地域 - 静岡

2013年8月 8日 (木)

足柄城 【相模(駿河)】

場所:静岡県駿東郡小山町竹之下(場所)
訪問:2011年10月
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★(5.5点)

足柄城の残る足柄峠は古くから箱根越えの街道として使用されてきました。足柄城の築城時期は定かではないみたいですが、現在残されている遺構は後北条氏が境目の城として整備したものが残されているものと思われます。

甲相駿の三国同盟が崩れて甲斐武田氏が駿河の深沢城を制圧すると、足柄峠に構える足柄城と河村口を監視する河村城は武田氏に対する重要な境目の拠点として整備が急がれました。
武田氏が滅亡した後も今度は駿河を領する徳川氏との境目の城として重要視されています。

小田原征伐の際、箱根の山には箱根十城と呼ばれる防衛拠点が整備されていました。足柄城もその一つとして使用され北条氏光が足柄城の守備についていましたが、圧倒的兵力差を前に最大拠点であった山中城が落城すると、翌日には開城したと伝えられています。

足柄城はこれで廃城となりますが、足柄峠は江戸時代も関所が設けられて使用されていました。また、足柄山といえば金太郎が有名ですね。
公園化によって遺構が改変された箇所もあるみたいですが、全体的に見やすいつくりになっています。条件が悪くなければパノラマで富士山を楽しむことができるみたいなので、ドライブで訪れるのにも良い場所ですよ。

※動画はまだ作成していません
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↑箱根越えには主に3つのルートが使用されていました。箱根口(山中城)と河村口(河村城)、そして足柄峠を通過する足柄口です。

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↑日本古城絵図を基に主要な曲輪の配置を地図に描いてみました。
足柄城は石塁を多く使用したお城だったみたいなのですが、地震や道路設置の影響で殆どが撤去されてしまいました。自分は確認していませんが、大手の辺りには石類がまだ残されているみたいですよ。

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↑【本丸】
富士山は雲に隠れて見えませんでした。残念。
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↑【玉手池】
本丸の繁みの中に残る玉手池。底知らずの池とも呼ばれていて、池の底は小田原に通じているなんていう伝承も。
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↑【二の丸と堀】
堀は本丸と二の丸の間にある堀です。
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↑【三の丸と堀】
堀は二の丸と三の丸の間にある堀です。
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↑まだ先に曲輪は続いているのですが、このときはここで散策を止めました。この先にある四曲輪には井戸も残っているみたいなんですけどね。何か気が進まなかった。
まあ、また訪問しましょう。


足柄峠は歴史的に長く重要な役割を担ってきた場所なので、足柄城以外にもいろいろ史跡が残されています。
以下、それらの紹介です。

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↑【新羅三郎義光 笛吹塚】
源義光のことは詳しくは存じ上げませんが、その名前は甲斐武田の祖としてよくでてきますよね。
平安時代、後三年の役に参戦する途中、新羅三郎義光が足利峠にて藤原時元の子・時秋に笛の秘曲を伝授しました。その謂れに関連した大石だと伝えられています。
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↑【芭蕉の句碑文】
「目にかかる 時やことさら 五月富士」
残念ながら当日の自分には、富士山は姿を現してくれませんでした。
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↑【足柄峠一里塚】
江戸幕府が各街道に設置していた一里塚。江戸時代は富士山信仰も盛んだったみたいなので、多くの人が富士山を目指して峠を歩いていったことと思います。
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↑【足柄の関】
この冠木門は映画「乱」の撮影で使用されたセットを移築したものなんだとか。
「乱」「影武者」「夢」は所有していますね。黒澤映画は面白いので結構好きです。

2013年8月 5日 (月)

深沢城 【駿河】

場所:静岡県御殿場市深沢(場所)
訪問:2011年10月
形態:平城?
遺構:曲輪・空堀(三日月堀含む)・土塁など
指定:静岡県指定史跡
駐車:案内板付近に2台ほど駐車可
満足:★★★★★★★(7.0点)

深沢城は戦国時代に駿河を統治していた今川氏によって築城されたと考えられています。
駿河の中でも北東隅というか富士山の東側にある御殿場に築城された深沢城は、当時箱根を抜けるのに主要街道だった足柄街道
を監視する駿河側の要衝として、非常に重要な役割を担っていたものと想像されます。

