地域 - 東京

2014年4月 5日 (土)

皇居【乾通り】

御所として使用されている関係上、見学には何かと制限の多い江戸城ですが、本丸と西の丸の間を走る乾通りが期間限定で公開されているとのことで、早速訪問してみました。

期間は4/4()4/8()まで。ニュースで報道されているのでご存知の方も多いでしょうが、想像以上に大混雑。みんなは何が目当てなんだろうかな?やっぱり桜なんだろうか・・・。

 

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↑【乾通り】

皇居前広場側の坂下門から北の丸側の乾門までが乾通りです。道は原則一方通行。

乾門ではなく、西桔橋門を抜けて本丸に抜けることも可能です。


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↑【坂下御門】

坂下門外の変でも有名()ですね。桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されますが、後日、老中・安藤信正も浪士6人に襲撃されてしまいます。安藤は軽症を負うものの何とか坂下門内に逃げ込んで命は取り留めましたが、この事件を期に安藤は老中を罷免されて失脚していきました。

今回はあまりに人手が多かったので、写真は以前撮影したもを使用しました。今は正面に渡櫓門がどーんと構えていますが、往時の門の位置からはちょっと移動されています(詳しくは古絵図にて)

防御設備としては重要だった枡形も、現在では邪魔にしかなりませんからね。半蔵門と坂下門は門の風情が残されているだけ良かったというべきなんでしょう。


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↑【富士見櫓】

皇居前広場からだと木々が遮って見づらいですし、本丸内からだと近すぎて風情に欠ける富士見櫓。

思ったほどは近づけませんでしたが、ようやく西の丸側から富士見櫓を見上げることができました。

1657年に発生した明暦の大火(振袖火事)にて天守が消失した後は、この富士見櫓が実質の天守として認識されていたと伝えられています。関東大震災で損壊してしまいましたが、解体・復元された貴重な史跡です。

 

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↑【蓮池濠】

多聞櫓(富士見多聞櫓)もやはり西の丸側から見たほうが雰囲気があっていい感じですね。

 

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↑【道灌濠】

西の丸と吹上を隔てる道灌濠。堀もいいですが、石垣もしっかり残されていて嬉しくなっちゃいます。

ちなみに西の丸は簡単に言うと隠居曲輪で、吹上は庭園として使用されていました。明暦の大火以前の吹上には御三家(尾張・紀伊・水戸)の大名屋敷などが建てられていたらしいのですが、明暦の大火で全焼してしまったので、その後は火除け地として庭園にしたみたいですね。この火除け地の面影は今もいくつか残されていて、上野広小路もそうですが、浅草橋近くの妙に広い交差点も広小路の名残です。

 

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↑【西桔橋御門】

帰りは乾門ではなく、以前から歩いてみたかった西桔橋門へ。

今は違いますが、往時は桔橋(はねばし)になっていたのでこのような名称がついたのだとか。

古絵図を見ると枡形になっていますね。二の門はやはり渡櫓門だったのでしょうか?

 

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多くの来場が目当てにしていたであろう桜も一応掲載しておきます。
まあ、桜自体の本数は少なかったですよ。桜目当てならそれこそ千鳥ヶ淵にいったほうが正解かも。

2013年12月 4日 (水)

浄福寺城 【武蔵】 ※おまけ

浄福寺城における見所の紹介は前回行ったので、今回はそれ以外の場所を簡単に紹介していきたいと思います。

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↑前回も使用した縄張り図に、新たに今回のポイントをA~Gで追加しました。


■支尾根2(南東尾根) → A

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↑主郭東の腰郭を降りた先にある堀切から向かえるんですけど、道は斜面に僅かに残されている程度ではあるので、慎重に進みました。
縄張り図だと傾斜のレベルが把握しづらいですが、尾根の付け根に近いところは南尾根と同じくらいの高低差があるんじゃないでしょうかね。尾根脇の道しか歩いていないので詳細はわかりませんが、尾根をパッと見た感じは、本当に平地があるのか疑いたくなるような場所でした。多分に藪の影響もあるんでしょうけど。

傾斜がきつい、藪で状態を把握しづらい、縄張り図を忘れて先のプランがたてられない、逆光で視界が悪い、などと四重苦が重なり、途中で散策を諦めました。
東尾根程ではないにしろ、ボチボチは平地があるっぽい尾根なので、見ておきたかったというのはあるのですが・・・。

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↑今回、特に厄介だったのが、この枝にトゲの生えている木の存在。細道が多い城址なので、進行ルートに生えていたりすると、嫌々ながらもこいつらの中を突破せざるを得ないなんて場所が複数ありました。


■主尾根にある平場 → B

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↑細尾根の多い浄福寺城において、比較的に平場が残るポイントです。縄張り図をみると判りますが、ここは丁度、東尾根の付け根にあたる場所なので、そういったことも関連してくるんでしょうね。
武者溜りとでも表現しておけば良いのかな?


