戦争史跡

2014年10月17日 (金)

柏飛行場 【秋水燃料庫跡】

「秋水」という戦闘機が存在したことを、皆さんはご存知でしょうか?
秋水はロケットエンジンの局地戦闘機で、ナチスドイツの「Me163コメート」をモデルに日本軍が開発を進めていましたが、完成前に終戦を迎えたため、試作機で終わり実戦投入はありませんでした。 

ちなみに本家のMe163は航空機史上唯一の実用ロケット戦闘機として知られています。ロケットエンジンを活かした上昇力と高速性によって初期では戦果をあげますが、航続距離が極端に短いという弱点が露見すると連合軍はMe163が配備された基地上空の移動を避けたため、戦果はあっという間に途絶えてしまいました。
取り扱いの大変難しい燃料のこともあり、兵器としての評価は失敗作と位置づけられています。 

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↑【秋水 ※Wikipediaより 】 

第二次大戦中の千葉県柏市には柏陸軍飛行場があり、秋水の3機が置かれていたみたいです。その秋水は敗戦時に爆破処分されたみたいですが、秋水のために建設された燃料庫はいまでも残り、その名残を確認することが可能です。

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↑【柏飛行場】
大まかにですが作成した柏飛行場の想定図。かなり大規模な飛行場だったことが判ります。
今回の主題である秋水燃料庫は図の右端あたりで、飛行場からはちょっと離れたところに設置したみたいですね。空襲から守りやすくするためなのか、それとも人里から極力離れた場所を選んだ結果なのかも・・・。

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↑【秋水燃料庫の位置】
昔の航空写真を見ると、何気にハッキリとその姿を確認できる秋水燃料庫。8箇所チェックをいれましたが、全部が本当に燃料庫だったのかはわかりません(28は違うかも)
で、実際に訪問してみて今回確認できたのは2箇所(+脱気筒)のみでした。なにぶん住宅街なので人目が気になって仕方がない・・・。

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↑【秋水燃料庫1
明瞭にその姿を確認することができる1の燃料庫。昔の黒電話の受話器( [ )みたいな形状をしています。
すぐ脇の畑で農作業をしている老夫婦がいらっしゃったので話を聞こうか迷ったのですが、何となく話かけるな的な雰囲気を感じたのでやめることに。

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↑【秋水燃料庫3
恐らくこの藪の向こうに隠れていると思われるのですが、確証はありません。この状態だと冬枯れ時期でも確認は無理っぽいかな。

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↑【秋水燃料庫4
1と同様にハッキリとその姿を確認することが出来ました。地下燃料庫の上に家が建っているように見えるんだけど、下水とかの家のインフラ整備を行うのに支障はなかったのだろうか・・・。

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↑【秋水燃料庫5の脱気筒】
現在も畑に残されている脱気筒。燃料庫5の入口はよーく目を凝らして確認したのですけど、発見には至りませんでした。冬枯れの時期なら何かしらの痕跡は見つけられそうな気がしましたけどね。
畑の関係者と思しき人がいたのですれ違い様に軽く挨拶してみたんですけど、見事にスルーされました。きっと間が悪かったんだろうな。そういうことにしておきたい・・・。 

【関連記事】
柏飛行場 【正門跡・無蓋掩体壕】

2014年10月15日 (水)

柏飛行場 【正門跡・無蓋掩体壕】

茨城県に程近い千葉県柏市。Jリーグの柏レイソルがあるので柏という名前はご存知の方も多いと思いますが、この柏市にも第二次大戦中は柏陸軍飛行場が設置されていて帝都防衛の任についていたんですねぇ。柏には何度も足を運んだことがあるのですが、そんなことはつい最近までまったく知りませんでした。
ちなみに柏陸軍飛行場のほかにも周囲には松戸陸軍飛行場(:松飛台)と藤ヶ谷陸軍飛行場(:下総航空基地)も続けて建設されていますが、航空基地として今も機能しているのは前述の通りで藤ヶ谷陸軍飛行場のみです。 

