地域 - 栃木

2014年1月13日 (月)

壬生城 【下野】 

場所:栃木県下都賀郡壬生町本丸(場所)

訪問:201312

形態:平城

遺構:一部の本丸堀と土塁・移築門(未確認)

指定:なし

駐車:

満足:★★★(3.0)

見所:歴史的に気になるのであれば・・・

 

壬生城は壬生氏2代目当主・壬生綱重によって築城されたと伝えられています。

 

壬生氏は初代・壬生胤業のときに宇都宮氏に勤め、戦国末まで5代続く壬生氏の礎を築きました。2代・壬生綱重は宇都宮氏の命で鹿沼氏を攻略し、鹿沼城に拠点を移しました。壬生城には嫡男で後に3代目となる壬生綱房を配置していたみたいです。

1512年に宇都宮成綱と芳賀高勝にの対立によって発生した宇都宮錯乱でも、綱重は宇都宮成綱に加勢して乱の鎮圧に協力し、宇都宮家中における壬生氏の権限を徐々に強めていきました。

 

3代目・壬生綱房はさらなる権限強化に努め、宇都宮家の宿老として芳賀氏・益子氏に次ぐ勢力にまで発展していました。

1549年、宇都宮尚綱が那須氏討伐に出陣して戦死すると、綱房はその混乱に乗じて宇都宮城を占拠するという行動にでます。那須氏とは和議を結び、壬生城には嫡男の壬生綱重を配し、居城の鹿沼城は弟の壬生周長(徳雪斎)に任せました。綱房は宇都宮氏家中をほぼ掌握し、敵対するのは真岡城に幼少の宇都宮広綱を匿う芳賀高定だけとなります。

ただ、この芳賀高定はなかなか手ごわい人物で、まずは尚綱の仇である那須烏山城主・那須高資を千本城にて誘殺させ、続いて綱房と共に宇都宮城を管理していた芳賀高照を殺害。それから間もなくして綱房も急死することから、この綱房の死も芳賀高定の謀略と言われることもあるみたいですね。

 

宇都宮城は跡を継いだ4代目・壬生綱雄が管理しますが、佐竹義昭に宇都宮城奪還の援軍を要請してその助力を得た芳賀高定によって、1557年に奪い返されました。

自身は鹿沼城へ退却し、壬生城は子の壬生義雄に任せますが、後北条氏の勢力拡大を助力に宇都宮氏からの独立を模索する綱雄と、その叔父であくまで宇都宮氏との共存を考える壬生周長(徳雪斎)が対立し、綱雄は1576年に壬生周長と芳賀高定の謀略によって鹿沼城の天満宮で暗殺されてしまいます。

 

鹿沼城を掌握した壬生周長(徳雪斎)は、勢いに乗って5代目・壬生義雄が治める壬生城に攻め寄せますが、壬生周長(徳雪斎)は義雄によって逆に討ち取られてしまいました。

義雄は後北条氏と結んで宇都宮氏と抗争を繰り広げ、秀吉の小田原征伐の際は小田原城に篭城して戦いました。ただ、小田原開城直後に義雄は病死してしまい、義雄に子がなかったため壬生氏は断絶とされてしまいました。

 

壬生氏が滅んだ後も壬生城は壬生藩の藩庁として使用され続け、最後は鳥居家が藩主を務める中で幕末を迎えました。戊辰戦争では宇都宮城を占拠した幕府軍に対する官軍の攻略拠点としても使用されています。

 

 

宇都宮氏・芳賀氏・壬生氏は何か歴史が複雑ですよね。何となく芳賀氏より知名度が劣っていそうなんだけど、戦国後期は下野南部で大きな勢力を築いていた壬生氏なので、ちょっと壬生氏のまとめ的な感じで壬生城の項は作成して見ました。鹿沼城を訪問してブログをあげるとすると、歴史紹介はこれとほぼ同じ内容になっちゃうのかな()

 

遺構の多くは早くに消滅してしまったみたいで、1948年時点で確認できる本丸堀も、1960年になると現在の範囲にまで縮小されてしまっています。絵図を見ると見事な丸馬出が描かれているのですが、だいたいの場所の目処はついたとしても、痕跡が残されていたようにはみえずといった感じ。

 

規模も小さいですし整備され過ぎてて味気ないですけど、周辺を散策したついでに立ち寄るくらいは十分にいけるんじゃないかと。壬生氏の重要拠点だった場所ですし、資料館もありますからね。

 

※動画の作成予定はありません

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↑日本古城絵図の壬生城図。大手には立派な丸馬出が存在していました。

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↑ただ、現在は本丸堀の一部が残るのみ。

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↑その堀も公園化によって、かなりいじられてしまいました。現地案内で改修前の堀の様子が紹介されていますが、これを見ると以前は空堀だったみたいですね。

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↑内側から見る土塁。
壬生城は、日光社参の復路の宿泊所として、宇都宮城の代わりに使用されることもあったみたいなんですよね。
ということは、本丸には将軍が宿泊するための本丸御殿が建てられていたのでしょう。

同じように宿泊所として使用されていた宇都宮城古河城は、将軍が城内に入る際に通る御成門や御成道沿いには、将軍家への配慮のためなのか石垣が用いられていました。
岩槻城は主要部が消滅しているのでよく判りませんが、この壬生城はどうだったんでしょうね。古城絵図からは、石垣の存在を確認することはできませんが。

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↑道路沿いの二の丸虎口だったあたりには、立派な門が復元(?)されていました。

市の公共施設に併設する、のどかな町の公園といった感じの場所です。城跡という先入観をもたないで訪れていたら、自分ももしかしたら城址公園だとは気付かないかも。

 

2014年1月10日 (金)

羽生田城 【下野】

場所:栃木県下都賀郡壬生町羽生田(場所)

訪問:201312

形態:平山城

遺構:横堀・土塁・櫓台状の張出など

指定:町指定史跡

駐車:なし

満足:★★★★★★(6.0)

