地域 - 神奈川

2013年8月25日 (日)

小机城 【武蔵】

場所:神奈川県横浜市港北区小机町(場所)
訪問:2011年10月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀・土塁・櫓台など
指定:不明
駐車:線路沿いのちょっとしたスペースか、第三京浜下のトンネルの中か・・・
満足:★★★★★★(6.5点)

見所:太田道灌も攻めた歴史ある城です。横浜市に残る城跡とは思えないほどの見事な空堀が残されています。

小机城の築城者や築城時期は定かではありません。

室町時代、関東管領上杉氏と古河公方が争った享徳の乱。その最中に山内上杉家臣・長尾景春が家宰職をめぐって主家と対立し、武蔵・鉢形城を拠点として上杉勢に反旗を翻します。
この乱に呼応して豊島氏が石神井城・練馬城・平塚城などを拠点に挙兵しますが、領内である江戸城-川越城の分断を危惧した扇谷上杉家臣・太田道灌がこれに直ちに対応。江古田・沼袋原の戦いで豊島氏を打ち破り、石神井城も攻め落としました。
石神井城から脱出した豊島泰経は最後に小机城に逃げ込みますが、これも太田道灌に攻められて落城。名族・豊島氏は歴史の表舞台から姿を消しました。

後北条氏が武蔵に勢力を広げてくると、この小机城も後北条氏の管理下に納まりました。この時代の詳しい役割は判りませんが、城主を務めた人物の中に北条三郎(越後・上杉家の家督問題で景勝と争った上杉影虎です)の名も確認できますし、小机衆という呼び名の家臣団もいくつかの文献に記載されています。

小田原征伐の後に役目を終え、廃城となりました。


市街地化が著しい横浜市ですが、残されている遺構はなかなかのものですね。小机城まつりや竹灯篭まつりなどが執り行われており、意外と地元では知名度が高い場所なのかもしれません。
あと小机城で検索すると「心霊」というキーワードが一緒に引っかかってきますね。なんで心霊スポットとされるのか、謂れがよくわからない・・・。

※この動画は2011年10月に撮影した映像を2011年12月に編集してアップロードしたものです。
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↑作成した大まかな概略図と日本古城絵図。第三京浜によって一部破壊がありますが、中枢は城址公園として整備され、良好に遺構が残されています。
小机城といえば本郭がどこだったかで意見が分かれているみたいですね。概略図では現地案内に沿ったかたちで表記しましたが、日本古城絵図は逆です。
皆さんはどのように思われますか?

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↑広域で小机城を見てみると、鶴見川に沿った低地には田んぼが多いことが判りますね。日本古城絵図でも小机城の東側は「三方昔沼」と記載されており、往時の小机城は沼に突き出すような半島状台地に築かれた要害であったことが窺い知れます。
何気に結構堅固そうなお城ですね。

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↑小机城遠視。JR横浜線の線路を挟んで南にある金剛寺のある丘陵も小机城の城域だったみたいなので、そちらは小机古城と表記しました。

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↑【本郭南の腰郭群】
現在は城址公園の正面口ですね。その先の根小屋は整地されて住宅街になりましたが、往時は武家屋敷などが建ち並んでいたのでしょうか。

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↑【二郭】
小机城の先端というか最奥にあったと思われる二郭。入口には空堀を監視するかのような櫓台が残されています。

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↑【二郭・北側の空堀】
全体的に良好な空堀が残る小机城ですが、特に迫力があるのがこの空堀です。

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↑【本郭と二郭の間にある馬出】
本郭と二郭の間にある細長い郭で、現在の城内では最も高所にあたる場所です。
馬出と明記してみましたが、雰囲気的にはちょっと違かったかな・・・。

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↑【本郭】
本郭の土塁はよく残されていて、特に虎口付近の土塁は重圧で櫓台と表現してもおかしくない規模があります。

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↑【本郭南の馬出】
本丸虎口に設けられている馬出。
馬出から本丸虎口を見ると枡形のような空間が設けられていますね。枡形は後世の改変の跡なのかもしれませんが、本郭の虎口は馬出に枡形、櫓とかなり厳重な備えだったことが判ります。

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↑【本郭南の空堀】
空堀の周囲を廻る帯郭もよく残されています。

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↑【出城】
第三京浜により主要部と切り離されてしまった出城。今残るのは北側のみで、南側は住宅地として整地されてしまっています。
それにしてもこの分断は惜しいですね。主要部が比較的良好に遺構が残されているだけに、なおのことかもしれません。

2013年8月22日 (木)

小田原古城 【相模】

場所:神奈川県小田原市城山(場所)
訪問:2012年1月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・堀(外堀)・土塁など
指定:総構えの堀などが国の史跡に指定されています
駐車:鍛冶曲輪そばにある城山公園の駐車場に停めました
満足:★★★★★★★(7.5点)