戦後ほどなくして柏飛行場は廃止されましたが、1950年に勃発した朝鮮戦争によって跡地の多くは米軍が摂取し柏通信所(キャンプ・トムリンソン)が設営されます。

この柏通信所は1977年に半分、そして1979年に米軍より全面返還され、現在の跡地は様々な国・官庁関連施設やガン研究センター、柏の葉公園や住宅街などに転用されました。そうしたなかで柏飛行場の面影は徐々に薄れてしまっているみたいではあるのですが、残されている僅かな痕跡を確認すべく、柏を訪問してみました。

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↑【柏飛行場】
大まかにですが作成した柏飛行場の想定図。かなり大きな飛行場だったことが判ります。
飛行場以外にも周辺には射撃演習場や高射砲連隊の駐屯地などが存在していましたが、地図には記していません。

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↑【航空隊正門跡】
最寄の東部第102部隊とあわせて最大で7,000人以上の兵員がいたとされる柏飛行場。その名残として今も正門跡が残されています。
奥の住宅街からなのか、車の往来がひっきりなしでした。

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↑【滑走路の面影】
柏の葉公園の脇を通る並木道の一部は往時の滑走路と重なっているみたいです。なので、滑走路の面影といえなくもないのかも。

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↑【柏の葉公園】
各種競技場も立ち並ぶ柏の葉公園。何気に駐車場は有料でした。
そこそこ広大な公園ではあるのですが、それでも飛行場の一区画でしかなかったんだよなー。 

第二次大戦中に使用されていた飛行場跡地といえば、つきものなのが掩体壕。この柏飛行場にも往時は多くの掩体壕が設置されていました。

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↑【航空写真から見る掩体壕】
東誘導路沿いに確認できる掩体壕の面影。写真によっては掩体壕の形状まではっきり確認できるものも。

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↑【掩体壕の配置図】
東誘導路は面影を強く残していますが、掩体壕となると今でも確認できるものはごく僅か。
青→確認した掩体壕、緑→未確認もたぶん残されている?、黄色→すでに消滅

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↑【公開されている無蓋掩体壕】
こんぶくろ池自然博物公園の一角に残される掩体壕。無蓋掩体壕ということで、爆風を防ぐための土塁しか築かれていません。まあ、コンクリがない分は確かにインパクト弱いかもしれないですけどね。お城や幕末の台場だって土塁から往時を想像している自分には馴染み深い代物ではあります。
自然公園の事務所にはNPOの方がたくさんいらっしゃったので掩体壕のことに関していろいろ質問をしてみたのですが、なぜか帰ってくる反応はイマイチ。戦争史跡は展示してみるも思うほど反響がなくてガッカリだったからなのか、それとももしかしたら地元の方は戦争史跡の存在そのものを暗に苦々しく思われているのかもなんて想像してみたり・・・。

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↑【ホテルリーベの入口前の掩体壕は・・・】
ホテルリーベの前あたりにも掩体壕の一部が残存しているみたいなんですけど、正直まったく判りませんでした。
何か新しくアスファルトのわき道が整備されたような感があるので、もしかしたらその時に消滅してしまったのかも・・・。

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↑【香取神社付近】
国道16号を挟んだ反対側、香取神社のちょっと先にも3基の掩体壕が残されているっぽいのですが、残念ながら発見には至りませんでした。とにかく藪なので、パッと見での判別は不可能に近いです。
一番わかりやすそうな気がしたので林のなかにも突撃をしてみたのですが、まだまだ蜘蛛が元気なんですよね。また冬枯れの時期にでも機会があれば再度・・・。

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↑【こんぶくろ池自然公園】
湿地帯であったであろう面影を色濃く残す自然公園です。自然を配備しつつも人工的な感が否めない公園や手付かずの山林とはまた違った雰囲気があるので、こういう場所は大切にしてもらいたいなー。
敷地内には野馬土手と呼ばれる土塁がそこかしこに残されていました。場所的に相馬御厨の範疇っぽいので、坂東武者お約束というか相馬氏で有名な相馬野馬追と何かしらの関係がと思って聞いてみたんですけど、これも反応はイマイチでした。園内の案内によれば、この野間土手は徳川幕府が軍馬の養成のために作成したもので、相馬野馬追の関連史跡ではなかったみたい。 

【関連】
柏飛行場 【秋水燃料庫跡】

2014年10月 5日 (日)