■二重堀切(北)手前の主尾根 → C

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↑二重堀切(南)を抜けると、主尾根は緩やかなのぼりになっていきます。その最上段、北東尾根側には土塁が残されていました。
主尾根上で現在確認できるのは、たぶんここだけなんじゃないのかな?


■現在の北端 → D

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↑再三に渡って明記していますが、浄福寺城の北粋は土取によって消滅してしまっているだけで、本来はさらに広大な城域をもつお城でした。
主尾根は1974年の航空写真では、まだ存在が確認きるので、往時がどのような場所であったのか、地元ではご存知の方がいらっしゃるかも知れませんね。

北東尾根は、この先にも絶対進みたくないような細道が、ここから東方向に伸びているというか、今でも残されていますが、1961年の航空写真だと、残されている東に枝分かれする尾根とは別に、そのまま北東に向かって伸びる尾根の存在を確認することができます。
ただ、この尾根、1974年の写真では崩されてしまって消滅しているんですよね。

北東尾根の写真のこの場所は、ちょうど北東尾根の合流点にあたる場所で、木戸か何かが設けられていたスペースなのかも知れません。ここのちょっと手前には竪堀も残されていますし。

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↑消滅部分をおおまかに再現すると、こんな感じ。


■東尾根:虎口状遺構のそばに残る堀切 → E

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↑この場所、虎口っぽい切通し以外にも、堀切や土橋状の場所など、他にも見所はあります。逃さずに確認しておきたいものです。


■東尾根:先端に近い場所 → F

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↑まだ先端という訳ではありませんが、まあ、先端に近い場所です。
城内からだと、例の虎口状遺構を抜けて少し進んだ先にあるのですが、自分は浄福寺城訪問の帰り道として、二回ともこの高台(写真右)の奥から山下に降りていく道を使用しました。
道は高台の脇(写真左)を沿うような形で進んでいるので、うっかりするとそっちを選択してしまいそうになるかも知れませんが、たぶん高台の奥から恩方小学校そばに降りていくのが正解なんだと思います。


■恩方小学校側の登り口 → G

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↑前回はこちら側のほうが多少楽っぽい感じがしていたんですけど、今回歩いてみると気のせいだったのかも・・・。
たぶん、あまり変わりませんね(笑)。確認したいポイントがどこなのかによって、登り口は変える程度で考えておけば良いのかな?

麓付近、今回はちょっと藪に覆われていて、道がわかりづらくなっていました。たぶん、時期的なものなんでしょうね。
地元の方も山菜取りなどでたまに登られているみたいなので、またしばらくしたら、多少は整備されるんじゃないかなと思います。


主郭南の畝状竪堀をキチンと確認していないし、南東尾根も訪問できていない。
ちょっと時期は空くでしょうけど、またいつか、それらを確認しに訪問したいですね。

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2013年12月 1日 (日)

浄福寺城 【武蔵】 

場所:東京都八王子市下恩方町(場所)

訪問:201311月ほか

形態:山城

遺構:曲輪・堀切・横堀・竪堀・畝状竪堀・土塁

指定:八王子市指定史跡

駐車:案内板の前に23台分

満足:★★★★★★★★(8.0)

見所:関東では珍しい畝状竪堀は勿論、各種遺構が良好に残されていて見応え有

 

浄福寺城は別名・案下城、千手山城、新城など様々な呼び名が存在していますが、城暦に関しては不明な部分が多いみたいですね。1384年に大石信重によって築城されたとの伝承があるみたいですが、戦国末期には八王子城の搦め手地区を守備する、有力な支城として機能していたものと思われます。

また、そばを通る陣馬街道は案下道とも呼ばれ、甲州裏街道という名称もありました。とういことで、街道を監視する役割も担っていたことでしょう。

 

城主とされる大石氏は、もとは管領上杉氏の家中でも武蔵守護代を務めていた有力領主でしたが、後北条氏の関東進出が勢いを増す中で、河越夜戦における管領上杉家の大敗をきっかけに後北条氏の傘下に入り、北条氏康の次男・氏照を養子として迎えて家名を存続させる道を選びました。

 

この時代、大石氏の居城がどこだったのかは定かでありません。高月城もしくは滝山城といったところが有力みたいですが、浄福寺城の残る山の南尾根に建つ薬師堂は、1525年に大石氏が建立したなんて話も残されているくらいですから、もしかしたら居城は浄福寺城だったなんて可能性も!?