見所:後北条氏時代の小田原城の面影が残されている場所。小峰大堀切も忘れずに。

戦国時代、上杉謙信や武田信玄に攻められながらも守り抜いた後北条氏の本拠地。小田原城を観光で訪れる多くの人がもってるイメージはこんな感じでしょう。

小田原城の築城時期や勢力は定かではありませんが、後北条氏が治める前は大森氏が小田原城の主として君臨していました。
この大森氏を伊豆を制圧した伊勢宗瑞(北条早雲)が追い出して息子の氏綱を小田原城に配置。氏綱の代になると本拠を小田原城
に据え、後北条氏は関東に勢力を広げていくことになります。

後北条氏は戦国時代の他の勢力を同じく居館と詰めの城である要害(山城)を分けていたと考えられ、この八幡山の小田原古城はその要害(山城)であったと理解しておけば、ほぼ間違いないのではないかと思います。
つまりこの小田原古城こそが後北条氏が上杉謙信や武田信玄を相手に戦った中心ということになりますね。なかなか歴史ファン
には興味深い場所だと思うんですけれど、江戸時代の小田原藩はこの八幡山を城域から外してしまいましたし、近代は小田原高校の設置や宅地化の影響などで遺構の殆どが消滅してしまい、決して遺構の保存状態が芳しいといえる状況ではなくなってしまっています。
そんな中でも往時を偲ばせる面影はちらほらと。ちなみに東曲輪だけはマンション建設問題を乗り越え、公園として整備されま
した。

あと、小田原城を訪問したら、ぜひ見ておきたいのが有名な総構えの遺構ですね。総構えは城の外郭も堀で囲んで城域にしてしまう方法のことで、別に総構え自体は後北条氏の専売特許という訳では無いのですが、後の近世城郭に通ずる総構えという縄張りを世に知らしめたのは紛れも無く後北条氏だと思います。
小田原城の総構えは豊臣秀吉の来襲に備えて整備されたものですが、後北条氏滅亡後は大部分が埋められたりして破壊されまし
た。
ただ、この八幡山には総構えの外堀として使用された小峰大堀切が部分的に残されており、往時の外堀の雰囲気を楽しむことが
できる場所として開放されています。
その巨大な堀や土塁はなかなかの迫力ですし、後北条氏時代の小田原城が味わえる貴重な史跡です。逃さずに見学されることを
お勧めします。

※小峰大堀切は10:53頃から始まります。
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■小田原古城(八幡山)

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↑小田原征伐の際、北条氏直が投降した後も、氏政はこの八幡山に篭って数日抵抗を続けていたのだとか。
ご覧の通り、小田原古城の遺構は殆ど残されていません。

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↑【東曲輪】
マンション建設問題を乗り越えて整備された東曲輪。
昔、噂の東京マガジンでこの問題が取り上げられていたことが、何故か記憶に残っています。やってTRYとか仕込みが酷い番組だったけど、今でも放送してるのかな?

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↑【南曲輪】
南曲輪周辺。宅地化されているので、遺構は残されていないものと思われます。

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↑【御前曲輪】
今は陸上競技場に姿を変えています。この競技場をつくる際にかなり台地を削ってしまっているとのことで、昔の形状は残されていません。

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西曲輪跡地である小田原高校の周辺にはところどころに土塁が残されています。あと発掘調査で障子堀も検出されたみたいですね。
面影は少ないですが、まがりなりにも謙信や信玄を撃退した小田原古城です。往時はそれなりの要害だったことでしょう。


■小峰大堀切

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↑【小峰大堀切東堀】
総構え外堀の趣きを非常に良く残すのが、この東堀です。幅は約20~30m、深さは約12mと相当な大きさで一見の価値ありだと思いますよ。
周囲を廻る土塁も相当なので、こちらの確認も忘れずに。

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↑【中堀】
隣にある中堀。道路として改変されているので、もしかしたらもっと深さのある堀だったのかも知れませんね。
中堀の土塁も大きくて迫力満点。

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↑【小峰大堀切西堀】
西堀もこの奥に残されているみたいなのですが、どうにも立ち入り禁止っぽい感じなので見学は諦めました。

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↑【御鐘ノ台】
陣鐘が置かれていた場所と伝わる御鐘ノ台。

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殆ど消滅してしまっているとはいえ、ところどころに総構え外堀の面影は残されているみたいです。有名なのは早川口遺構と蓮上院土塁でしょうか。
ちゃんと確認していこうと思ったら、あっという間に一日が終わっちゃいそう・・・。


→近世城郭・小田原城の紹介ページはこちら

2013年8月19日 (月)