見所:残された遺構は一部だけだが、三郭の堀の規模は迫力あってお勧め

 

羽生田城は壬生城の支城として、壬生氏2代目当主の壬生綱重によって築かれました。壬生綱重は宇都宮氏の命令で鹿沼城の鹿沼氏を攻略しますが、鹿沼城と壬生城の中継基地として羽生田城は機能していたみたいです。

 

壬生氏最後の当主となる5代目・壬生義雄の代の頃には、藤倉勘斉という人物の居城として使われていたみたいですね。

1590年の小田原征伐の直後に、小田原城で壬生義雄は急死してしまいました。世継ぎがいなかったため壬生氏は断絶となり、壬生氏は滅びました。壬生氏の滅亡にあわせて、羽生田城も廃城となります。

 

 

黒川に隣接する舌状台地の先端に、お城は築かれていました。東側の低地には大池が存在していたみたいなので、周囲の低地も湿地で天然の堀を形成していたことでしょう。

で、唯一の弱点である台地続きカバーするために、主郭を囲むように巨大な堀が四重に設けられていたみたいですね。

今は一部の遺構が残されているに過ぎませんが、確認できる三郭の堀や土塁は規模が凄いので、訪問して損は無いと思います。完存していれば相当凄かったんでしょうけれどね。こればっかりは言っても仕方ない・・・。

 

余談ですが、台地続きの北側には無数の古墳群が存在しています。中でも茶臼山古墳は国指定史跡だったりするので、ついでに見てまわると良いのかも。

 

※動画はまだ作成していません

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↑【立地】
西に黒川の流れる台地の先端に羽生田城は築かれていました。この台地上には前方後円墳がいくつも点在しているので、ついでに見てまわるのも悪くないかも。

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↑【簡単な羽生田城の概略図】
台地上とはいっても、台地自体は広大な平地です。そこで羽生田城は、広大な四重の堀によって守られていたみたいですね。そのまま残されているようだと、かなり見応えのある城址になったんじゃないかと思うのですが・・・。

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↑【明神宮と城址の標柱】
ここが城址であることを唯一示す標柱。

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↑【三郭の堀】
残されている遺構はたしかに一部ではあるんですけど、堀の規模が巨大なので、なかなか侮れない城跡です。

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↑【畝?】
堀底には間隔をあけながら、畝っぽい高まりがいくつか残されていました。堆積物の関係でこうなっただけなのか、それとも畝なのか・・・。

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↑【土塁】
堀だけでなく、土塁もしっかり残されています。

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↑【比高二重土塁?】
堀の反対側に登ると、そちらでも土塁の存在を確認することができました。となると、飛山城・犬飼城と続いて、羽生田城も比高二重土塁だったってこと!?

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↑台地下は大池と呼ばれていたみたいで、今でもその名残なのか、このような案内が設置されていました。


折り悪く、小学校の目の前の道路が工事の真っ最中。周囲の道路も通行止めになっていたので全く遺構の確認は行えないかと心配したんですけど、作業員に話しかけてみると奥へ歩いて向かうのは問題ないですよとのこと。
今回確認した堀以外にも、本当は歓喜院の周囲もついでに見てまわりたかったのですが、何か目が気になったので、そちらの確認は止めておきました。まあ、本命は確認できたのだから、良しとしなくては。

 

2014年1月 7日 (火)

茂呂城 【下野】

場所:栃木県鹿沼市茂呂(場所)

訪問:201312

形態:平山城

遺構:横堀・土塁(未確認)

指定:なし

駐車:なし

満足:(1.5)

見所:残された台地から面影を偲ぶ

 

茂呂城は鹿沼城の壬生氏に対する備えとして、宇都宮国綱が築いたとされるみたいです。宇都宮氏家臣の市田備中守という人物が、茂呂城の城主を任されていました。

宇都宮国綱の代の頃の壬生氏は本拠を壬生城から鹿沼城に移していたので、この茂呂城もかなり重要な役割を果たしていたのでしょうね。宇都宮国綱は、もう多気山城に本拠を移し終わった後の話なんでしょうか。

 

 

城址は民家のすぐ裏手にあります。あまり近づくのが躊躇われたので、遺構の確認はできていません。城址に住まわれているのはやはり城主の御子孫みたいで、ちょっとお話を伺っておけばよかったかなぁ(作業の邪魔をしてしまう感じがして、今回は何か躊躇してしまった・・・)

 

でも、別の方にはお話を伺ってるんですよね。お聞きしたことを要約すると・・・

・このあたりが城跡だなんて初耳(4代以上前から付近に住まわれているみたいなので、それなりに古いです)

・耕作地や家の移動はあったけど、土塁などは子供の頃から確認していない

・南側の耕作地は、40年くらい前までは腰までつかるくらいの泥田だった

・城址のお宅は付近では御大臣と呼ばれている

と、こんな感じです。

 

今からは想像もつきませんが、往時は泥田堀に囲まれる突出台地で、なかなかの要害だったのかもしれませんね。御子孫にお話を伺えなかったのが心残りですが、地形で往時を偲べるだけ良しとしなくては。

 

【このお城の歴史に関して参考にさせていただいたサイト】

余湖くんのお城のページ栃木の城+α春の夜の夢

 

※動画の作成予定はありません

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↑あまり城址だった面影は残されていませんが、残されている地形から、泥沼に囲まれている突出台地に茂呂城は構えられていたんじゃないかと思いました。

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↑城址は現在は個人宅になっています。ちょっと盛土でもされているのか、周囲よりも若干高い。
林の中に僅かに堀と土塁が残されているみたいですが、確認はしていません。

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↑特殊な遺構という感じでも無さそうだし、周囲の状況から往時の雰囲気がわかれば、今回は十分かな。

 

2014年1月 3日 (金)

犬飼城 【下野】 

場所:栃木県宇都宮市上欠町(場所)

訪問:201312

形態:平山城

遺構:曲輪・横堀・土塁(比高二重土塁もあり)・櫓台状の張出・土橋・井戸跡など

指定:不明

駐車:なし ※城址西側に架かる橋のたもとに駐車しました

満足:★★★★★★★(7.5)

