地域 - 群馬

2013年12月20日 (金)

太田金山城 【上野】

場所:群馬県太田市金山町(場所)

訪問:201110月ほか

形態:山城

遺構:曲輪・堀切・竪堀・土塁・石垣・井戸・復元物(架け橋、石垣など)

指定:国の史跡

駐車:

満足:★★★★★★★★★(9.5)

見所:神殿のような復元石垣も見事ですが、城域が広大なのでボリュームも満点

 

別名・新田金山城とも。

太田は元来、鎌倉時代末~南北朝時代まで活躍した新田義貞が開拓した土地であり、新田荘と呼ばれていました。金山城の本丸にも現在は新田神社がおかれていて、新田義貞が築城したという伝えも残されているみたいですが、発掘調査からはそこまで古い年代の遺構は検出されていません。

新田氏は新田氏宗家と庶流の世良田氏・岩松氏がありましたが、南北朝で南朝についた新田宗家と世良田氏は没落し、北朝についた岩松氏が新田荘を治めていく事になります。

 

室町時代、関東は足利公方と管領上杉氏の対立から戦乱の時代に突入し、その中で岩松氏も礼部家と京兆家に分かれて対立しました。この対立は礼部家の岩松家純が勝利を収め、その家純によって太田金山城は築城されたと伝えられています。

 

家純が死去すると家中で内訌が発生し、岩松氏は重臣の横瀬氏に実権を奪われて没落しました。この下克上で新田荘を掌握した横瀬氏は由良氏と性を改め、その後は戦国大名化していくことになります。

 

戦国時代、上野国は北は上杉謙信、西に武田信玄、南には後北条氏と強国に囲まれていたので、状況にあわせて由良氏もその所属勢力を変えて生き残りを図りました。

当初は管領・山内上杉氏に属していましたが、後北条氏によって山内上杉氏が圧倒されると後北条氏に従い、続いて関東に遠征してきた上杉謙信に下り、そして再び後北条氏といった具合。

桐生氏を攻め滅ぼして領地拡大に努める一方で上杉謙信に攻めこまれたりもしていますが、由良氏は太田金山城に篭ってこれを見事に撃退しています。

 

1584年、後北条氏は当主の由良国繁と弟の長尾顕長を小田原城に呼び出して、佐竹氏攻撃のために太田金山城と館林城の借用を申し込んできます。これに由良氏側が反発したため、後北条氏は兄弟を小田原城に監禁し、太田金山城に軍勢を送り込みました。

太田金山城は国繁・顕長の母である妙印尼が指揮をとって善戦し、これを見事に撃退。兄弟は解放されますが、最終的には後北条氏の圧力に屈っして1585年には太田金山城と館林城は後北条氏に明け渡されます。

由良国繁は柄杓山城(桐生城)、長尾顕長は両崖山城(足利城)に移り、太田金山城には在番衆が配置されました。

 

太田金山城は1590年の小田原征伐で豊臣方の攻撃をうけ落城。程なくして廃城とされました。

なお、由良国繁・長尾顕長兄弟は1587年に後北条氏に対して反乱を起こしますが、1588年には降伏して小田原城への滞在を余儀なくされます。

小田原征伐の際には後北条氏方として戦いますが、妙印尼と国繁の嫡男・貞繁が秀吉方に組していたこともあり、罪は問われずに常陸国・牛久城を安堵されました。

 

 

関東七名城のひとつに数えられる太田金山城。復元された石垣はまるで神殿のようであり、何か幻想的な雰囲気を漂わせる名史跡であります。城域もなかなか広大で、全部を見てまわろうとすると、それなりの時間を確保しておかなければ苦しいかも。

復元された石垣のイメージが目立ってしまいますが、調査段階でもかなりの石垣遺構が検出されているのが凄いですよね。展示してある資料からも理解できますが、発掘調査中だった大手口を見ても、その石塁の多さに驚かされました。関東では珍しい石垣が良く残る城跡ということで、一度は訪れて欲しい場所のひとつです。

 

※動画はまだ作成していません

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↑太田金山城の周辺図。突き出すような独立峰で、新田荘を統治するための拠点として構えるには最適な場所のように思えてしまいます。