養子に入った氏照は当初は由井源三と名乗り、由井城に拠ったとされています。この由井城こそが浄福寺城だとする説もあるみたですが、実際のところはどうだったんでしょうね。

 

大石定久は家督を譲った後、戸倉城に隠居しました。定久の弟、定基は氏照の重臣として仕え、その定基に養子に入った照基は信濃守を名乗って八王子城の松木曲輪(二郭)の守備を担当し、1590年の八王子城攻防戦で落命しています。

 

 

戦国末期の浄福寺城の城主(城代)は誰が務めていたのか、その辺りは定かではありませんが、八王子城攻防戦で八王子城落城の要因をつくったのは、搦め手から攻めた直江勢を中心とする遊撃隊だったと伝えられていますね。

氏照など主力4,000人が小田原城に篭る中、八王子城の守備あたっていたのは3,000人ということなので、守備隊は広大な八王子城を固めるのに手一杯で、浄福寺城には殆ど守備兵を配置できていなかったんじゃないでしょうか。

 

細尾根が多いので居住性のありそうな曲輪は多くないのですが、その細尾根が何本もの支尾根に分岐しているので、城域は支城とは思えないほど広大です。尾根伝いに進入してくる敵には堅固な防御線が構築されているのですが、奇襲などで分断されてしまったら元も子もないので、守備を固めるのにはそれなりの兵力が必要だったかも知れませんね。

 

 

※動画は201311月に撮影・編集したものです。

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↑【浄福寺城の周辺】
地図で見ると、浄福寺城が八王子城の搦め手を守備する、重要な支城であったことが一目瞭然ですね。
北側は土取で消滅してしまいましたが、この部分にも遺構が残されていたりしていたんでしょうかね?消滅部分は過去の航空写真をもとに記入したものです。

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↑【浄福寺城の縄張り図】
案内が新しく取り替えられていて、縄張り図は「東京都の中世城郭」のものが使用されていました。これは有難い処置ですね。

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↑【城址への訪問口】
訪問口はいくつかありますが、浄福寺裏の墓地から南尾根先端に残る薬師堂へと向かい、その裏から尾根伝いに歩くのが一番判り易いです。
ちなみに、浄福寺城の案内は陣馬街道沿いに設置されているものだけなので、城址への誘導および説明書きはありません。こういった場所に不慣れな方は、多少の注意が必要かも。

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↑【浄福寺城の鳥瞰図①:南尾根および主郭付近】
動画も作り直すつもりだったので、頭にあるイメージを鳥瞰図にして表現してみました。細かい相違は気にしないで下さいね。

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↑【支尾根1:南尾根】
細尾根が続きますが、主郭に近づくにつれ、勾配を活かした防御構造と思える遺構が散見されるようになります。

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↑【主郭】
主郭にはまとまった広さが用意されていて、中央にはちょっとした土壇が。この土壇に何か象徴的な建物が建てられていたりしたとすれば、かなり嬉しいんですけどね。
南側の虎口付近には窪みがあって、これも何となく井戸を想像したくなります。

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↑【北東尾根付け根の畝状竪堀】
見所のひとつである北東尾根の付け根付近に残される畝状竪堀。
浄福寺城の北側部分は土取で崩されてしまっているので、現在は実質の北端ということになりますね。昔の航空写真を見ると、主尾根・北東尾根ともに消滅部分が確認できます。

主尾根と北東尾根の接続点であるこの場所は、北方面からの攻撃に対しての、守備の要だったんじゃないかと思いますね。画像だとどうしても説明しきれないなと思ったので、思い切って頭に浮かんだイメージをイラスト化してみました。

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↑【東尾根の虎口のような場所】
東尾根に見られる大規模な横堀や切通し。時期が悪く、藪で映像や写真だとなかなか確認しづらいので、ここも簡単にイラストを作成してみたんですけど、こうしてみて見ると、ここが大手とも呼びたくなるような立派な虎口だった気がしてきませんか?

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↑相変わらず木々に埋もれて把握しづらいと思いますが、虎口をでて少し行ったところから、この場所を撮影した写真です。

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↑上記写真の部分、脳内補正もあわせると、こんなイメージになっちゃいました(笑)。
まあ何にしても、これが虎口遺構だったりすると、中世城郭でこれだけの遺構が残されている場所も珍しいのでは?


浄福寺城でのお気に入り場所はざっとこんな感じです。
長くなりすぎるので、これ以外の場所はおまけってことで、ちょっとだけ別ページにまとめたいと思います。
浄福寺城のおまけページ

2013年9月28日 (土)

石浜城 【武蔵】

場所:東京都荒川区南千住(場所),もしくは東京都台東区浅草(場所)
訪問:2013年9月
形態:不明
遺構:消滅?
指定:なし
駐車:可能
満足:★(1.0点)

見所:下総復帰が叶わなかった武蔵千葉氏が居城としていたお城。

石浜城の築城年など詳細は不明ですが、武蔵国・江戸郷を拠点としていた武蔵江戸氏によって築城されたのではないかと考えられています。

享徳の乱の最中に発生した千葉家の内訌で千葉宗家は馬加氏に滅ぼされてしまいますが、千葉宗家最後の当主である胤宣のいとこにあたる実胤と自胤は城を脱出しました。
こうして武蔵千葉氏が誕生します。