駿河が武田氏によって制圧されると、ここ深沢城も武田氏の統治下に置かれますが、1570年に後北条氏が深沢城を攻めてこれを奪取し、黄八幡として知られる北条綱成が深沢城城主として入り守りを固めます。
これに対し武田氏もすぐに反撃を開始し、同年11月には今度は武田氏が深沢城を包囲。金山衆などを使って攻め立て、翌年1月3
日には矢文を送って開城を迫り、1月16日に北条綱成は勧告に従って玉縄城に引き上げました(深沢城矢文)。
これによって後北条氏は足柄城や河村城の増強を急ぎ進めます。

武田氏滅亡後は徳川氏の統治下に入り、後北条氏との境目の城として機能していたものと思われますが、後北条氏の滅亡をもってその役割を終え、廃城になったものと思われます。


甲斐から相模への連絡口として、この深沢城は何としても確保しなければならない要衝だったことは、地図を見れば一目瞭然ですね。
裾野市に残る葛山城の葛山氏にも信玄は六男・葛山信貞に葛山氏を継承させて安定化を図りました。
いかにも武田氏のお城っぽい縄張が残されている優良城跡なので、一見の価値ありだと思いますよ。

※2011年11月にアップした動画です。ニコニコ動画はこちら
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↑確認した深沢城の遺構。見ての通り三方が川に囲まれているという要害に深沢城は築かれました。
三郭より先にも外郭が設けられていたのだと思いますが、市街地化などにより現在ではよく判りません。

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↑【城址碑】
三郭の三日月堀脇に設置されている城址碑と案内板。

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↑【三郭南の三日月堀】
大きいので正面からデジカメで撮影しても形状をうまく表現できませんでした。東側から撮影したパターンのほうが歪みを伝わり易いかな?

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↑【三郭西の三日月堀】
三日月堀繋がりで、続いてこちらの三日月堀も紹介。

甲斐・武田氏の関連城跡は本当に丸みを帯びた形状の構造物や縄張が多いですよね。歪の美学のようなものが甲州の築城学には存在していたのでしょうか。
そういえば千葉県の城郭ではあまり見た記憶の無い三日月堀ですが、真里谷要害城には三重の巨大な三日月堀が残されています(参照記事)。真里谷要害城は上総武田氏が築城したと思われる城ではあるので、何か真里谷要害城の築城技術に甲斐・武田氏の築城学が活用されているのかも!?


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↑【三郭】
現在は田んぼに宅地、あとはお社なども設置されています。かなりの広さを持つ郭です。

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↑【三郭東の馬出】
往時の三郭の虎口が何箇所あったのかは判りませんが、少なくとも虎口の一つだったであろうと思われる三郭東の馬出。
城址碑のあたりから城内に見学に入ると、最初に通過する郭跡です。

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↑【下馬溜(馬出)】
馬出を抜けるとまたすぐに馬出が。こちらの馬出には「下馬溜」という名称がつけられています。名称から解釈するに厩があった場所と考えられているんでしょうかね。

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↑【土塁】
三郭を中心に往時はもっと多くの土塁が構築されていたのかも知れませんが、確認できた土塁はこれだけでした。
土塁に沿って続くこの通路は、枡形のような役割を担っていたのでしょうか。

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↑【本郭】
現地案内では「二の丸」とされていますが、この奥にある「本丸」はこの郭より一段低い立地にあるので、この郭を占拠されると郭内の様子が丸わかりになり、守りに適しているとは思えません。
そういったことからこの郭を本丸と考える人が多いように見られますが、自分も同意権ですね。なので当ブログではこの郭を本郭とさせていただきました。

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↑【馬出周辺の堀】
本郭北の馬出に続く土橋と堀切。このあたりの堀は深さもあって、特に迫力が凄いです。

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↑【本郭北の馬出】
綺麗な形の馬出なんですが、端から下を覗き込むと上下二段に分けられていることが判ります。
あまり他では見た記憶の無い構造です。

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↑【二郭】
深沢城の最北端に位置する郭です。

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↑【城櫓】
二郭の片隅には「城櫓」の案内が。

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↑脇を流れる馬伏川。当地の要害性が垣間見える光景です。

2013年7月30日 (火)

興国寺城 【駿河】

場所:静岡県沼津市根古屋(場所)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀切・土塁・櫓台・石垣など
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★★★★★(6.0点)

戦国時代、関東最大の勢力として威勢を誇っていた後北条氏。
その後北条氏の礎を築いたのが伊勢新九郎盛時。後の世で北条早雲と呼ばれる人物です。

北条早雲は備中にて生まれ、9代将軍・足利義尚の申次衆を経て駿河・今川氏のもとに下向しました。駿河においては今川氏の家督問題などで着実に影響力を強めていき、ついには所領として興国寺城を与えられました。