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↑作成した太田金山城の簡単な概略図と現地案内図。現在確認できるだけでも十分に広大ですが、往時はもっと全山に渡って縄張りが施されていたんでしょうね。
山麓にあるガイダンス施設を訪れたり、麓から山頂まで徒歩で登ってみたりすれば、もっといろいろ確認できるのかも。

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↑【遠視】
太田桐生IC(太田金山城の東側)からの遠視。今でもかなり目立ちますが、往時の新田荘なら、どこからでも確認できたことでしょう。

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↑【西城】
現在、訪問者用の駐車場がある辺りが西城の主要部ですね。名前の通り、西部守備の要になった場所なんだと思います。西城は食違い虎口になっていて、その先には見附出丸、そしてそのさらに先にはもうひとつ出丸(物見?)のような曲輪跡が。
見附出丸は発掘調査によって大量の石塁が検出されていますが、復元が困難なこともあって石垣の痕跡を確認することはできません。ただ、西城の食違い虎口には一部の石類が残されているので、こちらはチェックしておきたいところですね。復元石垣でない往時の石垣を見れる、数少ないポイントのひとつだと思いますので。

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↑【西矢倉台の周辺】
西城を突破した敵兵の前に次に立ち塞がるのが、西矢倉台と二本の堀切です。
平時は西城との連絡通路として、南側の斜面に桟道が設置されていました。万が一の時は、この桟道を打ち壊して、敵兵の侵入を強烈に遮断します。

今はもちろん確認することはできませんが、往時はこの桟道のような建造物が、斜面などには複数設けられていたんじゃないかと思います。でもこういうのって、斜面を調査してみて柱穴が検出されて、それで始めて立証されるという流れですよね。余程怪しくないと斜面なんか調査しなさそうですし、まあ、そう多く見つかる事例ではないんだろうな。

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↑【物見台の周辺】
西矢倉を抜けると、いよいよ太田金山城の見所のひとつである復元石垣が姿を現し始めます。馬場下通路の説明書きには門跡のことが触れられていないんですけど、入口に復元されている石垣構造物はどう見ても門跡ですよね。礎石が検出されなかったとかそういうことなのかもしれませんけど、そのあたりは想像にお任せしますということなのかな?

「物見台」という名称なので一般客には「展望台」と勘違いされてしまいそうな気がしますが、まあ、簡単にいうと櫓台ということですね。侵入者の監視は当然ですが、西矢倉を突破した敵兵を攻撃するための施設がここには建てられていました。
それにしても物見台下の堀切。岩盤を削って構築したということが一目瞭然です。これだけ豊富な石類が発見されている城址なので、豊富に石材を確保できる城址であったことは当然のことではあるのですが、ここでひとつ疑問点が。
これだけ石材を確保できる山なのに、なぜ採石場などとしてこの城址は使用されなかったんでしょうということ。
青梅の辛垣城のようにならなかったのは幸いではあるのですが、採石場として使用されなかったのは何か理由があるんでしょうかね?新田神社が建立されたのは明治の話みたいですが、その前から信仰の対象としてこの山は崇められていたとかそういった理由なのかな?

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↑【馬場曲輪の周辺】
馬場曲輪や馬場下通路からは、複数の建物跡が検出されています。太田金山城の場合、意外と多くの人間が山上の城内に常駐していたのかも。
それにしても馬場曲輪の名称の由来は何なんでしょうね。ちょっと気になります。

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↑【大手虎口】
現在の太田金山城を象徴する存在である大手虎口。その様相は城郭遺構というよりも、どこか神殿のような風格さえ漂わせているように思います。
見た目は確かに度肝を抜かれるんですが、虎口として考えるとこういった構造をしている場所も非常に珍しいですよね。この空間は、巨大な枡形としての機能を想定していたのでしょうか。
復元されていない土塁やらがあったりするんでしょうけど、現状だけでいろいろ想像をしていっても、武者溜りや生活空間としては適した場所と感じることはあっても、構えとしてはそんなに堅固な感じがしないんですよね。何というか、寄せ手に対してどう守ったのかというものが、いまいちイメージとして湧いてこない。