下総や上総の旧千葉領は馬加氏の系統である下総千葉氏が掌握してしまいますが、武蔵千葉氏は将軍・足利義政に正式な千葉家当主として認められ、旧領復帰に向けて美濃より下向してきた東常緑や太田道灌などの助勢により努力します。

太田道灌が下総・臼井城を攻め落とすなど一定の成果はありましたが、下総千葉氏は本佐倉城を拠点に頑強に抵抗し、武蔵千葉氏の旧領復帰はついに叶いませんでした。

下総脱出後、実胤は石浜城、自胤は赤塚城を与えられ拠点としていましたが、実胤の隠居によって下総千葉氏の拠点は石浜城に統合され、管領上杉氏が衰退した後は後北条氏の勢力下に組み込まれていきました。
後北条氏の滅亡によって石浜城も廃城になったものと思われます。

遺構が残されていない場所には殆ど訪問しないのですが、本佐倉城のブログ内容を修正していたら石浜城のことが気になったので、ちょっとだけ現地を確認しに行ってきました。
南関東を流れる河川の位置は治水工事などの影響で昔とかなり変化していたりすることが多いんですけど、江戸の古地図を見る感じだと石浜周辺の隅田川はそんなに変化していなさそうに見えますね。
両国橋の由来でも判るとおり隅田川は武蔵と下総の国境を流れる川でしたから、少なくとも戦国中期までは国境の城として重要な役割を担っていたんでしょう。

なお、石浜城址とされる場所は現・石浜神社周辺と、浅草にある本龍院(待乳山聖天)に意見が分かれているみたいです。
どちらにしろ再開発はほぼ不可能だと思うので、特定に至るのはちょっと難しいかも知れませんね。

※動画の作成予定はありません
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↑現代と江戸後期の石浜周辺図です。
石浜周辺は隅田の渡しから察するに、昔から経済の要衝だった可能性もありますよね。


■石浜神社

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↑【石浜(石濱)神社】
石浜城の周辺地とされる石浜神社。石浜神社自体の創建は724年と歴史は古いみたいですが、建立当時からこの場所にあったのかは定かでないので、あしからず。
境内の中にある真崎稲荷は武蔵千葉氏によって祀られたと伝えられているので、まったく縁がない訳でもないですね。

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↑【石浜神社より隅田川堤防を望む】
白髭橋は1914年の架橋で、それまでは船で隅田川を往来していました。
江戸中期ごろから真崎稲荷へ参拝に訪れる人が多くなり、この周辺は大変賑わっていたそうです。

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↑【石浜神社周辺】
周辺の殆どが東京ガスの敷地ですね。往時を想像させるようなものは何も残されていません。


■本龍院(待乳山聖天)

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↑【待乳山聖天】
もうひとつの石浜城址推定値とされる待乳山聖天。見ての通りちょっと小高い丘になっていて、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称されたみたいです。
こういった地形が、待乳山聖天が城址推定値とされる根拠になっているのでしょうか。


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↑【山谷堀】
江戸時代には隅田川から吉原まで続く山谷堀が設けられていました。江戸に張り巡らされていた水路の一つなんでしょうね。
途中で発見したので、ついでに掲載しておきます。

2013年9月16日 (月)

品川台場【第三台場】

1853年、米のペリー率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航。江戸幕府に対して開国を迫りました。
これに脅威を感じた幕府は海防のために台場を各地に設置していきますが、この品川台場もその時に建造された要塞のひとつです。
品川台場の建設を指揮したのは伊豆・韮山代官の江川英龍。洋式の海上砲台を11基建造する予定でしたが、建造された台場は未完も含めて8基(洋上7基、御殿山の山下台場1基)でした。

埋め立てなどの要因で埋没、または撤去され、現在残されているのは2基のみですね。そのうち忍藩が防御を担当したという第三台場は都立台場公園として整備され、往時の御台場の雰囲気の一端を感じることが可能です。

都内って意外に保存状態の良い史跡が多いんですよね。同潤会アパートや九段会館のように耐震性などの問題で最近取り壊された建物(まあ、これらは史跡ではないですが)もありますけど、都市化が進んでも何気なく残る史跡の数々。前方後円墳などが有名かも知れませんが、古絵図などを頼りにぶらりと散策してこういった史跡を探してみるのも、なかなか楽しいものですよ。


※ニコニコ動画はこちら

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↑往時の台場の位置関係を見てみると、埋め立てによって随分と景観が変わっている事が判りますね。
現在残されているのは第三台場と第六台場のみですが、6番台場は立ち入り不可な為、確認できるのは台場公園として整備されている第三台場のみです。

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↑【往時の台場】
洋上に構築された第一台場~第六台場までの往時の姿。
第七台場は海中の土台しか造られなかったみたいなので、写真がないですね。