小田原城 【相模】

場所:神奈川県小田原市城内(場所)
訪問:2012年1月ほか
形態:平山城
遺構:復元天守(RC)・復元門・復元櫓・曲輪・堀・土塁・石垣など
指定:国指定史跡
駐車:周辺の有料駐車場
満足:★★★★★★★(7.5点)
見所:関東では数少ない今も残る近世城郭。復元施設も多いので、雰囲気に浸れます。

戦国末期、関東一の勢力にまで上り詰めた後北条氏。
その後北条氏が居城としていたのが、この小田原城ですね。

現在見られる小田原城の姿は後北条氏が築いた小田原城ではありません。小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、その後は徳川家臣・大久保忠隣が城主として小田原城に入り、江戸時代には小田原藩が興されました。
小田原藩は北条氏直が在城していた小田原城の居館を総石垣の近世城郭に改修して使用しますが、幾度と無く地震の被害に遭遇したみたいで、小田原城はその都度、補修されて幕末を迎えます。

明治になると城内の殆どの建物は取り壊される中、二の丸隅櫓だけが唯一残存していたのですが、1923年の関東大震災でこの隅櫓も石垣ごと堀の中に崩落。石垣の多くも崩れてしまいました。
その後に復旧作業が進められましたが、石垣は当時の高さよりも低いみたいですね。二の丸隅櫓も1934年6月に復興されましたが、予算の関係で規模の小さなものに収まっています。

小田原城という思い浮かべるのが総構えですね。江戸時代の近世城郭では広く採用されましたが、総構えの城が広まるきっかけをつくったのは後北条氏なんだと思います。
まあ、総構えに関しては八幡山の小田原古城の項でふれていきたいかなと。

関東では数少ない総石垣の近世城郭なので、観光地としても賑やかです。名古屋城が本丸御殿の復元を頑張っていますが、ここ小田原城も二の丸御殿の地図が残っていますし、二の丸は現在広場として使用されているだけです。予算とかの関係で厳しいんでしょうが、一部でも復元されると良い観光の目玉になると思うんだけどなぁ・・・。

※動画は2012年1月の訪問時に撮影したものを2012年2月に編集して公開したものです。
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↑小田原には江戸時代に整備された近世城郭の小田原城と、後北条氏時代に重用された中世城郭の小田原古城が残ります。
今回は近世城郭・小田原城の紹介です。

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↑日本古城絵図と比較すると今と昔の違いがよく判りますね。ちなみに三の丸・弁天曲輪・塩硝曲輪は市街地に飲まれ消滅しています。

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↑【馬出門枡形】
復元された馬屋曲輪の馬出門枡形。雰囲気があっていいですね。

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↑【馬屋曲輪】
馬屋曲輪は案内が豊富ですね。
注目は斜めに設置されていた雁木。急角度な土塁を少しでも登り易くする工夫の表れなんでしょうか?
あと気になったのは櫓台ですかね。サイズがちょっと小さいなーなんて。たぶん関東大震災で石垣が崩れた際、これを修復する過程で小さくなったってだけなんでしょうけど。

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↑【二の丸】
二の丸にどんと構える銅門。明治5年に解体されてしまったので、現在の銅門は復元です。ただ、古写真や絵図などを参考に復元しているので、馬出門同様にその雰囲気はなかなかのもの。
二の丸隅櫓は唯一の現存建築物だったのですが、関東大震災で崩落してしまいました。右横の古写真と比較すると隅櫓の大きさの違いだけでなく、石垣も復元の過程で随分と低く詰み直されたんだということが判ります。

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↑【本丸】
昔の本丸は動物園と兼用されていましたが、今はその面影は殆ど残されていませんね。まあ、今の自分にとってはそのほうが有難いんですけど。
天守台北側は関東大震災で崩れた石垣が一部残されています。ぜひともチェックしておきたいですね。

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↑【小峰曲輪北堀】
なみなみと水をたたえていますが、深さは5mもあるそうです。
ここを通る人は、果たしてこれが堀跡だと気付いているのだろうか。


小田原城は本丸や二の丸といった定番の曲輪以外にも複数の曲輪が残されていますし、それぞれに案内も豊富。あとは有料ですが、模擬天守や二の丸にも資料館が設置されているので、つい予定より長居してしまうことが多いですね。このときは御用米曲輪の発掘調査も行われていたので、新たな発見があることを期待してしまいます。

近世・小田原城を見たらせっかくなので、八幡山の小田原古城と小峰大堀切を確認しておきましょう。

小田原古城



2013年8月16日 (金)

石垣山一夜城 【相模】

場所:神奈川県小田原市早川(場所)
訪問:2012年1月ほか
形態:山城
遺構:曲輪・堀切・土塁・天守台・櫓台・石垣(高石垣)・井戸など
指定:国指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★★(8.0点)