西から続く尾根と大手口の合流地点ですから、ここに最終防衛ライン的な要素があってもおかしくないように思うんだけどな。

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↑【本丸の石垣】
主郭(本丸)の裏手には、往時の石垣の一部がしっかりと残されています。これ、往時はびっしり壁面が石垣で覆われていたとなると、十分に高石垣と呼んでもいいレベルなんじゃないでしょうかね?高石垣の定義はよく存じ上げませんが、関東の中世城郭では唐沢山城に次ぐ高さがあるように思いますし。


城域は広いのでまだまだ。
この石垣のある辺りからは北城を目指せますし、御台所曲輪から南の階段を降りて散策すれば、東矢倉台や鍛冶曲輪なんかも見学することが可能です。
南の尾根には八王寺山ノ砦も残されていますしね。

撮影当日がガスっていたことと、紹介場所が多すぎて絞りきれないので、動画は未だ作成していません。
大手の調査はもう終わっているのかな?少なくとも整備が終了した段階では、再撮影も兼ねてもう一度訪問したいとは思っているんですけどね。おりをみてそのうち・・・。

2013年12月15日 (日)

根小屋城 【上野】

場所:群馬県高崎市山名町(場所)

訪問:201111月ほか

形態:山城

遺構:曲輪・横堀・竪堀・土塁・井戸など

指定:たぶんなし?

駐車:なし ※登り口近辺に1台なら駐車可能なスペース有

満足:★★★★★★(6.5)

見所:良好に保存されている遺構と縄張り

 

築城時期など詳細はわかりませんが、伝承によればこの地に進出してきた武田信玄が、山名城と鷹ノ巣城(茶臼山城)に間に築いた新城であるとされているみたいです。

根小屋城には信州佐久の望月城から望月甚八郎や伴野助十郎を入れて守備につかせ、倉賀野城などの周辺にある諸城を監視させました。

 

 

比高100mくらいの山頂に、武田氏の城郭でよく見られる円を意識した縄張りの遺構が良い状態で残されています。一番の高所に設けられた主郭には、小型ながらも枡形と思しき空間がくっきり。

 

主要部はそんなに広くはないです。ただ、北側の斜面にも曲輪だったと思しき平地をいくつか確認できるので、往時は北側に向けて段々に曲輪が立ち並らぶ、そこそこの規模を持つお城だったのではないでしょうか。藪が凄かったので確認はしていないのですが、大手道とされるルートにも多くの曲輪が配置されていたみたいですしね。

次回訪問の機会があれば、もう少し掘り下げて見てみます。

 

googlemapを見ると山頂まで複数のルートが描かれていますが、2011年の段階では西から登るルートは崩落したので、その方面からのアクセスは不可と言われてしまいました。

で、自分は周辺住民からご教授いただいた北西方面からアタック。山名城から歩いてとなると結構な時間を要すると思うので、ピンポイントで根小屋城だけ訪れたいというのであれば、お勧めの登り口だと思いますよ。

 

※動画は201111月に訪問・撮影したものを201112月に編集してアップロードしたものです。

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↑根小屋城の周辺図。山名城とは尾根続きですし、周囲には城址が点在していて、ちょっとした城砦群を形成しています。眼下を流れる烏川沿いには、往時は倉賀野城も存在していました。

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↑作成した根小屋城の簡単な概略図。訪問してから2年経過しているので、細かい部分は流石に忘れてしまいました(ビデオを見返すのも手間ですしね・・・)。
大手だったとされる北東斜面は藪が多そうだったので、今のところは未確認状態です。次回訪問の際には確認していきたいところです。

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↑【根小屋城へのアクセス】
城内に設置されていた周辺の遊歩道案内図。
遊歩道に沿うというか、山名城などを経由して搦め手(南側)から根小屋城を訪問するのがポピュラーなのかもしれませんが、山麓の根小屋町方面から訪問するのが、恐らく一番手っ取り早いと思うのでお勧めです。
周辺には特に案内が設置されている訳ではないので入口は判りづらいかもしれませんが、概略図と入口の写真、あとは動画などを参考にチェックしていただければ、そんなに苦も無く見つけられるのではないかと。