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↑【レインボーブリッジから見る第三台場と第六台場】
現在の台場の姿ですね。レインボーブリッジ、この撮影のために始めて徒歩で歩きました。

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↑【第三台場】
現在訪問できる第三台場は四角形ですが、殆どの台場は五角形をしていました。
俗に稜堡式と呼ばれる形状ですね。西洋から取り入れられた、当時としては最新式の築城技術です。

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↑【陣屋跡】
第三台場の中央付近には休憩所などに使用された陣屋が建てられていました。
それにしても、このコンクリートの構造物は何なんでしょうね。陣屋の土台を判りやすく再現したものなのか、はたまた近代以降に建てられた建造物の名残なのか・・・。

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↑【弾薬庫】
夏草に埋もれた弾薬庫跡。入り口は封鎖されているので、中に入ることはできません。

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↑【かまど場】
非常に目立つオブジェクトですが、かまど場は江戸時代のものではないとの旨が案内に記されていました。
もしかしてここ、キャンプ場みたいな使われ方をしていた時代があるのかな?なんでそう思うのかは後述・・・。

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↑【火薬庫跡】
土塁に囲まれているこの場所は古図によると火薬庫だったみたいですね。
二箇所のうち一箇所はかまど場として使用されて、もう一方には建物が建てられていたような雰囲気。

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↑【砲台跡】
オブジェクトですが、こういったものがあると雰囲気がでていいですね。
この方面には5挺のカノン砲が設置されていたみたいです。

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↑【波止場】
埋立地が広がって陸続きになるまでは、ここから上陸していたんですね。
コンクリートになっている箇所は近代に補強された部分なんでしょう。

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↑【公園施設の廃墟】
木々に埋もれた区画には、池や水飲み場などの痕跡が廃な雰囲気で残されていました。
ひび割れた池跡は歩くと地面に靴が沈み込んだので、もしかしたら現役なのかも知れないですね。

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↑【土塁跡と思われる土盛】
周囲を囲む大規模な土塁の上にも、土塁と思われる土盛がところどころに残されていました。
これも土塁の遺構だとしたら、もしかしたら竹ヶ岡砲台大房岬台場で見られる土塁のように切込みを入れて、そこで大砲を固定していたりしていたんでしょうか。


2013年8月 2日 (金)

檜原城 【武蔵】

場所:東京都西多摩郡檜原村本宿(場所)
訪問:2011年12月
形態:山城
遺構:曲輪・堀切・竪堀など
指定:東京都指定史跡
駐車:吉祥寺の駐車場を拝借
満足:★★★★★★(6.0点)

檜原城の明確な築城時期は不明とのことですが、15世紀前半に鎌倉公方・足利持氏が武州南一揆のリーダー格である平山氏に命じて築城させたのが始まりと考えられているみたいですね。

甲斐と武蔵を結ぶ連絡通路として使用されている甲州街道は後に小仏峠を抜けるルートが整備されますが、戦国期までは古甲州道を使って行き来するのが一般的でした。
古甲州道を確認するとこの桧原城はちょうど武蔵の入口にあたる場所にあり、境目の城として非常に重要な役割を担っていたも
のと思われます。

1590年の小田原征伐時には八王子城落城後も城主・平山氏重は篭城して豊臣方に徹底抗戦しますが、衆寡敵せず自刃して果てました。以降、廃城になったものと思われます。


※動画は2011年12月訪問時に撮影したものを、2012年8月に編集してアップロードした内容です。
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↑確認した遺構を簡単にまとめてみました。八王子を統べる北条氏照にとってこの檜原城は非常に重要な境目の城だった筈なんですけど、残されている遺構から認識できる檜原城の規模はとても小さいです。

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↑【吉祥寺の駐車場から】
居館跡とも考えられている麓の吉祥寺。全盛期には山上の要害部とあわせて一大要塞として機能していたのでしょうか。

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↑【登城路①】
吉祥寺の裏から山上の檜原城を目指します。
登城路といっても現在の登城路ですね。往時の大手は違う方面に設けられていたのかもしれません。

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↑【登城路②】
なかなかの急斜面なのですが、ところどころに観音像が配置されていています。

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↑【竪堀】
見所の一つである竪堀。山上から麓の吉祥寺まで続いています。
往時は城主が要害に入るための連絡口として使用されていたのでしょうか。

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↑【土橋】
竪堀は山上では土橋に直結しています。

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↑【主郭】
地図ではcと記した郭。山上はどこもそんなに広さがるわけでは無いので全体をもって主郭としてもいいように思いますが、あえて区分けするとなると一番広さのあるこの郭が主郭と呼ぶに相応しいんじゃないでしょうか。

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↑【物見台】
地図ではaと記した郭です。面積は狭いですけど城内で最高所に設けられているこの郭は、まるで物見台か指揮所のような雰囲気を漂わせています。