見所:迫力ある遺構の残る良城跡

 

犬飼城は1379年に小山義政によって築城されたとの伝承が残されているみたいですね。時代で考えると南北朝時代の後期、そして築城者とされる小山義政は「小山義政の乱」で有名(?)な人物です。

このときの小山氏はまさに全盛期を迎えていましたが、関東屈指の勢力となっていた小山氏はだんだんと鎌倉公方・足利氏満から警戒され、その構図は対立へと繋がっていきます。公方は宇都宮氏に対して小山氏の討伐を命じ、宇都宮氏はこれに従って小山氏領への侵攻を行いますが、逆に敗れて宇都宮氏の当主・宇都宮基綱は討ち死にしてしまいました。これが1380年のことなので、こういった緊張状態の中で築城されたお城と考えておけば良いのではないでしょうか。

 

その後しばらくの犬飼城の状況はわかりませんが、戦国時代も後期の1573年には犬飼康吉なる人物が城主を務めていて、このときに宇都宮氏に攻められて落城したという伝承も残されているみたいです。

 

ちなみにこの犬飼康吉なる人物。いったいどの勢力に所属していたのでしょうかね?南北朝の頃に犬飼城を管理していた小山氏は「小山義政の乱」以降の衰退が凄まじく、戦国時代の頃に当地を領有していたとは考えづらい。寄せ手の宇都宮氏を外して考えると、近くで思いつくのは西方氏か壬生氏ということになりますが、勢力の大きさからして、恐らくは壬生氏ということになるのでしょう。

この時代の壬生氏は本拠の鹿沼城で後北条氏の助勢を得て宇都宮氏からの独立を模索する当主・壬生綱雄と、綱雄の叔父であくまで宇都宮氏への従属姿勢を貫く壬生周長(徳雪斎)とで対立していました。

そういった背景から推察するに、宇都宮氏の犬飼城攻めは宇都宮氏による壬生周長(徳雪斎)一派への援助的な意味合いがあったのかも知れませんね。

周辺諸城の当時の歴史を調べてみないと何とも言えませんが。

 

「関東の名城を歩く」にも項目はあるのですが、見開きのみで縄張りの掲載も無しと扱いが小さいこともあって、訪問前はもっと簡易に見学できるお城と油断してしまいました。

全体的に藪が多めなものの、主要部と思われる遺構が非常に良好な状態で残されていて、ちょっとあっけにとられることしばし。非常に管理されている飛山城の次だったので、なおのことというのもあるかとは思いますがね()。藪密集地帯や北西の横堀は見学していなかったんですけど、ネットにはなかなか良好な縄張り図がアップされていたんですね。それにて不明点を補足しながら、鳥瞰図は描いてみました。

 

 

ニコニコ動画バージョンもあります

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↑【立地】
犬飼城は川に挟まれた舌状台地の先端に構えられていました。まさに要害ですね。
根古屋台遺跡の存在から察するに、古代からある程度栄えてきた場所なんでしょう。

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↑【簡単な鳥瞰図と概略図】
遺構はとても良い状態で繁みの中に残されています。横堀の使い方にちょっと特徴があるのかな。

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↑【外堀】
あくまで現在確認できる中で、一番外に位置している南側の横堀です。東側の集落で用水路のような溝が見られたんですけど、もしかしたらその用水路も外堀の名残なんでしょうか?

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↑【主郭南側の横堀】
南側の横堀は全体的に比高二重土塁になっています。戦国後期に後北条氏の手が加わってということなのか、それとも・・・。

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↑【主郭】
内部の2/3くらいは藪が占拠していますが、外周は藪が少なめで歩き易いのが救いですね。意外と訪問者が多いのか、はたまたどなたかのご好意で整備していただけているのか。

虎口と思われる土橋が西と北に残されているのですが、明瞭な西の土橋に対して、北の土橋は若干高さが浅く、もしかしたら往時は橋脚台か何かだったりしたのかも知れません。
北の土橋の写真は藪で不明瞭だったので、掲載は止めました。動画には映っているので、まあいいかななんて。

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↑【大手虎口(推定)】
台地続きの北側に、大手があったものと推察されます。
耕作地との境に虎口っぽい場所が残されていたんですけど、伐採された樹木が土塁周辺に大量においてあって、現地ではこれが土塁なのかよく判らなかった・・・。
現在、土塁の前には何もありませんが、周囲に残る横堀の状態から、往時は土塁の正面にも堀が存在していたものと思われます。

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↑【主郭張り出し正面の細道】
大手から侵入してきた敵と、横堀を通ってくる敵が合流する、交差点のような場所のように感じました。
このあたりも面白い構造になっているんですけど、写真では状態を伝えられませんね。

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↑写真で伝えようとすると、何がなんだか判らない場所が多いですね。埋もれる程の藪といった場所は限られているんですけど、それでも藪は少なくないので、多少の藪耐性が無いときついかも。

 

2013年12月27日 (金)

飛山城 【下野】

場所:栃木県宇都宮市竹下町(場所)

訪問:201312

形態:平山城

遺構:曲輪・横堀・土塁(比高二重土塁)・櫓台・馬出・土橋・諸々の復元建築物など

指定:国の史跡

駐車:

満足:★★★★★★(6.5)

見所:良好に残されている縄張り、公園としても◎。同慶寺の芳賀氏累代の墓碑も容チェック。

 

飛山城は鎌倉時代末期(12931298)に芳賀高俊によって築城されたと伝えられています。芳賀氏(清原氏)は益子氏(紀氏)とともに紀清両党と呼ばれる宇都宮氏重臣で、御前城を居城としていました。

 

南北朝時代になると、関東で南朝方の勢力拡大を図るため、北畠親房が常陸・小田城に入ります。北畠親房は北朝方の姿勢をとる宇都宮氏攻めを幕僚の春日顕国に命じ、春日顕国は益子氏の八木岡城・益子城・西明寺城・上三川城・箕輪城などを攻略し、さらには飛山城も攻め落としました。