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↑【道中に見られる曲輪跡?】
山頂まで歩いていく途中で、何箇所か曲輪跡かな?と思いたくなる平地を確認することができました。ただ、耕作地の名残というだけかもしれないので、自分には何ともいえず・・・。

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↑【登城道の終点にある竪堀】
竪堀を登ると主要部の二の丸です。

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↑【根小屋城の主要部】
主郭を中心に、円を描くように横堀と腰曲輪が配置されています。甲斐武田氏の築城術には、曲線に対する美学的なものでもあったんでしょうかね。丸馬出が有名ですが、縄張りも円郭式の代表とされる田中城がありますし・・・。

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↑【搦め手方面に残る枡形のような空間】
主郭の南、搦め手口は窪地になっていて、まるで枡形を髣髴とさせる空間が設けられています。

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↑【搦め手】
今はハイキングコースの関係か、こちらが玄関口のような感じですね。ちょっと先に尾根土塁のようなものがあったんですけど、そこで城内に引き返しました。

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↑【武田信玄の埋蔵金伝説】
埋蔵金伝説はロマンがあっていいですね。こういった伝説は徳川埋蔵金や結城家埋蔵金のように各地に残されていますが、個人的な見解で言わせてもらうと、その殆どは伝説が本物だったとしても、まず現在まで残されていることはないんじゃないかと思いますよ。
まさに「人の口に戸は立てられぬ」ですね。とっくの昔に掘り出されてしまっていることでしょう。
それに、発見した人だって、馬鹿じゃないんだから申告なんてしないだろうし。

残されているとすれば、持ち主が意図せずに埋蔵金になってしまったパターン。代々続く富豪の屋敷跡とかであれば、掘れば意外と見つかるかもしれませんね。
あとは天正大地震で期せずして地中に埋没してしまった、内ヶ島氏の帰雲城とかかな。
花魁淵で有名な黒川金山なんかも意外と面白いかも。

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↑【主郭への登り口】
現在は東側から斜面に階段が設けられているので、そこを登って主郭に入っていきますが、往時の大手ルートは当然別にあったと思われます。
ということで簡単に鳥瞰図を作成してみたんですけど、たぶんこんな感じでルートが設けられていたんじゃないのかなと。

根小屋城というと主郭の枡形はよくとりあげられますけど、個人的にはこの坂虎口あたりの構造のほうが、見応えがあって好きです。鳥瞰図でこの堅固な構造が伝わればいいんだけどな。

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↑【主郭】
腰曲輪から切れ目のような虎口を抜けると、そこには枡形状の空間が待ち構えています。主郭の虎口はこの枡形と北西に残る坂虎口の二箇所。ただ、この坂虎口は崩落してしまっているのか、虎口だったような面影はあまり残されていません。

根小屋城というと馬出と枡形っていう先入観をもって訪問していたんですけど、あまり明瞭に馬出と受け取れる空間を現地で確認することはできませんでした。で、「馬出はどこだ~」なんて感じで再度あちこちをウロウロ。
中世城郭は枡形もそうですけど、馬出も場所によっては解釈が微妙ですよね。あと、同じことが帯郭にも言えるかも。
自分は構造を楽しめれば良いので、正直いって名称にはあまりこだわりをもっていません。なので、多少表現がおかしい場所があっても見逃してくださいね。

根小屋城、周辺の茶臼山城や寺尾中城も見てみたいので、そのうちに再訪したいと思っています。見逃している部分も気になりますしね。

2013年11月26日 (火)

高崎城 【上野】

場所:群馬県高崎市高松町(場所)
訪問:20117
形態:平城
遺構:外堀・土塁・移築復元建造物(乾櫓、東門)など
指定:群馬県重要文化財(乾櫓)
駐車:なし ※市役所などの公共施設に付属している駐車場を拝借するのが良いかも
満足:★★★★(4.0)
見所:残されている外堀とその土塁はなかなか雰囲気良し

江戸時代、当地には高崎藩の藩庁である高崎城が置かれて幕末まで存続しましたが、高崎城は徳川家康の関東入封によって箕輪城主となった井伊直正が家康の命令によって築城したお城であり、それ以前は和田城というお城が当地には建てられていて、周辺を統治していました。