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↑【三重堀】
ここも檜原城の見所のひとつですね。
aの裏手に残る三重堀。落ち葉で埋もれてしまっている影響もあってか一つ一つの堀の規模はそう大きなものではないのですが、見た目は岩盤を削った見事な堀です。
aとの高低差といい、この方面からの寄せ手を強烈に遮断しています。

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↑【三重堀の先】
その先もちょっとした小山というか頂があるのですが、地図でも判るとおり、この頂は土取でかなり削られてしまっているみたいです。
いつ頃から崩されているのか判りませんが、往時はこの小山にも何かしらの施設が設けられていたんじゃないかと思うのですが・・・。

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↑【主郭北の腰郭群】
この方面には馬蹄段状に腰郭が続いているのですが、如何せん薮っていてろくな画像がありません。

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↑【主郭東の腰郭】
往時の大手はこの方面にあったのかな?

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↑ところどころに露出している岩盤には削られた痕跡のように感じるものもありました。こういう地形のお城って矢玉が尽きても、投石用の石をこういった場所から調達できるから良いですよね。


2013年6月 2日 (日)

滝山城 【武蔵】 2/2

滝山城、前回は二の丸まで紹介してきました。その2では中の丸~本丸および本丸西側に残る曲輪群を紹介していきたいと思います。


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↑【中の丸】
本来の千畳敷とも言える場所で、往時は御殿のような施設が
建てられていたのかもしれません。写真右は展望台より一段下の腰曲輪。滝山城はこういった腰曲輪や竪堀なども多く残されているので、ちょっとメインコースを外れて散策してみるのも楽しいかもしれません。
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↑【本丸と中の丸を繋ぐ曳き橋】
滝山城といえば、ほぼ必ず紹介されるといってもいい曳き橋。もちろん後世に再現されたもので、実際はどのような形状だったのか、現在では知る術はありません。

八王子城の曳き橋のほうが高さがあるかもしれませんが、ここ、滝山城の曳き橋も堀底から結構な高さの場所に橋が設置されています。
ところで皆さんは江戸城の「二重橋」の名前の由来をご存知でしょうか?多くの人が、手前にある西の丸大手門の橋と、奥に見える西の丸玄関門の橋が重なって見えることが二重橋という名称の由来だと思っていますが、実はそれは間違いです。「二重橋」とは、正確には西の丸玄関門の橋のことを差します。
それではなぜ「二重橋」なのかというと、往時の技術では西の丸玄関門の前の堀が深すぎて単独で橋が架けられなかったので、土台となる橋を造ってその上に橋を設けるという二重構造を採用していたため、「二重橋」という名称がつけられました。
そういったことから考えると、滝山城と八王子城の曳き橋がどういった構造をしていたのか、非常に興味がわきますね。曳き橋というよりは、意外と吊橋のような形状だったのかも・・・

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↑【本丸虎口】
写真左:本丸東虎口
写真右:本丸南虎口
本丸には虎口が2箇所あり、どちらも枡形です。
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↑【本丸】
写真左:本丸下段
写真右:本丸上段
本丸下段は井戸も残されています。また、周囲を囲む土塁も見事です。
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↑【本丸西側の腰曲輪群】
本丸の西側斜面には多数の腰曲輪と竪堀などが残されているので、忘れずに立ち寄りましょう。
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↑【蹄型の腰曲輪】
面白かったのが、この蹄のような形状をした腰曲輪。Uの字を描くように土塁が囲んでいて、壕としての面影をくっきりと残しています。
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↑【土橋】
その蹄型の腰曲輪から一段下がった場所に残る土橋。
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↑土橋周囲は横堀だけでなく竪堀も確認できます。

この辺りの曲輪は滝山城北側の監視を役割としていたような雰囲気ですね。現地では搦め手の可能性を想像していたんですけど、どうやら違うっぽい。

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↑竪堀。下の沢まで続いているみたいです。結構な幅があるんですけど、あまり大きすぎると防御機能が弱まってしまうんじゃ・・・



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2013年5月31日 (金)

滝山城 【武蔵】 1/2

場所:東京都八王子市高月町(場所)
訪問:2013年4月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・堀切・土塁・土橋・馬出・井戸など
指定:国の史跡
駐車:滝が原運動場テニスコートあたりの駐車場に停めるのが良いと思います。そこから城内までおよそ10分。
満足:★★★★★★★★★★(10.0点)

滝山城は山内上杉氏の重臣で、八王子一帯を統治していた大石氏によって築城されました。
上杉禅秀の乱から始まった関東の大乱ですが、山内・扇ヶ谷両上杉氏の対立による長享の乱が留めとなり、結果として後北条氏の台頭を加速させることに繋がってしまいます。
そのような中、大石氏も北条氏康の三男・氏照を養子として迎え入れ、後北条氏の勢力として存続していくことになります。大石氏を継承した氏照は、後に滝山城を改修して、現在残る大城郭まで仕上げていきます。