大房岬・回天発射台

以前、戦争史跡や幕末の台場跡などを紹介した大房岬。いくつかの見落としがあったので、今回は回天発射台を確認しに再び大房岬を訪問してみることにしました。

人間魚雷「回天」。その名の示すとおり魚雷型の特攻兵器ですが、「桜花」や「震洋」と比べると知名度はわりと高めな気がします。映画やドラマの影響なんでしょうか。

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↑靖国神社に展示されている回天。Wikipediaより転載。

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↑大房岬には戦争史跡や幕末の台場跡などいろいろ残されています。戦国時代後期、里見家当主の里見義頼が本拠に定めていた岡本城も至近の距離にあり、中世には砦などが築かれていた可能性も大です。

駐車場に車を停め、史跡の残る海岸まで降りていきます。朝早めの時間ではあるのですが、お盆時期なので家族連れは多めでしたね。

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↑【回天・発射台跡】
満ち潮で海中に沈んでしまい、あまり確認することができませんでした。この日はお昼くらいに訪問するのがよかったみたい。
画像右よりの海中に沈む箸のような構造物が、回天発射のために使用されるレールの土台となっていたみたいです。引き潮のときに訪問すれば、ハッキリとした姿を確認することができるんですけどね。

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↑【回天・収納庫もしくは待機所?】
発射台のそばに洞窟と壕がひとつずつ残されています。場所からいって恐らく回天の収納庫、もしくは人員の待機所だったと思われるのですが、正確なところはどうなんでしょう?

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↑【洞窟に残る落書き】
K・N・Hと恐らくS・Oであろう単語はなんとなく確認できます。あと、Yっぽい単語は大小おりまぜ複数。 

館山には進駐軍の先遣隊が上陸し、数日の間ですが米軍による軍政が実施されました。この落書きは、そういった際に米軍によって記されたメモ書きのようなものなのかもしれません。

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↑【防空壕】
こちらは明らかに人力で掘られた防空壕ですね。穴の高さは感覚的には1.51.6m程度だと思うので、回天を収容することはできたでしょう。レールか何か敷いて出し入れさせる予定だったのかな?

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↑この防空壕、入口になぜか神社のお札(板札って言うんですか?こういうの?)が置かれていました。何かこの辺りで過去に事故でもあって、その名残りなのかもなどと考えつつ折角なので防空壕に入ってみたのですが・・・

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↑内部で撮影した写真には何故か赤色が写りこんでしまいました。「えっ?」と思ったので慌ててもう一枚撮影するも、そちらはまったく問題なし。
なんにせよ、あまり気分のいいものではないですよね。お墓参りにいった後でしたし。慌てて防空壕から撤退です。

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↑【山岡部隊(S)が訓練に使用していたとされる崖】
山岡部隊は海軍陸戦隊が結成したSpecial Forcesです。最後は東南アジア各地に散らばる米軍基地を強襲してB29を破壊するといった計画が検討されましたが、出撃寸前のところで終戦をむかえ中止となりました。
山岡部隊の訓練は過酷を極め、この崖を素手で登るというのも訓練の一環だったそうです。いまでいうロッククライミングですけど、もしも装備を背負いつつとかだったら難易度も相当なはず。

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↑【何かしらの痕跡?】
ピットみたいに見えなくもないかな?波止場にはもっとハッキリした痕跡が残されていたんですけど、撮影するのを忘れちゃった。


↑動画です。いままでよりビットレート落としてアップしてみたんだけど、Youtubeのはなかなか最適な方法がみつからないや・・・

2013年9月14日 (土)

大房岬【大房岬要塞】

千葉県の館山湾と富浦湾の境目に突出した岬があります。ここが大房岬です。

現在は大房岬自然公園として整備され、ホテルなどの宿泊施設や少年の家、キャンプ場などが備わったレジャースポットとして重宝されていますが、この岬は幕末から第二次世界大戦(東京湾要塞)まで東京湾を守る一大要塞として機能していたという歴史があり、関連した遺構が今も残されている戦争史跡でもあるんですよね。

当時はワシントン条約(正確にはワシントン海軍軍縮条約)で艦船への使用が不可になった大砲2基が備え付けられていました。
今は砲台跡や弾薬庫、発電所、探照灯格納庫など一部の施設が残されており、場所によっては内部の見学も可能です。
戦争史跡以外にも前述の台場跡などがあって見所は豊富です。意外と敷地は広大なので、地図をもって散策するのがベストかな。