その和田城は平安時代に和田義信が築城し、戦国時代に至るまで和田氏の居城として使用されていました。室町時代になると上野国は管領上杉(山内上杉)氏が領するところとなり、和田氏は管領上杉家に帰属していましたが、関東管領が越後・上杉謙信に引き継がれるとそのまま謙信配下に収まり、その後は上野に進行してきた武田信玄、そして最後は後北条氏の傘下に属し、後北条氏の滅亡にあわせて和田氏も没落していきました。

小田原征伐の後は廃城になっていた和田城ですが、前述の通り、その城址は家康の命で井伊直正によって高崎城として再び使用されることになります。箕輪城も確かに西上野における要衝ではあったのですが、関東における騒乱の危険性が少なくなったことで、利根川に接した和田城の地のほうが、より重要性が増したということなのでしょう。

井伊氏は関ヶ原の戦いの後に彦根へ転封になりますが、高崎にはその後も譜代大名が目まぐるしく入り、藩主を務めました。明治の廃城令にて建物などは破却され、現在に至ります。


城内は市街地化が進んでしまっていますが、外堀と土塁は比較的良い雰囲気で残されているので、思う以上に楽しむことができました。乾櫓や東門以外にも、市内には徳川忠長が自刃した場所という書院が移築されて残されているみたい。

高崎城の縄張り内に取り込まれた和田城も、その土塁の一部が僅かながら和田橋付近で確認できるようなので、そのうちにまた再訪してみようかな。

※動画はまだ作成していません━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


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↑日本古城絵図の高崎城絵図と見比べれば判るとおり、外堀は比較的良好に残されています。
和田城の土塁とされる遺構も和田橋周辺に残されていたみたいなのですが、国道17号を整備した際に多くが崩されてしまったのだとか。戦後まもなくに撮影された航空写真を見ると、その土塁の存在を確認することができます。

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↑【外郭の堀および土塁】
主要部が消滅してしまっているのに、外郭の堀が良好に残されている城址って珍しくないですかね?軽視されてもっと消滅していてもおかしくないと思うのですが、本当に有難い事だと思います。

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↑内側から土塁を見るとご覧の通り。場所にもよるんでしょうけど、大きくてなかなかの迫力です。
ちなみに今見ると虎口だったっぽく見えてしまいますが、古城絵図でこの位置を確認すると虎口は描かれておりません。

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↑【復元・移築された乾櫓と東門】
簡単に立ち寄っただけだったので、あまり良い写真が残されていません。

移築再現された復元水路も確認していないし、和田城土塁も見ておきたい。これは、近くまで行ったときに再訪しなきゃ駄目ですね。

2013年11月23日 (土)

箕輪城 【上野】

場所:群馬県高崎市箕郷町(場所)
訪問:2011年11月ほか
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・石垣・土塁・馬出など
指定:国の史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★★★(9.0点)

見所:主要部に設けられた巨大な堀は必見

箕輪城は上野長野氏の居城として築城されました。
戦国時代に城主を務めた長野業正は、箕輪衆や上野衆を率いて武田信玄の上野進行をことごとく防ぎ、その活躍から信玄をして「業正がいる限り、上野はとれぬ」と言わしめた程でした。
ただ、その長野業正も1561年に死去してしまい、業正の跡は三男の業盛が継承します。しかし、その死を知った信玄は小幡氏や安中氏など西上野の諸勢力を調略によって勢力下におき、最終的には箕輪城を孤立化させた上で、1566年には箕輪長野氏を攻め滅ぼしました。業盛は箕輪城の御前曲輪において、一族郎党とともに自害したと伝えられています。

箕輪城を占拠した武田氏は箕輪城を上野国の重要拠点に定め、甘利昌忠や真田幸隆、内藤昌豊などの有力家臣を箕輪城の城代として配置します。

1582年に織田氏の侵攻で武田氏が滅亡すると、箕輪城には織田信長より上野と信濃2郡を領地として与えられた織田家重臣・滝川一益が新領主として入りますが、6月には本能寺の変が発生し、直後に上野国に侵攻してきた後北条氏との合戦に滝川一益は破れ、箕輪城は鉢形城主・北条氏邦が管理することになりました。