北畠親房はこうして常陸西部を中心に南朝方の拠点を築き上げますが、北朝が高師冬を関東に派遣すると南朝方は徐々に劣勢に追い込まれていくことになります。

 

1549年、古河公方の要請を受けて那須氏の討伐に出陣した宇都宮尚綱ですが、敗戦して尚綱は討ち死にしてしまいます。跡継ぎの宇都宮広綱が幼少だったため、この混乱に乗じた壬生綱房によって宇都宮城は占拠されてしまい、宇都宮広綱は芳賀氏の居城である真岡城に匿われました。

芳賀氏当主・芳賀高定は1551年に尚綱を打ち破った那須烏山城主・那須高資を千本城にて謀殺し、さらには佐竹義昭に宇都宮城奪還のための援軍を要請。宇都宮城は壬生綱房の急死によって壬生氏を継いだ壬生綱雄が治めていましたが、こうして宇都宮城の奪還を成功させます。

なお、このときの奪還作戦に援軍として参加していた佐竹義昭は、飛山城に駐屯していたみたいですね。宇都宮城に近い飛山城は、前線基地として有用だったのでしょう。

 

1590年、小田原征伐で後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、宇都宮城で宇都宮仕置きを行います。こうして飛山城は破却され、廃城となりました。

 

 

鬼怒川に隣接する広大な舌状台地に築かれていて、その様子は南側というよりも北側から見たほうが、より迫力をもって確認できるとお思います。ただ、鬼怒川の急流に常時さらされてきたこの台地は崩落が繰り返されてきたものと思われ、近年の3.11地震でも大きな崩落があったのだとか。

国の史跡ということもあって、補強および修復作業が行われていました。

 

全体的に遺構はよく残されていて、北半分はちょっと綺麗過ぎと思えるくらい整備が進んでいます。手付かず感を求めるのであれば、南側に残る空堀や櫓台などが、趣きがあって良い感じ。

復元建物も数棟ありますし、資料館も併設、案内もお願いすればつけてくれるという至れり尽くせりの城址だと思います。

 

900前に訪問すると、資料館は当然のこととして、飛山城の入り口に復元されている門も閉ざされてしまっています。まあ、門を抜けなくても公園内には入れますけどね。地元の方々も普通に園内を散歩されているし。

そういったことが気になる方は、若干の注意が必要かも知れません。

 

※動画はまだ作成していません

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↑【周辺の地形】
飛山城は鬼怒川沿いの舌状台地の先端に築かれていました。耕作地となっている周囲の低地は、やはり湿地的な感じだったのでしょうか。

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↑【簡単な飛山城の概略図】
破城の影響なのか、5号堀を除く全ての堀に土塁を崩して堀を埋め立てた形跡がみつかったらしいです。そのうち2号堀・4号堀と6号堀の一部が整備・復元されました。

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↑【大手】
資料館のそばにある入口。往時もここが大手だったと考えられているみたいです。このあたりの6号堀は綺麗に整備され、発見された木橋も復元されました。
なぜここが大手と想定されたのかというと、構えが厳重だからなんでしょうね。まずはこの曲輪Ⅶの虎口。ここは左右に備えられた櫓台状の張り出しが、しっかりと虎口を監視しています。

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↑【馬出】
さきほどの虎口を突破しても、今度は馬出が侵攻を遮ります。

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↑【5号堀の土橋と曲輪Ⅵの虎口】
馬出の内側は5号堀の土橋と、曲輪Ⅵの虎口が待ち構えています。

現在は南側の遊歩道からも城内に入れますが、5号堀には土橋があるものの、外の6号堀には土橋は設けられていませんでした。調査がどこまで実施されているのか判らないのであれですが、6号堀で確認されている虎口はここだけだから大手とされている可能性もあるのかな~なんて。

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↑あと、ここでふと思ったのが、なんで虎口の内側に馬出なんだろうということ。先程、"厳重な構え"と言っておいてなんなんですが、防御のことを考えると、曲輪Ⅵ虎口の外に馬出を設置するんじゃなくて、曲輪Ⅶ虎口の内側に枡形を設置したほうが、より効果的なのかななんて思ってしまったり・・・。

あと、この馬出は現地案内には枡形と表記されていました。
専門家で無いのでよく判らない部分もあるんですけど、個人的には土橋の先に設けられた、堀や土塁で囲われている空間は馬出と呼んで、虎口に隣接した状態の空間は内外問わず枡形と呼ぶようにしています。
ついでにいうと、食い違い虎口から防御用に発展したのが枡形であり、出撃用に発展したのが馬出という認識ですかね。
そういったことで、当ブログでは該当箇所を馬出と説明されていただきました。言葉狩りとかいうことでは決して無いので、あしからずです。正直、自分は専門用語や業界用語といったものは、あまり好きなほうじゃないタチなので。

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↑【5号堀】
6号堀と違って5号堀は未整備なのか、臨場感たっぷりで保存されています。

この飛山城で気になったのが、全般的に比高二重土塁になっている箇所が多いということですかね。写真だとわかりづらいかもしれませんが、明らかに造りは比高二重土塁と呼んでよさそうなものに仕上がっています。
他に2号堀や4号堀でも比高二重土塁が見られるんですけど、こちらは整備・復元された堀なので、実際どうだったのかはよく判らず。
比高二重土塁、あまり見かける構造では無い様に思うのですが、同日に訪問した犬飼城羽生田城でも、一部で似たような造りになっていました。

比高二重土塁というと後北条氏が有名なんですかね?逆井城では案内つきで比高二重土塁の説明がありましたが、この辺りでも使用される技法だったりしたということなのかな?なんて。
でも、栃木のお城はそう多く訪問していませんが、今までは見かけなかったような気がします。う~ん、何なんだろ。