見所:豊臣秀吉が手がけた城で残されているのは佐賀県の名護屋城とここ、一夜城だけ。井戸曲輪は必見です。

別名、石垣山城や太閤一夜城とも。

1587年、九州を制圧した秀吉は同年12月、関東に向けても惣無事例を発令。しかし、1589年11月に発生した猪俣氏による名胡桃城奪還が口実となり、1590年、秀吉の小田原征伐が開始されました。
秀吉は東海道から主力を、東山道からは前田・上杉などを主力とした北国勢を送り込み、3/27に沼津・三枚橋城に到着した秀吉は瞬く間に箱根の山を突破、4/3には先方が小田原に到着し小田原城に篭城する北条氏政・氏直親子を包囲してしまいます。

そんな中、秀吉は小田原城のそばにある山の一つ、笠懸山の山頂に陣城の築城を計画しました。築城に動員された人員は約3~4万人、完成まで80~100日間を要したと伝えられています。
位攻めの一環なのでしょうね。石垣山一夜城は関東では当時存在していなかった高石垣を使用していました。また、秀吉は山王丸に千利休や茶々などを招き、茶会を催していたそうです。

7月になると小田原城も遂に開城。小田原攻めの終了に伴って石垣山一夜城もその役目を終えたものと思われます。

石垣山一夜城は関東で貴重な高石垣の残るお城というだけでなく、肥前・名護屋城と同様に現在に残る秀吉が築城に関係したお城というレアな要素を含んだ城跡なんですよね。
言い伝えによると近代まで高石垣が非常に良好に残されていたみたいなのですが、関東大震災でその多くが崩落してしまったらしいです。それでも一部には高石垣が今でも残されていますし、石垣に囲まれたここの井戸曲輪は凄いの一言。必見です。

※動画は2011年6月に撮影した内容を2011年9月にニコニコ動画にアップロードしたものです。
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↑大まかにですが小田原城とその周辺図を作成してみました。

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↑【小田原城天守より見る石垣山一夜城】
小田原城から見える高石垣の近世城郭は相当なインパクトがあったことでしょう。陣城でここまでの普請が行われた例というのは他にそうないんじゃないですかね。そりゃ、篭城方も驚くわな・・・

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↑【石垣山一夜城から見る小田原城】
箱根十城が突破された時点で陣城が小田原城のそばに構築されることは理解していたと思うので、相手方に城内を見渡せられるということは、後北条氏にとってそんなに大した問題では無かったように思います。

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↑【概略図】
現地の案内に記入されていなかった曲輪名を虎口などをともに追加してみました。

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↑【南曲輪側面の高石垣】
多くの石垣が崩落してしまっている中で、一番保存状態が良いのがこの石垣です。
1590年の築城当時のものだとすればかれこれ400年以上経過していることになります。残っていてくれたことに感謝!

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↑【大手口】
公園化によって舗装された道ではなく、入口近くの案内の脇のルートが往時の大手だと伝えられています。
見ての通りで巨石がゴロゴロ。

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↑【天守台】
本丸に残る天守台。往時はここに瓦葺の立派な天守閣が建てられていたそうです。
今はちょっとした小山ですが、石垣が崩された後に風雨にでもさらされて削れてしまったんでしょうかね。出来る事といったら、周囲に残る大量の石片から往時を想像するのみかな。

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↑【二の丸】
公園内で最大の敷地面積を誇ります。

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↑【井戸曲輪】
石垣山一夜城の最大の見所である井戸曲輪。すり鉢状に廻らした石垣の中央には、今も僅かながらも水が湧き出ています。
往時の水量がどうだっかのか云々は脇においておくとして、なんにしてもこんなに大掛かりな井戸はそう多く見られるものではありません。しかもこの石垣山一夜城は陣城ですよ。それなのに何故、ここまで大掛かりな井戸を設けたのか・・・

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↑【北口通路】
大掛かりな井戸曲輪の存在理由。そのヒントは井戸曲輪の脇を通過する北口と呼ばれる通路に答えがあるように思われます。城内に通じる道は大手の他にこの北口が連絡通路として使用されていました。

秀吉の小田原征伐は単に後北条氏を討伐するだけではなく、どちらかというと東国で最大の勢力を誇っていた後北条氏を圧倒することで、東国諸大名の降伏を加速させるといった効果を期待しての行動だったように思います。
関東でも遠いのに、それより奥にある遠国までわざわざ遠征するのも大変ですものね。できれば早々に決着をつけたい(まあ、この後は宇都宮まで足を伸ばしますが)。
正直、後北条氏との決着だけにスポットをあてると、秀吉がその気になればもっと早く決着がついたのではないかと考えています。いわれるほど小田原城が鉄壁の防御を誇っていたかというと、実際はそうでもないような・・・。