1590年の小田原征伐で後北条氏は滅亡し、関東には徳川家康が入封します。
箕輪城は井伊直政が12万石で城主を務めますが、直政は家康の命によって利根川沿いに高崎城を築城し、1598年に本拠を移転。箕輪城は廃城とされました。



江戸時代になると江戸の発展に欠かすことのできない利根川の水運が重要視されて、高崎や厩橋に要衝としての立場を奪われてしまいますが、戦国時代までは南北の通行だけでなく信濃からの動きも監視できる、この箕輪城のほうが要衝とされていたみたいですね。
歴代の城主も壮々たる顔ぶれです。


毎年、10月最終週の日曜日には箕輪城祭りが開催されていて、今年は10/27に執り行われたみたいです。祭りの実施は知っていたので訪問してみたかったんですけど、その週は台風27号・28号で大騒ぎしてましたしね。チャンスがあれば、また。

※そういえば櫓門と高麗門を復元するなんてニュースがありましたね。状況を見守りたいものです。

※動画は2011年11月に撮影した映像を、2012年6月に編集してアップロードしたものです。
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↑現地案内より箕輪城の概略図。

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↑【大手門周辺】
大手の痕跡が残されている丸戸張。主要部だけでなく、外郭の大手が残されているのも良いですね。

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↑【大手1:虎韜門口】
大手門から主要部に至る大手口のひとつである虎韜門口。
こちらは虎韜門から鍛冶曲輪を抜けて、三の丸に至るルートでした。虎韜門跡の周辺は駐車場になっていますし、鍛冶曲輪や三の丸の石垣も見られるので、大手口らしさを感じることができると思います。

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↑【大手2:大手尾根口】
こちらは大手門から尾根道を抜けて、木俣(きまた)や郭馬出を通りながら二の丸に至るルートです。
木俣の名称の由来は通路が五方向にわかれているからということや、井伊氏重臣に木俣という者がいて、その屋敷があったからとも言われています。
場所的には交差点のような認識だったとしてもおかしくないので、前者の説のほうが面白い気がしてしまいますね。

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↑【木俣方面に対する二の丸の守り】
箕輪城の見所のひとつに巨大な空堀の存在があげられると思いますが、二の丸などがある主要部とその南側の曲輪は、まるで自然の谷戸と見間違うくらいの巨大な堀で断ち切られ、唯一の連絡口である郭馬出を突破しないと、奥に進むことができません。

現在は確認できないのですが、諸国古城之図を見ると、この郭馬出の手前にも馬出のような空間が描かれています。前から気になっていたんですけど、現地で説明が見当たらなかったということは、調査でも特に痕跡が見つからなかったということなのかな?

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↑【その他の残されている馬出】
馬出は他に本丸手前と、城内の北端にて丸馬出を確認することができます。古図によっては、虎韜門の手前にも馬出が描かれているものが残されているのだとか。

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↑【本丸の堀】
大堀切も凄い規模でしたが、本丸の堀もなかなかのものです。
以前は草木に埋もれていましたが、2011年11月に訪問すると草木が綺麗に伐採されて、より確認し易くなっていました。

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↑【本丸】
箕輪城の中心に当たる本丸と、その奥に残された御前曲輪。
西上野の要衝だった箕輪城は何度も支配勢力が変わっていきましたが、その流れの中で徐々に拡張されていきました。
御前曲輪は当初の領主だった長野氏時代の本丸だったとされる曲輪で、長野氏最後の当主・業盛は落城の際、この御前曲輪にて一族もろとも自害して果てたとされています。

本丸には複数のオブジェが配置されていますが、これはお祭りにあわせて一時的に置かれていただけだと思います。
箕輪城祭りは例年10月最終週の週末に実施されているみたいなので、興味のある方は調べてみては。

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↑【点在する石垣の痕跡】
いつの頃から箕輪城に石垣が使用され始めたのか判りませんが、少なくとも後北条氏の管理する時代には要所は石垣で固められていたものと思われます。
長く放置されていた割には、これだけ各所で石垣を確認できることに驚きじゃないですかね。

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↑箕輪城は結構大きいので、全部見て回ろうとするとそれなりに時間を消費してしまうかもしれません。
まあ、見応えのある城址ではあると思うので、じっくり楽しんでみては如何でしょう。


