のときに訪問すれば、ハッキリとした姿を確認することができるんですけどね。

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↑【回天・収納庫もしくは待機所?】
発射台のそばに洞窟と壕がひとつずつ残されています。場所からいって恐らく回天の収納庫、もしくは人員の待機所だったと思われるのですが、正確なところはどうなんでしょう?

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↑【洞窟に残る落書き】
K・N・Hと恐らくS・Oであろう単語はなんとなく確認できます。あと、Yっぽい単語は大小おりまぜ複数。 

館山には進駐軍の先遣隊が上陸し、数日の間ですが米軍による軍政が実施されました。この落書きは、そういった際に米軍によって記されたメモ書きのようなものなのかもしれません。

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↑【防空壕】
こちらは明らかに人力で掘られた防空壕ですね。穴の高さは感覚的には1.51.6m程度だと思うので、回天を収容することはできたでしょう。レールか何か敷いて出し入れさせる予定だったのかな?

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↑この防空壕、入口になぜか神社のお札(板札って言うんですか?こういうの?)が置かれていました。何かこの辺りで過去に事故でもあって、その名残りなのかもなどと考えつつ折角なので防空壕に入ってみたのですが・・・

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↑内部で撮影した写真には何故か赤色が写りこんでしまいました。「えっ?」と思ったので慌ててもう一枚撮影するも、そちらはまったく問題なし。
なんにせよ、あまり気分のいいものではないですよね。お墓参りにいった後でしたし。慌てて防空壕から撤退です。

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↑【山岡部隊(S)が訓練に使用していたとされる崖】
山岡部隊は海軍陸戦隊が結成したSpecial Forcesです。最後は東南アジア各地に散らばる米軍基地を強襲してB29を破壊するといった計画が検討されましたが、出撃寸前のところで終戦をむかえ中止となりました。
山岡部隊の訓練は過酷を極め、この崖を素手で登るというのも訓練の一環だったそうです。いまでいうロッククライミングですけど、もしも装備を背負いつつとかだったら難易度も相当なはず。

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↑【何かしらの痕跡?】
ピットみたいに見えなくもないかな?波止場にはもっとハッキリした痕跡が残されていたんですけど、撮影するのを忘れちゃった。


↑動画です。いままでよりビットレート落としてアップしてみたんだけど、Youtubeのはなかなか最適な方法がみつからないや・・・

2014年9月25日 (木)

根木内城 【下総】

場所:千葉県松戸市根木内(場所) 
訪問:20145月 
形態:平山城 
遺構:空堀・土塁・土橋など 
指定:なし 
駐車:根木内歴史公園の駐車場 
満足:★★★★(4.5) 
見所:意外と大きくて迫力のある堀や土塁  

戦国時代、小金城を本拠としていた高城氏が、それ以前に拠点として定めていたのが根木内城です。高城氏が小金城に移動した後も、根木内城は小金城の支城として使用されていたものと思われます。

湿地に突き出す半島状台地の先端に構えられたお城でしたが、台地先端は国道設置や宅地化の影響で結構な範囲が削られてしまっており、主要部はほぼ消滅。現在はごく一部しか残されておりません。ただ、遺構としては雄大な空堀の面影や土塁などを確認することができますので、小金城とセットで訪問するとよいのかも。

※動画の作成予定はありません━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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↑【1940年代の周辺の様子と現況】
まあ、なんというか随分な変わり様ですね。宅地化で地形の凹凸が判りづらくなってしまっていますが、現地で確認すると意外と地形に面影が残されていることが判ります。当然、削られてしまった台地は別としてですが・・・。

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↑【在りし日の根木内城・曲輪配置図】
現地の案内に歴史紹介とあわせて曲輪の配置図が掲載されていたのですが、日焼けによって色褪せしてしまっていたので、ちょっと手を加えてわかり易くしてみました。
今でも残されていれば、なかなか楽しめそうな感じなのにな。勿体無い・・・。

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↑【案内掲載の復元イメージ】
案内が数多く設置されている新設設計でした。周辺住民、もしくは自治体が保全活動に熱心なのでしょうね。
非常に助かります。

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↑【雄大な空堀】
公園の入口にあるスロープを登って最初に目にするのがこの空堀。なかなかの迫力で、城内で一番の見どころかも。

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↑【虎口】
公園の入口。往時も虎口として使用されていたのかなぁ。土塁が重圧で、見事の一言。

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↑【公園内】
なかなか広大ですが、往時はもっと広かったんですよね。
端っこはバッサリと断ち切られていますが、本来ならこの先にはまだ台地が続いていたんだよなー。削られた土は、周囲の湿地を埋め立てるのにでも使用されたんでしょうか?