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↑【趣の残る南側の遺構】
全体的に整備が行き届きすぎてるな~なんて思われる方はこちらへ。南側の5号堀・6号堀は手付かず感が残っていて、なかなか良い雰囲気に浸れるんじゃないかと思います。
西側の壁面は崩落があった影響なのか、壁面の補強作業を行っている真っ最中でした。国の史跡なので、放置する訳にもいかないんだとか。

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↑【復元された建物】
公園内には復元された建物が数棟建てられていて、竪穴建物以外は中に入ることが可能です。中には古代建物なんて異時代のものも。

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↑【4号堀】
4号堀からは畝が検出されていて、その一部がちゃんと復元されています。
虎口は2箇所あるのですが、そのうちの1箇所は折の頂に向かって斜めに入る構造になっていて、こういうにも珍しいな~なんて、いろいろと考えてしまいました。こういった造りもあまり見ない気がするんですけどね。どういった意味があったんだろう。

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↑【曲輪Ⅰおよび曲輪Ⅱ】
曲輪Ⅲの中に残る曲輪Ⅰと曲輪Ⅱ。堀は復元されていません。
今見るとかなり手狭なスペースしかないんですけど、これはどういった使われ方をした曲輪だったんでしょうかね。現地で見たときは、主郭である曲輪Ⅲの内部をちょっと区分けしていただけなのかなと考えていたんですけど、もしかしたら台地が崩落して小さくなっただけで、もっと全然大きい曲輪だったのかもしれませんものね。確認できる昔の航空写真からだとそう大きな違いは見つけられませんでしたが、実際どうだったのかはよく判らず。

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↑【台地脇を流れる鬼怒川】
台地北西側は鬼怒川が直接ぶつかる形になるので、その影響は大きそうですしね。そういえば関宿城でも、本丸が利根川によって削られてしまい、かなり苦労したというような話を確認したような気がします。

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↑【芳賀氏累代の墓碑】
飛山城そばの同慶寺は、芳賀高俊が建立した菩提所なんだとか。真岡を訪問したことはないのですが、菩提所が残されているということは、飛山城は芳賀氏にとって相当重要な拠点だったということを、表しているのではないでしょうか。

なお、往時の同慶寺は飛山城の支城として機能していて、二重堀によって内城と外城に区画されていた城郭だったみたいです。城郭云々は位置的にもさもありなんといった感じではあるんですけど、芳賀氏墓碑の近くに見られた土塁、あれはもしかして遺構だったりしたのかな。もう少しキチンと確認すればよかった・・・。

 

2013年11月 2日 (土)

多気山城 【下野】

場所:栃木県宇都宮市田下町(場所)
訪問:2012年5月
形態:山城
遺構:曲輪・各種空堀・土塁など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.5点)

見所:山全体に張り巡らされた広大な縄張り

多気山城と書いて"たげさんじょう"と呼びます。
一説には宇都宮氏の祖である藤原円心が築いたとも言われているみたいですが、詳細に関しては不明みたいですね。

着実に北関東に勢力を広げてくる後北条氏に対し、宇都宮氏は常陸の佐竹氏や下野の那須氏、下総の結城氏などと共闘して対抗していきますが、後北条氏の攻勢がますます増大する中で、宇都宮氏は平城である宇都宮城から、山城である多気山城に本拠を移転して守りを固めました。

後北条氏が滅亡して宇都宮仕置が終了すると、宇都宮氏は本拠を再び宇都宮城に戻しました。その後の多気山城の処遇に関しては、よく判りません。

多毛山という山全体に曲輪や堀を配置した、かなり広大な山城です。周囲を巡る林道を歩いてみると、なおのことその大きさを実感できると思います。
ハイキングコースも設置されていますし、周辺の方々は気軽にハイキングを楽しんでいるみたいですね。登るのは意外と大変ではないのですが、全体を見てまわろうとすると結構な時間を要するので、時間配分は慎重に。



周辺は大谷石と呼ばれる石材の産地だそうで、古くから採石が行われてきたそうです。大谷石は重量が軽いのが特徴なので、そのことが逆に仇となって、3.11の際には多くの石塀が崩れて大変だったと仰ってました。
採掘方法にも特徴があるらしく、大谷資料館にいけば地下採掘場が公開されているのだとか。面白そうなので、そのうちに訪問してみたいですね。間違えて山本園大谷グランドセンターを訪問したりしないようにしなければ。

※動画は2012年5月に撮影・編集してアップロードしたものです。
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↑戦国後期、後北条氏の圧力が強まるなかで、宇都宮氏は居城を平城の宇都宮城から、山城の多気山城へと移しました。

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↑【東からの遠視】
多気山城は宇都宮氏の本拠として使用する際に改修されたのか、非常に広大な縄張りをもつ城跡です。山麓には大きな横堀を配し、ほぼ全山に曲輪跡などの遺構が残されています。

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↑【山麓の長大な横堀】
駐車場に車を停めて歩いてくると、まず目に付くのがこの山麓に設けられた横堀です。タイミングが悪く、整備作業の最中だったのか、伐採された木材で堀が埋まっていて、いまいち良い写真が残されていない・・・

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↑【南東方面の尾根に設けられた曲輪群】
ハイキングコースに沿いに山頂を目指すと確認できる、南東尾根に設けられた曲輪群。山城の割には大きな面積の曲輪が多く、ここに集落が形成されていたといってもおかしくないのかなと、思わず思ってしまいました。

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↑【整備最中の主郭周辺】
主郭の周辺は樹木が綺麗に伐採され、整備が進められている真っ最中でした。この整備事業は2011年から開始されたものらいしいのですが、今年(2013年)もさらに進行しているのかも知れませんね。

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↑【恐らく虎口跡だと思われる箇所】
綺麗に伐採された台地と、上空からの強烈な太陽光が反射して、微妙な凹凸などの確認がしづらかったです。
ここは、恐らく両脇を土塁に挟まれた虎口だったであろうと感じた場所。普通に写真で見てもさっぱり判らないのですが、線画を注入すると、何となく理解してもらえるかな?

