地域 - 山梨

2014年1月25日 (土)

武田氏館(躑躅ヶ崎館) 【山梨】

場所:山梨県甲府市屋形(場所)

訪問:201210月ほか

形態:平城

遺構:曲輪・堀・土塁・枡形・馬出・天守台(未公開)など

指定:国の史跡

駐車:

満足:★★★★★(5.5)

見所:良好に残る遺構

 

武田氏館こと躑躅ヶ崎館は武田信虎が築城した平城で、以降は勝頼が新府城に本拠を移転するまで、甲斐武田3代の居城として使用されていました。

 

甲斐武田氏は清和源氏(河内源氏)の一門で、新羅三郎義光を祖として20代に渡って栄えた名族ですね。武田氏が甲斐国に入国したのは3代目・清光からで、武田の名跡はそれまでに領していた常陸国那珂郡武田郷にて武田冠者を名乗っていたことが始まりとされています。

武田氏からは小笠原氏や南部氏、板垣氏など多くの氏族を輩出し、5代・信光の頃には甲斐守護とあわせて安芸守護を務めるなど順調に勢力を維持していきますが、転機は13代・信満のときに訪れました。

 

関東大乱の初戦ともいえる上杉禅秀の乱が1416年に発生すると、上杉禅秀と縁戚関係にあったときの当主・信満は禅秀方として参戦し敗北。信満は天目山にて自決し、甲斐守護は不在という事態に陥ってしまいます。

こうした混乱は逸見氏や跡部氏など国人衆の台頭を許し、さらには武田氏の内訌なども重なってしばらくは苦難の時代を過ごしますが、18代・信虎によって甲斐国は統一され、武田氏はようやく権威を回復。

このあと19代・信玄、20代・勝頼と続いて甲斐武田氏は大大名へと成長していきますが、そのあたりの話は有名すぎるので、端折りますね。甲斐武田氏は勝頼の自決をもって滅亡してしまいましたが、その血脈は徳川家の旗本などとして存続しており、現代までしっかりと受け継がれています。

 

織田氏による甲州征伐の後、躑躅ヶ崎館には河尻秀隆が甲斐国主として入りますが、同年6月に本能寺の変が発生し、あわせて起こった国人一揆によって河尻秀隆は死亡。続く天正壬午の乱にて甲斐国は徳川領となり、平岩親吉が一条小山城跡に甲府城を築城するまで、躑躅ヶ崎館は甲府支配の中心として使用され続けました。現在残る天守台も、この時代に整備されたものと考えられています。

 

 

城跡は大正時代から武田神社の敷地として使用され、現在は武田氏館跡として国の史跡にも指定されていますね。あと、日本100名城でもあるのかな。

山梨県は何度かドライブに来たことがあるので、武田氏館も過去に何度か訪問したことがあると思うのですが、そのときのことは全く記憶に残っていないです()

武田氏館から北に2kmほどいった場所に、戦時に立て篭もるための要害山城が造られていました。この要害山城の付近にある積翠寺には信玄公産湯の井戸が残されているので、興味ある方はチェック忘れずに。

 

※動画は201210月に撮影・編集してアップロードしたものです。

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↑【武田氏館・周囲の状況】
平城でさほど防御力も無さそうな武田氏館ですが、建てられている場所は山脈の凹地であり、天然の防壁を活かした要地であることが窺い知れると思います。各尾根やポイントには武田氏館を守るための城砦を配置し、また、緊急時にはより要害性の強い詰の城である要害山城に篭城して抵抗できるように造られていました。

武田氏館、十分に要塞ですね。
実はこれと似たような場所をもう一箇所見たことがあります。川中島の海津城(松代城)周辺がそうなんですが、その話は海津城の項にて。

かつては有名な「人は城、人は石垣・・・」の例えと、信玄は甲斐国内に堅固な城を築かなかったという話がごっちゃになった事例を、自分も「いい例えだな~」的な感じで信じていましたが、いろいろ城廻りをしていくうちに明らかな誤認であることが理解できるようになりました。まあ、いい例えだとは変わらず思ってはいますが、そもそもこの発言自体も後世の創作みたいですしね・・・。

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↑【武田氏館の構造】
主郭部は武田神社設営の影響で破壊が一部みられますが、全体的には土塁も含めてよく残されているほうなんだと思います。徳川氏統治時代に整備されたと思われる天守台もあるのですが、神社社務所か何かの裏手に位置しているため、間近で見学することはできなくなっています。これがちょっと残念かな。

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↑【西曲輪・南虎口の枡形】
周囲を取り巻く水堀に目が行きがちですが、武田神社の建つ主郭の隣にある西曲輪の虎口には、明瞭な形で枡形が残されています。直線的で、さらに凹ませる形状の内桝形は面白いですね。あまり他大名の城跡では見たことない形状かも。

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↑【西曲輪・北虎口の土橋と枡形】
深い空堀の影響か、南虎口より雰囲気のある北虎口の枡形。形状的には南虎口と同じで、いつの時代のものかは判りませんが、石垣の痕跡が色濃く残されていました。