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↑【馬出手前の曲輪】
土塁を超えて奥の曲輪へ。この曲輪は先程の曲輪より一段高いですね。台地先端に向かって徐々に高さが増していくような構造をしていたのかも。

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↑【竪堀】
公園の通路として整備された竪堀跡。雰囲気はよく残されています。

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↑【湿地】
ゲンゴロウやヤゴだけでなく、タガメなんかも生息してるのかな?

2014年4月20日 (日)

国府台合戦 【下総】 

場所:千葉県市川市国府台~千葉県松戸市松戸あたりまで 

訪問:20144月 

形態:古戦場 

満足:★★★(3.0) 

 

今年になって殆ど車を動かしていなかったんですよね。で、たまにはエンジンかけなきゃと思ってキーを久々にまわすもエンジンがかからない。電力がなくなってバッテリーが上がってしまっていました・・・。

セルもまわらなかったんで、本当に電気が底をついってしまっていたという状態なんでしょうね。こんな醜態演じたのは初めてです。

 

流石にこれは拙いよな。

ということで、当面のバッテリー充電を兼ねてちょっとドライブに行ってきました。行き先は国府台。

 

国府台というと古戦場ということで知られています。なので、心霊系でもたまに紹介されたりしますね。近代では病院(しかもなんと精神科病棟らしい!)などが建てられていたということもあるので、そういうもの好きな方にも堪らない場所なのかも。

 

古戦場ということで、まずはその合戦の内容を振り返ってみることにしましょう。国府台合戦と呼ばれる合戦は大きく分けて2度ありました。

・第一次国府台合戦 (1538:後北条氏vs小弓公方足利氏)

・第二次国府台合戦 (1563年および1564:後北条氏vs里見氏)

 

勝利したのはいずれも後北条氏。古い出来事なので合戦の詳細は不明ということが多いですが、それぞれの合戦の内容をわかる範囲で簡単に確認していきましょうか。

 

■第一次国府台合戦(1538) 

 

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※境界線は現在のものなので、往時の境界線はこれとは異なります。 

 

古河公方の内訌によって当主・足利利政の次男・足利義明が真里谷武田氏によって担ぎ出され、小弓城において「小弓公方」を名乗り、古河公方と対立していきます。

勢いにのった小弓公方・足利義明は1538年、安房・上総・下総の諸軍勢(安房里見氏・真里谷武田氏・庁南武田氏・上総土岐氏・上総酒井氏など)を率いて国府台に出陣。国府台には享徳の乱の際に太田道灌が陣城を築いたことがあったので、その跡地を活用して小弓公方も陣城の構築を行いました。

小弓公方軍は国府台~松戸まで、太日川に沿うように連なる台地上に陣取ります。足利義明は松戸城、もしくは相模台のあたりに陣を構えました。

 

程なくして後北条氏と合戦になり、足利義明が戦死。小弓公方軍は潰走状態となり、小弓公方はこの合戦をもって滅亡してしまいました。

なお、小弓公方の登場により領土を圧迫されていた下総(馬加)千葉氏ですが、小弓公方の滅亡によって国府台のみならず小弓などの旧領を回復させることに成功しました。

 

第一次国府台合戦はざっとこんな感じですね。続いて第二次国府台合戦にうつります。

 

■第二次国府台合戦(1563年および1564) 

第一次国府台合戦の勝利により、後北条氏は下総のみならず上総にまで勢力を伸ばしていきました。上総酒井氏や上総武田氏も後北条氏の影響下に組み込まれていき、1554年には里見氏の本拠である久留里城を攻撃するほどまでに勢力を広げていきます。

この時の里見氏は大変なピンチで、後北条氏の援助の下に峰上城では吉原玄蕃助が里見氏に対してゲリラ活動を行っていましたし、小糸(秋元)の秋元氏や造海(百首)の内房正木氏も後北条方に降伏。遂には里見氏の上総におけるもう一方の重要な拠点であった佐貫城が陥落するなど、まさに風前の灯といった状態にまで追い込まれてしまっていました。

しかし、1560年に越後の上杉謙信が関東に出兵すると流れが一変。越後勢への対応で手一杯になった後北条氏をよそ目に、里見氏は上総のみならず下総にまで急速に影響力を拡大させていき、ついには下総千葉氏に対して次々と攻勢をかけられるまでに勢力を強めていきました。

そんななかの156211月、謙信が越中攻めにて関東を空けているその間隙を突いて、武田・後北条連合軍が武蔵・松山城に攻撃を仕掛けます。この武州松山城は上杉氏の武蔵における重要な要衝で、ここを奪われるということは武蔵における上杉氏の影響が大きく後退してしまうということを意味しており、謙信としては何としても死守しなければならない重要な拠点でした。

 

ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、ここから第二次国府台合戦の件に突入します。

雪で思うように動きが取れない謙信は後北条氏への牽制として、里見氏に後北条氏領への攻撃を要請します。要請を受理した里見氏は軍勢を国府台まで出陣、一方の後北条氏側は防戦のために江戸城とその支城の葛西城から富永直勝と遠山綱景が出陣しますが、15631月に両軍は第一次国府台合戦同様の国府台~松戸まで太日川に沿うように連なる台地付近にて激突し、合戦をおこないました。この1563年の合戦は里見氏が後北条勢を見事に打ち破り、勝利を飾りました。

(補足:出陣と記しましたが、里見氏と後北条氏は1561年には既に葛西城の争奪戦を繰り広げていたみたいなので、当該台地は1561年には里見氏の前線基地として使用されていた可能性も考えられます)

合戦では後北条側の富永直勝と遠山綱景、舎人恒忠などが討ち死に。このときの合戦は現在の松戸市矢切近辺が特に激戦となったみたいで、当地には様々な伝承が残されているみたいです。

 

謙信は急いで松山城に向かいますが、松山城の守勢は武田・後北条連合軍の攻撃の前に抗しきれず、15632月に開城・降伏してしまいました。なお、この年の謙信はこの後に忍城騎西城唐沢山城祇園城結城城など後北条氏寄りの姿勢を見せていた諸勢力を次々と攻略して、関東での地盤固めに奔走します。

 

武蔵では岩槻城の太田資正が後北条氏に反抗的な姿勢を見せ続ける中、15641(もしくは2)に国府台付近の台地で再び後北条軍と里見軍が激戦を繰り広げました。

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この合戦では後北条勢は正面渡河で攻撃を仕掛けるのではなく、市川南部や舟橋など台地の南東近辺をまず制圧し、その後に台地上に陣取る里見勢に攻撃を仕掛けていったみたいです。攻勢には恐らく北松戸の小金城を拠点とする高城氏も加わっていたことでしょう。

この戦いで重臣・正木信茂などが戦死するなど里見氏は大敗を喫し、戦線を上総南部まで後退せざるを得ない状況に追い込まれました。引き続き後北条氏の圧力が強まる中、里見氏は佐貫城そばで発生した三船山合戦に勝利して意地は見せるもののそれは束の間の勝利でしかなく、これ以降の里見氏はついに以前の勢いを取り戻すことが出来ないまま、戦国時代を終えていくことになります。

 

 

ちょっと長くなりましたが、ここまでが国府台合戦のだいたいのあらましですね。

解説の中でも触れていますが、合戦の舞台になったのは国府台~松戸あたりまでと幅広いです。

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3Dではないものの、こうしてみると地形の凹凸が何となく掴み取れますよね。グーグルアース、本当に偉大です。

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ちなみに往時の太日川流域はこんな感じだったみたいですよ。実際、松戸~矢切くらいまでは湿原が広がっていたみたいですが、場所によっては本当にこんな感じのところもあったんでしょうね。

 

 

特に目立った遺構が残されているわけではありませんが、めぼしい場所をいくつか訪問してみました。最後に軽く紹介していきたいと思います。

 

■国府台城址 (場所) 

 

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里見公園の案内図。このうち、それっぽい雰囲気が残されているのは公園左上の敷地です。

病院として使用されていたのは公園の南側ということなので、左上側は多少は昔の面影が残されていると考えていいのかな?

 

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園内に残された土塁。実はこの土塁は前方後円墳の名残なんだそうで、今は露出した石棺が配置されています。周囲には他にいくつか同様の土塁が残されているけど、それらも古墳の名残なんでしょうね。

国府台城と呼ばれる陣城も、この古墳を土塁代わりにうまく活用して構築されていたのでしょう。

 

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そのうち一箇所には「市川市最高標高地点」の案内が。

 

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「夜泣き石」と「里見軍将士亡霊の碑」。

ちなみに戦死した正木信茂の妻・種姫は出家して尼になり、隠遁生活をして余生を過ごしました。そしてこの種姫こそが南総里見八犬伝に登場する伏姫のモデルになった人物だとも言われているみたいです。

※南総里見八犬伝に興味のある方はこちらの記事もどうぞ(伏姫籠穴八房生誕の地

 

■矢切 (場所) 

 

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1563年の戦いで大激戦が繰り広げられたという矢切。

ちなみにこの矢切という地名の由来は国府台合戦にあるみたいで、この戦乱に大変苦しんだ当地の住人が弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれたと伝承されているんだとか。でも矢喰村とかなんか嫌だなぁ。

余談ですがこの切通し、えらく交通量が多かったです。ちょっとだけ西蓮寺も見てみようと思ったけど、そういった訳でこれは断念。

 

■相模台 (場所) 