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↑【主郭からの風景】
現況を見ただけだと、ちょっと整備しすぎな感が否めない状況ですが、新木が成長してくると、かなりイメージが変わってくるんでしょうかね。

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↑【主郭】
仕切り土塁や帯曲輪まで配置されている、広大な主郭。御殿跡とも呼ばれているみたいですが、確かになんて納得してしまいます。
比較的薮に覆われいる場所が多いので、ハイキング目当ての人達は、あまりこちらまで立ち入らないみたいですね。

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↑【北尾根】
主郭の北側に続く尾根にも複数の曲輪が残されているみたいなのですが、なにぶん道以外は猛烈な薮なので、構造などは殆ど確認できませんでした。
ところどころに土塁も散見できるし、曲輪も結構残されていそうなんだけど。
このルートをつかって林道まで降りてみましたが、急な箇所が多くて搦め手といった雰囲気でした。林道間近では虎口というか旧道っぽい場所も残されていたんですけど、崩落してる感じだったので、確認は途中で断念。

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↑【主郭の南虎口】
大手口だったのではないかと思われる、主郭の南虎口。
主郭直下の帯曲輪を歩いてくると、枡形状の空間と、主郭に通じる坂虎口が今も残されています。この坂虎口に設置されていたのが櫓門だったりなんかすると、非常に格好いいんですけどね。
整備されたのが戦国も後期ですし、これだけの規模を誇る山城です。西方城もなかなか技巧的な城跡でしたし、これくらいの施設がここに設けられていたとしても、おかしくない様な気がしてしまいます。

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↑【南東尾根と南尾根に挟まれた谷戸】
整備に使用する重機を山頂付近に上げるルートとして、この谷戸が使用されていました。林道からここまで、重機が作成した道がくっきり。初訪問だったのでよく存じ上げないんですけど、このルートには遺構はそんなに残されていなかったのだろうかと、ちょっと心配になるレベルの破壊度でしたが・・・。

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↑多気山城の南側近辺、林道沿いで見かけた削平地っぽい場所と石積み。


このときはいろいろタイムロスをしてしまって、主郭南側の尾根や、南西側などを確認できていません。その後の整備状況も気になるし、今シーズンも訪問してみるつもりです。
続けて報告できると良いですね。

2013年10月30日 (水)

宇都宮城 【下野】

場所:栃木県宇都宮市本丸町(場所)
訪問:2012年5月
形態:平城
遺構:土塁の一部 ほかに復元された堀や隅櫓など
指定:特になし
駐車:有
満足:★★★(3.5点)

見所:復元された隅櫓の景観や展示してある各種資料

宇都宮城は、宇都宮氏の祖である藤原円心が当地に館を築いたことが始まりであるとされています。
享徳の乱(1455-1483年)の最中に当主に就いた17代・宇都宮成綱の時代に宇都宮氏は全盛期を迎えますが、18代・忠綱や19代・興綱の代に変わると芳賀氏や壬生氏など家臣団の力が台頭し、宇都宮氏の権勢は急速に衰えていくことになりました。

16世紀も中頃になると、武蔵国まで勢力を伸ばしてきた後北条氏の影響力が北関東にも及んできます。後北条氏よりの政策をとる小山氏-結城氏に対して、宇都宮氏は佐竹氏や那須氏、小田氏などと組んで牽制を行いますが、河越夜戦(1546年)で古河公方・足利晴氏や管領上杉家が大敗すると、ますますもって後北条氏の圧力は増大し、戦国後期には居城を宇都宮城から山城の多気山城に移転させたりして、何とか勢力を維持させました。

宇都宮氏は秀吉による宇都宮仕置の後に本拠を宇都宮城に戻し、文禄の役(1592年)では朝鮮に出兵して戦功も上げますが、1597年に太閤検地の石高申告に偽りがあったとの理由で、突如改易とされてしまいました。

宇都宮氏改易後の宇都宮城には会津から転封の処分を受けた蒲生秀行が18万石で入り、江戸時代は宇都宮藩の藩庁として栄えました。近世城郭としての宇都宮城は本多正純の時代にほぼ整備が終了したと考えられているみたいです。

戊辰戦争の際に宇都宮藩は新政府軍についたため、土方歳三や大鳥圭介が率いる旧幕府軍の攻撃を受け、宇都宮城は落城。その後、新政府の救援軍によって宇都宮城は奪還されますが、この宇都宮戦争(1868年)によって城内の建物も藩校など一部を除き、すべて消失してしまいました。


明治になると城郭一帯が民間に払い下げられ、殆どの遺構は市街地化によって消滅してしまっています。本丸がおかれていた一角に水堀や土塁、櫓などが復元されていますが、遺構自体が少ないのであまり期待をして訪問すると、ちょっと拍子抜けしてしまうかもしれません。
古地図などを頼りに周囲を散策すると、多少は往時の面影を感じることができのかも!?

※動画はまだ作成していません
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↑日本古城絵図の宇都宮城絵図。田川に面した平城で大手口には丸馬出を配し、虎口周りを中心に一部では石垣が使用されていました。
市街地化によって遺構の大半は消滅してしまいましたが、現在は本丸の一部が復元されて城址公園として開放されています。

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↑復元・整備された水堀と土塁、そして富士見櫓。正面から見るとなかなか見ごたえがあるのですが・・・

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↑裏から見るとあまりにも整備されすぎていて、風情というものが全く感じられません。櫓の復元にはこだわりを感じますし、それなりに費用をかけて整備を行ったんでしょうけど、ちょっと担当者のセンスがずれているというか勿体無いですよね。

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↑安全を優先させるにしても、もっとやり方があっただろうに。
城址の復元を行っている自治体は数多くあります。参考になる城址は、いっぱいあったのではないかと思いますが・・・

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↑古河城がそうでしたが、この宇都宮城も日光社参の際には宿泊所として使用されていて、本丸には将軍の宿泊所である御成御殿が建てられていました。
このあたりには清水門と呼ばれる枡形門が設置されていて、将軍派その清水門を通過して本丸に入ったのだとか。