早雲は伊豆討ち入りを機に韮山城へと本拠を移しますが、伊豆に近い興国寺城は戦略上重要な地だったみたいで、今川氏・後北条氏・武田氏の間で目まぐるしく城主が入れ替わります。

徳川家康の関東入封後は駿河を領した中村一氏の家臣・河毛重次が城主となり、関ヶ原後は家康家臣・天野康景が城主を務め興国寺藩が立藩されますが、天野康景の逐電により興国寺藩は消滅。興国寺城も廃城となりました。


※ニコニコ動画にもアップロードしてあります。ニコニコ版はこちら
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↑現地案内や古城絵図を参考に概略図を作成してみました。一部の土塁や堀が消滅していますけど、全体的には面影がよく残されている城址なのではないでしょうか。

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↑整備計画もあるみたいですね。今後に期待がかかります。

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↑【三の丸】
三の丸は発掘調査の真っ最中でした。何か新たな発見があるといいですね。

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↑【三の丸に残る土塁】
うっすら土塁が残されています。綺麗に残されていますけど、これは遺構と捉えて良いんでしょうかね。

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↑【二の丸】
本丸と二の丸の間は今は段差があるだけですけど、往時は土塁と堀で往来を遮断していました。

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↑【石火矢台】
本丸と二の丸の土塁は少しだけ残されています。名称からして櫓があったと考えられているんでしょうね。

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↑【本丸】
本丸は周囲を土塁で囲まれているんですけど、この土塁の規模が大きくて凄い迫力です。

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↑【伝天守台付近から見る城内】
伝天守台付近から見る本丸と二の丸。土塁の大きさが伝わりますかね?

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↑【伝天守台】
壁面に僅かながらも石垣の痕跡が残されている天守台。配置されている配列された石も発見された礎石なのかな?

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↑【西櫓台】

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↑【大堀切】
伝天守台の裏、北曲輪と本丸の間には非常に巨大な堀切が設置されています。

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↑【北曲輪】
北端は新幹線の線路が貫通しています。

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↑伝天守台で見つけたカブトムシ。何組もの家族が昆虫採集に来訪されていました。なんだろ、計画的にカブトムシを育成しているのか、はたまた地元では有名な採取場所ってだけなのか・・・

2013年7月27日 (土)

沼津城(三枚橋城) 【駿河】

場所:静岡県沼津市大手町(場所)
訪問:2013年6月
形態:平城
遺構:なし ※光長寺辻之坊に伝移築門が残ります
指定:なし
駐車:なし
満足:★(1.0点)

沼津城の前身である三枚橋城は、駿河を制圧した甲斐武田氏によって築かれました。駿河と伊豆の境目に位置するこの場所は伊豆方面における最前線基地として使用され、後北条方の前線基地である長浜城の伊豆水軍と沼津沖にて幾たびも海戦が行われたと伝えられています。

1601年、徳川家康の家臣・大久保忠佐が三枚橋城に入って駿河沼津藩を興しますが、世継ぎがいなかったため1613年の忠佐の死をもって断絶となり、藩は改易。三枚橋城も廃城となりました。

以降、沼津は幕領となりますが、1777年、水野忠友が三河大浜藩から転封して沼津に入り、三枚橋城の跡地に沼津城を築城しました。
沼津城は幕末まで存続しますが、明治には破却され、現在は大手町という地名と本丸跡とされる場所に碑と案内板が残されているのみで、面影は全く残されていません。

※動画はまだ作成していません
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↑市街地化によって沼津城の面影は消滅してしまいました。残されているのは大手町や上本町などの町名くらいなものでしょうか。

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↑市内にある中央公園は本丸跡地の一部を使用してつくられたものです。

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↑公園には城址碑や案内が設置されています。碑の周囲を囲んでいる石は昭和48年に静岡銀行の新築工事の際に見つかった三枚橋城の石垣なんだそうです。

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↑日本古城絵図・沼津古城。たぶん三枚橋城のことなんでしょうね。
沼津城は三枚橋城の北半分の敷地しか使用しなかったとのことですが、比較してみるとそのことが良くわかります。三日月堀の多用具合がいかにも武田氏の縄張りっぽくていい感じ。

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↑同市内の光長寺には、沼津城の中庭で使用されていたという言い伝えのある門が残されています。この移築門が沼津城唯一の名残と言えるのかな。