 

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松戸市役所や駅周辺の市街地などに突き出すような形でそびえる高台が相模台です。

台地上は教育施設や公園などとして使用されていて遺構などは全く残されていませんが、聖徳大学のキャンパス内に経世塚という供養塚が残されていました。

 

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【おまけ】松戸中央公園の正門は旧陸軍工兵学校歩哨哨舎時代のレンガ建造物です。

 

自分は訪問しませんでしたが松戸城址(戸定が丘歴史公園)や国分寺など、国府台合戦の面影は他にもいくつか点在しています。興味ある方はぜひ。

 

2013年10月 6日 (日)

関宿城 【下総】

場所:千葉県野田市関宿町(場所)
訪問:2012年6月ほか
形態:平城
遺構:本丸の一部・移築建築物など ※城址付近に模擬天守あり
指定:なし
駐車:有
満足:★★★★(4.0点)

見所:各地に散らばる移築建築物の散策

関宿城は戦国時代に古河公方の勢力下にあった梁田氏によって築城されたと考えられています。

梁田氏は上杉禅秀の乱(1416年)の際に鎌倉公方側の勢力として大きな成果を挙げ、下河辺荘付近に勢力をはりました。享徳の乱(1455-1483年)が勃発して鎌倉公方の本拠である鎌倉が駿河国・今川氏に制圧されると、梁田氏は足利成氏を下河辺荘の近くにある古河に迎い入れ、自身は古河城に近くて水運の要衝だった関宿に城を築城(1457年)して、関宿城を拠点に古河公方家の側近として仕えます。

管領上杉家の家督問題から永正の乱に発展し、古河公方家も政氏(二代目)と高基(三代目)の両派に別れて争いますが、梁田氏内でもこのときは両派に分かれての諍いが発生しました。
古河公方家における争いは高基側が勝利し、高基派について活躍した梁田高助は筆頭家老に取り立てられました。こうして梁田氏は、古河公方家中における地位を万全のものとしていきます。

北条氏綱の代までは比較的良好だった古河公方と後北条氏ですが、北条氏康に代替わりする頃になると、徐々に両家の関係は悪化していくようになりました。
古河公方四代目・晴氏は管領上杉氏と後北条氏を攻めますが、河越夜戦で惨敗を喫し、古河公方の勢力は大きく衰退。こうして後北条氏が古河公方家に直接介入してくるようになります。
北条氏康は晴氏を引退させると、自身の甥である足利義氏を五代目の古河公方に就任させました。さらに氏康は要衝の地であった関宿城に目をつけ、義氏を古河城に配置して、梁田氏を古河城に転換させてしまいます。

一旦は後北条氏の勢力に逆らえず古河城に移動した梁田氏ですが、1560年に上杉謙信の関東出兵が開始されると、梁田氏は再び関宿城への復帰を果たしました。
以降、後北条氏は関宿城を三度(1565年、1568年、1574年)に渡って攻撃します。最後は一年近く攻防戦を続けるも、関宿城は矢玉尽きて遂に開城し、梁田氏は投降。
こうして後北条氏は北関東への圧力を、更に強めていくことになります。

後北条氏の滅亡後、要衝である関宿城には家康の異父弟にあたる松平康元が2万石(翌年には4万石)で入り、関宿藩が立藩されました。
江戸時代、関宿の藩主は目まぐるしく変わりますが、出世城と称えられたお城に相応しく、多くの人物が幕府の要職を務めています。

関宿城は明治の廃城令にて廃城が決定し、1875年には破却されました。城址は利根川東遷事業の一環で大規模な治水工事が行われ、主要部は堤防の下に埋没。外郭も農地や市街地化によって、現在はほぼ完全に消滅してしまっています。


城址の遺構はほぼ残されていませんが、関宿が水運の要衝だった面影は、現地でも少しだけ感じ取ることができます。天守風外観の博物館では利根川の歴史を紹介しており、あわせて見学すると、多少は興味の沸き方が違うんじゃないでしょうか。なんていうか、川の位置は時代で結構変わっちゃってたりしますから、自分には判らな過ぎてイマイチ興味が・・・。
「お城」を楽しみたかったら、ここよりも逆井城を訪問するのがベストですよね。模擬天守につられて関宿城を訪問している方も多いんでしょうが、それだったら近くにもっといい所がありますよと教えてあげたくなっちゃいます。まあ、余計なお世話なんでしょうけど。

※動画は2012年6月に撮影した映像を中心に、2012年7月に作成したものです。
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↑【作成した大まかな関宿周辺における河川の移り変わり】
現在は利根川と江戸川の分岐点にあたる関宿。でも、江戸時代以前の利根川は関宿を通過しておらず、渡良瀬川が江戸(東京)湾に直接繋がっていたのだとか。
ちなみに往時の利根川はもっと内陸にあって、忍城の残る行田市などの付近を流れていたそうです。ということは、石田三成の水攻め(石田堤)にも活用されていたんだろうなぁ。