ということで、3ヶ月に及ぶ篭城戦は無駄な損害を避けるという意味も当然あったのだと思いますが、それよりも東国大名に秀吉の力を見せつけるという意味のほうが重要だったんじゃないかと考えるようになりました。
そう考えると、この井戸曲輪の存在意義も理解できてきますね。挨拶に来た東国武将には大手でなく北口を通して城内に案内させ、彼らにはこの井戸曲輪を大いに見せつける。総石垣の陣城というだけでも凄いのに、なんとも壮大な井戸の存在が追撃ちをかける。まあ、これを見た東国武将は度肝を抜かれたことでしょう。

結論をいうと位攻めの名残りってことになりますかね。このことは石垣山一夜城全体でもいえることではあるのですが、特にこの井戸曲輪はその象徴みたいな場所なんだと思っています。

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↑【北曲輪】
今は展望台になっている櫓台の下に存在していた北曲輪。そこそこ広さはありそうなんですが、曲輪内はご覧の通り。

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↑【その先の北口通路】
掲載画像はかなり縮小してあるので判別しづらいかもしれませんが、石垣がしっかりと残されているのが確認できます。
この辺りが整備されていないのは地権の問題なんでしょうかね。薮を伐採すればここも見所のあるスポットになると思うのですが・・・。


石垣山一夜城は良い素材なので、いつか再編した動画をアップしてみたいですね。

2013年8月13日 (火)

河村城 【相模】 ※おまけ

2011年6月に訪問した際、蔵郭に展示されていた発掘調査の資料の一部です。
2012年1月の訪問が最後なので、今は更に整備が進んでしっかりした解説板が設置され、より判りやすくなっているのかもしれませんが、ついでなので当時展示されていた資料を紹介しておこうと思います。



■近藤郭

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↑まずは近藤郭。蔵郭と大庭郭に挟まれた馬出のような郭です。

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↑大庭郭から見る近藤郭。
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↑空堀6 堀障子の確認状況
(左:東から 右:北西から)
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↑平成19年度 障子堀調査写真
(左:東から 右:北から)
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↑平成20年度 畝状遺構(北から)
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↑平成20年度 障子堀調査写真(東から)

2012年(平成24年)1月訪問時は、この辺りは公園化に向けて整備の真っ最中でした。
確認された障子堀はいったいどのような姿で展示されているのでしょうか。


■馬違戸(ばちがいと)

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↑続いて馬違戸。
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↑馬違戸 調査前
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↑調査区2 調査後(西から)
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↑調査区3 調査後(東から)


発掘調査の状況に関してはこちらのHP(西村和夫 オズからムシに)に詳しく紹介しているページがあったので、興味ある方はこちらも確認してみてください。紹介されているのは2006年(平成18年)当時の調査状況です。


河村城の紹介ページに戻る。


2013年8月12日 (月)

河村城 【相模】

場所:神奈川県足柄上郡山北町岸(場所)
訪問:2012年1月ほか
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・畝・土塁など
指定:神奈川県指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.5点)

見所:復元された畝堀は見事の一言。ここまで迫力のある畝堀を見学できるのは山中城と河村城くらいかも!?

平安時代の末期、波多野氏の一族である秀高が河村郷に館を築いて河村氏を名乗ったのが河村城(河村館)の始まりとされています。
河村氏は頼朝挙兵の際に平氏方についたため一時領地を没収されますが、程なくして河村領に復帰。以降、南北朝の合戦の際には南朝方の新田義興・脇屋義治と一緒に河村城に篭って北朝方と篭城戦が行なわれたり、上杉禅秀の乱では鎌倉公方の拠点として登場したりとたびたび歴史上有名な出来事に関係してきました。

河村館から現在見られる山城としての河村城にいつ頃から移行していったのかは判りませんが、現在残る姿は深沢城を制圧した甲斐武田氏に対する備えとして足柄城と併せて整備されたものか、もしくは小田原征伐の時代のものだと思われます。

河村城は城址公園としてよく整備されているので、季節を気にせずに見学することが可能です。
見所はなんといっても復元された畝堀。もしかしたらかなり誇張された姿なのかもしれませんが、畝堀としての見応えはなかなかのもの。
いまのところ最終訪問日は2012年1月ですが、調査及び復元作業も順次進行しているみたいなので、これからもどんどんその姿を変えていくのかも知れませんね。あまりやりすぎて逆に景観を損なうことがないかだけ心配です。


※動画は2012年1月訪問時に撮影した映像をベースに、2012年2月にアップロードしたものです。
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↑箱根越えには主に3つのルートが使用されていました。箱根口(山中城)と足柄口(足柄城)、そして河村城が監視していた河村口です。

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↑河村城は河村口を抜けてすぐにある開けた台地の独立山に築かれていました。要衝であると同時に、酒匂川がすぐ脇を流れる天然の要害ですね。
河村城として認定されているのは歴史公園のある頂だけですが、その東隣りにある浅間山も何かしらの城郭施設が設けられていたものと思います。
なお周辺図などとは違い、画像右の概要図は転地(南北)が逆に描かれています。ご注意ください。