1568年、甲斐武田氏の駿河侵攻で甲相駿三国同盟が崩壊すると、後北条氏は越後上杉氏と越相同盟を結んでしまいます。そんな後北条氏に圧力をかけるべく、武田信玄は後北条攻めを決意。1569年、碓氷峠を越えた武田軍は、まずは鉢形城を攻撃します。次に武田軍は滝山城に向かいますが、武田軍は本体とは別に、小仏峠(当時は軍勢の通行は不可能と思われていた)を超えて小山田信茂が率いる別働隊1,000人が侵攻。対する後北条勢は廿里(高尾駅近くです)において迎撃を試みるも、あえなく敗退して滝山城に篭城する策にでます。
滝山城は二の丸まで攻め込まれますが、信玄は3日目には滝山城の包囲を解いて小田原城への進撃を開始。
滝山城は落城を免れますが、その後の八王子城移転に伴って、その役割を終えて廃城になったものと思われます。

滝山城は雄大な堀や曲輪跡が残されていますし、自然公園としても良く整備されているので、中世城郭と言われる場所の中でも、断トツのお勧め度を誇る場所だと思っています。現在は随所に中田氏の鳥瞰図を基に描かれた解説板が設置されているので、遺構の役割もより理解し易くなったのではないでしょうか。
難点といえば、あまりにも城址が広大すぎるといったことくらいでしょうか。八王子城ほど広大ではありませんが、それでも隅から隅まで見て廻ろうとしたら、結構な時間をとられてしまうと思います。なんと贅沢な悩みでしょう(笑)

滝山城を訪問したのなら、せっかくなんで高月城もあわせて訪問して見ると良いかもしれませんよ。高月城は農地化などの影響で遺構が明瞭でない部分もありますけど、本郭までの九十九折の道は、なかなか堅守だったぽくて、個人的には好きな城のひとつです。まあ、火縄銃が主要な兵器に切り替わる頃には、対応は難しかったかも知れませんけどね。

※動画は結構初期の作品がアップされています。名城なので、いつか再編集したいですね。
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↑北から見た滝山城。今は樹木に覆われてしまっていますが、滝山城最盛期はかなりの威容を誇っていたんでしょうね。
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↑「関東の名城を歩く」に掲載されていた縄張図にちょっと手を加えて、曲輪名などを記してみました。時期によるかもしれませんが整備が行き届いているので、遊歩道に沿って歩けば、大体の場所に行けると思います。

それでは滝山城を順に見ていきましょう。

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↑【大手(現大手?)・三の丸と小宮曲輪に挟まれた虎口】
曲輪だけでなく堀にも挟まれているので、敵の進撃を食い止めるのに絶好の場所です。往時は三の丸と小宮曲輪を繋ぐような形で、櫓門が設置されたりしたのかも知れません。
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↑【小宮曲輪の横堀】
二の丸の空堀より規模は劣りますが、この横堀の雰囲気は抜群です。東京都に残る中世城郭の中では、最大の規模を誇るのではないでしょうか。
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↑【山の神曲輪】
小宮曲輪から奥に進んだ先にある山の神曲輪。出丸のような感じの場所です。
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↑【千畳敷】
千畳敷という呼び名は城内で最も広い曲輪につけられることが多いんですけど、実際は中の丸のほうが広いです。諸国古城之図を見ると、ここでなく中の丸のほうに千畳敷と記されていますしね。そうはいっても、この曲輪も十分広いです。
北側斜面には三段程度の腰曲輪も設置されています。
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↑【信濃曲輪・刑部屋敷・カゾノ屋敷】
名称からして、重臣の屋敷が立ち並んでいたんでしょうか。仕切り土塁もしっかり残されています。
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↑【二の丸の馬出】
写真左:信濃屋敷側の東馬出
写真右:千畳敷側の西馬出
二の丸には東・西・南と3つの虎口があり、それぞれの虎口前には馬出が置かれていました。
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↑東馬出と信濃曲輪の間の堀には畝のような盛土を見ることができます。これは橋脚台だったのかも知れません。
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↑【連続する馬出】
虎口前に置かれた馬出以外にも、二の丸の周囲には馬出と馬出を繋ぐような形で馬出が設置されています。雄大な二の丸の堀とあわせて、このあたりも見所の一つです。
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↑【二の丸の枡形】
写真左:南虎口の枡形
写真右:東虎口の枡形
東虎口は道路設置の影響で改変があるのかもしれませんが、櫓門でも備えていたかのような、立派な枡形が残されています。まさに正面玄関にふさわしい場所だと思うので、この東虎口から二の丸を経由して中の丸、もしくは本丸というのが往時の大手だったのではないでしょうか。


今回はここまで。
本丸まわりはその2にて紹介していきます。


その2

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2013年5月28日 (火)