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↑ちなみにこの光長寺、
法華宗本門流の大本山というだけあってかなり大きな施設です。

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↑昔はもっと各地にこの規模の寺社が点在していたんでしょけどね。今となっては貴重です。
趣があってなかなか良い場所でした。




2013年7月24日 (水)

江川家住宅(韮山代官所跡)

場所:静岡県伊豆の国市韮山韮山(場所)
訪問:2013年6月
指定:重要文化財
駐車:有

韮山城とは城池を挟んだ反対側には韮山代官所がありました。韮山代官は代々江川氏が勤め、夏は江戸、冬は韮山に常駐していたみたいです。
江川氏は平安末期から当地に居を構える名家らしく、韮山を支配するその時代時代の権力者に仕えて家を存続してきました。

江川氏の中で特に著名なのは、幕末期の江川英龍ではないでしょうか。自分は光栄から発売されていた「維新の嵐」にはまっていた時期(始めは88版で後に98版をプレイ)があるので、名前だけは存じていました。
この江川英龍、調べてみるとなかなかの人物で、斎藤弥九郎(神道無念流/練兵館の創立者)とは深い親交をもつだけではなく、砲
学者として著名な高島秋帆に弟子入りして砲術を学び、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが英龍の門下生として学びました。そうそうたる面子です。

変わったところでは、日本で始めてパンを焼いたのも江川英龍みたいです。あと、集団行動時によく号令として使われる"気をつけ"や"回れ右""右向け右"などの掛け声も、英龍が組織したとされる西洋式軍隊で始めて使われたのだとか。

江川邸や郷土資料館は有料ですが、いろいろな資料が揃っていて楽しいです。案内の方もいらっしゃるので、いろいろ質問しながら展示資料を見れるのが良いですね。
シャイな自分はさっと資料を拝見するだけで終わってしまいましたが。

※動画はまだ作成していません
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↑入口。
江川邸単独で\300、郷土資料館とあわせてだと\400だったかな。単独での拝観料はハッキリ覚えていないので曖昧です。すみません。

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↑母屋。中部には資料が展示してあり、係りの方がいろいろな説明を行っていました。
たまたまかもしれませんが、何気に結構な数の来訪者がいてびっくり。シャイなので、見学もそこそこに次の場所へ移動です。

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↑西蔵。正面から見ると将棋の駒のような形をしていることから、駒蔵とも呼ばれているみたいです。
あと、軒の屋根が瓦でなく伊豆石で葺かれているのが特徴なんだとか。

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↑でも、すぐ横にある蔵は瓦でした。こちらも昔は伊豆石が使用されていたのかな。


この裏手にある台地が江川砦です。訪問前はこの江川邸から見学できるかなと思ったんですけど、どうも無理っぽいですね。城池の方面からは入れると思いますが、江川家の私有地なので無理はしないほうが良いかもしれません。

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↑【品川台場の資料】
幕末、東京湾に構築された品川台場の資料。この品川台場も江川英龍が指揮して構築していたんですね。昔は6基あった品川台場も、現在残されているのは2基のみ。周辺はお台場として開発され、第三台場はいつでも訪問することが可能です。



2013年7月22日 (月)

韮山城 【伊豆】

場所:静岡県伊豆の国市韮山韮山(場所)
訪問:2013年6月
形態:平山城
遺構:曲輪・堀・土塁など
指定:
駐車:有
満足:★★★★★★(6.5点)

築城年は定かではないみたいですが、本格的に整備されたのは伊勢新九郎(宗瑞/北条早雲)がここ韮山城を本拠に据えた頃からだと考えられています。
伊豆を平定した後の後北条氏は隣国の相模に侵食していきますが、後北条氏が小田原城に拠点を移すのは2代目・北条氏綱の代か
らで、早雲は没するまで韮山城にあり続けました。

1590年の小田原征伐の時には北条氏康の四男・北条氏規が城主を勤めていて、約4万4千の豊臣軍を相手に約3千6百の守備兵にておよそ百日間も持ちこたえましたが、最後は開城して降伏。以降、氏規は小田原城開城に向けて尽力していくことになります。

徳川家康が関東に入ると、その家臣である内藤信成が城主として入ります。ただ、その内藤氏も1601年には駿河・駿府城への移封が決まり、韮山城は廃城となりました。

北条早雲が居を構えていただけあって、韮山城は比較的有名な城址ですよね。
遺構は韮山高校脇に残る主要部分と、北東にある山一帯に広がる砦部分に分けられますが、主要部分は公園としてよく整備されているので、一年を通して訪問することが可能です。
権現曲輪や三の丸に残されている土塁は圧巻の規模で、一目見る価値はあり。