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↑【茶臼郭脇の畝堀】
河村城最大の見所である畝堀。再現性は判りませんが、迫力だけは凄いです。

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↑【お姫井戸】
畝の端にあった水溜り。古絵図(新編相模国風土記稿)によるとこの位置に井戸の記載があったことから、ここをお姫井戸と呼んでいるみたいですね。
ただ、発掘調査では井戸の痕跡は見つからなかったとのこと。これは単に古地図が畝に水溜りができた状態を井戸と誤表記してしまっただけなのでは・・・。
落城の際に姫が身投げをしたという話もありふれていますし、まあ、井戸への身投げが例え事実だったとしても、たぶんこの場所では無い様な気がしてならないんですが。

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↑【本城郭脇の畝堀】
ここまで見事に畝堀が復元されているのは、今のところ山中城と河村城くらいなものでしょうか。なので一見の価値は大いにあり。

復元するものにもよりますしここは意見が分かれるところだと思うのですが、こういう堀などはちょっと大げさに再現したほうが閲覧者は喜ぶと思うんですよね。迫力があがるし、畝などは過剰に保護土を覆うことで少しでも残された遺構が劣化するのを防ぐ。


進行形で調査・展示が進んでいる場所といえば、まっさにに頭に浮かぶのが茨城県の小田城。小田城も多数の障子堀が確認されているので、今後の復元展示をちょっと期待したいところです。

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↑【北郭から城址の西側を望む】
眼下を流れているのは酒匂川です。

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↑【郭馬出に残る廃屋】
廃屋というよりは物置跡ですかね。もしかしたら現役なのかも知れませんが。

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↑【水郭や馬洗場があったという谷】
河村城は富士山噴火の際の降灰の影響で、埋もれてしまっている箇所がかなり多いみたいです。
ここもそういった影響なのでしょうか。見た感じ、遺構が残されているのか判りませんでした。

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↑【本城郭と蔵郭の間に架かる木橋】
ポジティブな郭の画像が少なくなってしまいましたが、城址は公園として綺麗に整備されているので歩き易いです。ほら、ご覧の通り立派な建造物も設置されていますし。
ちなみにこの木橋は、調査によってこの堀切より発見された橋脚台をもとに復元されたものです。

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↑【大庭郭から見る近藤郭】
このときはある程度近藤郭の発掘調査が終了したからなのか、近藤郭一帯は公園化に向けて工事を行っている真っ最中でした。
この工事自体は昨年(2012年に)とっくに終了しているだろうから、どのような景観になったのか興味がありますね。ただ、風の噂だとあまり良い評判を聞かないですけど・・・

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↑【城址の東外れにある馬違戸】
大庭郭から大きな堀切の抜けた先にある馬違戸と呼ばれる郭跡です。
公園の外れなんですけど、このちょっと先に駐車場のような場所が造られていました。今までは麓から比高110mを歩いて登っていた人が多かったと思うんですけど、今はこちらから労少なく訪問できるようになっているんじゃないかと。ただ、未確認なので恐らくです。なっていなかったら御免なさい。



■【余談】東隣りにある浅間山

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↑始めて河村城を訪問した際、紛らわしい案内に騙されて浅間山に登ってしまいました。しかも農道で車両通行止めっぽかったのでなんと徒歩で・・・。
夕方近くで時間もないとあせる中、この先に河村城があることを信じて、廃道直前っぽい道をひたすら登っていきます。

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↑昔は斜面いっぱいを畑として使用されていたのでしょう。今は僅かに痕跡が残るのみ。

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↑浅間山頂上。この頂には河村城は存在しないということを確証した瞬間です。

この頂を越えてちょっと先まで道を歩いてみたのですが、分岐はあれど案内は無し。ここで仕方なく一旦麓まで引き返し、当初予定していた登り口から河村城に登りました。

実はその引き換えした分岐を右に曲がって100mも歩けば、先ほど紹介した馬違戸に着いていたんですけどね。それでも当時(2011年6月)は案内があったかどうかも怪しいところですし、河村城址を認識できなかった可能性も捨てきれないので、引き返すという選択は正しかったと思っています。今では貴重な旅の思い出です。


→現地(近藤郭付近)に展示してあった調査資料の一部をおまけとして紹介しました。おまけページはこちらから。

2013年8月 8日 (木)

足柄城 【相模(駿河)】

場所:静岡県駿東郡小山町竹之下(場所)
訪問:2011年10月
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★(5.5点)

足柄城の残る足柄峠は古くから箱根越えの街道として使用されてきました。足柄城の築城時期は定かではないみたいですが、現在残されている遺構は後北条氏が境目の城として整備したものが残されているものと思われます。