2012年11月18日 (日)

大胡城 【上野】

場所:群馬県前橋市河原浜町660-1(地図)
訪問:2011年11月
形態:平山城
遺構:曲輪・枡形・空堀・土塁・土橋・石垣など
指定:県指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★(6.0点)

大胡氏はなかなかの名族だったみたいで、剣聖・上泉信綱を輩出した上泉氏は大胡氏の一族とも伝えられています。ただ、この大胡氏も時代が進むにつれて徐々に勢いが衰えていき、大胡氏は上野を追われて江戸・牛込に移動。大胡城はその後、上杉謙信配下の北条高広の支配下に入りますが、この辺りは武田氏・織田氏・後北条氏と目まぐるしく支配勢力が変化していきますので、時代の流れにあわせて大胡城は保たれていったものと思われます。
徳川氏時代には牧野氏が2万石で入城して大胡藩を構えますが、僅か2代で転封となり大胡藩は前橋藩に吸収されて消滅。大胡城もしばらくして廃城になったものと思われます。

遺構は牧野氏時代のものでしょう。本丸・二の丸・近戸曲輪などが良く残されています。特に本丸の空堀や土塁、二の丸の枡形などが見所でしょうか。
余談ですが、大胡氏がその後に拠ったとされる牛込城。所在は新宿区袋町の光照寺近辺とされています。ちょうど今の神楽坂の辺りですね。徳川家康の江戸入りにあわせて廃城になったみたいですが、牛込にお城があったなんて殆どの人が知らないんでしょうね。
せめて見事な石垣が残る牛込見附くらいは知ってほしいものですが・・・。

※動画はまだ作成していません
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↑現地案内。
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↑縄張図が無いので、大胡城各曲輪の配置を簡単に記してみました。記事を見る際の参考にして下さい。 ※13/05/18追加
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↑本丸。累々と連なって残る石積みは、城跡の遺構なんでしょうか?
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↑本丸の土塁上から。土塁の左に見えるのは空堀と二の丸。
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↑上写真にもチラッと見えていますが、二の丸と本丸を繋ぐ土橋と本丸虎口。
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↑二の丸。
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↑二の丸に残る枡形。石垣もポイント高し!
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↑二の丸虎口。現在は立ち入り禁止になっています。
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↑本丸の北側には北城と呼ばれる曲輪がありました。北城は現在、幼稚園が建てられていますが、堀は見事としか言いようのない規模です。
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↑二の丸の西側に残る腰曲輪跡。
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↑最北端の近戸曲輪。現在は大胡神社が建てられていますが、この大胡神社も市の重要文化財に指定されているみたいですね。
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↑近戸曲輪の北側の堀。このあたりまでが遺構なんでしょうかね。堀に降りてみると、お墓がありました。

2012年10月29日 (月)

小泉城 【上野】

場所:群馬県邑楽郡大泉町(地図)
訪問:2011年10月
形態:平城
遺構:曲輪・堀・土塁・櫓台など
指定:町指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★☆☆☆☆☆(5.5点)

【概要】 ※Wikipediaから転載
結城合戦で敗れた結城持朝の息子の持光(後の富岡主税介直光)が後に足利成氏から邑楽郡に所領を与えられて延徳元年(1489年)に建設した富岡城が後に小泉城と呼ばれるようになったと言われている。
その後、富岡一族は古河公方や上杉謙信、後北条氏などの勢力下で活躍し、富岡氏から小泉氏が分かれる。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の関東攻めの際、家臣浅野長政らに攻められて落城し、廃城になった。

公園化されている城跡でありながら、本丸を廻る土塁や水堀など、なかなか雰囲気を楽しめる城跡でした。

※動画はまだ作成していません

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↑縄張図。

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↑城址公園の入口。

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↑本丸を廻る水堀。

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↑本丸虎口。往時も往来は木橋を使用していたんでしょうかね。

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↑本丸。奥に見えるのは櫓台です。

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↑一部残された三の丸の堀。

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↑公園内には古墳や庚申(こうしん)信仰の石仏なども残されています。

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↑北中学校との境にある土塁もどき。