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↑大まかな関宿城の概略図と古城絵図の関宿城図。
同じ渡良瀬川流域に存在していた古河城と同様に、関宿城も堤防の下に埋もれてしまいました。

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↑【本丸跡】
堤防の脇に僅かに残る本丸跡。公園として整備しようとした風はありますが、博物館から訪問しようとするとちょっと不便なので、物好き以外は立ち寄ることはないでしょうね。

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↑【天守風外観の博物館】
関宿城博物館では河川の歴史や関宿城に関するあれこれが展示されています。ちなみに、博物館の場所は関宿城の城域から僅かに外れているので、ご注意を。

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↑【処刑場跡】
南無妙法蓮華経と刻まれた石碑は1801年に作成されたものだと推定されています。あまり目立たない場所にあるので、指摘されないと存在に気付かないかも。


■関宿城の移築建築物

城址は消滅して面影も殆ど残されてはいませんが、関宿城内で使用されていたという移築物は複数残されているので、簡単に紹介していきたいと思います。

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↑【移築物①:実相寺に残る本丸御殿】 →場所
実相寺の客殿は本丸御殿の一部が移築されたものと伝えられています。

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↑【移築物②:埋門】 →場所
関宿城内の佐竹門と辰の門の間に設置されていた埋門。屋根の鬼瓦には久世家の家紋が彫りこまれています。

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↑【移築物③:薬医門】 →場所
逆井城に残されている移築薬医門。

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↑【移築物④:伝大手門】 →場所
最後は栃木県下野市のとんかつ合掌さんに残る伝大手門。
門内に用意された説明書きによると、幕末の資金不足の中で売却された大手門が鷲宮付近に移築された後、昭和53年に現在地に再度移築・復元された建造物なんだとか。
当然、現在見られる姿は往時のものではなく、移築にあわせて長屋門に改修されたあとの姿なんでしょけど、大きくてとても風格がありますよね。

あわせてとんかつも食事させていただきました。とても美味しくて大満足。
食事を終えて店を出ると、明らかに大手門目当てと思われる老夫婦が門のまわりをウロウロされていました。結構、この大手門目当てに訪問される方も多いのかな?

2013年9月25日 (水)

真里谷城 【上総】

場所:千葉県木更津市真里谷(場所)
訪問:2012年4月
形態:山城
遺構:曲輪・土塁など
指定:なし
駐車:木更津市立少年自然の家の駐車場付近に駐車
満足:★★★★★(6.0点)

見所:真里谷武田氏の居城だったとされる。

戦国時代、上総国にて勢力を誇った上総武田氏。
この上総武田氏の興りは、享徳の乱の際に古河公方の勢力として上総に入った武田信長が当地に勢力を広げ、所領としたのが始まりとされています。
ちなみにこの武田信長という人物。出自は甲斐武田13代当主・武田信満の次男で、その当時は古河公方・足利成氏に仕えていました。

信長は真里谷城と丁南(長南)城を築いて自らは丁南城に入り、真里谷城には嫡男の信高を配置しました。その信長が隠居すると今度は信高が真里谷城から丁南城に入り、以降の丁南城は上総武田氏の嫡流が継承していくことになります。これが丁南武田氏の始まりですね。
そして真里谷城には信興(信高の子)が配置されて、この系統が後に真里谷武田氏と呼ばれるようになっていきます。

真里谷武田氏は真里谷(武田)信清の代になる頃には、上総中南部に一大勢力を築き上げるまでに成長しました。さらに信清は領地を接する小弓城から千葉氏や原氏を追い出すと、その小弓城に古河公方足利政氏の子・足利義明を迎え入れて小弓公方として擁立します。

この頃が真里谷武田氏の最盛期で、以降は信清の庶子ながら長男である真里谷信隆と嫡子の真里谷信応による後継争いで真里谷武田家の衰退が始まり、第一次国府台合戦の敗戦が決定打となって勢力としての支配力を失ってしまいました。
程なく真里谷武田氏は椎津城に移されてしまうので、その後の真里谷城の詳細はよくわかりません。まあ、上総は後北条氏と里見氏が和睦するまでの間、両者で激しく争っていた場所なので、状況に合わせてどちらかの勢力が管理していったのでしょう。
1590年の小田原征伐の頃は真里谷信高が城主をしていたみたいですが、徳川軍の攻撃の前に開城して降伏しました。信高は下野国の那須家のもとに落ち延び、そのまま生涯を終えたとされているみたいです。