韮山城の西側の山には、豊臣軍が構えたという陣城の跡も数多く残されています。韮山城の敷地の多くは、江戸時代に韮山で代官を勤めていた江川氏の私有地みたいなので、あまり目立つ場所での無茶は不味いですが、興味のある方は陣城とわせて山中に残されている砦の面影を探してみてはいかがでしょうか。

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↑韮山城とその周辺図。韮山城の周囲は泥田や湿地が多くて攻めづらかったのでしょう。小田原征伐の際に、豊臣軍は東側の山に陣を構えました。
きちんと整備されているのは主要部くらいですが、各砦や豊臣軍が築いた陣城も遺構は残されているみたいです。興味のある方は確認してみてください。

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↑簡単に確認した韮山城・主要部の遺構を記してみました。古絵図と比べてみても、比較的良く郭跡が残されていることが判ります。

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↑【遠視】
北側から見た韮山城。

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↑【城池から三郭への虎口】
歩いているときはもともと竪堀か何かだったのを遊歩道として整備したのかなと思っていたのですが、古絵図でその部分を確認すると通路として認識されていますね。
三郭の土塁と二郭に挟まれていて、枡形のような雰囲気になっています。

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↑【三郭と土塁】
三郭の敷地の殆どは現在、テニスコートとして使用されています。
周囲に残る土塁は幅広で圧巻。迫力が凄いですよ。

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↑【権現曲輪】
一部、道を設置するために崩されたと思われる箇所がありますが、全般的には周囲を囲む土塁がよく残されています。

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↑特にお社が建てられている東側の土塁はかなり幅広に設定されており、往時から何か特別な場所だった雰囲気がたっぷり。

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↑【権現曲輪の虎口】
三郭側とは別に城池方面に降りるための通路が残されています。

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↑【二郭】
権現曲輪より一段高い場所に設けられている二郭。権現曲輪や虎口を監視するかのように北側を張出させ、土塁も幅広な造りになっています。

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↑【土橋と堀切】
本郭との間には土橋と堀切が残されています。

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↑【本郭】
そんなに広いスペースはありません。二郭と本郭は一体として機能していたのでしょう。
韮山城の権威を示すような建物があったりしたのであれば格好良いんだけど、調査ではどうだったんだろう。

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↑小田原征伐の際、豊臣軍は奥の山(高圧電線の見える山)に陣城を築いて韮山城守備兵と対峙していました。当時の城主・氏規は兄の氏照や氏邦と役割が違って主に外交を任されていたため、幾度も秀吉と交渉をしてきたと言われています。ここから城を囲む豊臣軍を見て、氏規は一体何を考えていたのでしょうか。

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↑本郭の南にはまだ尾根が続いています。

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↑【塩倉】
その先には方形に土塁で囲まれた塩蔵と呼ばれる郭跡が残されていました。名称は塩蔵ですが、この場所は煙硝蔵だったと考えられているみたいですね。

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↑【御座敷】
韮山高校のある場所は御座敷という名称が残されています。まあ、御殿などがあったということなんでしょうね。
ちなみに、この御座敷を通り抜けて三郭に入る道が、往時の大手だった想定されています。

2013年7月19日 (金)

伝堀越御所跡 【伊豆】

場所:静岡県伊豆の国市四日町(場所)
訪問:2013年6月
形態:平城
遺構:なし
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★(2.0点)

室町時代、室町幕府の中心は京都にありましたが、前政権の中心であった鎌倉には鎌倉公方を配置して東国(主に関東)を治めていました。
この鎌倉公方、初代の足利基氏は足利尊氏の四男で、家系的には将軍と非常に近かったんですよね。幕府にとって鎌倉公方はそ
れだけ重要なポジションで、鎌倉公方の補佐役として上杉氏(関東管領)を配したことからも察することができます。

ただ、その権力から増長が発生したのか判りませんが、鎌倉公方は代を重ねるごとに幕府との軋轢が強まっていきます。そんななか、ついには関東管領とも対立が発生し、1416年には上杉禅秀の乱が勃発。この反乱をきっかけに関東は長い戦乱の時代に突入しました。