↑2012年8月に撮影・編集した動画です。大房岬→沖ノ島→赤山地下壕を簡単に紹介しています。


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↑東京湾の守りの一角であった大房岬。里見義頼の居城であった岡本城もすぐ傍なので、戦国時代には砦として使用されていたかも知れませんね。

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↑その岡本城から眺める大房岬。要塞を築くには絶好の地形なんだということが、改めて認識できます。

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↑【発電所跡】
半地下の施設だったんでしょかね。入口はコンクリートで閉鎖され、立ち入りは出来なくなっています。

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↑【探照灯格納庫跡】
大房岬で一番見応えのある戦争史跡がここ、探照灯格納庫跡です。真っ暗な中に昇降台があったであろう最奥部には微妙な光が差し込んでいて、幻想的な空間をつくりだしています。

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↑【詰め所?】
探照灯格納庫の反対側に残る施設。たぶん詰め所とかだったのかな?
隠れるように造られている出入口が格好いい。


戦争史跡は他にも砲台跡や弾薬庫、震洋の発着場など残されているのですが、このときに確認したのはここまで。地図無くぶらぶら散策しただけだったんで、完全に見逃しちゃいました。
弾薬庫は地下みたいなので、今度はちゃんとライトを用意して訪問します。

というわけで大房岬に残る戦争史跡の紹介はここまで。
ここからは戦争史跡以外の紹介です。


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↑【大房岬台場跡】
黒船の来航に備えて1808年に築かれた台場。当時は上段・中断・下段の3段に分けて13挺の大筒が据えられていました。
土塁は造海城の竹ヶ岡砲台に残るものと同じく、切れ目がつけられていました。この土塁の切れ目に大筒を挟んで、発射時の反動などでずれない様に固定していたんですね。

今は僅かに土塁が残るのみと案内には記されていますが、これって非常に貴重な遺構なんじゃないでしょうかね?台場跡は数あれど、このように用途がある程度特定できる形で土塁が残されている場所となると、そう多くはないように感じるのですが・・・。


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↑【大房不動滝と行者の窟】
歴史はかなり古く、昔はこの上にしっかりしたお堂も建てられいたみたいですね。
今では寂れた感が否めませんが、大事にされていくことを切に願います。

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↑【弁財天の洞窟】
大昔は牢獄としても使用されていたという洞窟。この洞窟の奥は深く、どのくらいの長さがあるのか未だに未確認とのこと。
洞窟は怖いですね。あなたは興味ありますか?


2013年9月12日 (木)

沖ノ島【館山市】

自衛隊の館山航空基地脇に沖ノ島という海水浴場がありますが、まるで馬出のように基地からぴょこんと突き出したこの小島も、戦時中は壕が造られ基地として使用されていました。まあ、当時の沖ノ島は館山海軍航空隊基地の敷地内だったと思うので、ある意味当然かもしれませんが。

沖ノ島の地下壕は入口が閉鎖されているので、基本的に中に立ち入ることは出来なくなっています。問題なく見学できるのは岩場の洞窟くらいなものですかね。
まあ、壕に入れなくても島はちょっとしたジャングル状態になっているので、散策路を外れてみるだけでも様々な発見がありそうで、なかなか楽しめそうな感じです。
ちょっとした冒険気分を味わうには最適な場所なのかもしれませんよ。

鷹之島弁才天の近辺にも壕が残されているみたいなので、興味のある方はそちらもお忘れなく。


↑2012年8月に撮影・編集した動画です。大房岬→沖ノ島→赤山地下壕を簡単に紹介しています。


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↑沖ノ島の周辺図。今回紹介する沖ノ島や高の島実験場がある場所はもとは島で、関東大震災のときに隆起した地面を埋め立てて航空基地を建設したため、陸続きになったんだそうです。
沖ノ島は島だった面影が残されていますけど、高の島は全く判りませんでしたね。驚きです。

