よもやま話

2014年10月13日 (月)

「総構え」に関して思うこと

江戸幕府の発令した一国一城例で城郭の集約化が加速し、近世では多く採用された総構え。今でも江戸城は外堀がよく残されており、総構えの面影が色濃く残されています。

戦国時代で総構えのお城となると、有名なのはやはり後北条氏の小田原城でしょうか。ただ、小田原城の総構えは秀吉の小田原征伐に備えて整備されたもので、Wikipediaによると確認できる最古の総構えは荒木村重の有岡城ということになるらしいです。なるほどね。

そもそもの総構えについて、もう一度おさらいしておきましょう。総構えとは軍事拠点である「城」もしくは「砦」のみならず、その周囲に形成されている「城下町」までを堀や土塁によって取り囲み、俗に言う城内に取り込んだ形式の拠点のことを指す用語です。

こういった防御形態は城塞都市として欧州から中国まで、ユーラシア大陸では古くから採用されていました。日本の総構えと一緒の構造ですね。都市は城壁や堀に囲まれ、外敵から身を守っていました。

近隣異民族との紛争や広大な平野の有無など日本と地勢の違いはあれど、日本の集落は現代のように外敵に対して無防備な状態で存在していたのでしょうか?答えはNoです。

日本では環濠集落といって古くは集落は周囲に堀をめぐらし、逆茂木を設置するなどして外敵から身を守っていました。時代による形式の移り変わりはあれど、基本的には危険な世相であれば集落の周囲に防御構造を築くといった流れは江戸時代、はては近世城郭まで含めると近代に至るまで変化はありません。戦国時代の堺の町などがわかりやすい代表例としてあげられるかも。

これから先の時代がどうなるかはわかりませんが、今も昔も変わらないことのひとつに人口=経済力といったものがあります。特に人口=生産力に直結する近代以前では領主にとって重要な問題で、これを確保・維持できなければ勢力を保つことは非常に難しかったのではないかと。

戦国時代の戦術のひとつに「青田刈り」があります。敵領内に攻め込んだ際、相手方の田畑の実を刈り取って敵国の生産力を落としてしまうといった手法です。でもこれは人間にも当てはまる。
周辺の従属する集落なら自衛に任せておけばある程度良いのかもしれませんが、少なくとも城下町(根小屋)の住人は自分たちで守らなければ、たとえ寄せ手を撃退しても経済的損失は計り知れません。身代金などによる返還はまだましなほうで、殺されたり奴隷として他国に住民が売却されるなんてことになれば目も当てられないですよね。

このように考えていくと総構えと呼ばれる形式の城郭は、少なくとも戦国時代中期にはそこかしこで見られる一般的なものだったように思えてなりません。それこそお城の立地でよく表現される「舌状台地の先端に築かれた」なんて場所は、広大な外郭を残していることも多いですしね。香取の海(1)があったとされる場所の周囲は特に顕著かも。


こうやっていろいろ疑問に思って空想をぶつけられるようになったのは、やはり「村の城」という考え方の存在を知ったことが大きいですかね。たしかこのキーワードを初めて確認したのは余湖くんのお城のページだったような。

今回は総構えについて書いてきましたが、なんだかんだ思うところは他にもあります。「障子堀」もそうですし、「東国の城は簡素だった」と言われることもちょっといろいろと思ってみたり。機会があれば、また記事にするかもしれません。

【※1 香取の海】
現在の茨城県南部から千葉県北部あたりに存在していたとされる広大な内海。現在の霞ヶ浦・牛久沼(茨城県)・印旛沼・手賀沼(千葉県)などはその名残とされる。

2013年9月 1日 (日)

伏姫籠穴(ふせひめろうけつ)

前回の犬掛古戦場の項の中で「八房の生誕地」という記念碑を訪問したので、南総里見八犬伝つながりで「伏姫籠穴」にも立ち寄ってみました。

伏姫とは南総里見八犬伝の登場人物で、物語では里見義実の娘という設定みたいです。詳しい事情はわかりませんが、その伏姫と八房が流浪のすえにたどり着いたのが、この伏姫籠穴と呼ばれる洞窟なんだそうです。