永享の乱で鎌倉公方は一旦滅亡しますが、結城合戦などを経て再び再興を許されます。しかし程なくして鎌倉公方はまたも上杉氏と対立し、今度は鎌倉を追い出されて下総・古河に本拠を移します。これが世に言う享徳の乱ですね。扇谷上杉家臣・太田道灌が活躍した時代です。
利根川を境に管領上杉方と古河公方の勢力が対峙して享徳の乱は30年近く続くことになるのですが、時の将軍・足利義政は古河公
方・足利成氏への対抗策として異母兄の足利政知を関東管領に命じ、関東に送り込みました。ただ、政知は扇谷上杉氏などの支持が得られなかったため、妨害を受けて鎌倉には入れませんでした。
そのため政知は伊豆の堀越に入り居を構え、堀越公方と称しました。

前置きが非常に長くなってしまいましたが、その堀越公方が居を構えたとされる場所が、ここ、伝堀越御所跡です。
ちなみに堀越公方は2代目・茶々丸のときに興国寺城を本拠にしていた伊勢新九郎(宗瑞/北条早雲)に攻められ、滅ぼされてしまい
ました。茶々丸は傍にある願成就院において自刃、もしくは伊豆を脱出した後、甲斐国にて捕縛されて自害したと伝えられています。

発掘調査は何度も行われたみたいで池跡などが発見されているようですが、案内があるだけで今はたんなる野原です。正直いって公園と呼ぶのも微妙な感じ。
史跡公園に向けての構想はあるみたいですが、ネックはやはり土地問題みたい。

案内は立派なので、ちょっと立ち寄って感慨にふけってみるのはありですかね。
あとこの一帯は北条氏(後北条氏じゃないですよ、本物の北条氏です)に縁がある土地だったみたいで、周辺には北条氏関連の史跡が残されています。
伊豆の中でも古くから重要な場所だったんでしょうかね。あわせて散策してみては如何でしょう。

※動画はまだ作成していません

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↑伝堀越御所跡は韮山城からそう遠くない場所にあります。

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↑周辺地図。この守山周辺は鎌倉幕府の執権として権勢を誇った北条氏に縁の深い場所みたいで、北条氏関連の史跡も点在しています。そういうこともあって、堀越公方もここに居を構えたということなんでしょうか。

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↑【伝堀越御所跡】
現状では単なる野原ですね。
20回に及ぶ発掘調査によって池跡などは発見されているみたいなのですが、建物の痕跡は未だ見つかっていないみたいです。史跡公園に向けての整備計画なるものがあるみたいですが、現状ではちょっと難しいのかな。

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↑【北条政子 産湯の井戸】
非常に有名な人物だと思うので、説明は不要ですよね。
伝堀越御所跡の反対側に、この産湯の井戸は残されています。

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↑【北条氏邸跡】
守山に詰めの城を築いて、周辺には北条氏の館が建ち並んでいたんでしょうね。


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自分はこれで散策を止めてしまいましたが、北条時政公墓所や北条氏一族の供養塔など見所はたくさんあります。
韮山城や韮山反射炉などとあわせて、じっくり散策してみてはいかがでしょう。

2013年7月16日 (火)

伊豆長浜城 【伊豆】 2/2

伊豆・長浜城 その1 の続きです。

その1では長浜城の歴史から第三曲輪までを紹介してきました。
その2は第二曲輪から紹介開始です。

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↑現地で紹介されていた長浜城縄張図。ちょっとだけ手を加えてみました。

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↑【第二曲輪 虎口】

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↑【第二曲輪】
城内で一番の広さをもつ曲輪です。
昭和40年代までは三井家の別荘が建てられていたみたいなんですけど、ここからは数多くの柱穴が発掘調査によって検出されました。
建物跡が柱によって表現されていますね。何も無い野原よりも往時をイメージし易くなるので、こういう対応は本当に有難いです。

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↑【堀】
第一曲輪に沿う形で堀跡が残されています。写真右は発掘調査当時のものなんですが、端は畝によって仕切られていたことが判りますね。
何か造海城にあった水堀が思い出されますね。堀という役目より水溜めとしての意味が強そうな感じを受けます。

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↑脇は竪堀になっているみたいなんですけど、草に覆われて視認できませんでした。

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↑【櫓(復元)】
この位置からは岩盤をくり抜いて作成した柱穴がみつかり、建物跡が確認されました。
実際にこのような第一曲輪との連結機能を果たす櫓が建てられていたのかは判りませんが、第一曲輪との連絡通路が見つかっていないことから、このようなイメージの建物を想像してみたみたいです。