真里谷武田氏の本拠だった真里谷城ですが、結構山深い場所に残されているんですよね。立地のイメージでいうと、本拠というよりは詰めの城と呼んだほうがぴったりな感じ。
また、城下町であったとされる真里谷の宿は真里谷城から北西におよそ4kmほど離れた場所にあり、その場所は以前にボツ画像という表題でちょっとだけ紹介した天神台城と真里谷要害城に挟まれていたりもします。
そのため、本拠となった真里谷城が本当はどこだったのかや、内訌で信隆が寄ったとされる「まりやつしんちの城」の場所などに関しては様々意見が分かれているようですね。
いつか解明される日がくるのでしょうか。

※動画はまだ作成していません
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↑真里谷城の周辺図。冒頭で説明した立地イメージが判り易くなるかなと思って作成しました。どちらかというと本拠というよりは詰めの城と表現したくなっちゃいませんか?

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↑大まかな真里谷城の概略図。

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↑【入口】
現在の真里谷城は木更津市立少年自然の家キャンプ場として使用されています。このキャンプ場、シーズンオフになると閉鎖してしまうみたいで、入口付近にある駐車場も閉じられてしまい、駐車場には入れませんでした。まあ、2~3台くらいなら邪魔にならずに入口付近に停められると思うので、駐車場所の心配はしなくても大丈夫かな。

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↑【三郭】
主要部にあるキャンプ場まで続く舗装された道をあがっていくと唐突に現れる三郭。細長い郭で、中は上下二段に分けられています。
ここに大手があったんですよね。この時はちょっと気付けなかったなぁ。

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↑【管理棟のある場所】
管理棟の手前には大きなゲートが設置されていますが、脇に人が抜けられる程度のスペースが確保してあるので、通り抜けは問題ありません。
使用者は管理等前のロータリーで荷物を降ろして、ドライバーさんは駐車のために入口の駐車場まで戻られるんでしょうかね。なんかドライバーさんが気の毒なような・・・。

管理棟付近にはしっかりした案内が設置されていました。こういうのは嬉しいですよね。史跡の指定はされていないみたいですけど、大事にされているのかな。

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↑【城山神社の郭】
意外と広いです。
現在は三方を土塁に囲まれているのですが、この土塁がまた巨大でなかなかの迫力あり。

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↑【北物見台】
特に東~北側の土塁は厚手になっていて、北側の端には櫓台があったと言われてもおかしくない規模の広さが確保してあります。

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↑【北キャンプ場】
城山神社から土塁を挟んで東側にはロッジが複数建てられていました。
この帯郭、千畳敷なども覆うように南北に伸びていて、結構な広さがあります。山中なんですけど、よくもこう大きな平場を確保したものだと感心しちゃいますね。

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↑【南物見台】
千畳敷の周囲を囲んでいる土塁のうち、東側の土塁に設けられている展望台。ここも実際に櫓台として使われていたのかもしれませんね。

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↑【千畳敷】
主郭とされる千畳敷。四方に土塁が残されていて、虎口も枡形がしっかり。なかなか良い状態で遺構が残されているのが嬉しいですね。
大掛かりな遺構は、戦国末期には真里谷武田氏も徐々に勢力を回復してきていたという証なのでしょうか。

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↑【南キャンプ場】
このあたりも腰郭がしっかり残されています。主要部近辺は本当に平場が多いなぁ。

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↑【二郭】
二郭は堀で東西に分断されているようなのですが、こちらは管理棟に近い東側の二郭です。
西側は逃してしまいました。



2013年9月22日 (日)

万喜城 【上総】 

場所:千葉県いすみ市万木(場所)
訪問:2012年4月
形態:平山城
遺構:展望台・曲輪・空堀・土塁・井戸など
指定:夷隅町指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.0点) 

見所:上総土岐氏の居城。尾根には特に中世城郭の遺構が良く残されています。

万喜城がいつ頃、誰によって築城されたのかは定かではありませんが、恐らく上総武田氏によって築かれ、その後に上総土岐氏(万喜土岐氏)の居城として使用されたのではないかと思われます。

上総土岐氏は里見氏が上総南東部に勢力を伸ばしてくると里見氏の勢力下に入り、里見義堯の後室を迎え入れるなどして里見氏との関係を強めていくことになります。しかし、里見氏が1563年に開始された第二次国府台合戦で後北条氏に敗北すると、時の当主であった土岐為頼は後北条氏に寝返って里見氏と敵対しました。

ただ、万喜城と小多喜正木氏の拠点である小多喜城は同じように夷隅川に接する要害を縄張りしたお城ですし、両城は直線で10kmも離れていませんからね。そのため、上総土岐氏は幾度と無く里見氏や、里見氏勢力化の丁南武田氏にも攻め込まれますが、その都度撃退して勢力を保ちました。