なんでしょうね。ここは江戸時代に造られた観光スポット的な場所だったんでしょうか。
ただ、場所は富山(とみさん)という独立山の中腹辺りにあって、結構山深い場所なんですよね。今はある程度整備された道が設置されていますし、車で傍まで上がっていけるので訪問するのにそんなに不便は無いですけど、昔は結構大変だったんじゃないでしょうか。

南総里見八犬伝は読んだ事がないので何となくしか知らないんですけど、簡単な解説や周辺の観光ポイントはこのサイト(南房総いいとこどり)が見やすくて参考になりました。興味ある方は参考にしてみて下さい。

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↑入口。もっと楽に訪問できる場所かと思ったら、意外と山深い場所でした。 →(入口の場所)

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↑入口から山あいの渓谷を登っていくと・・・

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↑洞窟が見えてきました。あそこが「伏姫籠穴」かな?

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↑入口の門が開いていますね。

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↑洞窟内にはいかにもって感じの装飾品が置かれていました。自分は知らなかったんですけど、南総里見八犬伝は水滸伝の影響も多分に受けているんですね。人物にそれぞれ将星が定められているところはそっくりです。

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↑舞台もあって雰囲気はバッチリ。里見八犬伝ファンには堪らない場所なのかもしれませんね。
ここ、もともとは修験者などが使用していた場所だったりしたのかな?

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↑ここから山頂を目指せるみたいで、案内の横にちょっとした道が続いていました。ちょっとだけ入ってみると、その先には伏姫籠穴とは別の洞窟が。
洞窟には五輪塔なども見えますけど、夏なので程々のところで引き返しました。この写真だって、既にいくつかの蜘蛛の巣に引っかかった状態で撮影しているんですから・・・。


2013年8月30日 (金)

犬掛古戦場跡【里見家の墓・八房伝説】

戦国時代、関東制覇をもくろむ後北条氏と激しく争った安房・里見氏。里見氏は里見義堯の代に最盛期をむかえ、最大版図を築き上げました。
この義堯という人物、戦国物のゲームなどでもよく登場するので里見歴代当主の中でも一番知名度が高いかもしれませんね。ただ、この義堯は当主になるまでも一悶着あったりして、平穏無事に里見家の当主になれた訳ではありませんでした。そうですね、俗に言う「天文の内訌」です。

■天文の内訌
義堯が当主になる以前の里見家は里見義豊という人物が当主を務めていました。
そんな中、海向かいの相模では伊豆の後北条氏が徐々に勢力を伸ばしてきていて、1516年には名族・三浦氏を新井城にて打ち倒し、遂には相模国を完全に掌握してしまいます。

三浦半島と南房総は海で隔てられているとはいえ非常に至近距離です。勢いのある後北条氏が安房水軍を率いる里見氏をそのまま放っておく筈が無く、後北条氏は里見氏に対して工作活動を仕掛けました。近年里見家内で勢力を伸ばしていた義豊の叔父である里見実堯と正木道綱を裏から援助して、現当主である里見義豊を倒してしまおうという訳です。

ただこの工作活動は途中で明るみに出てしまい、里見義豊は小弓公方・足利義明の承諾の下、里見実堯と正木道綱を本拠である稲村城に呼び出して誅殺。さらにはその勢力を駆逐するため、実堯の本拠であった金谷城を攻撃して実堯の息子・義堯を追い出します。
追い出された里見義堯は上総・真里谷武田氏の城である造海城(百首城)に篭って後北条氏に援助を要請。後北条氏の援助を取り付けた義堯は正木時茂と共に金谷城で挙兵し、後北条氏の援軍と力を合わせて安房国を攻撃、今度は義豊を安房から追い出してしまいます。
義豊は真里谷信清の元に逃走しますが、再起を図って軍を興し、再び安房国内に戻りました。その際に義堯の軍と激突したのが、この犬掛古戦場跡です。
この合戦で義堯は義豊を打ち破り、安房の勢力を完全に掌握することに成功しました。敗れた義豊は戦死、もしくは自害したと伝えられています。