この櫓、格好いい。構造もなかなか良い発想のように思うんですけど、世間一般の評価はどうなんですかね?
とかく東国の城というと織豊文化が入ってくるまでは石垣も無い土の城で、建物も粗末なものしかなく、櫓があってもせいぜい井楼櫓レベルという考えが広まっているように思いますが、自分はこのレベル程度の建築物は普通にあってもおかしくないんじゃないかと考えています。
瓦を使用していなくても礎石さえしっかりしていれば2~3階建ての建物は造れるんですからね。

妙な展望台を設置されるより、こういった建物のほうが雰囲気も出て余程ましです。

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↑【第一曲輪】
第二曲輪とあわせると本丸上段とも呼べそうな第一曲輪。ここからは門と塀の痕跡が発見されています。

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↑第一曲輪からの展望はバッチリ。武田方の三枚橋城もよく観察できます。
天気は良いんだけど、富士山がガスで隠れてしまっているのが残念ですね。

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↑【第一曲輪 周囲に残る石垣①】
櫓の傍です。岩盤を削って堀を作成しているくらいですから、往時も石垣や石積みが使用されていたと思うのですが、残されている石垣が往時のものか、はたまた別荘の名残なのかがよく判りません。

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↑【第一曲輪 周囲に残る石垣②】
西側斜面。虎口は往時からあったんでしょうか。

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↑【第一曲輪 周囲に残る石垣③】
腰曲輪の脇に残されている石垣。

他にも石垣はポツポツ残されているみたいです。興味あれば探してみてください。

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↑【曲輪A~D】
第一曲輪の北側には、海に向かって馬蹄段状に腰曲輪が続いています。

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↑最下段には船溜りだったと思われる磯場が。ここから淡島や長井崎などに設けられていた砦に移動したりしていたんでしょうね。


その1に戻る

2013年7月14日 (日)

伊豆長浜城 【伊豆】 1/2

場所:静岡県沼津市内浦重須(場所)
訪問:2013年6月
形態:海城
遺構:櫓(復元)・曲輪・堀・土塁など
指定:国の史跡
駐車:城址脇の釣堀に駐車可
満足:★★★★★★★(7.0点)

1568年、武田信玄による駿河侵攻が開始されると、1570年には駿河は完全に武田氏の支配下へと治まっていきます。以前は三国同盟で結ばれた武田氏と後北条氏でしたが、駿河侵攻をきっかけに紛争に突入。1571年に一旦は甲相同盟が復活するも、1579年には越後・御館の乱をきっかけに再び破綻し、武田氏と後北条氏は合戦を繰り返すようになります。

そんな情勢の中、伊豆長浜城は武田方水軍に対する前線基地として1579年に整備されたものと考えられているみたいです。当時、今の沼津には三枚橋城(後の沼津城)という武田方の拠点があり、付近では小競り合いがたびたび発生していました。
勝敗はよく判らないながらも沼津沖では水軍の合戦も行われたみたいですが、相手方の武田氏は1582年に織田信長によって滅ぼ
されてしまいますから、伊豆長浜城が最大限に機能したのも実質は2年ほどといえるのではないでしょうか。

以前はそこまで整備されていなかったみたいなのですが、現在は案内板も豊富で発掘調査の成果も復元されている箇所があり、コンパクトながらもなかなか楽しめる城址になっているのではないかと思いました。
主郭からは内浦湾超しに富士山も確認できるので、景観もバッチリ。

往時は内浦湾を囲むように城や砦が張り巡らされ要塞のようになっていて、この長浜城はその要塞の司令部的な場所だったんだと思います。なので長浜城だけを見ると非常に小さな城という印象を受けてしまいがちですが、近世城郭で例えると内浦湾要塞の中の天守閣みたいな存在と考えても良いんじゃないかなと。

主郭の周辺にはところどころに石垣が残されています。この場所、昭和40年代まで三井家の別荘が建てられていたみたいで石垣はその名残だと思われるのですが、果たしてどうなんでしょうね。
この小山はなんとなく岩山っぽいですし、堀切作成や削平地設置工事の際にそれなりに石を入手できたと思うので、少なくとも
石積み程度はあった筈だと思うのですが・・・

※ニコニコ動画にもアップしてあります。ニコニコ版はこちらから。
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↑現地にあった縄張図に若干手を加えてみました。

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↑当時の周辺状況の解説図。伊豆の付け根に近い沼津には三枚橋城という武田氏の前線基地が構築されていました。その三枚橋城に対する伊豆水軍の前線基地として整備されたのが長浜城です。