戸吹城(根小屋城) 【武蔵】

場所:東京都八王子市戸吹町(場所)
訪問:2013年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・横堀・竪堀・土塁など
指定:不明
駐車:入口にある城址標柱のそばに間借
満足:★★★★(4.5点)

築城時期や城主等の歴史は不明ですが、戸吹は武蔵野の府中と甲州の甲府を結ぶ滝山街道(古甲州道)の最中にあり、この場所は街道沿いの要衝として機能していたと考えられているみたいですね。現在も綱代と秋川を結ぶハイキングコースの途中に城址はあるんですけど、これはその名残みたいなものなのでしょうか。
戸吹には戸倉城が残る戸倉や檜原城のある檜原ほどの賑わいは残されていませんが、小仏峠を抜ける甲州街道が使用されるよう
になる前は、ここ戸吹も宿場町としてかなり賑わっていたのかも知れません。

戸吹城の遺構は集落近くに残されている南曲輪と、尾根先の北曲輪に分けられていたみたいですが、多くのブログで指摘されている通り、風雨による侵食によって尾根先の北曲輪には到底いけたものではありません。
南曲輪には横堀や土橋がしっかり残されてはいるんですけれど、どうしてこのような配置になったのか、いまいちよく判らない
場所ではありました。唯一考えつくのは、南曲輪と呼ばれる場所は「関所」として使われていたのかなということぐらい。

南曲輪の訪問難易度は低いので、手軽に横堀を楽しみたいという方には良い場所だと思います。高低差のある二重堀は、それはそれで雰囲気がありますしね。

※動画はまだ作成していません
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↑戸吹城の周辺図。橙色で示したのが、ざっくりとですが、現在南曲輪を通過しているハイキングコースです。
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↑大まかに南曲輪の状態を描いてみました。多少おかしな点があっても見逃してくださいね。
見ての通り、現在の登り口になっている竪堀状通路を中心として、西側は曲輪跡のような平地が残り、東側は二重堀や竪堀・土橋が構築されています。
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↑【竪堀状通路】
登る前は後世に設置された道なのかなと思いましたが、この通路はもともと存在していた竪堀なんでしょうね。意外と傾斜があるので、湿った状態の日にスニーカーや革靴で昇り降りすると、滑って危ないかもしれません。
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↑竪堀状通路を登った先はちょっとした広場になっています。
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↑【二重堀】
南曲輪に残る遺構の規模はそう大きくありませんが、この二重堀はなかなかの見応えです。ただ、どういった用途で用いられていたのか、そのあたりはハッキリしません。
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↑【土橋とそこから下に伸びる竪堀】
竪堀は竹が邪魔をして、見栄えの良い画像が余り撮れていませんでした。
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↑【曲輪跡の様な平地】
ここには厩とか役人の詰所なんかがあったんでしょうかね。あくまで関所として南曲輪を見た場合の意見ですが。
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↑南曲輪と北曲輪へ向かう道の間には、ハッキリとした横堀が残されています。
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↑この横堀の向かいは非常に細い尾根道です。書籍によってはここを馬出と解釈していますが、現状では単なる細尾根でしかありません。
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↑ここから先に尾根道を進んでいくと、尾根先の北曲輪に向かえるのですが、崩落が年々進行していて、現状ではご覧の通りです。
この場所でも相当な高さがあるのに、この先の細尾根を歩いていくなんて行為はとてもとても・・・

2013年5月25日 (土)

八王子城 【武蔵】 4/4 北条氏照の墓

八王子城 「その1」では居館地区を、「その2」では太鼓曲輪を、そして「その3」では要害地区を紹介してきました。
ラストとなる「その4」はおまけで、八王子城周辺に残る北条氏照のお墓を紹介していきます。


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↑墓所にはここから向かいます。案内が少し小さいですけど、歩きなら見落とさないと思います。
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↑階段を登った先が墓所です。
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↑中央が氏照のお墓で、両脇は中山勘解由家範および信治のお墓です。信治は家範の孫にあたる人物ですね。
中山家範は八王子城にて討ち死にしましたが、その子息である照守や信吉は戦後家康に召抱えられ、中山家は水戸藩の附家老として、
常陸松岡藩2万5千石を領することになります。
信治はその常陸松岡藩の三代目当主です。
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↑氏照のお墓の裏には小さな石仏や五輪塔がいくつも置かれていました。
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↑往時は、ここにも何か城郭施設があったのではないかと思えるような場所ですね。付近の尾根にも、このような削平地が数多く眠っているのかもしれません。
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↑マスコットキャラクターのうじてるくん。


調べてもらえれば判ると思いますが、北条氏照のお墓は八王子だけでなく小田原にも残されているみたいです。まあ、必ずしもお墓=遺骨が埋められているって訳では無いですからね。こういうのはあくまで気持ちの問題だと思うので、あしからず。


「天地の清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり」


(その1に戻る)


※画像は2011年に撮影したものです。

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