天文の内訌に関してはざっとこんな感じですね。
義堯は主家を倒して家督を奪ったため、義豊までの里見氏を前期里見氏、義堯以降を後期里見氏と分けて呼ぶことが多いです。
里見義堯はこの後、小弓公方に接近して後北条氏と対立し、上総の真里谷武田氏を倒して領土を拡げていきました。戦国の世の話なので分家が本家を倒したり過去に助けてもらったこともある勢力を後に攻撃するなどさして珍しい話でもありませんが、こう見ていくと義堯は下克上の典型といった感じがしてしまうかもしれませんね。ただ、義堯の人柄と勇気は敵国であった後北条氏からも認められていたという話も見られるので、事象だけで単純な判断はできませんが。


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↑犬掛古戦場と周辺図。
今の館山市のあたりには平地が広がっていますが、その穀倉地帯を望む三芳に昔は国衙がおかれていました。
犬掛古戦場は上総方面からその安房中心地へと抜ける通路のような谷あいの途中にあり、昔は戦略上重要な土地だったことが推察されます。

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↑【犬掛古戦場】 →案内の場所
今は静かな田園が広がっているのみなので、普通に訪れても全く気がつくことは無いでしょうね。
案内もありますが、殆ど人は訪れていないんだろうなー。

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↑【里見義道・義豊の墓】 →場所
里見義道・義豊親子のお墓。もとは大雲院(廃寺)にありましたが、明治42年(1909年)にこの場所に移設されました。
墓は室町時代の多層塔です。

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↑【春日神社(八房伝説)】
犬掛は南総里見八犬伝に登場する八房の生誕地なんだそうです。


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↑余裕があれば正面中央の山に残る「里見番所」の遺構を確認しようと思っていたのですが、暑さで精神的余裕が無くなったので、今回はキャンセルです。
滝田城や勝山城の場所も判ったので、シーズンがきたらまとめて訪問しようっと。



2013年7月 2日 (火)

ちょっと廃な場所【軍艦島】

皆さんは端島という島をご存知でしょうか。通称、軍艦島。
廃墟好きには断トツの知名度を誇る場所だと思うのですが、近年は一部区画が整備されて観光で見学できる地区も用意されているので、意外とご存知の方は多いかも知れません。

軍艦島はもともと炭鉱の島として栄えていた場所で、1974年に閉山となり無人島となりました。
なかなか良質な炭鉱だったみたいで、最盛期の1960年には5,267人の人口を数え(当時の人口密度では世界一)、島内には炭鉱労働者やその家族のための集合アパートは勿論のこと、学校・病院・映画館・寺院などが完備され、一つの都市として島内で完結できるように整備されていました(ただ、墓所だけは別だったみたいです)。

無人島になった後も各種施設は廃墟として残され、妙に探検心をくすぐられる場所ではあったのですが、当然のことながら島内は立ち入り禁止です。
映画やゲーム(SIREN2が有名)の舞台にもなった軍艦島、探検するのは無理な場所だと思っていたのですが・・・

Youtubeでこんな動画を発見してしまいました。




ご存知、Googleストリートビューですね。長崎市の協力を得て、島全体を撮影したのだとか。
早速、ストリートビューを使って軍艦島を確認してみました。


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ストリートビューなんで、移動はPSで発売されていた「クーロンズゲート」みたいな感じになりますね。なので、そこまで自由度が高いという訳ではないのですが、欲を言ったら切がない。自分はこれで大満足です。


Googleさん、大手柄なんて思いながら軍艦島を疑似散策していたんですけど、このブログのメインテーマであるお城。もしかしたらと思って、「ストリートビュー 城」で検索してみると、ストリートビューギャラリーなるものを発見。その中に日本の城という項目がありました。

やっぱりあるんですね。自分は知らなかったですけど、このギャラリーって結構有名なサービスなのかな。
今のところ、熊本城・小田原城・会津若松城(鶴ヶ城)・名古屋城・犬山城・松江城・岡山城が公開されています。早速確認してみたんですけど、正直これ、なかなかいいですね。動画と違って静止画なので自分のペースで視聴を進められますし、なにより360度見渡せるので臨場感もバッチリ。見せ方としては動画より数倍良い方法だと思いました。

ストリートビューを使ってプチ旅行気分なんてのは有りなのかもと思っていたんですけど、ちょっと盲点でしたね。
ただ、自分でやろうと思うと、それなりの360度カメラを用意しなくては駄目ですからね。今はちょっと無理ですけど、将来はこの表現方法を使った旅行ブログなどが増えてくるのかも知れませんよ。

自分もいつかはやってみたいかな。