それらの合戦の中でも1589年の合戦には、上総土岐氏側に御子上典膳として知られる小野忠明も参加していて、寄せ手の正木時茂(二代目・時堯とも呼びます)と互角に戦い、この戦いで名を馳せたことがきっかけとなって小野忠明は伊東一刀斉に弟子入りしたのだとか。

里見氏の攻撃には耐え続けた万喜城と上総土岐氏ですが、1590年の小田原征伐の際には秀吉方に責められて万喜城はついに落城し、上総土岐氏は滅亡しました。
万喜城には当地を治めることになった本多忠勝が一旦は入城しますが、しばらくすると忠勝は居城を大多喜城に移してしまいました。このときに万喜城は廃城になったものと思われます。


主要部は公園化の影響か展望台が建てられたりして遺構が明瞭でない部分もあったりしますが、その周辺に広がる細尾根にはなかなか見応えのある遺構が残されている城跡だと感じました。城域も結構広いような印象を受けましたが、コースを外れると危なそうな場所も多々。
前回は手間になってそこまで詳しい見学ができていないのですが、いつか再訪して未訪場所の遺構も堪能したいものですね。

※動画はまだ作成していません
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↑大まかな万喜城の周辺図と概略図。
万喜城は三方を夷隅川で囲まれた天然の要害に立地した、非常に堅固なお城でした。

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↑【西からの遠視】
特徴的な展望台が目印になります。

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↑【山上まで続く道】
万喜城の主要部は公園として整備されているので、山上まで車で登ることが可能です。自分は中間にある駐車場に車を停めて、後は歩いて登っていきましたが。
この道路わきには、いくつかの腰郭跡と思われる平場が点在しています。

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↑【主郭?】
主要部は展望台がたつ櫓台状の土壇を中心に結構な広さがありますが、これは公園化による影響のような気もしてしまうので、往時がどのような構造になっていたのかは、現状を見る限りよくわかりません。
周囲には土塁跡だと思われる厚手の土塁も残されているので、結構迫力がありそうな場所だったことは間違いないと思うのですが・・・。

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↑【展望台からの景色】
主要部の南端には他より一段高い倉ノ台と呼ばれる平場があり、その倉ノ台の手前からは上幅10~13m程度の堀が発掘調査によって検出されているみたいなんですよね。
でも、現在は見ての通りで埋め戻されて堀の痕跡は残されていません。
この広場をイベントスペースとして使用する予定があるとかそういった理由なんでしょうけど、もったいないなー。

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↑【倉ノ台】
その倉ノ台の様子。部分的に土塁も残されていますね。
発掘調査によって、この平場は大規模な盛土によって構築されたことが判明しています。礎石建物跡や焼き米も検出されたんだとか。

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↑【井戸跡】
万喜の姫の鏡が落ちているとの伝承が伝えられているらしいです。

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↑【細尾根に残る堀切】
主要部から南側に降りると、東西に分かれる細尾根の分岐に到着します。ここから先には如何にも房総の城といった趣のある遺構が残されておるので、ちょっと足を伸ばしてみるのも楽しいですよ。
写真は細尾根に続く尾根土塁に設けられた堀切。

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↑【分岐】
さらに細尾根を歩いて南側に進んでいくと、分岐に突き当たりました。右の道を進むと麓にある上総土岐氏の墓所を見学できるのですが、もう少し遺構を確認したいので前進することに。

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↑【南尾根で確認した遺構】
細尾根を前進すると、堀を中心とした迫力のある遺構を確認することができました。特に尾根道の西側崖下に見られた横堀は圧巻。滑落したら怪我じゃ済まないかも知れません。ああ、怖い怖い・・・。

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↑【引き返した地点】
さらに南に向かって尾根は続いていますが、どこまで続いているのか不明だったので、今回はこの写真のあたりで引き返しました。
ご覧の通り細尾根には結構な草木が茂っていますし、そのうえ両脇は先ほど紹介したような高低差です。こういう場所って体力以上に精神力が消耗するんですよね。

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↑【南尾根の切岸】
綺麗に削られちゃってますね。ちなみに、この切岸にそって歩けば、先ほどの横堀も散策することができると思います。次回はちゃんと確認してみたいかな。

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↑【上総土岐氏の墓所】
海雄寺にの墓所に残る上総土岐氏代々の墓所。


大多喜城の動画をアップロードした後、次は万喜城と決めて途中まで編集していたんですけどね。作業を幾日か中断していたらそれまでの内容が頭から消えてしまって、編集は断念してしまいました。
簡易版でもそのうちに作成してみようかな。



2013年9月19日 (木)