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↑その枡形付近から見上げる清明台。

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↑入口付近の案内所には復元図や模型などが展示されていました。ボランティアの方々だと思うんですけど、来園者に対して熱心に対応されている姿にはとても好感がもてましたね。
宇都宮文化財マップや各種カタログ、本当に有難うございました。

2013年10月27日 (日)

西方・二条城 【下野】

場所:栃木県栃木市西方町本城(場所)
訪問:2012年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・竪堀・土塁・石垣など
指定:不明
駐車:開山不動尊前の広場に駐車可。但し、ここまでの道は狭いので注意が必要です。
満足:★★★★★★(6.5点)

見所:西方藩の居城。西方城のおまけと思って訪問すると驚かされる、しっかりした平山城。

西方城と至近の距離にあるため、もとは西方城の支城として使用されていたと考えられているみたいですが、正確なところは判っていないみたいですね。

関ヶ原の戦い(1600年)が終わると、西方には藤田信吉が1万5000石の所領をもって入り、西方藩が立藩されました。
信吉は山城である西方城ではなく、この二条城を本拠に定めました。現在の二条城という呼び名も、新城がなまったものと考えられています。
西方藩は大阪夏の陣(1615年)の後に当主である信吉が改易となったため、あわせて廃藩とされました。二条城が西方藩に使用された期間はそんなに長くはないですが、一応は近世城郭として改修されていたみたいで、本丸付近には石垣の痕跡なども確認することができます。

よく整備された西方城とは違い、全体的には薮に覆われた箇所が多く、全域を歩き回るのは困難です。ただ、ところどころに残されている枡形と思しき空間や、本丸周囲の高い土塁、石垣の痕跡など見所はあるので、西方城とあわせてどうぞ。

※西方城に続いて12:00頃からが二条城の動画になっています。
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↑西方城と二条城。

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↑【東から見る二条城】
二条城を訪問する際には開山不動尊を目安にすると良いのですが、正直、開山不動尊までのアクセスルートはかなり判りづらいです。配達中の郵便局員さんがいらっしゃったので、「開山不動尊という神社がこの先にある筈なんですけど・・・」って訪ねてみたのですが、聞いたことが無いといって知りませんでしたし。

動画を見ていただくのが、一番参考になると思います。12:00くらいからが、二条城の部分です。
ヴィッツ程度の小型車なら奥まで入れます。開山不動尊付近まで入らないと駐車できるスペースは無いので、不可の場合は金剛寺に用意されている西方城訪問客用の駐車場に車を停めて、歩いてくれば良いと思います。

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↑【開山不動尊前の広場】
動画を見ると判ると思いますが、自分はここに車を駐車しました。

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↑西方城の案内に掲載されていた二条城の縄張り図。
周囲に腰郭を多く配置してあり、なかなかしっかりしている平山城です。

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↑【開山不動尊】
ここまでの道はかなり不便ですが、その割にはしっかりと管理されていそうな開山不動尊。由来が記された碑も、綺麗な状態が保たれていました。
花吹雪の中にたたずむ開山不動産の映像を動画に採用しようか散々迷ったんですけど、尺の問題で結局諦めたんだっけかな・・・
結構綺麗だと思うので、お気に入りの映像ではあるのですが。

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↑【①:主要部への入口である竪堀】
開山不動尊の脇にある竪堀状の虎口から、二条城の主要部を目指します。縄張り図を見ると他に虎口っぽい箇所が無いので、大手と考えても良いのかな?

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↑【②:枡形?】
いかにも枡形といった雰囲気を残す②部分の虎口。

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↑【③:枡形?】
ここも枡形だったんじゃないの?臭を強く感じる虎口風の場所。

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↑【④:本丸東側の曲輪】
③の虎口の先にある曲輪で、右手は本丸の塁壁、左手は土塁に挟まれた通路状の構造をしています。

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↑【本丸土塁に残る石塁】
本丸を囲む土塁の高さは3m以上ある感じで、結構高さがあります。
その壁面には一部、石垣の面影が残されていて、西方城とは違った趣を感じさせてくれる場所です。

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↑【本丸の土塁上に登る】
本丸内部は背丈の高い薮にびっしり覆われていて、とても確認する気にはなれませんでした。

確認したのは東側だけで、西半分は殆ど散策していません。機会があれば、また訪問してみたいお城ですね。

2013年10月24日 (木)

西方城 【下野】

場所:栃木県栃木市西方町本城(場所)
訪問:2012年4月
形態:山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・馬出・枡形・井戸跡など
指定:不明
駐車:有
満足:★★★★★★★★★(9.0点)

見所:枡形を絡めた技巧的な縄張。整備も行き届いて、案内も豊富です。

西方城は宇都宮氏の一族である西方氏が、居城として使用していました。

戦国末期は後北条氏の圧力が増す中で、周辺の皆川氏や壬生氏は後北条氏方に組していたために大変だったと思いますが、これは何とか凌ぎきったみたいですね。ただ、宇都宮氏の領内でも西端だった西方は、秀吉の宇都宮仕置で結城氏の領地とされてしまい、所領を失った西方氏は没落してしまいました。西方には結城氏の後に藤田信吉(信吉は天神山城や花園城の城主だった藤田氏の一族です)が入り西方藩が立藩されますが、西方藩はこの西方城ではなく、麓の二条城に本拠を構えていたみたいですね。

もしかしたら知名度はあまり高くないのかもしれませんが、残されている遺構も見応えがありますし、案内も豊富で非常に素晴らしい城跡だと感じました。
西の丸がゴルフ場造成の影響で消滅してしまっているのが悔やまれますが、枡形や馬出など工夫の跡が明瞭に残されているので、空想が膨らんで見る者を飽きさせません。

城内の案内を見ていると、東の丸から二条城まで訪問できそうな気がしたのでチャレンジしたんですけど、途中で沢に阻まれて断念してしまいました。
薮漕ぎに自信のある方でしたら強行突破できるのかも知れませんけど、二条城には開山不動尊から普通に訪問することをお勧めします。