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↑【西曲輪】
西曲輪は武田信玄の嫡男である武田義信の結婚に合わせて新造された曲輪であると考えられているみたいです。
内部に残る段差は仕切りとして使用された名残なのか、はたまた後世に改変による影響なのか・・・。

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↑【姫の井戸】
主郭内に残る姫の井戸は、信玄公のご息女誕生の折に産湯に使用したことが名称の由来とされています。
この井戸の脇の施設の裏手に天守台が残されているのですが、そちらに立ち入ることはできないんですよね。残念。

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↑【天守台】
でも西曲輪の土塁上から、うっすらと石垣の存在を確認することができました。主郭内から見るともっと凄い感じみたいなんだけど、今はこれで我慢かな。
周囲の堀の側面も、往時は石垣で覆われていたのかも知れませんね。でも、甲府城の造成や、周囲に作られた段々畑の補強などで、多くは石材として転用されたいったということなのかも。

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↑【整備が進む大手】
主郭東の大手方面は調査が進み、公園として綺麗に整備されていました。
虎口前にはコの字型の石塁が復元されていますが、この石塁の下からは三日月堀が調査によって検出されています。それにしても、なんで改変したんでしょうかね?その理由が何となく気になってしまう・・・。

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↑【梅翁曲輪の堀跡】
西曲輪の南にあった梅翁曲輪。一部消滅してしまっていますが、面影はしっかり。

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↑【武田二十四将の館跡】
この武田氏館を中心として、市内には有名な武田二十四将の館跡とされる場所が、地図つきで案内として展示されていました。周囲を歩いてみると、ちらほらと各所に武将を紹介する案内が。

観光ネタ頑張ってるなと思いつつ武田氏館の散策も終了し、最後は記念に宝物殿を見学。ちょっと冊子などを買い物をしたついでに、この二十四将館について「パンフか何かあるんですか?」と尋ねてみたところ、主殿そばの社務所で聞いてみるとよいですよと教えてくれたので、ちょっと確認しに社務所でお伺いしてみたんですよ。
そうしたら露骨に面倒くさそうな表情をしながら、「そんなものはない。だいたい二十四将の館跡なんて何も根拠がないんだから、そんなこと意味ないでしょ。あんた馬鹿なの?」てきな感じで、はき捨てるように言われてしまいました。

出先でできるだけ揉め事起こしたくないですからね。笑顔で「そうですか~^^」って返事しましたけど、久々にちょっと切れそうになっちゃったかな。”観光のためとはいえ、勝手にこんなもの決めやがって。住民も迷惑してるんだぞ。”とか、いろいろ事情あるのかもしれんですけど、その態度はちょっといただけないっすよ。いや、マジで。

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↑【付近から見る要害山城】
武田氏館からでも、詰の城であった要害山城の姿を確認することができます。距離は2kmくらいだと思うんですけど、登城口に着くまでも緩やかな傾斜を登っていく感じになるので、徒歩だと意外と大変かも知れないですね。

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↑【積翠寺・信玄公産湯の井戸】
1521年、駿河・今川氏の家臣である福島正成が甲斐国に侵攻して来ます。初戦における福島勢の勢い侮りがたく、信虎はそのとき晴信(武田信玄)を身篭っていた大井夫人を万が一に備え、要害山城へ退避するよう命じました。その滞留中に晴信が生まれたため、この積翠寺の井戸は産湯に使用されたと今に伝えられています。

井戸は本殿の裏手にあるので、ちょっと場所が判りづらいかもしれませんね。よくよく見ると案内があるのですが、初回訪問時は時間がないと焦っていた事もあり、見つけることができませんでした。

ちなみに福島正成は「ふくしま」ではなく、「くしま」と読みます。後北条氏家中で黄八幡として知られる北条綱成の父親だと伝えられている人物ですね。昔、高城(たかぎ)と書いて、「たき」と読む方もいらっしゃいました。
漢字の読み方は本当に難しいですよね。日本語をある程度使いこなせる外国人を、自分は本当に尊敬しています。あれ?なんか話が城から逸れてきた・・・。

2012年10月 8日 (月)