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↑【沖ノ島】
真夏の沖ノ島は海水浴場として結構な賑わいを見せていました。
まずはこの砂浜を通り抜けないと沖ノ島に入ることはできないんですけど、リュック背負ったおっさんがビデオやデジカメを持ちながらこういった場所を歩くのって、とっても勇気が必要ですよね。
脳内から外部を強制シャットアウトして何とか見学しましたけど、それでもところどころでふと感じる冷たい視線。なかなか厳しかったなぁ。

沖ノ島の壕は柵で入口が閉鎖されているので、壕の確認は入口のみです。
現地の案内に確認した遺構をナンバリングしてみたので、以下説明の参考にして下さい。

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↑【①の壕】
遊歩道からちょっと入る場所にあって、入口付近には石垣も使用されています。
すぐに右に通路か部屋の入口があるのが判りますね。

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↑【②の壕】
柵が一本抜かれていますね。汚れを気にしなければ脇からすり抜けられそうな気もしますが、どうなんでしょう。
位置関係からすると⑤の壕と繋がっている感じがしますね。となると、内部は結構大きそうな感じがします。

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↑【③に残る建物の土台】

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↑【④の小規模な壕】
資材置き場か何かだったんでしょうか。

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↑【⑤の壕】
②の壕と繋がっていそうな⑤の壕。
内部は結構広そうです。夏場以外の時期だったら、ちょっと覗いてみたいかも。

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↑【⑥の壕(洞窟)】
唯一立ち入れる海岸沿いの⑥の壕。

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↑【壕に残る銃眼】
⑥の内部には銃眼と思しき穴が開いていました。当時は機関銃でも設置されていたのでしょうか。

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↑島内はちょっとしたジャングルのようになっていて、ちょっとした探検気分を味わえます。
夏場は海水浴客が大勢いるのであまり確認しませんでしたが、海岸にある岩場を探してみると、もしかしたら震洋の発着場なども残されているのかも?


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↑【高の島実験場】
明治42年(1909年)に開設された高の島実験場の廃墟。沖ノ島に向かう途中に残されているので、非常に目立つ建物です。
前述の通り、高の島(鷹ノ島)は関東大震災(1923年)で航空基地が建設されるまでは独立した島でした。
周囲には島だった当時から残されている鷹ノ島弁才天などもあるので、ちょっと散策してみるのも楽しいかも。



2013年9月10日 (火)

赤山地下壕

第二次大戦中、東京湾の入口に当たる三浦半島と房総半島には敵軍の侵入を阻止するための軍事拠点が多く造られていました。当時の館山市周辺にも海軍航空隊などが配備され、それらの戦争史跡が付近に数多く残されています。

今回紹介する赤山地下壕は非常に大規模な地下壕なんですが、詳しい資料に乏しいため、どのような施設だったのかの詳細は不明とのこと。
現在は壕の一部が整備され、気軽に見学を楽しむことが可能です。全体的に通路は明るいのですが、所々に暗がりもあったりして雰囲気もいい感じ。こういった地下壕は吉見百穴、松代大本営に続いて3箇所目ですが、これらの中では一番楽しめました。

受付で入館料を支払うとヘルメットと懐中電灯を貸していただけるのですが、この懐中電灯の光量は驚くほど弱いので、手持ちの懐中電灯を所持しているのであれば、そちらを使用したほうがより楽しめると思いますよ。


※2012年8月に撮影・編集した動画です。大房岬→沖ノ島→赤山地下壕を簡単に紹介しています。


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↑付近には多くの戦争史跡が残されていますが、今回はそのうち赤枠で囲った赤山地下壕とその付近に残る掩体壕を紹介していきます。

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↑【案内に掲載されている構造図】
赤山地下壕は全長で1.6kmもある巨大な地下壕ですが、見学できるのはそのうちの僅かです。
こう見ると平面の単純な構造に見えますが、内部にはスロープがあるのも確認できているので、多層の複雑な構造をしているのかも知れません。

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↑【通路①】
内部はひんやり涼しいです。夏には最適な場所ですね。

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↑【通路②】
外部と繋がる出入り口付近はそうでもないんですが、奥に入ると湿気が多くいのでフラッシュでの撮影は困難を極めました。こういった場所はビデオのほうが撮影し易いのかな。
壁面には地層が模様として浮き出ていて綺麗ですね。赤山の特色なんでしょうか。