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↑長浜城の脇にある釣堀の駐車場が長浜城の駐車場を兼ねています。国の史跡だけあって案内もしっかり。

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↑入口です。頂上まで登るだけなら5分もあれば十分かな。

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↑【第四曲輪と堀切】
入口から登ると始めに目にする曲輪です。
土塁の頂部からは1基だけ柱穴が確認されたのだとか。いったい何に使用されていたんでしょうかね。

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↑【大手道】
今は道路設置の影響で削られてしまっていますが、往時の大手道だったと思われる通路が残されています。
九十九折の道の上部には第三曲輪が。

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↑【第三曲輪】
動画の中でも説明していますが、この第三曲輪は長浜城における守りの要だったと思われる曲輪です。

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↑【堀切】
第二曲輪と第三曲輪の間にある堀切。
第三曲輪からの攻撃を何とか防いで大手を登ったとしても、この堀切では二つの曲輪から袋叩きにされます。

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↑この堀切にはもともと跳ね橋が架けられていて、第三曲輪を経由して第二曲輪に入るという構造をしていました。その時の堀切はもっと深くまで掘り下げられていたみたいです。

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↑しかしその後、堀切は埋められたうえに幅を狭くして、門構えの虎口へと造りが変更されました。

一見すると、跳ね橋構造のほうが例え第三曲輪が陥落しても第二曲輪には簡単に進入させない堅固な構えっぽく感じるのに、なんでわざわざ堀を埋めてまで門に変更したんだろうと不思議に思ってしまうかも知れません。
あくまで私見ですが、構造を変更したのは合戦における兵数の大規模化が関係しているんじゃないかと思います。
お互いが少数兵通しの戦いなら小手先の技巧性でも十分に有効かもしれませんが、勢力の巨大化に伴う合戦規模の拡大化で、もはやそういったことが通用しなくなってきたという変化を表している一例なのではないかと。

一番の要である第三曲輪が突破された時点で陥落は時間の問題、という観点から、第三曲輪の防御性をあげて絶対防衛線を構築する、に切り替えられたというこなんだと感じました。
まあ、実際がどうなのかはわかりませんけどね。

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↑【第二曲輪から見た第三曲輪】
第三曲輪周辺のまとめ。


小さなお城ではありますが、ちょっと長くなったので2回にわけますね。
第二曲輪遺構はその2にて。

その2

2012年10月23日 (火)

大畑城 【駿河】

場所:静岡県裾野市大畑(場所)
訪問:2011年10月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁など
指定:たぶんなし
駐車:なし ※熊野神社近くの広小路に路駐しました
満足:★★★★★☆☆☆☆☆(5.5点)

大畑城は葛山城から南東に2kmほどしか離れていない場所に構えられている平山城です。詳しい歴史はよくわからないんですが、尾根に築かれた梯郭式平山城で、ミニ葛山城といっても良いくらいに非常に似た構造をしていることから、葛山氏が築城したものと考えて良いように思います。

当日はちょうど集落のお祭りを麓の大日堂で行っていて、熊野神社や大日堂のあたりは人で賑わっていました。初めは、観光地でもない場所に突然現れたためか、ウロウロしている自分に奇異の目を向けられましたが(こういうパターンは多いので慣れました)、大畑城目当てで集落を訪問した旨をお話しすると、訪問路やいろいろな謂れ・昔話など語って下さいました。なかでも印象的だったのが「主郭には用途はわからないけれども、昔は石が結構転がっていた」という話でしょうかね。なぜ石が多く転がっていたんでしょう、想像が尽きません。

※動画はまだ作成していません

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↑縄張りが無いので、ポイントをナンバリングしてみました。西側は高速やバイパスなどで消滅してしまっているのが残念。

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集会場の脇に残された土塁跡。

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↑そんなに急峻な斜面でもないので、どこからでも登ることは可能です。

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尾根下の道を歩いていくと到着します。ここから尾根に沿って歩いていくのが楽かもしれません。

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しばらく歩くと到着する堀切に遮断されます。

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堀底から。なかなか鋭角で存在感のある堀切です。

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ちょっとした広さがあるので二郭としておきますね。正面に見えるのは主郭です。藪の中に沢蟹を何匹も見かけました。

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主郭の周囲を廻る帯郭。

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主郭。

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↑主郭へ続いていそうな細道。この先に虎口があったのかも。

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↑斜面に設けられた腰郭。

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↑五竜の滝。高所恐怖症なのかもなんて思ってるのですが、吊橋が滅茶苦茶怖かったです。

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