甲相駿の三国同盟が崩れて甲斐武田氏が駿河の深沢城を制圧すると、足柄峠に構える足柄城と河村口を監視する河村城は武田氏に対する重要な境目の拠点として整備が急がれました。
武田氏が滅亡した後も今度は駿河を領する徳川氏との境目の城として重要視されています。

小田原征伐の際、箱根の山には箱根十城と呼ばれる防衛拠点が整備されていました。足柄城もその一つとして使用され北条氏光が足柄城の守備についていましたが、圧倒的兵力差を前に最大拠点であった山中城が落城すると、翌日には開城したと伝えられています。

足柄城はこれで廃城となりますが、足柄峠は江戸時代も関所が設けられて使用されていました。また、足柄山といえば金太郎が有名ですね。
公園化によって遺構が改変された箇所もあるみたいですが、全体的に見やすいつくりになっています。条件が悪くなければパノラマで富士山を楽しむことができるみたいなので、ドライブで訪れるのにも良い場所ですよ。

※動画はまだ作成していません
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↑箱根越えには主に3つのルートが使用されていました。箱根口(山中城)と河村口(河村城)、そして足柄峠を通過する足柄口です。

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↑日本古城絵図を基に主要な曲輪の配置を地図に描いてみました。
足柄城は石塁を多く使用したお城だったみたいなのですが、地震や道路設置の影響で殆どが撤去されてしまいました。自分は確認していませんが、大手の辺りには石類がまだ残されているみたいですよ。

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↑【本丸】
富士山は雲に隠れて見えませんでした。残念。
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↑【玉手池】
本丸の繁みの中に残る玉手池。底知らずの池とも呼ばれていて、池の底は小田原に通じているなんていう伝承も。
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↑【二の丸と堀】
堀は本丸と二の丸の間にある堀です。
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↑【三の丸と堀】
堀は二の丸と三の丸の間にある堀です。
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↑まだ先に曲輪は続いているのですが、このときはここで散策を止めました。この先にある四曲輪には井戸も残っているみたいなんですけどね。何か気が進まなかった。
まあ、また訪問しましょう。


足柄峠は歴史的に長く重要な役割を担ってきた場所なので、足柄城以外にもいろいろ史跡が残されています。
以下、それらの紹介です。

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↑【新羅三郎義光 笛吹塚】
源義光のことは詳しくは存じ上げませんが、その名前は甲斐武田の祖としてよくでてきますよね。
平安時代、後三年の役に参戦する途中、新羅三郎義光が足利峠にて藤原時元の子・時秋に笛の秘曲を伝授しました。その謂れに関連した大石だと伝えられています。
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↑【芭蕉の句碑文】
「目にかかる 時やことさら 五月富士」
残念ながら当日の自分には、富士山は姿を現してくれませんでした。
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↑【足柄峠一里塚】
江戸幕府が各街道に設置していた一里塚。江戸時代は富士山信仰も盛んだったみたいなので、多くの人が富士山を目指して峠を歩いていったことと思います。
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↑【足柄の関】
この冠木門は映画「乱」の撮影で使用されたセットを移築したものなんだとか。
「乱」「影武者」「夢」は所有していますね。黒澤映画は面白いので結構好きです。

2012年11月12日 (月)

枡形山城 【武蔵】

場所:神奈川県川崎市多摩区枡形(地図)
訪問:2011年10月
形態:平山城
遺構:不明
指定:たぶんなし
駐車:有
満足:★★(2.0点)


【概要】 ※Wikipediaから転載
津久井道沿いの賑わいが間近に控え、江戸から神奈川(現在の横浜市)方面までの眺望が開ける桝形山一帯には、かつて鎌倉時代に稲毛地方(概ね現在の川崎市北部地域)を支配していた源頼朝の重臣 稲毛三郎重成が本拠を構え、同山頂に枡形城を築いたとされている。

生田緑地の中に枡形山はあって、周囲は自然でいっぱいです。生田緑地には岡本太郎美術館や日本民家などの展示もあって、結構な人が来訪していました。
枡形山には戦時中、高射砲が設置されていたみたいで、その影響か遺構と思われるものは見受けられません。まあ、日本民家はそこそこ面白そうですし、小沢城からそんなに遠くもないので、時間があるようであればどうぞ。

※動画はまだ作成していません
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↑頂上に設けられた展望台。結構広い平場なんですが、高射砲設置の為に削塀されてるかもしれないので、旧状がどうだったのかは判りませんね。
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↑入口には冠木門が設置されていたりして、それなりの雰囲気作りは頑張ってる感じです。

2012年11月10日 (土)