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↑【部屋①】
棚の替わりなのか壁面が四角くくり抜かれていますね。他のいくつかの地下壕でも、同様の加工の跡を確認できるみたいです。

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↑【部屋②】
通路の突き当たりに穴が開いていたので、その内部をフラッシュで撮影。懐中電灯では光量が足りなくて状況がよく判らなかったんですけど、どうやら穴の向こうには部屋があるみたいです。
ということはこの穴、もしかしたら銃眼だったんじゃないですかね。実際のところは判りませんが。

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↑【キノコの栽培に使用された窯】
気温が年中通して一定なので、赤山地下壕の一部はキノコの栽培所として使用されていた時期もあるのだとか。この釜はその時期に設置されたものなんだそうです。


赤山地下壕の周辺には他にいくつもの壕が残されています。すぐ西隣は弾薬庫か何かの施設跡みたいですし。
観光施設として整備されているのはここだけですが、周辺をちょっと散策してみるのも楽しいかもしれませんね。


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↑【赤山周辺の掩体壕】
掩体壕とは敵機から発見されづらいようにカモフラージュされた戦闘機の格納庫のことです。
かつては赤山周辺だけでも同型の掩体壕が10基余り残されていたみたいですが、現存するのはこの1基のみ。

千葉県には茂原や柏に同型の掩体壕が残されていますね。史跡ってふとした瞬間に消滅してしまうなんてこともままありますから、なるべく早い時期に他の史跡も確認しておきたいものです。


2013年8月28日 (水)

桜花発射レール跡

今では航空機に普通に使用されているジェットエンジン。
第二次世界大戦の航空機というと零戦やBf109、スピットファイアに代表されるようにプロペラ機が主流でしたが、ナチスドイツは1939年にはターボジェットエンジンによる初飛行を成し遂げ、大戦後期にはMe262を実戦に投入し、それなりの戦果を挙げるまでに技術を進化させました。
同盟国である日本はそのMe262の設計図と資料を入手し、その資料を基に橘花というジェット機を開発して初飛行までは成功させますが、終戦を迎えてしまい実戦投入には至りませんでした。

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↑橘花。提督の決断ⅣPKより。


ジェット戦闘機は実戦には間に合いませんでしたが、巡航ミサイルの元祖ともいえるV1からヒントを得た桜花という特攻兵器は開発後に実戦に投入されました。
桜花がどういった兵器なのかを簡潔にいうとロケットの特攻兵器、要は有人ミサイルということになりますね。特攻兵器は回天(人間魚雷)や震洋(爆弾を積んだモーターボート)など数種類が開発・使用されましたが、有人ミサイルというのはいやはやなんとも・・・。

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↑桜花画像。Wikipediaより。


最近(2013/07)、比叡山にあった桜花発射基地のスケッチや写真が見つかったことが報道されていましたが、房総の三芳村にはレールの機材と発射台跡がそれぞれ今も残されています。

今回はその発射台跡を紹介していこうと思います。

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↑公開された比叡山・桜花発射基地の写真とスケッチ。比叡山の基地は敗戦後、米軍によって爆破されてしまったみたいです。

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↑【桜花・発射レール】 →場所
まずは発射レールから。レールは発射台から取り外されて、近くにある知恩院の本堂の脇に展示されています。それなりに貴重な文化財のように思うんですけど、何か扱いがぞんざいな気が・・・。

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↑【桜花・発射台跡】 →場所
続いて桜花の発射台跡。畑の中にコンクリートの基台が残されていました。

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↑先端は土台が削れて傾いてしまっていますね。土塁と同じで、風雨による劣化は避けられません。
ただ、保全のためだと思うのですが、この基台のある区画だけは研究者がお買い上げになられたとのことなので、これ以上の劣化は避けられるかもしれませんね。

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↑発射台は山の斜面傍まで続いていたみたいなのですが、ここから先は畑として使用するために埋められてしまっています。
ちなみに山の斜面には掩体壕と思われる穴が半壊しながらも残されているそうです。
日本降伏後に占領軍が始めて上陸したのは館山市なので、周辺はそれなりに警戒されたんじゃないかと思うんですよね。比叡山の基地は破壊されたのに房総にあるこの発射レールは破壊されずに現在まで残された。何気に結構凄いことなんじゃないでしょうか。