大多喜城 【上総】

場所:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜(場所)
訪問:2012年4月
形態:平山城
遺構:模擬天守・現存移築門・井戸・曲輪・堀切・土塁など
指定:千葉県史跡(本丸跡)
駐車:有
満足:★★★★★★(6.5点)

見所:正木大膳の通り名で知られる小多喜正木氏の居城だったお城。城下町も散策を楽しめます。

大多喜城はもとは小多喜城と呼ばれていて、上総武田氏の真里谷信清によって築かれました。その後、真里谷朝信が小多喜城の城主を務めます。

真里谷武田氏は信隆・信応の後継争いや1538年の第一次国府台合戦にて急速に疲弊していき、その疲弊した真里谷武田氏の間隙をついて安房の里見氏が上総南西部に進出、真里谷武田氏は久留里城佐貫城を里見氏に制圧されてしまいます。
続いて上総南東部に正木氏を送り込んだ里見氏は、1541年には輿津城や勝浦城などを陥落。真里谷朝信も里見氏に対抗しますが
、朝信は1544年に上総刈谷原にて正木時茂に討ち取られ、以降の小多喜城は正木時茂の本拠として使用されることになりました(小多喜正木氏)。

小多喜正木氏は勝浦正木氏とともに外房正木氏として里見家中でも大きな勢力を築きますが、1590年に里見氏が上総国の領地を没収されると、小多喜城には家康家臣の本多忠勝が入城。この際に小多喜城は近世城郭として改修され、名前も小多喜城から大多喜城へと改められました。
本多忠勝は1600年には伊勢桑名藩に転封になりますが、大多喜藩は忠勝・次男の忠朝が継ぎ、その後は一時廃藩の時期を挟みなが
らも阿部家・青山家・阿部家・稲垣家と続いて最後は大河内松平家の統治の下で幕末を迎えました。

大多喜城には天守閣が存在していたらしいのですが、1843年に焼失してからは再建されなかったみたいですね。
現在、本丸には模擬天守(内部は博物館)が建てられ、大多喜高校が建てられている二の丸跡には薬医門が唯一の現存移築建造物として残されています。
城下町だった市内にも旧家が多く残されているみたいですし、ついでに散策してみるのも良いですよね。房総の小江戸ってキャッチフレーズがついていましたけど、これは埼玉県の川越市を意識したものなのかな。


※動画は2012年4月に撮影・編集してアップロードしたものです。
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↑作成した大多喜城の簡単な周辺図と大多喜城地之絵図。
夷隅川が大多喜城の南から北東まで城域を覆うように流れ、これが天然の外堀として機能していたものと思われます。

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↑【出丸】
堀切を挟んで本丸の西側にある出丸。背後からの寄せ手を撃退するための曲輪だったのでしょうか。

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↑【本丸にそびえる模擬天守】
模擬でも天守閣があるとやっぱりいいですね。桜の季節だったので人でいっぱいでした。

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↑【本丸に残る土塁?】
遺構かどうかは判りませんね。本丸は結構手が入っているような感じなので、やっぱり違うのかな。

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↑【大多喜高校に残る大井戸と移築薬医門】
大井戸は周囲17mで深さは20mもあるみたいです。まさに大井戸ですね。

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↑【大多喜城主要部の南を流れる夷隅川】
要害だった面影を知ることができますね。この方面から寄せるのは容易ではなかったでしょう。

ちなみに下に見える道はメキシコ通りという名称がつけられています。なんでも、本多忠朝が藩主を勤める時代に近海で座礁したスペイン領フィリピン提督一行を保護したことがあり、そのことが縁となって日本はメキシコ・スペインと通商を始めることなったらしく、そのことを記念しての命名なんだとか。

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↑【大手門跡】
その提督が書き残した大多喜城に関する記述があるらしく、それによると大手門は跳ね橋の形状をとっていたのだとか。
とても見てみたいですね。明治撮影の古写真とか残されていないのかな?

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↑【栗原地区】
まとまった広さの敷地が残る栗原地区。発掘調査では柱穴やかわらけなども検出されています。どのような役割を担っていたのでしょうかね。
なお、栗原地区は現役の農地で、奥のほうは通行禁止になっていました。猪が出たりして危ないからとのお話でしたが、私有地ですし禁止されていることではあるので、無茶はやめておきましょうね。

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↑【栗原地区西方の細尾根】
まるで防壁のように感じられる細尾根。実際、そんな感じの使われ方だったんですかね。

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↑【古城絵図から見る細尾根脇の駐車場】
現在は駐車場として使用されている場所を日本古城絵図の大多喜城地絵図で確認してみると、そこには八幡社と描かれているのが判ります。
その周囲も城山とされているので、正木氏時代の小多喜城を知る上での参考になるかもしれません。


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↑おまけ。桜はやっぱり綺麗ですね。