都留勝山城 【甲斐】

場所:山梨県都留市川棚(地図)
訪問:2012年10月
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・土橋・石垣など
指定:県指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.0点)
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【概要】 ※Wikipediaから転載
戦国期に甲斐国では甲府盆地において守護武田氏と有力国衆・後北条氏ら対外勢力との抗争で乱国状態となり、郡内において台頭した小山田氏も武田氏と抗争している。小山田氏は明応年間には活動が見られ、大永7年(1527年)には中津森館を本拠としていることが確認される。
小山田信有(越中守信有)期には武田氏に臣従し家臣団となり、天文元年(1532年)には火災による焼失を機に居館を谷村館へ移転し、新城下町を形成している(『勝山記』)。谷村の城下町形成に伴い、勝山城は岩殿城に代わる詰城として整備されたと考えられているが、考古・文献両面からは確認されていない。
天文13年(1544年)には武田氏は後北条氏と甲相同盟を結び、小山田氏は後北条氏との取次を務める。さらに武田と駿河今川氏、後北条氏と今川氏も相互に同盟を結び郡内は政治的に安定するが、信玄後期の永禄11年から元亀3年の間、勝頼期の天正6年(1578年)以降には甲相同盟が解消され郡内も政治的緊張状態にあったと考えられている。
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による甲斐侵攻では武田氏は滅亡し、小山田氏は織田氏に臣従するが粛清され滅亡する。さらに同年6月の本能寺の変において甲斐・郡内を含む武田遺領が空域化すると徳川氏、相模後北条氏、越後国上杉氏の三者で遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。
谷村は一時後北条氏により占拠されており、この際に勝山城も改修を受けている可能性が考えられている。甲斐一国を徳川氏が領すると郡内には徳川家臣の鳥居氏が入り勝山城は要害として利用されたと考えられているが、文禄3年には浅野氏家老の浅野氏重が入り、このときに勝山城跡に所在していた八幡神社が現在地に移転されたとされ、浅野氏時代に縄張りが行われたと考えられている。
谷村館や勝山城は相模の後北条氏や徳川氏が領し修築を施された。豊臣系大名時代には文禄2年に入部した浅野氏重(左衛門佐)による修築が施されており、『甲斐国志』では勝山城の築城者を氏重としている。
従来は谷村館の詰城はさらに北方にある桂川沿いの岩殿山に築かれた岩殿城(大月市賑岡町岩殿)であると考えられていたが、現在では戦国期の本城と詰城との位置関係から、距離のある岩殿城よりも勝山城が詰城であったと考えられている。

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小山田氏の居館であった都留市の谷村城。その歴史を確認するまでは、自分もてっきり岩殿城が小山田氏の居城だと思っていました。
その谷村城の要害として構えていたのが、都留勝山城。山梨県下で残されている近世城郭というと、甲府城と躑躅ヶ崎館、あとは都留勝山城くらいであり、その面影で一部石垣が残されているのがポイント高いです。
また、都留勝山城は平成17年~平成21年にかけて調査や発掘が行われており、散策後に立ち寄ったミュージアムではそのあたりの話も聞くことが出来ました。
そんなこんなで期待値以上に楽しめた都留勝山城と谷村城。比高差も80mほどですし、そんなに規模は大きくないので、気楽に散策して楽しめますよ。
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↑都留勝山城の周辺map。三方を桂川(相模川)で囲まれた要地です。
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↑その桂川。なかなかの急流です。
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↑登り口。トイレ脇に3台分の駐車スペースが確保してあります。農作業中の方と話をしたら、来訪者は結構多いらしいですよ。
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↑しばらく登ると内堀の表示が。
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↑この内堀、途中に段差があって上下2段に分かれています。横堀内にこのような段差を設けてあるのは珍しいですよね。
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↑川棚見張台。横堀に対して睨みをきかせると同時に木戸であったと思われる場所です。
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↑川棚見張台からさらに登ってくると視界が開け、道は突然九十九折に。見上げるとこんな感じです。
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↑上から見下ろすと判り易いのですが、くどいまでの横矢掛りというか、登城してくると徹底的に頭上から狙われます。
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↑さらに本丸から見下ろしたところ。見晴らしが良いというか、どこまでも筒抜けですね。このあたりの構造は見応えがありました。
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↑本丸。お社の周りには土塁と櫓台が残されています。
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↑本丸の北東側壁面に残る石垣の跡。ここが現在目視できる最大規模の石塁ですが、他にも何箇所か石塁を確認できますよ。
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↑現地の案内(縄張)には大沢見張台と呼称されていた、北尾根郭に続く土橋と竪堀。このあたりは古勝山城の面影を色濃く残す場所と考えられています。
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↑また、この北尾根には茶壷を保管する施設があったと伝えられていた場所で、郭のひとつからは建物跡も発見されました。なぜ茶壷を保管したのか、そのあたりは『御茶壷道中』で調べて見て下さい。
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↑二の丸から本丸虎口へむかう道跡だったと思われる二の丸に残された土壇。今はショートカットされたルートが本丸まで続いていますが、『甲斐国谷村城図』を見るとあきらかに違いがわかります。
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↑同様のことが登城道にもいえるみたいですね。3つの登城口の存在が判明していますが、道筋は完全に解明されていません。
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↑ミュージアム都留には模型や資料が展示してありました。また、ここで販売されている『勝山城跡』(\2,400)はなかなか良かったです。
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↑谷村城は市街地化という歴史の波に飲まれてしまいましたが、この水路は往時の面影を残す貴重な施設です。なんでも桂川は地形が厳しすぎて、生活用水として使用するには向かなかったため、桂川では無く別の水源から生活用水を確保していたんだとか。その水路が今も残っているということなんですね。

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動画ではもう少し詳細をまとめられると思います。次は躑躅ヶ崎を編集しようかと思っていたんですけど、都留勝山城の編集からやってみようかな。