※動画は2012年4月訪問時に撮影して編集・アップロードしたものです。
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↑西方城の現地案内図。要所ごとに案内が設置されている親切設計です。

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↑【長徳寺】
いかにも根小屋だったと思いたくなるような場所に建てられている長徳寺。
墓地の脇に西方城への訪問口があるので、そこから城址を目指しましょう。

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↑【長徳寺裏の竹薮】
ちょっとルートを外れて散策してみると、竹薮の中には段々に構築された削平地や石積み、横堀っぽい溝など、昔は何かに使用されていたであろう面影がそこかしこに残されていました。
沢が傍にあるので耕作地の名残なのかもしれませんが、城好きとしては武家屋敷が建ち並ぶ姿をどうしても想像してしまう・・・

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↑【屈曲する竪堀(案内:①)】
長大な竪堀の途中に設けられている折。
この方面から進入してくる敵兵の移動や視界を制限するだけでなく、攻撃も有効に行うことができるようになっています。

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↑【枡形のような空間】
竪堀を登りきると、そこには枡形のような空間が残されていました。

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↑【馬出(案内:②)】
北側から進入してくる敵兵を阻害するために、北の丸の前面に構築された馬出。

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↑【北の丸虎口】
散策路として設置された階段とは別に、往時の虎口がしっかりと残されていました。
細道で、いかにも虎口といった趣です。

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↑【屈折する通路(案内:④)】
北の丸からさらに奥へ侵入しようとする敵兵を阻む仕掛けが、案内④のあたりに良い状態で残されています。
北の丸(上段)に入るための枡形を何とか突破しても、すぐに隣接する三郭からの攻撃にさらされ、その三郭に向かうためのルートは狭い土橋が一本あるだけ。なんとも嫌らしい構造ですよね。

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↑【屈折する通路(案内:⑤)】
こちらも技巧的な構造で、とても見応えのある案内⑤の屈折する通路。
南側や東側から侵入してきた敵兵の合流地点になっているこの場所を効果的に守れるよう、周囲には枡形が施されています。攻撃が行い易くなる、張り出された小曲輪も良ポイントですね。

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↑【井戸跡(案内:⑦)】
井戸跡とされる窪地。

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↑【連続する枡形(案内:⑧)】
連続する枡形とされる場所。解釈としては、3つの枡形が連続して設置されていたと認識すれば良いのかな?
見様によっては何でも枡形に見えちゃったりすると思うので、こういうのって解釈が難しいですよね。

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↑【西方城と二条城の間に立ち塞がる沢】
この沢を越えて二条城まで訪問できないかチャレンジしてみたんですけど、ちょっと無謀過ぎましたかね。いろいろと試してみたのですが、自分のレベルでは全て跳ね返されてしまいました。
昔は行き来できたんじゃないかと思うので、何かしらのルートはありそうなんですけど・・・

2013年10月21日 (月)

皆川城 【下野】

場所:栃木県栃木市皆川城内町(場所)
訪問:2012年4月
形態:平山城
遺構:曲輪・空堀・土塁・井戸跡など
指定:栃木市指定史跡
駐車:有
満足:★★★★★★★(7.0点)

見所:法螺貝城とも呼ばれるその構造

皆川城は、小山政光の子である長沼秀宗が築城したとされています。
長沼氏はその後に皆川氏と称し、周辺に勢力を拡大。戦国時代になると宇都宮城の宇都宮氏と幾度か合戦を行い、戦国後期にはかなり押されて領地の多くを失いますが、何とか皆川城を守りきることには成功しました。
しかし、1590年の小田原征伐が行われると、後北条氏寄りの政策を行っていた皆川氏は後北条方について、当主の皆川広照は小田原城に入城。
広照は小田原城が落城する前に投降して領地は安堵されるも、皆川城は既に秀吉軍に攻撃されていて落城していたため、1591年、新たに栃木城を築城して本拠を移転。皆川城は廃城となりました。

広照はその後、家康・六男の松平忠輝(正宗の娘婿として有名ですね)の附家老となって忠輝の補佐役を勤めますが、行状の悪い忠輝の現状を幕府に訴えたところ、逆に家老として不適格とされて皆川氏は改易されてしまいました。程なく赦免されて府中陣屋に入り常陸府中藩の藩主となりますが、嗣子不在のため、皆川氏は三代で断絶・改易となりました。


東北自動車道を下って栃木インターが近くなってくると、それこそ法螺貝のような奇妙な丘が高速道の左手に見えてくると思います。それが皆川城です。
城址は公園としてよく整備されていて、通年を通して見学することが可能なんじゃないでしょうか。遺構も見応えがありますが、周辺には皆川氏累代のお墓なども残されているので、そちらのチェックも怠り無く。

※動画は2012年4月に撮影した映像を編集したものです。
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↑作成した簡単な概略図と、現地案内に掲載されていた復元模型。

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↑【南から見る皆川城】
遠目にも段が連なるその姿はひときわ目につくと思います。

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↑【居館跡】
現在は市役所の施設が建てられている居館跡。周囲を覆う土塁がよく残されていて、ここが既に城内であることを実感させられます。
土塁の外には小川が流れているのですが、これは水堀の名残なんでしょうかね。

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↑【南東部の巨大な横堀】
連なる帯郭を守るかのように最下段に設置されている巨大な横堀。かなりの迫力です。

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↑【帯郭群】
見上げると先の状況が把握しづらい帯郭群ですが、上から見下ろすと一目瞭然ですね。

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↑【山頂の主要部】
皆川城の最高所が本丸、見はらし台という平地を挟んで反対側には西の丸と呼ばれる櫓台状の台地が残されています。

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↑【南西部の竪堀や横堀】
見応えのある竪堀や縦土塁。途中で横掘りとも連結しています。
ワイドは引き伸ばしになっちゃうので、どうしても画質が荒くなってしまう・・・

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↑【皆川家歴代祖廟】
金剛寺には皆川家歴代祖廟が残されています。