小沢城 【武蔵】

場所:神奈川県川崎市多摩区菅仙谷(地図)
訪問:2011年10月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀・土塁・土橋・井戸など
指定:市の特別緑地保全地区に指定
駐車:たぶん無し
満足:★★★★★(5.5点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
平安時代末期、稲毛三郎重成により築かれると伝わる(あるいは重成の子小沢小太郎が築城とも)。
観応2年(1351年)、足利直義方の小沢城を足利基氏方の高麗経澄が攻め落とす。この時焼失した。
享禄3年(1530年)6月には、小沢城から出陣した北条氏康が、北条領に侵攻した上杉朝興を迎え討つ小沢原の戦いが起こり、氏康が上杉勢を退け初陣を飾る。
戦国時代以降は廃城となり放置されるが江戸時代に入ると富士講が流行し峰を富士塚として利用され文化3年に祠が、万延元年に富士登山三十三度大願成就記念碑などが建てられている。

小沢城はなかなか豊富な歴史をもっているお城なんですよね。ちょっと古い時代の中世山城というか、地形頼みでそんなに技巧的な感じは受けませんが、山中には程よく遺構も残されているので、雰囲気は十分に楽しめると思いますよ。
散策中に、ランニングをしている何人かの人とすれ違いました。地図で見るとわかるのですが、ここはよみうりランドの北東というか、読売巨人軍室内練習場のすぐ側にあるんですよね。もしかしたら練習中の選手だったりしたのかも知れません。

※動画はまだ作成していません
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↑現地にあった案内図。
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小沢城の南側入口。ちなみに周囲は住宅街で、駐車場はありません。必然的に路駐になってしまいますので、心配な場合は別口から訪問したほうが良いかもしれませんね。
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の郭跡と思われる平場。
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↑その平場から右手には堀切があります。右写真は③の土壇。ここは櫓台だったと考えられているみたいです。
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比較的スペースのある平場が三段にわたって続いています。
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↑写真左は②の馬場と伝えられている郭跡です。写真右は①で伝「物見台」。でも、物見台というには、ちょっと心もとない様な・・・。
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↑伝「物見台」の背後にそびえるの浅間山。写真右は伝「物見台」を見下ろしたところなんですが、物見台を設置するなら、やはり浅間山の方が適切ですよね。物見台と伝わる何かしらの理由があるんでしょうけど、気になります。
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古井戸です。半世紀前は今より2~3mほど深かったとか。
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小沢峰には物見台の案内が設置されていました。こちらは納得です。
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↑小沢峰の東側には堀切が設けてあります。
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富士塚とその周辺。このあたりは城内から外れてきているんでしょうかね。
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三段ある平場の最下段は竹に覆われていました。

2012年11月 6日 (火)

茅ヶ崎城 【武蔵】

場所:神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東二丁目25番(地図)
訪問:2011年10月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・土橋・井戸など
指定:市指定史跡
駐車:無し
満足:★★★★★★(6.5点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
茅ヶ崎城は治安年間に多田行綱による築城とする言い伝えもあるが、正確な築城年代は分かっていない。現在は、おそらく後北条氏による築城だろうと考えられている。
「小田原衆所領役帳」によれば、茅ヶ崎一帯は小机衆の一員である座間氏の所領だったことから、茅ヶ崎城は小机城の支城で、座間氏が城代もしくは城番を勤めていたものと思われる。後北条氏滅亡とともに廃城となった。

昔は山林だったみたいなのですが、現在は公園として整備されています。平成2年から平成20年まで7回にわたって発掘調査が行われたみたいで、成果報告が案内として展示されているのが有難かったです。

※動画はまだ作成していません
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↑南東から見た茅ヶ崎城。住宅街なんですが、これだけの史跡が残ったということは嬉しいですね。
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↑案内。
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↑公園の入口ですが、ここも堀切跡です。
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↑城内で一番の広さを持つ中郭。ここからは倉庫跡と思われる柱穴が発見されました。また、土塁には櫓台とも受け取れるスペースが残されています。
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↑東郭に続く土橋跡。
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↑東郭。城内で一番高所にあることから、ここが主郭だったと考えられているみたいです。
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↑東郭南側に残る東郭虎口。この虎口は根小屋と直結していたと思われ、ここが本当に虎口だったとすると、登城してすぐに東郭(主郭)に入れることになってしまいます。それはちょっとおかしい気が・・・。
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↑立ち入り制限されていますが、主要な郭の周囲には、腰郭がいくつか散見出来ます。
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↑西郭。土塁はなかなか厚手で迫力ありました。
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↑北虎口とされるスロープ。ここを登ると・・・
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↑そこは堀底道になっていて、枡形のような機能を果たしたものと考えられているみたいですね。

小机城もそうですが、主郭の位置が判りづらいですね。他地域に残る後北条氏の城跡とは、特徴が違うように感じますが、この辺りは築城年代の違いというだけなんでしょうか。

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